第5話「港を渡る音」
鐘の音は、どこまで届くのだろう。
港の大鐘の前に立って、私はそんなことを考えていた。
レーゲン港の中央桟橋に据えられた大鐘は、工房の小鐘とは比べものにならなかった。高さは私の腰ほどもある。青銅の表面に潮風の緑青がまだらに浮き、長い撞木が鎖で吊るされている。船の出入港を知らせるための鐘で、普段は港番が撞いている。
「ギルド長の許可は下りている」
ノアさんが隣で言った。
「許可?」
「港の大鐘を工房の業務として使用する許可だ。先月の時点でギルド事務所に申請を出していた」
先月。私が港の時計を手で合わせて回り始めたのは二週間前だ。それよりずっと前に、ノアさんは許可を取っていたことになる。
「まさか——私が港の鐘を撞くことになると、分かっていたんですか」
「時計を一台ずつ手で合わせるのは限界がある。鐘なら一度で広い範囲に届く。そう判断しただけだ」
合理的な説明だった。工房主として当然の判断だと言われれば、そうかもしれない。けれど、私がこの港で鐘を撞くことを、あの人はずいぶん前から見据えていたのだ。
なぜ。何のために。
「……ありがとうございます」
「仕事だ」
ノアさんはそれだけ言って、桟橋の端に下がった。
港の朝は忙しい。漁船が次々と出港の準備を進め、荷下ろしの声が飛び交っている。マルタが市場の方から走ってきた。
「アメリア! いよいよね! 船長たちみんな集まってるわよ!」
桟橋の周りに、漁師や商人たちが足を止めていた。噂はマルタ経由で広がっていたらしい。「時計屋の助手が港の大鐘を撞いて時計を直す」という話だ。
大勢の目が私を見ていた。城の鐘楼では、こんなことはなかった。あの塔には誰も来なかった。鐘を撞くのはいつも一人きりで、それが当たり前だった。
撞木の鎖に手をかけた。
重い。工房の小鐘の撞木とはまるで違う。城の大鐘の撞木は両腕で振り下ろすほどの重量があったけれど、この港の鐘も片手では無理だった。両手で鎖を握り、足を踏ん張った。
「これが私の仕事だ」
声には出さなかった。胸の中で呟いた。鐘を撞くだけの仕事。代わりはいくらでもいる仕事。でも今、ここで、私が撞く。
引いて——放す。
撞木が弧を描いて鐘を打った。
低く、深い音が港に広がった。
工房の小鐘とは全く違う音だった。腹の底を揺さぶるような振動が桟橋を伝い、海面を滑り、港全体に染み渡っていく。城の大鐘の重厚な響きとも違う。潮の匂いを含んだ、この港だけの音。
そして——。
港の柱時計の針が、動いた。
中央桟橋の柱時計。東桟橋の壁時計。市場の入口の大時計。荷受所の掛け時計。私の目に見える範囲だけでも、四つ、五つ、六つ——次々と針が揃っていった。
「時計が!」
マルタの声が響いた。
「時計が全部合った! 見て、全部同じ時刻を指してる!」
市場の方からも声が上がった。船長の一人が腕時計を見つめて目を丸くしていた。港番が柱時計と自分の懐中時計を見比べて、何度も首を傾げていた。
鐘を一つ撞いただけだ。一打。それだけで、港全域の時計が揃った。
工房の小鐘では工房の周囲だけだった。この大鐘なら、港全体に届いた。なぜこうなるのか、私には分からない。ちゃんと撞けば鐘は正確に鳴る。正確な音が基準になって時計が合う。そう思ってきた。でも、音で時計の針が物理的に動くわけがない。
何かが、起きている。私の鐘の音には、何かがある。
分からなかった。分からなかったけれど、港の時計が揃っているのは事実だった。
マルタが駆け寄ってきて、私の手を取った。
「すごいじゃない! アメリア、あんた何者なの!」
「鐘を撞いただけよ」
「鐘を撞いただけで港中の時計が合うわけないでしょ!」
正論だった。返す言葉がなかった。
工房に戻ると、ノアさんの姿はなかった。
