病室からの景色
『病室からの景色』
第一章:絶望
「みずのせんせい、さようなら!」校門を出る一年生の声は、春の光のなかですぐにほどけていった。子どもたちは元気よく手を振りながら遠ざかっていく。「また明日ね」笑顔で手を振り返しながら、私は小さな棘のような違和感を抱えていた。
入学式から二ヶ月。ようやく子どもたちも学校に慣れてきた。毎朝「せんせい!」と駆け寄ってくる姿が、何よりも愛おしかった。教室を片付けながら、明日の授業の準備をする。算数のプリント、国語の音読カード。一つ一つ、丁寧に。教室のざわめきも、子どもたちの笑顔も、これからもずっと変わらないと思っていた。まさかそれが、私にとっての“最後の景色”になるとは。
体調の異変に最初に気づいたのは二ヶ月前、春休みが終わる頃だった。朝起きると、関節が痛む。最初は疲れだと思った。皮膚の痒みも乾燥のせいかと思っていた。それに三月は忙しかった。年度末の書類整理、一年間の記録のまとめ、通知表の作成、新年度のクラス準備。だから、少し休めば治ると思っていた。でも日に日にひどくなった。階段を上るのも辛くなり、箸を持つ手が震えた。ある朝、鏡に映る自分を見た。そこには、まるで生命の輪郭を侵食するように、頬に翼のような赤い発疹が広がっていた。
新学期が始まり、新しい一年生を迎えた。ピカピカのランドセルを背負った子どもたちは、不安そうな顔で教室に入ってくる。
「おはよう。先生の名前は水野なつきです。一年間、よろしくね」
子どもたちの顔がほころぶ。この瞬間が、私は一番好きだった。でも、教壇に立っているだけで息が切れた。体が、何かがおかしいと訴えていた。
「ただの疲れじゃないわよ」
母がそう言って、総合病院への予約を取ってくれた。内科、リウマチ科、皮膚科・・・。いくつもの科を回り、血液検査を何度も受けた。結果が出るまでの一週間、私は普通に生活しようとした。
「膠原病ですね」
総合病院の医師、藤井という名札をつけた四十代くらいの男性は、優しい声で告げた。でも、その目は何かを隠している。医師特有の、悪い知らせを伝える前の表情だった。
「膠原病・・・ですか」
「ええ、全身性エリテマトーデスという病気です。免疫系の異常で、体が自分自身を攻撃してしまう。関節の痛み、発疹、これらはその症状です」
藤井医師はパソコンの画面を見ながら続けた。
「進行性の、難しいタイプです。すぐに入院してください。なるべく早くに治療を始める必要があります」
「入院は・・・どのくらい?」
医師は少し黙った。その沈黙は、診察室の空気すべてを吸い込み、私に凝縮した毒のように返してきた。
「正直に申し上げます。水野さんの場合、今後の見通しは、非常に厳しい。個人差はもちろんありますが、そうですねぇ・・・数年かもしれません」
「数・・・年・・・。」
その言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
「治らないんでしょうか」
「進行を遅らせたり、症状を緩和したりすることはできます。ただ・・・水野さんのタイプの症例ですと、完治は難しいかもしれません。」
藤井医師の声が遠く、水底に響くように聞こえた。ただ、診察室の時計の音だけが、耳元で鋭く金属的に響く。カチ、カチ、カチ・・・。それは、私の残り時間を精算する、冷酷なカウントダウンのように思えた。
翌日、私は校長室を訪れた。
「水野先生、検査の結果はどうでしたか?」校長は心配そうに聞いた。前日、「精密検査を受けます」と伝えていたのだ。
「はい、それが・・・膠原病、と診断されました」
診断名を口にした瞬間、喉の奥が一瞬、凍りついたように冷たくなった。私は、できる限り平静を装った。でも、言葉の最後が震えるのを隠しきれなかった。
「膠原病・・・」
「はい、すぐに入院が必要だそうです」
校長は深刻な顔をし、椅子に背をもたれた。
「それは・・・」
「こんなときに本当に申し訳ありません。担任を、続けることが・・・できなくなってしまい・・・」その言葉を口にした瞬間、必死に堪えていた感情が堰を切るように胸の奥で音を立てた。涙が溢れそうになり、私は俯いたまま息を詰まらせた。
「わかりました。副担任の佐藤先生に引き継いでもらいます。水野先生は、ゆっくり休んでください」
「すみません・・・」
「謝らないでください。それよりも、一日も早く良くなってください」
校長の優しさが、むしろ辛かった。これが、校長との教師としての最後の会話になった。
