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鐘を撞くだけの仕事だったので追放されましたが、なぜか城の時計が全部狂い始めて私を探しているそうです  作者: 月雅


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第1話「止まった針」

港町の朝は、静かだった。


波の音がある。海鳥の声がある。荷車が石畳を転がる音がある。けれど何かが足りない。耳の奥がずっとざわついている。


私はそのざわつきの正体を知っていた。


鐘の音がないのだ。


朝六時を告げる鐘。城にいた五年間、一日も欠かさず私が撞いていた鐘。あの音がどこにもない朝は、服を一枚脱いだまま外に出たような心許なさがある。


もっとも、ここは城から馬で五日の港町だ。聞こえるはずがない。


聞こえるはずのないものを探している自分がおかしくて、私は小さく息を吐いた。


潮の匂いが混じる風の中、私は坂道を下っていた。


レーゲンという名前の港町だった。王都の門を追い出されて、乗合馬車に揺られて五日。路銀が尽きたのがこの町だったというだけで、選んだわけではない。


鞄ひとつ。中身は着替えと、城の食堂からもらった保存パンの残り。それだけが私の全財産だった。


鐘撞き係を追放されたら城の時計が全部止まったそうです——などという話は、当然ながら私の耳には届いていない。届いていたとしても、信じなかっただろう。あの仕事は「鐘を撞くだけ」の仕事で、代わりはいくらでもいるのだから。


数字で証明できないものは価値がない、とあの人は言った。


ヴィクトル様の声が耳の奥でよみがえる。財務管理官として城の予算を預かる伯爵家の嫡男。私の元婚約者。そして、鐘撞き係の職務を廃止し、私を城から追い出した張本人。


感情論では予算は通らない。鐘撞き係の年間人件費は、自動鐘の導入費用の三年分に相当する。この数字を覆す根拠があるなら聞こう——。


なかった。根拠なんて。


鐘を正確に撞くこと。毎朝、正午、夕方。五年間で五千回以上。それだけだった。それだけのことに、数字で測れる価値などなかった。だから追放された。婚約も、政略上の意味を失ったとして解消された。父は異議を唱えなかった。


当然だ。男爵家の三女なんて、城に送り出した時点で用済みだった。


——考えるのはやめよう。


坂道の途中に、看板が出ていた。


「ヘルツ時計店——修理・調整承ります。助手募集中」


時計。


足が止まった。


鐘は撞けない。鐘撞き係はもう私の仕事ではない。でも時計なら——時計の傍にいることくらいなら、私にもできるかもしれない。


私は看板の下の扉を押した。


工房の中は薄暗かった。


壁という壁に時計がかかっている。大小さまざまな時計が、それぞれ微妙にずれた刻を刻んでいる。カチカチカチと、何十もの針が重なり合う音。その不揃いな合奏が、工房全体をかすかに震わせていた。


「すみません」


声をかけると、作業台の奥から人影が立ち上がった。


背の高い男だった。二十代の後半くらいだろうか。黒い髪が無造作に額にかかり、目の下にうっすら隈がある。革のエプロンの上に工具の粉が散っていた。


「……助手の件で?」


低い声だった。短い。必要なことだけを言う声。


「はい。看板を見て——時計の仕事なら、多少の経験があります」


「経験」


男は私を見た。目を細めるでもなく、値踏みするでもなく、ただ静かに。


「前はどこで」


「城で。鐘撞き係をしていました」


その瞬間。


本当に一瞬だったけれど、男の手が止まった。


握っていた工具が作業台の上でかすかに音を立てた。それだけだった。すぐに手は動き始め、男は工具を棚に戻しながら「ああ」とだけ言った。


「鐘撞き係」


「はい。……といっても、鐘を撞いていただけです。時計そのものを修理した経験は多くありませんが、時計の読み方と、音で時刻を判断することには慣れています」


「名前は」


「アメリア・トーンです」


「ノア・ヘルツ。ここの主人だ」


彼は棚から帳面を取り出し、作業台の上に置いた。


「給金は月末払い。技術見習い相当になる。二階に空き部屋がある。家賃は給金から引く形でいいなら、今日から住んでいい」


あまりにも早い。面接というには短すぎた。


「あの——身元の確認は」


「城の鐘撞き係だった。それで十分だ」


ヘルツさんは帳面に何かを書き込みながら、私の方を見ずに言った。


「うちは時計を扱う。時間に正確な人間なら、それ以上は要らない」


それ以上の質問はなかった。


なぜ城を辞めたのか。なぜこんな辺境の港町にいるのか。身分は。家柄は。何も聞かれなかった。レーゲンでは、ギルドに届けさえすれば出自を問わず雇えると聞いていたけれど、それにしても。


