第4話「窓の高さ」
ノアさんが工房の椅子を直していた。座面が少し低くなっている。
気づいたのは朝の鐘撞きを終えて、いつもの椅子に座ったときだった。足の裏が床にぴったりつく。昨日までは爪先立ちだったのに、今日は踵まで届いた。
「ノアさん、この椅子——」
呼び方が変わったのは、工房で働き始めて二週間を過ぎた頃だった。カミルさんが「ノア」と呼ぶのを聞いているうちに、「ヘルツさん」が遠い気がしてきた。名前で呼んでいいですか、と聞いたら、ノアさんは「ああ」とだけ言った。
「何だ」
「座面、低くなっていませんか」
「がたついていたから直した」
ノアさんは作業台に向かったまま、こちらを見なかった。
がたついてはいなかった。昨日まで、がたつきなど一度もなかった。座面だけが変わっている。私の身長に合わせたように。
言おうとして、やめた。
椅子だけではなかった。数日前から気づいていたことがある。窓が、私の好きな方角に開いている。朝、海鳥の声と波の音が一番よく聞こえる東向きの窓。以前は閉まっていたはずのその窓が、毎朝私が階段を降りてくる頃には開いている。
作業台の道具の配置も変わった。私がよく使う磨き布と小型の工具が、手を伸ばしやすい位置に移されている。ノアさんの道具は奥に下がった。
全部、ノアさんがやっている。
雇い主が従業員の作業環境を整えるのは、当たり前のことだ。効率が上がれば工房の仕事が回る。それだけのことで、それ以上の意味はない。
ないはずだった。
昼過ぎに、マルタが工房に飛び込んできた。
「聞いた? 王都で時計が狂ってるって!」
マルタはエプロンに魚の鱗をつけたまま、息を切らしていた。
「今朝、王都から来た商船の船長が言ってたの。王都の大時計がずれてるって。あたしの時計どころの話じゃないのよ、城の時計が狂ってるんだって!」
私の手が止まった。
城の時計。
「船長さんの話だと、出港の時刻を城の鐘で合わせようとしたら、港の時計と合わなかったんだって。五分以上ずれてたって言ってた」
五分。城の大鐘が五分ずれるというのは、ありえない。あの鐘が五分もずれるなら——。
「もう関係ない」
声に出ていた。自分で驚いた。
マルタが首を傾げた。
「関係ない?」
「いえ——城の鐘は、私が撞いていた鐘だから。少し驚いただけ」
「ああ、そうだったわね。あんたが辞めた後から狂い始めたのかしら。因果な話じゃない」
マルタの言葉に悪気はなかった。けれど胸の奥がざわついた。
因果。私が城を追われた後から、時計が狂い始めた。偶然だ。自動鐘に切り替えたのだから、初期調整に時間がかかっているだけだ。私が撞いていたことと、時計が狂ったことに、因果関係などない。
鐘を撞くだけの仕事に、そんな大きな意味があるはずがない。
「まあいいわ。とにかくこの町の時計は最近ずいぶんましになったからね。アメリアのおかげよ」
マルタはあっさりと話題を変えた。
「そうだ、それで思い出した。港の船長たちが困ってるのよ。出港時刻が合わなくて。ノアさん、なんとかならない?」
ノアさんが作業台から顔を上げた。
「出港時刻の何が問題だ」
「港の柱時計と、各船の時計が合わないの。マルタの市場時計はアメリアのおかげで正確になったけど、港は広いでしょ。市場から離れたところの時計まではさすがに届かないみたい」
工房の小鐘の校正は、工房と周囲の数ブロックにしか届かない。市場のマルタの時計はその範囲内だが、港の外れの船着き場までは遠い。
ノアさんは私の方を見た。
「トーンさん」
「はい」
「港の時計も見てくれないか。うちの工房の仕事の延長として、出張修理扱いにする」
「私が?」
「鐘は撞けないが、時計の調整ならできるだろう。各船の時計を一台ずつ合わせていけばいい」
それは——鐘を撞くだけの仕事ではなかった。時計を見て、ずれを判断し、一台ずつ手で直していく。鐘の一打で全てが揃う城の仕事とは違う。もっと地道で、もっと手間がかかる。
でも、求められている。
この町で、時間がずれて困っている人がいる。私にできることがある。
静かに暮らしたかったはずだった。余計なことには関わらず、工房の鐘を撞いて、時計を磨いて、それだけでよかったはずだ。なのに、港の時計が狂っていると聞いた瞬間、手が疼いた。あの不揃いな針たちを、放っておけないと思ってしまった。
「……やります」
ノアさんは小さく頷いた。
「工具一式を用意する。明日から港に出てくれ」
マルタが声を上げた。
「やった! アメリア、あんた救世主よ! 船長たちに言ってくるわ!」
嵐のように帰っていくマルタを見送って、私はノアさんに向き直った。
「ノアさん。港で仕事をするのに、許可は要りませんか」
「うちの営業の延長だ。ギルドへの届けは出してある」
出してある。いつの間に。マルタが話を持ち込んだのは今日が初めてなのに——いや、船長たちが困っているという話は、ノアさんの方が先に聞いていたのかもしれない。時計修理工として港との接点はある。
それでも、準備が早い。まるで、私が引き受けると分かっていたかのように。
「ありがとうございます」
「仕事だ。礼はいらない」
ノアさんは作業台に向き直った。その背中を見ながら、私は思った。
椅子の高さ。窓の向き。道具の配置。港の仕事の準備。全部、私のために——。
いや。雇い主として従業員を管理しているだけだ。効率よく働けるように環境を整えるのは、工房の運営として当然のことだ。
当然のことなのに、城にいた五年間、誰もそんなことはしてくれなかった。
違う。比べてはいけない。ここは城ではないし、ノアさんはヴィクトル様ではない。
窓から夕方の風が入ってきた。東向きの窓。海鳥の声と波の音。ノアさんが開けておいてくれた窓。
この椅子は、私のために高くなった。この窓は、私のために開いている。それは——ただの、工房の管理だ。
そう思うことにした。
そう思わなければ、期待してしまう。期待すれば、がっかりする。城で学んだことだった。
二階の部屋に戻り、窓を閉めようとして、手を止めた。
明日から港に出る。工房の外で、初めて一人で仕事をする。
鐘を撞くだけではない。時計を合わせる。人と話す。船長たちの困りごとを聞く。城にいた頃はしたことのない仕事だ。
怖くないかと言えば嘘になる。でも——もっと正確にしたい、と思った。工房の時計だけではなく、港の時計も、市場の時計も。この町の時間を、もう少しだけ正確にできるなら。
窓の外で、港の灯りが揺れていた。
王都で時計が狂っている。マルタが持ってきた噂が頭の片隅に残っていた。私の追放と関係があるのか、ないのか。考えても分からない。分からないし、もう城のことに手は届かない。
届くのは、この町の時計だけだ。
明日の朝、鐘を撞いたら港に行こう。




