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水槽内の被検体

作者: 桜井 春子
掲載日:2026/02/02

「見て!あの子が来たよ」

「え?あの転校生の?見たい!」

 一般女子生徒が騒いでいる。あの子とは今回越してきたという2年の女子生徒のことだろう。

ここは田舎の高校で、滅多に引っ越してくる人などいない。そのせいでその女子生徒は注目の的となっていた。だが今回、注目の的になる理由はそれ以外にもあるらしい。

「ふーん、あんま可愛くないね」

「魚人と人間のハーフなんだって。魚人はおとぎ話の人魚みたいに美人って聞いてたから期待したけど…」

「やっぱ半分だけなんだね」

 窓から覗いていた生徒は落胆したように次々に席へ戻っていく。

 引っ越してく生徒が居ると聞いた時には魚人が越してくるなんて思っていなかった。魚人だろうが半魚人だろうが人間だろうが、僕にはそれほど関係ない。

 しかし、僕の完璧な日常はこの日の昼休みに崩されることとなる。

 昼休み、僕は旧校舎の埃っぽい理科室で喧騒から逃れつつ、椅子に座り本を読んでいた。

僕はこのゆったりとしたぬるま湯のような時間が好きだった。

 あまりに本に集中しすぎて、僕は理科室に入ってきた一人の生徒に気が付かなかった。

「ねえ、これはどういう意味なの?」

 思わず心臓が跳ね上がる。時間が加速したかのように思えた。

声がした方へ視線を向けると、小柄な少女が黒板を見ていた。

「ようこそ、海洋研究同好会へ。何か用かな?」

僕は驚いた心臓を押さえつけながら言った。

 僕はその女子生徒のことを録に見ずに、本を読ながら問う。

女子生徒は壁際のホワイトボードを見る。時計の音と彼女の足音が重なっていく。

 随分長い間見たあと、書いてある文字をおもむろに発音した。

「ぎょ、じんとの、こ…?の…」

「魚人との今度の関わり方と対応について、と書いてある。」

僕は女子生徒に近ずき、その文に指をさす。

「君は文字が読めないのか?」

「よ、読めなくない。発音が難しいだけだ」

女子生徒は幼女のような舌足らずな言い方で答える。

 その時、女子生徒から何かが反射したように見えた。

女子生徒をもう一度見ると、彼女の頬と腕、足に半透明の青緑色の鱗があることに気がつく。

やっぱりな、と心の中で思った。

「君は魚人と人間のハーフだろう?…特徴的な外見だ。一般生徒諸君が夢中になって噂するのもうなずけるな」

「よく分からない。私はそれほどまでに皆と違うか?」

女子生徒は首をかしげ、腕の鱗を撫でる。

「ああ、違うとも。…ただお喋りをしに来ただけなら出ていってくれたまえよ」

僕はまた椅子に座った。

「あなたは、私に興味無い?」

興味が無いといったら嘘になるが、本に集中している振りをして無視を決め込んだ。

 正直、期待はずれ。話してみると、半魚人とは言えどあまりに普通の人間らしく拍子抜けしてしまったのだ。

「人の話は目を見て聞くものだと暮らしていた研究所で教えてもらった」

女子生徒はまだ声をかけてくる。

「出て行ってくれと言ったばかりのはずだが?」

「私をここに入れて欲しい。先生にどこかの部活か同好会へ入れと言われた」

自信たっぷりといった態度で僕を真っ直ぐ見る。魚らしい大きな黒目と、角度によって銀色に光る目を持っていた。少し、興味が湧いた。

しかし、ただ先生に言われたからと言う単純な理由で入ろうと思われるとは心外だった。

僕はチラリと女子生徒を見る。

「君は何を目的としてここに入りたいんだ?先生に言われた以外にも理由の一つくらいあるだろう」

「理由なんて考えていなかったな」

女子生徒ははっきりと答える。

「なら、僕へのメリットが見当たらないな」

「メリットならあるよ」

僕は今度こそ女子生徒をしっかり見た。

「私を研究材料にすればいい」

「何?」

 僕は多少声を荒らげて聞き返す。想像していたメリットとは随分かけ離れていた。

「ハーフなんて珍しいでしょ?どこまでが魚人で、どこからが人間か調べてみたいと思わないの?」

 確かに、魚人と人間のハーフなんて身近で見る機会は今度一生訪れないと言っても過言ではないだろう。

 僕は長く息を吐く。そして右手を差し出した。

「何だ?」

今度聞いたのは女子生徒だった。

「これは人間同士の古い風習で、握手と言う。君も手を差し出し給えよ。」

ミナが手を差し出すと、僕は無造作にそれを掴み、短く上下に振った。

「僕の名前は小岩井。3年生だ。君は?」

「私の名前はミナ。2年生だよ」

重なるように昼休み終わりのチャイムがなった。

本当はもっと話してみたかったけれど、それは今日の部活の時間からでいいだろう。

 僕は教室へ戻る。誰かが僕の席を使っていた。予鈴がなったのだから速やかに教室へ戻ればいいものを。

 席に座っていた人物は、僕の顔を見るなり化け物でも見たかのように慌てて席をどいた。そして僕は空いた席に座り、本を読み始める。

 あのミナという女子生徒、僕に物怖じもせずずけずけと話しかけて、とにかく変なやつだった。魚人だから変なのか彼女の元からの習性なのかは分からないが、そこも研究においての課題とさせてもらおう。


 午後、日が明るく照っている運動場からは、暑苦しくランニングをしている野球部やサッカー部などの声が聞こえてくる。

対照的に僕たちのいる理科室は薄暗く、ひんやりとした静かな空気に満たされていた。

ミナが一般女子生徒のように大声で喚くような生徒でなかったことは僥倖といえよう。

 僕は柔らかい光の中、ミナをスケッチしていた。会話らしい会話はあまり無かった。ミナが口下手なのもあるが、2人ともこの静かさを心地よいと感じていたからなのは真実だろう。