ありがたかった。聞かれても、うまく答えられなかっただろうから。


「よろしくお願いします、ヘルツさん」


頭を下げると、ヘルツさんは小さく頷いた。


「そこに置いてくれ」


「え?」


「鞄。重いだろう」


私は鞄を抱え直した。確かに重い。着替えとパンの残りだけなのに、五日分の疲労が肩に溜まっている。


鞄を置いた。それだけのことなのに、何かがひとつ、決まった気がした。


工房に馴染む間もなく、来客があった。


扉が勢いよく開いて、赤い髪の女性が飛び込んできた。エプロンから魚の鱗がきらきら光っている。


「ノアさん、また来たわよ! うちの時計、直してもらったのに三日でずれるの!」


「マルタさん。まだ三日なら許容範囲だと——」


「許容範囲じゃないの! 市場の開閉時刻を告げるのがあたしの仕事なのよ! 朝の鐘が鳴らないこの町で、時計まで狂ったらどうなると思う? 漁師が怒るの! 魚が腐るの!」


マルタと呼ばれた女性は、息継ぎもなしに捲し立てた。声が大きい。工房の時計たちが一斉にびりびり震えた気がする。


「この町の時計はどれもこれも狂ってるのよ! あたしだけじゃない、港番のリオも、パン屋のオルソンさんも、みんな言ってるわ!」


ヘルツさんは黙って時計を受け取り、裏蓋を開けた。


「……確かにずれている。直す」


「お願いね。——あら」


マルタさんの視線が私に止まった。


「新しい子?」


「今日から助手に入った。トーンさんだ」


「アメリアです。よろしくお願いします」


「あたしはマルタ。港の魚市場で時計番をしてるの。よろしくね、アメリアちゃん」


握手の力が強かった。魚を捌く手だ、と思った。


マルタさんは時計を預けると、嵐のように帰っていった。扉が閉まった後の工房は、嘘のように静かだった。


ヘルツさんはマルタさんの時計の裏蓋を覗き込みながら、小さく息を吐いた。


「……三日でずれる。最近こういうのが多い」


独り言のようだった。けれど私の耳は、その言葉の奥にあるものを拾った。


三日でずれる。


それは、時計の精度の問題だろうか。それとも——。


私はふと、壁の時計に目をやった。工房の時計は何十個もあるのに、どれも微妙にずれている。一分、二分。中には五分近くずれているものもあった。


時計を修理する工房の時計が、揃っていない。


おかしな話だった。


「ヘルツさん」


「何だ」


「あの時計——右端の、振り子の長い時計です。二分ほど遅れています」


ヘルツさんの手が、また一瞬だけ止まった。


今度は工具の音はしなかった。ただ、彼が私の方を見た。何かを確かめるような目だった。


「……よく分かるな」


「音で。振り子の周期がわずかに長い。そうすると一日で一分ほどの遅れが出ます。設置してから二日目くらいだと思います」


沈黙があった。


壁の時計たちが、それぞれの速度で時を刻んでいた。


「ああ」とヘルツさんは言った。「問題ない。明日直す」


それだけだった。


それだけだったのに、彼の声の温度がほんの少しだけ変わった気がした。気のせいかもしれない。初日で緊張しているだけかもしれない。


工房の二階の案内された部屋は、小さいけれど清潔だった。窓から港が見える。西日が海に沈んでいくのが見えた。


鞄を開けて、着替えを棚にしまった。保存パンの残りを見て、明日からは市場で何か買おうと思った。給金が出るまでは節約しなければならない。


窓の外から、夕方の風が吹き込んだ。


城にいた頃なら、今は夕方の鐘を撞く時間だ。あの鐘楼に登り、撞木を握り、全身の力で——。


鐘はもう、ない。


ここにあるのは時計だけ。何十もの、少しずつずれた時計たち。


それでいい。時計の傍にいられるなら、それだけで。


期待しなければ、がっかりすることもない。


階段を降りると、工房の隅に小さな鐘があった。作業台の脇、棚の一番下に、布をかけられてひっそりと置かれている。高さは三十センチほどの、手のひらに乗りそうな金属の鐘。


なぜ時計の工房に鐘があるのだろう。


聞こうとして、やめた。初日から余計なことを聞くものではない。


ヘルツさんは作業台に向かったまま、こちらを見なかった。


「明日、朝六時に起きてくれ。仕事はそこからだ」


「はい」


「……おやすみ」


その一言は、雇い主から従業員への業務連絡だった。それ以上の意味はない。


けれど城を追われてから五日間、誰にも「おやすみ」と言われなかった私には、その短い言葉が妙に長く耳に残った。


二階の部屋に戻り、窓を閉めた。


港町の夜は、鐘の音がしない代わりに、波の音がした。

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