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鐘を撞くだけの仕事だったので追放されましたが、なぜか城の時計が全部狂い始めて私を探しているそうです  作者: 月雅


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第2話「澄んだ一打」

「だから言ったでしょ、時計が狂ってるって!」


マルタの声が市場に響いていた。


工房で働き始めて二日目の朝、ヘルツさんに頼まれた部品の買い出しで港の市場に出ると、魚売り場の前でマルタが仁王立ちしていた。隣の乾物屋の店主が困った顔で腕を組んでいる。


「あたしの時計だけじゃないのよ! 港番のリオの時計も、パン屋のオルソンさんの時計も、全部ばらばら! 今朝なんて開場時刻が店によって十分もずれたの! 魚を並べる前にお客が来て、もう大変だったんだから!」


「マルタさん、朝から声が大きい」


「大きくもなるわよ!」


マルタは私に気づくと、表情を一瞬で切り替えた。


「あら、アメリアちゃん! 昨日の子ね。時計屋さんのところで元気にやってる?」


「はい、おかげさまで。今日は部品の買い出しで」


「そう。ねえ聞いてよ、この町の時計ほんとにひどいの。ノアさんに直してもらっても、すぐ狂う。もう何が正しい時刻なのか誰にも分からないのよ」


マルタの嘆きは大げさなようで、市場を見回すと確かに深刻だった。通りに面した柱時計と、乾物屋の壁時計と、魚売り場の置き時計。三つとも違う時刻を指している。


ずれ方は数分から十分弱。放置すれば広がる一方だ。城にいた頃の私なら、鐘を一つ撞くだけで済んだ。城内の時計は全部、あの鐘で——。


いや。あれは「ちゃんと撞けば正確に鳴る」というだけの話だ。鐘の精度が良かっただけで、私の手柄ではない。


「ヘルツさんに伝えておきます」


「お願いね! あたしの商売がかかってるんだから!」


マルタに手を振って市場を後にしながら、私はひとつのことを考えていた。


工房の棚の一番下。布をかけられた、小さな鐘。


工房に戻ると、ヘルツさんは作業台に向かっていた。


部品を渡し、市場の時計の話を伝えた。ヘルツさんは「ああ」とだけ言って、歯車を磨き続けた。


私は棚の方に目をやった。布の下の鐘の輪郭が見える。


「ヘルツさん」


「何だ」


「あの鐘——棚の下の鐘ですが、使っていないものですか」


ヘルツさんの手が止まった。磨き布を持ったまま、鐘の方を見た。それから私の方を見た。


沈黙があった。


工房の時計たちがずれた刻を刻む音だけが流れた。ヘルツさんは何かを考えているようだった。迷っている、と感じた。何について迷っているのかは分からなかった。


「……使っていない」


「あの鐘を撞かせてもらえませんか」


言ってから、自分でも少し驚いた。城を追われたとき、もう鐘には触れまいと思ったはずだった。それなのに、市場の時計がばらばらに狂っているのを見たら、手が疼いた。


鐘を撞くだけの仕事。代わりはいくらでもいる仕事。それでも——目の前にずれた時計があって、手の届くところに鐘があるなら、黙っていられない。


「工房の時計を合わせるだけです。市場で聞いた話だと、町の時計がどれも狂っているそうなので、せめて工房の中だけでも正確にしておきたいんです」


ヘルツさんはまだ黙っていた。


その沈黙の質が変わったことに、私は気づいた。さっきまでの迷いとは違う。もっと深い、何か重いものを飲み込もうとしているような間だった。


「……ああ。構わない」


声が低かった。許可というより、覚悟に近い響きだった。


なぜそんな声になるのか分からないまま、私は棚の前にしゃがみ込んだ。布を外すと、鋳鉄の小鐘が現れた。城の大鐘とは比べものにならない。手のひら二つ分ほどの、ささやかな鐘。傍らに短い撞木が添えてあった。


撞木を握った。


手に馴染む重さだった。城の撞木とは全く違う。あちらは両腕で振り下ろす巨大なものだったけれど、こちらは片手で十分だ。それでも、鉄と木が手のひらに触れた瞬間、五年間の記憶が指先から甦った。