「…もう少し上を向いてくれるか?」

そう注文をつけるとミナは素直に上をむく。

上をむくことでよく見えるようになった首にはエラのようなものが着いていた。

「少し息を吸ってみてくれ」

ミナは静かに息を吸う。エラは動いていない。つまり普通の魚人や人間と同じで肺呼吸しているのだ。

「なあ、不細工とはどういう意味だ?」

今日まだ一言も発していなかったミナが口を開く。

「何だ?急に。随分俗っぽいことを聞くじゃないか。誰からその言葉を聞いたんだ?」

「クラスの女子生徒が私に向かって話しているところを聞いた。その後、その生徒に意味を聞いたが頑なに教えてくれなかった」

「不細工とは…一概にどうとは言えないが辞書通りに言えば、器量が良くないことや容貌が整っていないことだな」

 僕は少し口篭りながら答えた。

実際ミナは美人とは言えない顔をしている。しかし、醜いという程ではないだろう。

 不細工だと言うのは人間の顔に魚らしい目が着いている違和感からなのではないだろうかと思った。

「器量が良くない…?人に容貌の違いがあることは理解しているが、そこに善し悪しがあったとは知らなかった」

ミナは特に何も思っていないようだった。不細工と言われても眉ひとつ動かさず、動じないその神経は年頃の女子とは思えなかった。

「美醜の感覚については人それぞれだから、それについて言い合う事自体が醜い事だ。」

 美醜については僕もそれほど聡くない。現代の女性の美意識とは、全く尊敬に値する。

「人間の思考回路とは複雑だな。」

ミナは我関せずといった表情で、他人事のように言った。

 ミナの言葉選びはまるで大人のようだと僕は思う。たどたどしい舌使いからは想像もできないような言葉が出てくるので、度々驚かされる。

「よし、スケッチは終わりだ。楽にしていいよ」

ミナは席を立ち、昼休みと同じように壁際のホワイトボードを見る。

丁度逆光になっていて、ミナの表情はあまり見えなかった。しかし、何かを真剣に見つめては熱心にノートに書き込んでいる。

「質問してもいいか?」

ミナが聞く。

「何が聞きたい?」

ミナはホワイトボードの右上に書かれている文字を指さした。そこには青文字で海、と書いてあった。

「海はどんなものなんだ?」

「海はここら辺では見ることができないな。現在は汚染されてしまってそのほとんどが使えなくなってしまった。」

 現在の海は、昔の綺麗で優しく強い海とは全くの別物になってしまった。

綺麗なのは相変わらずだが、ただの人間が防護服も無しに長期間浸かれば、強い酸性によって皮膚が剥がれ落ちることだろう。

「私の親は海に住んでいたのだろうか」

ミナは窓からどこか遠くを見つめる。まるで遠くにある海を見ようとしているかのようだ。

「きっとそうだろうな。魚人は海水に強いと言うから」

「私はどうだと思う?海に入れると思うか?」

「さあな。今度試してみるか?」

 もうすぐ夏休みだ。夏休みになったらミナを連れて海に行ってみてもいいかもしれない。

少し予定を見ておこう。

 ミナはまだ外を見ている。彼女が窓から見つめている空はもう夕焼けで赤くなっていた。

「さて、そろそろ解散だ。僕は家に帰る」

「ああ。私も帰るとしよう」

そう言ってミナが振り向いた時、丁度最終下校のチャイムがなった。

僕が荷物をまとめていると、ミナがそばに立っていた。

「…僕が荷物をまとめるのを待っていなくてもいいよ。」

 そう言っても彼女は大仏のように静かに立っているだけだった。

僕が荷物をまとめ終わりリュックを背負うと、ミナはやっと動きだした。

 本当に分からないやつだ。ミナと僕は階段を3段開けて距離を取りながら歩いた。何故か分からないけど、声をかけて話そうとは思わなかった。

 そしてそのままお互い何も言わず別れてしまった。一人であの部にいた時はこんな遅くまで活動したことはなかったと、目の前の赤信号のような空を見て思う。…そういえば、ミナはどこに住んでいるんだ?まさか研究所でもあるまいし。

 帰り道も、家に帰っても魚人の生態について考えていた。風呂に入りながら、人間と魚人の違いについて思い出す。

僕は手で湯を掬い、とぽとぽと少しずつ湯船に戻した。

 魚人は水に長く潜ることができると言われているが、ミナはどの程度水に入れるのだろう。

そんな風呂の湯けむりのように形がないことを延々と考えていたら、夜ご飯を食べ損ね、そのまま眠ってしまった。


 そこからは、学校と部活に行ってミナと少し話すだけの穏やかな日々が続いた。ミナはここ数週間で、随分話が上手くなり、難しい字も読めるようになってきた。

 そして、ミナとしばらく過ごしてみて、気がついたことがある。彼女は所謂、悪い、良くない言葉とされる単語を極端に知らない。他の言葉は問題なく意味を理解しているのに、何故その単語だけ知らないのか疑問でならない。彼女が育った『研究所』という場所では教えられなかったのだろうか。

 ミナへの疑問が深海のように深まってきた夏休み2日前の部活、僕は委員会があって少し遅れてしまった。

 旧校舎の階段を少し急いで上っていると、数人の煩い1年生とすれ違った。話しながら階段を占領していて、手には大きなポーチと、絵筆にしては柔らかい筆を持っていた。

 旧校舎にはいつも3年生しかいないのに珍しいなと少し思ったが、それほど気に止めなかった。

理科室のドアを開けると既にミナが座っていた。

「鍵はどうした?」

「先生に貰った」

鍵は黒板の横の鍵掛けに掛けてあった。ミナを見ると、唇は桃色、頬も同じように桃色になっていた。何やら化粧をしているようだ。

「化粧に興味があったとは意外だな」

僕は皮肉の意味も込めて言った。お世辞にも、その化粧は似合っていると言えなかった。ミナにはもう少し青っぽい、桜のような淡い色が似合うことだろう。

「これはクラスメイトがやった。化粧のひとつもしないのは可笑しいと言われた」

さっきの一年の生徒がやったのだろうか。

 ミナは水色の手鏡を見る。最初の頃の浮世離れした箱入り娘のようなミナとは違い、多少世俗に染まったかのような雰囲気になっていた。

「小岩井はどう思う?」

僕は思わず息を止める。ミナがまさか自分の顔に興味をもつことがあると思わなかったからだ。

「別に、どうとも」

僕は目を合わせずに情けなく言う。

「そうか」

ミナは少し落胆したように肩を落とした。

まるで僕に褒めて欲しかったかのように思えた。

「君、手をスケッチさせてくれないか?」

僕はミナに言った。

「いいぞ。ほら」

 ミナは手を差し出す。僕はそれを無言で書き始めた。これでミナをスケッチするのは最後だ。

いつもなら手だけに集中してスケッチするところだが、どうにも集中できなかった。

 化粧をして手鏡を見るエリがどうにも色気づいたように見え、僕には不快だった。

「裏返して」

 魚人より爪は発達していないとは言えど、最初に出会った時の爪は鋭利であった。しかし今は綺麗にアーチ型に切り揃えられている。

砂糖とバターを混ぜたような空気が流れていく。

「小岩井は夏休みどこか行くのか?」

「ん?そうだな…。ああ、そうだ。言おうと思っていたんだが、海へ行かないか?前に海の事について僕に聞いたことがあったろう」

 海へ行こうと言った時、ミナが嬉しそうに口角を上げる。やっぱり、どんどん人間らしくなってきていると感じた。

「海、行きたいと思っていたんだ」

声色からも喜んでいることが感じ取れた。

「じゃあ、8月の最後の土曜、開けておけよ」

僕はミナの最後の指をスケッチし終わる。

鉛筆を机に置き、手に持っているスケッチブックを眺めた。うん、いい出来だ。

「終わったよ」

僕はミナに声をかけた。

スケッチブックも机に置こうとすると、机の上に置いてある本に気がついた。

「あっその本は…」

ミナが慌てたように立ち上がった。

「人魚姫…」

 僕は思わず題名を読み上げる。すると、ミナは僕から本を取り上げた。その時のミナの顔は初めて会った時の夕焼けのように真っ赤で、まるでこの本を読んでいるのが恥ずかしいと言っているようだった。

「何も恥ずかしがることじゃないだろう。君たちが見つかる前の古い童話だ。それに、現実の魚人とおとぎ話の人魚は別の生物だ」

 そういうとミナは釈然としないように眉を下げる。

そして少し唇を震わせながら口を開く。

「こんな絵本を読むのは子供だけらしい」

ミナは本のページをパラパラとめくる。

「そんな決まりはどこにもないぞ」

「けど、クラスメイトに言われた」

またクラスメイトか。僕は眉をひそめる。

 いや、世間知らずだったミナにはクラスメイトが世間なのだろう。だから、クラスメイトに言われたことを鵜呑みにしてしまうのだ。

「何故君はそうもクラスメイトのことを気にするんだ?クラスメイトが全て正しいという訳でもないだろうに」

そういうとミナは今にも泣き出しそうな顔になった。

 その時、今まで理解しようとしてこなかった他人の感情というものが初めてわかった気がした。

「そんなこと、わかっているんだ。私だって全てクラスメイトを信じている訳ではない。だけど、だけど…」

後半はほぼ泣き声だった。ミナが僕の前で泣いたのは初めてだった。

 やはり、慣れない人間界での生活に疲弊していたのだろう。その同調圧力というものは特に女子のコミュニティで顕著になる。

 これは今まで同年代の女子とコミュニケーションを取ることができなかった16の女の子が急に身につけられる能力ではない。

「すまない、責めているつもりはなかったんだ。無理して同調する必要なんてどこにもないよ。ええと、だから…」

 自慢ではないけど、泣いている女子を慰めるなんて僕は生まれてこのかたしたことがなかった!