工具箱を棚に戻し、港での出来事を帳簿に記録していると、奥の部屋から物音がした。工房の裏手にある小さな部屋——ノアさんが精密時計の調整に使っている部屋だ。
覗くと、ノアさんが窓辺に立っていた。窓は港の方角に開いている。目を閉じていた。
私の足音に気づいて目を開けた。
「終わったか」
「はい。港の時計は全て合いました。帳簿に記録しています」
「ああ。ご苦労だった」
ノアさんは窓を閉めた。何でもない動作だったけれど、その窓が港の方に向いていたことが気になった。
港から工房までは距離がある。鐘の音は聞こえるだろうか。工房の中にいれば、かすかには届くかもしれない。
ノアさんは港にいるとき、桟橋の端に下がっていた。鐘を撞く瞬間を見ていなかった。でも、工房に戻ってから——港の方角の窓辺に立って、目を閉じていた。
何を聞いていたのだろう。
「ノアさん」
「何だ」
「港で——鐘の音、聞こえましたか。ここまで」
ノアさんの手が一瞬止まった。もう何度目だろう、この反応。私が鐘に関わる話をするたびに、ノアさんの手はほんの一瞬だけ止まる。
「……聞こえた。いい音だった」
それだけ言って、ノアさんは作業台に向かった。
いい音。それは——鐘の音に対する感想なのか、それとも。
考えすぎだ。工房主が従業員の仕事の成果を確認するのは当然のことだ。港の鐘の音が工房まで聞こえるかどうか確かめるのも、業務の一環だ。
ノアさんの行動には、いつも合理的な説明がつく。椅子の高さも、窓の向きも、ギルドへの事前申請も。全部、工房主として当然のことだ。
でも——ノアさんが目を閉じていた横顔は、仕事の確認をする人の顔ではなかった気がする。
気がするだけだ。確信はない。だから言わない。
城の時計塔に、夜の帳が下りていた。
ヴィクトル・レーヴェンは執務室の椅子に座ったまま、壁の時計を見ていた。
午後七時を指している。しかし窓の外の空は、どう見ても午後八時を過ぎた暗さだった。
「ガレス」
「はい、レーヴェン管理官」
「先週の報告では、自動鐘の稼働は良好とのことだったな」
「はい。微調整を継続中ですが、大きな問題は——」
「では聞くが」
ヴィクトルは壁の時計を指した。
「なぜ今週の定例会議が一時間遅れで始まったのだ。なぜ衛兵の交代が毎朝ずれている。なぜ厨房の食事の時刻が日によって違う」
ガレスの額に汗が浮いた。
「それは……各部署の個別の時計に問題がありまして。自動鐘自体は正確に稼働して——」
「個別の時計に問題がある。全ての時計に、同時に。鐘撞き係を廃止した直後から」
沈黙が落ちた。
ヴィクトルは指を組んだ。数字は嘘をつかない。鐘撞き係の年間人件費と自動鐘の導入費用。その計算に間違いはなかった。自動鐘は設計通りに動いている。ガレスの報告書にもそう書いてある。
なのに、時計が合わない。
「調整中です」
ガレスが言った。声が震えていた。
「想定外の事象が発生していますが、技術的に対処可能な範囲です。もう少し時間をいただければ——」
「次の定例会議は三日後だ。それまでに、城内の時計を全て合わせろ。これは命令だ」
「はい。必ず」
ガレスが退室した後、ヴィクトルは壁の時計を見つめ続けた。
数字で証明できないものは価値がない。その信念は変わらない。変わらないはずだった。
しかし——目の前の時計は、ずれている。ずれ続けている。数字で測れるはずの「時間」が、なぜか合わない。
ヴィクトルは報告書の束に手を伸ばし、鐘撞き係の廃止命令書を引き出した。
「トーン嬢の年間人件費。自動鐘の導入費用。三年で元が取れる計算だった」
計算は正しい。正しいはずだ。
壁の時計は、午後七時十二分を指していた。窓の外は、とうに夜だった。