姿勢を正した。息を整えた。


そして、撞いた。


澄んだ音が工房に広がった。


小さな音だった。城の大鐘のような、体の芯を震わせる重低音ではない。高く、細く、けれど不思議なほど真っ直ぐに伸びていく音。


その音が消えるより先に——。


カチ、と音がした。


壁の時計の一つだった。長針がわずかに動いた。次の瞬間、隣の時計も動いた。その隣も。作業台の上の置き時計も。窓際の掛け時計も。


工房中の時計が、一斉に同じ時刻を指した。


何十もの針が、寸分の狂いもなく揃った。


ずれていた振り子が同期し、カチカチカチという音が一つの律動になった。ばらばらだった工房が、たった一打で静かに整った。


私は撞木を握ったまま、呆然と壁を見回した。


こんなことは、起きるはずがない。鐘を一つ撞いただけで、何十もの時計が同時に合うなんて。城の大鐘ならまだしも——いや、城でも、こんなに鮮やかに揃ったことがあっただろうか。


振り返ると、ヘルツさんがいた。


作業台の前に立ったまま、磨き布を握りしめていた。顔が強張っていた。目が見開かれていた。息を呑んだまま、一言も発していなかった。


工房の時計たちが、揃った刻を刻んでいた。


「ヘルツさん?」


声をかけると、ヘルツさんはようやく息を吐いた。長い、震えを含んだ呼気だった。


「……すまん。何でもない」


彼は磨き布を作業台に置き、背を向けた。窓際に歩いていき、しばらく外を見ていた。その背中が何を語っているのか、私には読めなかった。


「時計、合いましたね」


「ああ」


「鐘のおかげでしょうか。いい鐘ですね、小さいのに」


「……ああ。いい鐘だ」


ヘルツさんの声は平静に戻っていた。でも、さっきの一瞬——あの表情を、私は見てしまった。


なぜあんな顔をしたのだろう。


鐘を撞いただけだ。正確に、丁寧に、五年間と同じように。それだけのことで、なぜ。


分からなかった。


分からなかったけれど、鐘を撞いた瞬間の手の感触は、城にいた頃と同じだった。あの鐘楼で、朝と昼と夕方、五年間繰り返した動作と、何一つ変わらない感触。


違うのは——鐘が小さいことと、揃った時計の音を聞いてくれる人が、目の前にいること。


城では、誰も鐘楼まで来なかった。


ヘルツさんは窓際から戻ると、何事もなかったように作業を再開した。


「時計の掃除を頼む。右の壁の列からだ」


「はい」


私は撞木を鐘の横に戻し、掃除道具を手に取った。


工房の時計たちは、揃ったままだった。カチカチカチ。同じ速度で、同じ時を刻んでいる。その音が、静かに心地よかった。


城の時計塔に、日が暮れていた。


ガレスは自動鐘の前に立ち、額の汗を拭った。三度目の調整が終わったところだった。


自動鐘は設計通りに動いている。魔導式の振り子が正確に揺れ、決められた時刻に鍾が鳴る。音は出る。正しい時刻に、正しい音が出る。


なのに、時計が合わない。


城内の大時計は昨日から二分ずれている。各部屋の小時計はばらばらだ。衛兵の交代時刻が曖昧になり、今朝は門衛が五分遅れて配置に着いた。


「おかしい」


ガレスは自動鐘の裏蓋を開けた。歯車は正常。魔力供給も安定。振り子の周期も計算通り。機械的な欠陥は一つもない。


なのに、合わない。


何かが足りない。音は出ているのに、何かが——。


ガレスは裏蓋を閉じた。


報告書を書かなければならない。レーヴェン管理官への週次報告。自動鐘は順調に稼働中、と書くべきだ。初期調整に若干の時間を要しているが、想定の範囲内。


そう書けば、嘘にはならない。調整中なのは事実だ。時計のずれも、まだ数分。深刻な事態ではない。


ガレスは羊皮紙に羽根ペンを走らせた。


「自動鐘、稼働状況良好。微調整を継続中」


それだけ書いて、署名した。


窓の外で、日が完全に落ちた。城の時計塔から鐘の音が響いた。自動鐘が鳴らす、正確な音だった。


城内の時計は、その音に応えなかった。

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