 どの言葉をかけても何をしても泣き止まないミナに

困り果て、迷走してついには家庭科部に頼んで暖かい紅茶まで貰ってきた。まったく僕は何をしているんだろう。

 紙コップ内の紅茶が4分の1以下になり冷め始めてしまった頃、ミナはようやく泣き止んだ。

魚に似た角度によって銀色に光る眼が、涙のせいで余計に目立って見えた。

「すまない…」

 鼻を啜りながらミナは顔を覆う。

「いや、少しはすっきりしたか?」

僕は柄にもなく恐る恐るミナの顔色を伺う。女の子一人泣き止ませるのがこんなに大変だとは思わなかった。

「ああ」

「すっきりしたならそれでいい。今日はもう帰ろう」

のそのそと準備をし始めるミナを僕は待っていた。

いつもの僕は先に準備をし終ると、ミナを待たずにすぐに帰っていたが今日はミナが心配で最後まで待とうと思った。

「先に帰っててくれていいのに」

ミナが可愛くないことを言う。

「いいから、早く準備をしてくれ」

 気持ち悪い感情だ。もうすこし気の利いた事を言えたら良かったのに。

 ミナが準備をし終わると、一緒に階段を降りた。

「君はどこに住んでいるんだ?研究所まで戻っているのか?」

僕は気になっていたことを聞いてみる。

「学校の近くのアパートだ。家賃は研究所が出してくれている。」

「一人でか?」

ミナは頷く。一人暮らしでは日頃のストレスや愚痴を吐き出す相手もいないだろう。

「明日は終業式、夏休み中はとくに部活なし。けれど8月の最後の土曜は海へ行く…それでいいかい?」

僕はミナを横目で見る。今日のことがあったし本当に海に来てくれるか不安になった。

「ああ。楽しみにしている」

そうミナは少し腫れた目で笑って、アパートがあるという信号を曲がって行った。

 僕は笑ったミナを見て安心する。その日の空は真っ赤な夕焼けではなく、まだ明るさの残る夏の青い空だった。


 夏休みに入り、暫くは課題に追われていた。しかしどうにも身が入らず課題の数学を解きながら、どうやってバレずに海に入るかについて考えていた。

 全ての海岸には高い防波堤があり、危険な波がこちら側に来ないようになっている。その防波堤を越えて海に入るのは妥当ではないだろう。何よりバレて引き戻される可能性が高い。

そうなると、海岸をくまなく探して崖の下や目立たない場所から入るのが最善策だ。はたして、半分魚人のミナは海に入れるのだろうか?

 前日の夜、ミナから連絡があった。

□なにか持っていくものはある?

とメールが入っている。

□電車の定期と、金と飲み物と要らないタオル。あとビニール袋かな。お昼ご飯は現地で買ってもいいし、持ってきてもいい。

と返信した。

 翌日、7時半に家を出た。最寄りの小さい駅まで大きい荷物を持ちながら自転車を漕いだ。肌が太陽に焼かれ、汗が滴ってくる。暑くて、天気が良くて。絶好の海水浴日和だろう。もっとも僕は海に入れないけれど。

 駅に着くと、駅にある古いベンチにちょこんとミナが座っていた。ミナは首の詰まった長袖の白いワンピースに、深く麦わら帽子を被っている。

どれも、一昔前の古臭いデザインに思えた。

「待ったか?」

「待ってないよ。時間ピッタリだ」

ミナは腕時計を指さしながら言う。

そして、僕たちは5分後に来た赤い電車に乗りこんだ。

 暫くして海が見えてくると、僕はミナに声をかける。

「ミナ。見てご覧。あれが海だよ。」

ミナからの反応はなかった。

「ミナ?」

僕はミナを見る。するとミナはすうすうと寝息を立てて眠っていた。

僕はミナの肩を揺すろうとしたが、情けないことに、ミナの華奢な肩を意識してしまって触れることができなかった。まあ今起きなくても海なんてこれから飽きるほど見られるだろう。

 終点のアナウンスが流れると、やっとミナが目を覚ました。

「着いたよ。終点だ」

僕は声をかける。

「ああ…寝てしまっていた。すまない」

ミナは目を擦り、自分の荷物を持った。改札を通ると海の匂いが僕らを包む。

「まずは一旦防波堤から海を見てみよう」

僕たちは高い防波堤によじ登り、海を眺める。

「綺麗…」

ミナが小さい声で呟く。目を輝かせ、自然と笑顔になっていく。

「ここから入るのか?」

「ここからは入らない。あっちの崖の方に回って入れるところを探す」

僕は少し先の崖を見る。

 そしてミナと一緒に、沿岸を歩いた。崖の傍に来ると流石に足場が悪く、何度も足を取られそうになった。

最初の駅から1時間程歩いたように感じた。だんだん足場が安定し、ゴツゴツとした岩ではなく砂になっていった。

 足場が完全に砂になる頃、人目につかなそうな丁度いい小さいビーチを見つけた。

「ここで実験する?」

ミナが靴と靴下を脱ぎ、海に近づく。

「ちょっと待て。危ないから最初からは海水に浸からずに、水をかける程度にしよう」

僕はゴム手袋をして、ミナの足に恐る恐る海水をかけた。

「どうだ?」

「なにも感じない。思っていたより生温いな。」

少し時間を置いてみることにした。通常痒みや炎症が起こるとされている10分が経っても、ミナの足には何も起こらなかった。

「じゃあ、次は片足だけ。」

僕はミナに片方だけ長靴を履かせる。

 ミナはそのまま足首まで海に入った。僕は波が来ない少し離れた位置からそれを見ていた。

「そろそろ10分経つが、どうだ?」

「全然大丈夫だ」

ということは恐らく、ミナの海水に対する耐性は魚人よりだったということだろう。

「長靴を脱いでもいいか?」

「いいだろう。ただ、何か異変があったらすぐに言えよ」

念をなんども押した。ミナは興奮している様子であまり聞いていないようだった。

 彼女が今までに見たことないくらい元気よくはしゃいでいるのを見る。途中、なにかきらきらと僕の目に主張する。それが、ミナの鱗だと気がつくまでそう時間はかからなかった。

ミナがワンピースのスカートを摘んで持ち上げているせいで、普段は見えない肌の部分が見えてドギマギしてしまった。

「本当に人魚みたいだ」

本音が口をついて出る。そう言った瞬間、ミナが急に海に潜った。ぱしゃんと小さい波が見えた。

僕は急いで長靴を履き、ミナのところへ走る。砂に足を取られ、上手く走ることが出来なかった。

 ようやくミナのそばに行き沈んでいるミナの腕を掴んで、引き上げるとミナはキョトンとした顔で僕を見た。

「君…大丈夫なのか?」

僕は慌てすぎたせいで息切れをして、嫌な汗をかいていた。

「どうやら私は海の中で息が続くらしい」

ミナは嬉々として僕に報告した。

「そうか。新発見だな。おめでとう。だが、急に潜るなんてことは金輪際やめてくれ。心臓に悪い…」

僕は首からかけていたタオルで額を拭う。

「だが助けてくれてよかった。私はどうやら泳げないみたいだ。水中では上も下も分からなくなるんだな」

 本当に、よく分からない。今日だけで僕は3回もため息をついた。まったく、眉間の皺が元に戻らなくなったらどうしてくれるんだ。

僕は手に着いてしまった海水を拭き、持ってきたペットボトルの中の水で洗い流す。

 ミナが飽きるまで海で遊んでいた。もう服はびしょ濡れだろう。直ぐに飽きるだろうと踏んでいたが、流石の帰巣本能とでも言うべきなのか彼女は辺りが薄暗くなり、僕が声をかけるまでずっと水の中にいた。

「おーい、そろそろ帰るぞ」

ミナはぱしゃ、ぱしゃと2、3回水を蹴り、自ら上がってきた。僕が足を拭いてやると恥ずかしそうに自分でやる、と僕からタオルを受け取った。

 タオルで足をふき、完全に乾くまで靴の上で足を乾かした。2人とも体育座りで砂浜に座る。

「どうだった?」

僕はミナに聞く。

「海とは、やはりいいものだな」

満足気なミナの顔。目の奥で笑っているようだ。

「海に帰りたくなったか?」

僕は冗談でこんなことを聞いてしまった。それがいけなかった。

「ああ。そうだな」

ミナは少し悲しげに言う。波の音と混ざって、その声にはノイズが走ったように聞こえた。

ミナは体育座りの中に顔を埋めて言う。

「正直人間の世界は、もう疲れた…。」

また波の音。そして暫く静寂が訪れる。

 僕は今日ずっと心の中にあった一つの仮説を言う。

「もしかして、君は前に読んでいた本の中の人魚姫のようになりたいのか?」

「…どうだろうな」

曖昧な返事だったが、その回答までの沈黙は肯定の意味を含んでいた。

「ミナはどうしたい?」

少しの沈黙があったあと、ミナが言葉を漏らした。

「私は海に戻りたい」

もうミナを止めることはできないのだ。

 僕はミナがこちらを向かないことを祈りながら涙を流した。僕が文豪であったなら、その涙で本を一冊書き上げられることだろう。

 その涙は僕がミナの事を特別に思ってきていると嫌でも分からされ、腹の底を押されるような気持ちの悪い気分に襲われる。

「そうだ、泳ぎでも練習するか。さっきのように上も下も分からないのではまずいだろう」

ミナが言う。呑気な声だ。僕は涙を押し込め、その問に答えた。

「じゃあ、夏休みが開けたら学校のプールを借りるか?」

ありえないほど震える声。なんとかこの気持ちに嘘をつきたかった。

夏休み中と言わなかったのは、ミナに1秒でも長く僕の手の届く範囲にいて欲しかったからだろう。

「そうだな」

そう言ったあと、ミナは足を動かし、触った。

「うん、問題もないな。実験は大成功だ」

ミナは靴を履き立ち上がる。ミナの腕時計はもう20時を指していた。

 僕はミナの手を掴み、エスコートするような形でゴツゴツとした岩場を渡った。

 その間もミナは寂しげに、けれどどこか満足気な表情をしていた。月の薄明かりに照らされたその表情は今にも消えてしまいそうな霞のように見えた。

 そしてまた二人で電車に揺られる。タタン、タタンと電車は行きと変わらない音を立てる。

暗くなっていく空に光る人工的で不揃いな街灯が、僕らだけを照らしている。

 しばらくして駅に着いたというアナウンスが鳴った。ミナを起こして改札を出る。改札に吸い込まれた切符を少し惜しく思った。

駅の外には沢山の提灯が照らされていて、いつもとはまるで違って見えた。

「朝にはなかったな。提灯って言うんだろ、これ。」

ミナが無邪気にひとつの提灯を指さす。

「明日は夏祭りだからな。」

僕も提灯を見上げた。

「夏祭りか。駅でやるのか?」

ミナが聞く。

「いや、神社の方だな。ほら、学校の裏の田んぼを真っ直ぐ行くと鳥居があるだろ?」

 あの神社自体は小さいが、夏祭りと元旦には多くの人が集まり、とても賑やかになる。

「小岩井は行ったことがあるのか?」

「うーん、小さい頃に父親と数回だけ」

あの時は僕も小さくて、出来の良くないりんご飴や、ちゃっちな玩具で喜んだものだ。

「なあ小岩井」

ミナが提灯から僕へと視点を移す。

「なんだ?」

「一緒に夏祭りに行ってくれないか?」

彼女の顔は麦わら帽子へと隠れ、よく見えなかった。

しかし僕は、ミナの反応を確認する前に、彼女から誘ってくれたということが嬉しくて被せ気味に返事をしてしまった。

「えっ、ああ、勿論」

僕からこんな素っ頓狂な声がでるとは思わなかった。

その時の僕は、マヌケ極まりないことだっただろう。

 ミナは提灯を眺めながら自分の家の方へと歩き始めた。僕はその後を追う。

「ミナは浴衣を着るのか?」

「持ってないから着れないな。着てみたかったけど、残念」

僕はひとつのいい案を思いついた。

「僕の妹の浴衣を着てみるか?身長も同じくらいだし、もしかしたら…」

「いいのか!?」

最後まで言い切る前にミナが返事をする。

大きな目をきらきらと輝かせて、期待の表情で僕を見る。

「柄は選べないけど…。妹に聞いておくよ。良いって言われたら今日帰ってから連絡する」

「あ、けど…」

ミナの顔が暗くなる。同時に提灯行列が終わり、暖かい灯りが消えた。

「浴衣って結構首元が開いているから鱗が見えてしまうかもしれない。そもそも、鱗で浴衣を傷つけてしまうかも。やっぱりいいよ。普通の服で行く」

ミナが深いため息を着く。

「いいじゃないか、別に。浴衣なんて替えがきくし、何より浴衣が傷つく位で妹は怒らないよ。鱗が見えたって他の人はそれほど気にしないさ」

僕はわざと明るい声で言う。ミナを元気づけたいという気持ちもあるが、本音を言うと彼女の浴衣姿が見たいと思い必死だったのだ。

「そうだろうか」

「きっとそうだよ」

信号がちょうど青になる。もうすぐミナのアパートに着いてしまう。

ミナは今日を楽しいと思ってくれたのだろうか。人間も捨てたもんじゃないと思ってくれないだろうか…。

彼女は最後手を振って、アパートの階段を登って行った。

 僕は暖色の街灯に一人照らされながら帰路に着いた。

たしか浴衣は今日の夜の海のように深い紺色だったはずだ。その紺の中に橙色の大振りな花が描いてある。

透き通る世間知らずの白い肌に、きっと良く映えるだろう。

「ただいま」

僕は家のドアを開ける。リビングに行くと、母親はおらず、妹だけがソファーに座り本を読んでいた。

妹の中学の制服は床に散らばり、カバンも半開きのまま。恐らく学校で読んでいた本の続きを早く読みたくて仕方がなく、片付けもしないまま本を開いたのだろう。

「おかえり、お兄ちゃん。」

妹は目もくれずに答えた。妹は本当に僕に似た。最も、興味が向いたのは海洋ではなく文学なのだが…。

「何を読んでるんだ?」

僕は冷蔵庫を開け、冷たい麦茶を注ぎながら聞く。

「谷崎潤一郎の痴人の愛だ。」

鬱陶しそうに言う。まるで本に集中したいから声をかけるなとでも言いたげな雰囲気だ。文学に興味のない僕からしてみれば、よくあんなに難しく複雑な話を読めるものだと思う。

思わず、僕が興味のないような返事をしてしまうと、妹はやっと本から顔をあげ、僕を厳しく見ながら吐き捨てた。

「いつもいつも論文や教養書しか読まない、つまらない人にはこの本の良さはわからないだろうね。まったく、どうせ興味が無いなら聞かなければいいのに。」

妹はまた本に目を落とす。よくその本を見ると、最近刷られたものではなく随分昔の薄汚れた古本だということに気がつく。こういう妙な拘りも僕に似てしまったのだと痛感した。僕はそんな妹を見ながら言った。

「聞きたいんだが、お前浴衣持ってたよな?」

「持ってるとも。」

「貸してくれないか?」

妹が吹き出す。鼻で笑ったあと、栞を挟み丁寧に本を閉じた。良くない間違った勘違いをしているようだ。

「ま、まあいいけど…お兄ちゃんには大分小さいと思うよ?」

妹は、吹き出した拍子にずり落ちたメガネを元に戻しながら半笑いでこちらに振り向いた。

「違う、僕ではない。友達が着るんだ。その友達が少し訳ありだから許可が欲しいんだ」

「訳ありって何?」

妹が訝しげに聞く。僕は思い切って話した。

「その友達、魚人と人間のハーフなんだ。つまり鱗があって、もしかしたら浴衣を傷つけてしまうかもしれない。」

妹はぽかんと口を開け、呆気にとられる。

少し固まったあと、妹は数回頷き、僕を見た。

「ああ、そうか。うん。別にいいさ。多分私はもう浴衣着ないからな。」

「良かった。断られるとも思っていなかったけど。」

僕は自分の部屋に行き、スマホでミナに連絡した。

□妹に了承がとれた。夏祭りが夕方からだから午前中には持っていくが、着付けはできるのか?

と連絡すると、待っていたかのようにすぐ返信が来た。

□良かった。ありがとう。着付けは研究所で教えて貰ったからできる。

ミナが兎のようなスタンプを送ってくる。

 明日が楽しみでならなかった。

 


 翌日。夏休み最後の日だ。僕は紙袋に浴衣と草履を入れて自転車を走らせていた。

 ミナのアパートに着き、ミナの部屋のインターホンを鳴らした。すると、部屋の中からぱたぱたと足音がして、すぐにドアが開いた。

「おはよう、浴衣持ってきたぞ」

僕は紙袋を差し出す。ミナは中身を確認した。

「あ、草履まで入ってる。何から何までありがとな」

少しの沈黙。蝉すら鳴いていなかった。

「じゃあ、今日は神社の鳥居の前で」

僕が言う。

「わかってるよ。楽しみにしててくれ」

ミナはそう不敵に笑うと、ドアを閉めた。

何が楽しみにしててくれなんだ、と思ったが、僕は気にしてない素振りでふん、と鼻を鳴らした。

 家に帰ると妹が本を読みながら素麺を食べていた。ソファーにはもう呼んだのであろう本が沢山積み上がっていた。

「本を読みながら食べるな」

無視。反抗期かと思ったが、物心ついた時からこんなだったと思い返した。

「今日、部活は?」

最初妹が部活に入ると言った時には驚いたが、よく話を聞くと1年生は絶対にどこかの部へ入部しなければいけないらしい。

「珍しいオフだ」

それだけ言うと、妹は残りの素麺をずずっと啜った。

そしてソファーの上の本を全部抱えて、階段をあがって行った。

僕は大皿に乗っている妹の残りの素麺を食べた。

ふとテレビをつけると、お昼のニュースがやっていた。

「…東京では記録的猛暑日が続いており…明日も40度越えが予想されます…また明日は夕方、強い雨が降るでしょう…」

昔は涼しかった、とよく母親が話す。

夏で40度を超えない日なんて見たことがない。地球温暖化は進むばかりである。

その上、夕方によく降る雨は酸性雨である。今のところ人体に影響はないらしいが、僕が大人になった時には毒の雨になっているのかもしれない。

今でも、折りたたみ傘を持たなければおちおち外も出歩けないのだ。

 僕は最後の素麺を啜った。そして素麺を食べた硝子の椀を洗った。僕は家にある椀で、この椀が一番好きだ。この椀の硝子の曇り具合、細工など、見ているだけで涼しい気分になれる。芸術などはよく分からないが、この椀が綺麗なのは本当だろう。

 テレビでは若いタレントが下手くそな食レポをやっていた。僕はタオルで手を拭いて、ソファーに座った。そのままエアコンの風に吹かれながら微睡んでしまい、気がついた時には時計の針は5時半を指していた。

 しまった。ミナはもう待っているだろうか。僕は机の上に置いてある財布とスマホだけ掴み、急いで家を飛び出し、自転車に乗った。

 坂を上り、段々と神社が見えてくると、太鼓の音と人のざわめきが聞こえてくる。まだ空は薄明だったが、提灯や屋台の明るさが目立つ。

神社の横の駐輪場に自転車を止め、鳥居へ急いだが、人が多くて上手くミナを見つけることができなかった。電話をかけようとした時、後ろから肩を叩かれる。

「遅かったな」

振り向くと、ミナがいた。髪の毛はいつもと同じ飾り気のないボブだったが、浴衣を着ると一層大人びて見えた。

ミナの白い肌には、僕の見立て通りに紺色の浴衣がよく映えた。

「すまない、少し遅れてしまった。詫びになにか奢ろう」

僕はミナを見ることが今更恥ずかしくなり、目を逸らした。

「いや別にいいさ。…何か言うことはないのか?」

ミナは銀色に光る目で僕を見た。

何を言って欲しいのか最初は理解できなかった。

「なんの事だ?」

「浴衣のことだ、決まっているだろう」

 まただ。彼女はきっと、性の違いや、異性を褒める気恥しさを理解していないのだ。

「え、ああ、そうだね、よく似合っているよ」

僕が口篭りながらそういうとミナは照れるなどもせずに、さも当然という様子だった。

「思ったよりも鱗が出てしまったんだが…気にならないか?」

しかしミナはすぐに心配そうな顔になって首の鱗を撫でる。その鱗は昼間の硝子の椀のように綺麗だった。

「気にならないさ。何よりその鱗は貴重で、綺麗だ。君の個性だよ。」

僕がそう言うと、ミナはほっと息を吐いた。

「なにか気になるものはあるか?」

ミナは少し考えてから、りんご飴が食べてみたいと言った。

「りんご飴ならすぐ屋台が見つかるだろう。屋台の方へ行ってみよう」

ミナは頷いた。僕らが屋台の方へ歩いていくと、数人の女子生徒がこちらをチラチラと見ていた。

そして、ミナの顔がきゅっと強ばったのがわかった。

恐らく同じ学校の生徒だろうと察する。

「何か言われたのか?」

「ただ半魚人、キモイ、不細工、目障りと言っているのがわかった程度だ。」

ミナは恐らく耳が人間よりも良いのだと思う。僕には全く聞こえなかった。

それと、ミナは悪い言葉を知らないと思っていたがその単語を嫌なものとして記憶していることに驚いた。

「君はその言葉の意味がわかるのか?」

「いや、意味は分からないけど、人が嘲笑や悪意のある顔をしているときはその言葉が着いてくる。つまりそういい言葉ではないのだろうな」

ミナは少し悲しげな顔をする。ミナが知りたがらない限り、その意味を教える必要はないと思った。

「気にする事はない。…ほら、りんご飴の屋台だよ。気になるなら、買ってから向こうの人がいないところで食べよう」

僕は小さいりんご飴をひとつ、ミナ用に大きいりんご飴を一つ買った。りんご飴はまさしく今出来上がったという風貌で、つやつやきらきらと宝石のように輝いていた。人が少ない木陰に移動し、ミナにりんご飴を渡してやった。

「ありがとう。これはどうやって食べるんだ?」

「舐めてもいいし…かぶりついてもいい」

僕がそう言うと、ミナはさっそく大きな口を開けた。

口を開けた時に、鋭い牙のような歯が幾つか生えていることがわかった。

しかし、仮にも女の子の口をじろじろ見るのはどうかと思い、僕も自分のりんご飴を口にした。

そのりんご飴はやはり幼い頃のように値段に見合わないちゃっちな味だったが、前よりも美味しく感じた。

「美味しいか?」

僕はミナに聞く。ミナはいい音を立てながらりんごを齧っていた。

「とても甘くて、美味しい。幸せの味だな」

 幸せの味とはよく言ったものだ。屋台の値段がやたらに高いのは、その物の値段のみならず幸せとやらの値段が入っているからだろう。

ガリ、と飴が砕ける音がする。ミナは表情豊かになっても無口なのはあまり変わらなかった。

 僕らのそばの大きな木は祭りの喧騒に似つかず、静かに佇んでいた。まるで周囲からミナを守っているようだ。僕は遠く、煩い無数の橙色の光を見ていた。

「食べ終わったぞ」

ミナが棒を振る。

「まさか芯まで食べたのか?」

ミナが目を丸くし、恥ずかしそうに俯いた。

「芯?気が付かなかった」

僕は思わず笑ってしまった。その様子に、ミナも微笑む。

「小岩井も笑うんだな」

ミナが屋台の方へ歩き出す。僕もそれについて行った。

「普通くらいには笑うと思うのだが…」

近くのアルミのゴミ箱へりんご飴の棒を投げ捨てた。

 宛もなく屋台を見ながら砂利道を歩いていると、ミナが突然足を止め、手前の屋台を覗き込んだ。

僕もそれを覗き込むと、あまりミナには見せたくないものが沢山いた。

「金魚すくい」

ミナが呟く。そしてしゃがみこみ、泳いでいる赤や黄を目で追った。

「ミナ、向こうに射的があるから…」

僕はミナの肩を叩き、射的の屋台を指さした。

「おじさん、これいくらだ?」

ミナは屋台のおじさんに話しかける。ミナを見たおじさんは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「いくらって…やる気なのか?」

ミナは頷き、小さなカバンから紺色の財布を取り出した。おじさんはため息をつき、指を3本立てた。

「300円だよ。」

ミナは丁寧に小銭を選び、ぴったり3枚百円玉を取り出した。ポイと器を受け取ると、唖然としている僕に話しかけた。

「なあ、どの子がいいと思う?」

「え?君が好きなのでいいんじゃないか?」

僕がそういうと、ミナは優しく近くの赤い金魚を掬った。金魚は上手いこと器の中に入った。

 ミナがどういった感情で金魚すくいをしているのか僕には分からなかった。ただミナは無表情で、絶望も哀愁も感じることが出来ない。

そのままミナは2匹の金魚を掬った。3匹目の少し大きい橙色の金魚を取ろうとした時にその金魚が大きく動き、無惨にもポイが破けてしまった。

最終的には赤が1匹、黒が1匹だ。袋の中でゆったり泳ぐ2匹をミナはうっとりと見つめる。

「…ミナ?」

あまりに真剣な目だったので、声をかけるのも躊躇してしまった。

「この子達はどのくらい生きられるんだ?」

 屋台の金魚の寿命なんてたかが知れたものだろうと思った。しかし、屋台によって寿命は大きく変わるだろう。

「上手く育てれば10年。けれど個体差は十分にある」

ミナは頷き、袋を腕に下げた。

「部活で育てることはできるか?」

「できるだろうな。水槽は沢山あるから」

 その後しばらく屋台を回ったが、ミナは金魚が気になるようだ。そんなミナを見ているとなんだか昔の僕にミナの姿が重なり、微笑ましくなった。

「金魚が気になるか?」

僕がそういうとミナが慌ててこちらを見た。

「いや、まあ気になるが、祭りが楽しくない訳ではない」

別に楽しくないのかと聞いている訳では無いのだがな。

 僕は近くの屋台で冷えたラムネを2本買った。

そのラムネは浅瀬の海のように綺麗で、向こうが透き通って見える。幾度か泡が作られては消え、作られては消え、と儚く踊っている。

「金魚にそれほど興味を持つとはな。もう帰ろうか?」

ラムネを開けて、1つミナに与えた。

「もう帰るのか?」

ミナは寂しげに言った。

「君、先程から足を引きずって歩いているだろう?慣れない草履で痛めたか?」

ミナは足を上げて、傷跡を見た。僕には暗くて、傷の程度がよく分からなかった。

「まさか気づかれていたとは。けど足が痛いからって帰らなくても…」

「金魚も気になるんだろう?」

足が痛いなら、これ以上痛めないためにも早く帰った方がいいだろうと思っていた。慣れない浴衣だろうし、余計に疲れない方がいいだろう。

 僕達は神社の駐輪場へ向かう。ミナはやはり足が痛いようで、いつもより歩くのが随分遅かった。

 もう空は鳥も見えないほど真っ暗で、月は何度か掛けた不格好な形であった。神社の方は田んぼばかりなので、夏の大三角が綺麗に見えた。

駐輪場に着いたあと、僕はミナを待たせてトイレへ向かった。

 トイレから出ると、クラスメイト達が少し先に見えた。さほど気に求めず通り過ぎようとした時、1人の男子生徒から声をかけられた。

「おい、魚人とのデートは楽しかったかよ?」

明らかな嘲笑。周りの生徒も嘲るように僕を見ている。

向き合うだけ無駄だと思い、聞こえなかった振りをして駐輪場まで歩く。

それが気に食わなかったのか、その生徒はまた言葉を塗り重ねた。

「お似合いだなあ。クラスの腫れ物同士だもんな」

それに加えて、今度は2人の女子生徒が高く気味の悪い声で言った。おそらく、ミナのクラスメイトだろう。

「小岩井も、よくあんなブスと付き合えるよね?」

「半魚人と、人間。どんな子供ができるんだろうね?考えただけでも気味が悪い!」

言い返したかった。見返してやりたくなった。しかし、今から言い返して汚い言葉を並べようと、彼らに同じ屈辱を味わわせることはきっと出来ない。

 あと、ミナが聞いているかもしれない距離で汚い言葉を使いたくなかった。それと同時に、こんなくだらない事に憎悪を抱いている暇があるなら、待ってくれているミナを早く迎えに行くべきであろうと思った。

 僕はやはり聞こえていない振りをして駐輪場へ向かう。彼らの目に映る僕はきっと惨めで、何も言い返せない子犬の用に見えているのだろう。君達は一時の享楽へ溺れ、そのまま死んでしまえばいいさ。

 僕は駐輪場へと真っ直ぐ歩く。まだ後ろで沢山鳴いているのが聞こえた。

「ミナ、待たせたね、行こうか」

僕はミナを自転車の後ろへ乗せた。漕ぎ出すとミナが僕の背中に寄りかかる。

「金魚は朝イチで部活に持ってきてくれ。今日のところはタライか何かに水を張って、金魚を袋ごと20分程度水につけるんだ。…聞いてるか?」

ミナは上の空。お祭りの太鼓の音や陽気な音楽がどんどん遠ざかっていく。自転車に乗ったまま後ろを向き続ける訳にもいかず、ミナの表情は上手く伺えなかった。

 学校の傍を通り、ミナのアパートへ向かう。午前中にも通った道であったが夜は何の声もせず、昼とは違う道に思えた。

 信号で止まると、ミナが僕の服を少し引っ張るのを感じた。少し震えていて、今までの彼女とは違う自信のなさを全面に感じた。

「…ミナ?」

僕は振り向こうと、体を傾けた。ミナはそんな僕を、ぐいっと前へ押し戻した。

「…信号、青」

僕は何も言わず、ペダルを踏みこんだ。ミナのアパートの前へ着くと、ミナは顔を俯けたまま自分の部屋の前へ進むと、笑顔で僕に言った。

「今日はありがとう。浴衣、クリーニングしてかえすから」

ミナは手早く、言うだけ言って部屋へ引っ込んでしまった。僕はため息をつき、来た道を引き返した。



2

私は家のドアをガチャガチャと捻り、しっかりと鍵がかかったかを確認した。手には金魚が2匹入った水色のバケツ。あの後小岩井は律儀にも、メールを使って金魚の飼い方を事細かく送ってきてくれた。

 私はアパートの階段を降り、思わず空を見あげた。青い空だと愚直に思う。今日は学校のプールで泳げるかもしれないので一応水着を持っていくことにした。

 制服から伸びる自分の腕についた鱗が、忌々しく光に反射していた。この制服にも随分慣れたが、指定された着方があり、鱗を隠すことが出来ないのはいつまでも慣れることはないのだろうと思った。

 金魚がいるので何時もよりも随分早く家を出た。そのおかげか、道には生徒の姿は見当たらなかった。

いつもなら、部活をする生徒や自習をする生徒が沢山いるだろう。

汗が垂れて、セーラー服の中を伝う。地上にいる以上、体温の調節ができることは良いことだ、としばしば研究員が言っていたことを思い出した。

学校が見えて来るに連れて憂鬱な気分がのしかかる。

 しかし、朝早くだからか、学校に着いてもいつもの沢山の声が聞こえないことに心地良さを覚えた。下駄箱で靴を履き替え、旧校舎の方向へ向かう。

職員室での話し声が微かに聞こえる。しかし、何を話しているのかは分からなかった。

 古い階段を登り、理科室のドアを開ける。ドアは引っかかりがあるのか、毎回途中で止まって上手く開けられない。引っかかったドアを完全に開けることはせず、体とバケツを隙間にねじ込ませた。

「おはよう、金魚は持ってきたか?」

小岩井は理科室の水道で水槽に水を入れていた。

「持ってきたが…黒い方が少し弱ってしまったようだ」

私はバケツを覗いて言う。少しバケツを揺らそうとすると、小岩井が慌てて声をかけてきた。

「揺らすな、金魚が弱る。そこにバケツを置いておけ。あとは僕がやろう」

 なぜだか分からないけれど小岩井に任せておけば黒い方も回復するだろうと思った。

 私は小岩井が金魚を慎重に扱うのを椅子に座って見ていることにした。

 テキパキと無駄がなく動く小岩井の腕には、当たり前だが鱗の1個も生えていない。勿論顔にも、首にも。

目も私とは違い真っ黒で、その目を持ってすれば深淵すら覗けるだろうと思った。…私の恥ずかしいくらいに主張する目と鱗とは大違いだ。

「なあ、前海に行った時の話覚えてるか?」

私はふと、思い出したことを聞いてみる。

「どれのことだ?」

小岩井はこちらをちらとも見ずに、手を動かしながら答える。

「ほら、泳ぎの練習でもするかって。学校のプールでも借りるかって言っただろう?」

「そういえばそうだな」

彼は表情1つ変えなかった。

「今日プールは借りられるだろうか?」

「おそらく…夏休みだから借りられるだろう。水泳部の練習も今日はなかったしな」

私は頷く。そして彼は金魚を水槽に移し終わると、私に向けて言った。

「金魚は暫くこのままにする。プールに今すぐ行くのか?」

「少し金魚を見ている。昼前頃、行ってみるさ」

 私は段々と辺りが煩くなっていくのを感じていた。小岩井はどこかへ行ってしまったが、私はまだここを動く気にはならない。鬱蒼としている理科室は、私を隠してくれるからだ。

 金魚をいつまでも眺めていたかった。元気よく泳ぐ赤色と、ゆったりと死体の様に揺蕩う黒色。水槽は殺風景というか、簡素な作りであった。

 隠れる場所もなくただ身を晒されている金魚の気持ちになれば少し哀れな気がしてくる。

 ぱくぱくと動くエラと、自分の見せかけのエラのような跡を見比べると、自分が最上級に気持ち悪い何かの様に思え、悪寒を覚えた。

 そんな嫉妬も感情も知らない赤色の金魚は方向転換をして、鱗で光を一身に受け止める。鱗は金色と赤色、橙色に移り変わって見えた。

「…はあ」

 一旦プールへ行ってみようと、私は水槽を揺らさぬように、恐る恐る立ち上がる。

カバンを持って、下駄箱まで行くと女子生徒が何人かそこで話していた。

4人で並んで話していたので通り抜けることができない。私は仕方なく、声をかけた。

「ごめん、通り、ます。」

何故か声が震えてしまう。何故か敬語を使うか迷ってしまう。何故だかは、分からない。

 一番背の高い女の子が私を睨んでいる。そして、不幸にも隣の女の子が私に話しかけてきた。

「ねえ、3年の変わり者で有名な先輩とデートしたんでしょ?」

デートとは付き合っている男女が一緒に出かけることだと聞いている。しかし、私達は付き合っていないし…。

「デートはしていない、と思う」

 女の子は顔を顰め、さも不快であると言うように私に言った。

「お似合いだね、お互い」

ずっとこの子の発言の意図が掴めない。

私は何も言えずに黙ってしまった。それが更にその子の神経を逆撫でしたようだ。

「貴女って本当に話が通じないよね。話しているだけ損した気分になるわ」

舌打ちをして、女の子達は次々と校内へ入っていく。その後、他の女の子達がチラチラ私を見ながら言う。

「高校生にもなってあんなズレた受け答えなんて、何かあるんでしょ…」

「何言ってんの、魚人でしょ?元からあんまり頭の出来が、ねえ?」

「先輩にも遊ばれてんのよ、きっと」

太陽が雲に隠れ、辺りは急速に暗くなる。

頭の出来が良くない。昔、顔の出来が良くないと言われた気がする。頭の出来?形の事?…いや、きっと違うのだろうな。

 一刻も早くその場から離れたくて、制服のままプールへ向かった。更衣室には誰もいなかった。先生がいないままプールへ入ってもいいのだろうか? そんな事を思ったのも束の間、そんな考えはどこかへ消えてしまった。

目の前には誰もいないプールの水面が揺れている。一刻も早く、潜ってみたくなってしまった。

 更衣室に戻り、家から持ってきたスクール水着という物を着た。いざ水着を着てみると、違和感に包まれてなんとも恥ずかしい気分になった。

更衣室は塩素の匂いがして、鼻を覆いたくなる。いざ鏡で自分の姿を見ると、それは体のラインにピッタリと沿うように作られていて、足と腕はむき出しだった。プールには誰もいないはずなのに大きいタオルで体を隠して更衣室を出た。

 プールサイドに座り、ゆっくりと足をつけてみる。海より数倍も冷たかった。プールの中も凍えるような寒さであった。しかし雲が流れて太陽が出てきて、少し寒さはマシになる。

 そこから時間も忘れて水に潜っていた。冷たさも忘れ、無我夢中。水中から見る水面のなんと美しいこと! 泳ぎ方なんて分からなかった。ただ体を沈ませ、腕で水を掴みながら進む。耳元で水の声がする。くぐもっていたそれは学校の喧騒から私を遠ざける。少しだけ聴こえる声も、穏やかな気持ちの今はとても心地よく聞こえた。身体にまとわりついて私と共に踊る泡は私を守ってくれているのだ!

 幾分か、純粋になったかと思われる。

目を閉じて水中に沈んでいた。瞼の裏からでも光がわかった。音を聞いているのだ。ほぼ何も聞こえないが、何かが聞こえているはずだ。

 その時、突然腕を掴まれた。引きずられる形で水中から出される。

「ミナ!」

 やっぱり、小岩井か。前にもこんなことがあった気がする。

「小岩井?帰ったのかと思っていた」

彼は少し面食らったかのような顔をする。

「身動きもしないから、死んでいるかと思った…」

あまりに焦っていた小岩井が少し面白くなってしまった。私が溺れないことは彼も知っているだろうに!

「あははっ!私が死んでいると思ったのか?」

思わずけらけらと、まるで下品に笑ってしまった。

この時の私はこれ以上ないくらい上機嫌で、周りが見えていなかったのだ。

「…これでも心配したんだ」

次に彼が口を開いた時に、私は深く後悔した。

 彼が初めて、私の前で苦痛をしめす表情をしていたから。あの夏祭りの時でさえ、私の前では取り繕ってくれていたのに。謝ろうと思ったが、声が上手く出なかった。

「こ、小岩井、その、ごめ…」

 小岩井に手を伸ばす。小岩井は振り払いもせず、その伸ばされた腕をただ見つめた。腕には文字通り水を得た魚のように、いつもより輝く鱗が主張している。

「君もそんな風に笑うようになったんだな」

そう言うと彼は立ち上がり、私に背中を向けて行ってしまった。

 すぐ追いかけようと思ったが足を滑らせ、顔まで一気に水の中へ入る。煩い泡の音が頭へ響く。違う。そんな顔をさせたいはずではなかったのに。一度染まってしまったらもう元へは戻れない事を察した。

 じゃあ、どうする?


3

 僕はぼんやりと公園のベンチに座っていた。塾へ行かなければならないな、と思う。深い溜息が出た。もう空は赤く、人が少なくなっていく。

 ミナが、あんな風になるなんて。これは僕の気持ち悪いコンプレックスなのか? 僕はミナに何を求めているのか。

 僕は、僕の幻想を押し付けているだけであった。ミナがどんどん普通になっていく。普通の女子高生へと変わっていく。女性へと成長する。

 最初の純粋さは失われてしまったのか? 純粋とは何なのか。

 ただでさえ最近の僕はいけすかない。好きだと完全に気がついているはずなのに、それを認めようとしない。

ついには幻想を重ねることを辞められず、現実との違いに腹を立ててしまう始末。自分に嘘をつくのはもう飽き飽きだった。

 そして、僕は心配を笑われた事に腹を立てているのではない。気持ちが悪い自分に腹を立てているのだ。

 公園の時計は20時を少しすぎた所。そろそろ帰ろうと思った。ミナに謝ろうとスマホを取りだした。

取り出したところで1件の通知が来ていることに気がついた。

 差出人は…

「ミナ」

思わず声を出してしまう。羽虫が群がっている街灯がジジッと音を立てる。

差し出し時間は、20時ピッタリ。

 □小岩井。さっきはごめん。

僕は走り出した。心臓が跳ねている。嫌な予感に襲われる。

 □私、やっぱり学校は少し苦手だ。

改札に定期を叩きつけた。行ってしまいそうな電車に飛び込む。

 □決して小岩井のせいじゃない。

上がっている息にも気を使わず、メールの続きを読む。

 □私はやっぱり海に戻りたくなってしまった。

手が震える。

 □情けないよな、こんなことメールするなんて。恥ずかしい。

 □海に戻ると行ったが、海は私の故郷という訳でもない。陸もだ。じゃあ私の居場所はどこなんだろうと、しばらく考えていた。

 □少なくとも、わたしに陸は向いていなかったみたい。

20時15分。

その先のメールはない。思うように動かない手でメールを打つ。何度も間違えた。

 □みな、まて、いまどこにいる

行先はわかっている。返信、返信、はやく、来てくれ。

 □あの時の電車に乗っている。

思った通り、最悪の回答だ。

 □ごめん、さっきのことばも、態度も、適切ではなかった、ていせいさせてくれ。

 □戻ってきてくれ!

既読がつかない。30秒、1分、1分30秒…

 まだ海の駅までは10分近くある。吐きそうだった。腹の中で蟲が蠢いているかのような心地悪さ。駅に着いたらミナは直ぐに見つけられるだろうか?

時間も数えられなくなった頃、ミナからの新着通知。

それと同時に駅に電車が着く。

20時53分。

 □小岩井のせいではないよ、私は小岩井が居てくれたからここまで色んな感情を知ることができた。

 □なんて、自分で言ってしまう程いい気分だ!

階段を駆け下りる。この前の公園を通り抜け、海の傍をミナを探しながら走る。

僕はミナへ電話をかける。数回のコールの後、電話が取られた音がした。

「ミナ!ミナ!どこにいるんだ!」

「やっぱり、来てくれちゃうと思ったんだ。連絡しようか迷った。けれど、私はやっぱり小岩井と話したかったんだ。」

ミナの方からも海の音がする。

「何を言っているんだ!質問に答えてくれ!どこにいるんだ!?」

必死に岩場を進む。美しく光る月も、反射する水面も、何も目に入らなかった。

「私、小岩井に会えて良かった。」

「ミナ」

「自分勝手だよな。陸が嫌いなら、スマホなんて捨てて一人で行方をくらませればよかったんだ。」

 岩場を何度も躓きながら走った。走ってどうするのだ? こうなる未来はあの時にもう見えていただろう。

電話越しに、皆が息を吸った音が聞こえた。

「またね。小岩井。大好きだよ」

電話から水の音が聞こえる。ごぼ、と鈍い泡の音。

沈んでいることがわかった。ミナがスマホを手放したから沈んでいるのか、ミナ自身が沈んでいるのかは分からない。

 歩いている足が無意識のうちに止まる。足元には既に海水に浸かってしまっていた。

プツッと小さな音がして、相手の音が聞こえなくなる。

 ミナとは、恐らくもう会えないのだろう。そう気がついた瞬間、涙が頬を伝っていた。それは絶え間なく落ちてくる。こんなに泣きじゃくったのはいつぶりだろうか。

 段々と声が抑えられなくなり、情けない嗚咽が漏れる。ミナには何もしてあげられなかった。

 真夜中、警察が探しに来るまで泣きながら海を見つめていた。僕の足には、海水でできたアザのような傷跡が残った。親にも警察にも、先生にも何も言わなかった。

 少し後、赤い金魚が死んだ。ミナの机の上には白い花が置かれていた。赤い金魚を庭に埋めてやった。

 黒い金魚は、まだ綺麗に生きている。

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