子どもたちには、直接別れを告げることができなかった。校長室を出た廊下で、私は唇を噛んだ。あの子たちの前で、病気と未来への不安で泣き崩れる自分を見せる自信がなかった。私は、臆病な教師として、すべてを校長に託した。
荷物を取りに学校へ行ったのは、人気のない夕方の放課後だった。扉を開け、教室に入ると空気が重たく感じられた。黒板には、私が最後に書いた「明日も元気に来てね」という文字が、白いチョークで、まるで墓標のようにくっきりと残されていた。あの子たちにとっての「明日」は、私には届かない未来だった。机の引き出しには、まだ配っていなかったプリントが静かに眠っていた。私が教えるはずだった未来の授業。壁には、子どもたちが描いた私の似顔絵が貼られている。そして「みずのせんせいだいすき」と書かれた手紙。
私は机に座り、その似顔絵を指でそっと撫でた。そして、音を立てることも許されないかのように、静かに机に突っ伏して、冷たい木の匂いの中で、すすり泣いた。
その日、私は俊也のマンションを訪れた。彼は料理を作って待っていてくれた。私の好きなハンバーグ。
「最近、ずっと疲れてるって言ってたからさ。栄養つけないとなっ」俊也はそう言って優しく笑った。
ここ数週間、週末に会っても関節の痛みでずっと気だるそうにしている私を見て、彼は心配を募らせていた。私は「ただの仕事の疲れ」だと、いつも曖昧に答えてごまかしていた。私自身が、その異変の正体を認めたくなかったからだ。
「お母さんから聞いたんだ。病院の検査、結果が出たんだろ?」 俊也はハンバーグを皿に盛り付けながら、少し緊張した声で尋ねた。私が精密検査を受けることは、お母さんを通じて彼にも伝わっていたのだ。私は皿の上の湯気でぼやけたハンバーグから目を離せなかった。幸福の象徴であるはずのその料理が、今は私と彼との間に置かれた、乗り越えられない壁に見えた。ゆっくりと首を横に振った。喉を通らない。
「どうしたの?なつき」 俊也の手が止まり、心配そうに顔を覗き込む。私は、伝えなければならなかった。
「病気なの。膠原病っていって・・・」 私は病名とともに、「すぐに入院が必要だということ」「完治は難しい病気だということ」を、早口で一気に告げた。「治らないの」
俊也の手が、フォークを掴んだまま、音もなく止まった。
「それで、明日から入院するの。いつまでかは、わからない」
俊也はしばらく黙っていたが、やがて私の手を握った。
「一緒に闘おう。俺がついてる」
その優しさが、逆に苦痛にも感じられた。
「ダメなの」私は手を引いた。
「あなたの人生を奪うわけにはいかない。私は、もう前に進めないの。結婚も、子どもも、何もかも・・・。あなたが夢見ていた未来を、私はきっと壊してしまう・・・」
「そんなこと・・・」
「お願い。これ以上、優しくしないで」私は震える手で婚約指輪を外した。一年前、プロポーズされたときに受け取った指輪。レストランの柔らかな光の中で、彼が私に差し出した、あの輝き。それを今、私は自ら手放さなければならなかった。
「今まで本当にありがとう。幸せだった」テーブルに指輪を置いた。俊也の顔を見ていられなくて、私は目を伏せた。
「なつき・・・」
「ごめんなさい、これが、私の最後のわがままだと思って」
俊也は長い沈黙の後、指輪を手に取った。
「なつき・・・本当にいいのか」
「これが、私の決断よ」私は、必死に涙をこらえた。
「でも・・・」
「お願い。受け入れて」
俊也は、指輪を握りしめたまま、じっと私を見ていた。
「俺は、諦めないぞ」
「俊也・・・」
「今は、なつきの気持ちを尊重する。でも、いつか・・・なつきが気持ちを変えてくれる日を待ってる」
その言葉が、肩に重くのしかかった。待っていてほしくない。新しい幸せを見つけてほしい。でも、言えなかった。「ごめんなさい」それしか、言葉が出なかった。
俊也は立ち上がった。
「送っていくよ」
「いいの。一人で帰れるから」
玄関まで送ってくれた俊也は、最後にもう一度私を抱きしめた。
「無理するなよ。辛かったら、いつでも連絡してくれ」
「・・・うん」私は、その腕の中で泣きそうになるのを必死でこらえた。この温もりを、もう感じられないのだと思うと、胸が張り裂けそうだった。腕の中から彼を放すと、冷たい孤独が全身を巡った。
「じゃあな」俊也は、私を離した。
私は、何も言えずに頷いた。
マンションを出て、駅まで歩いた。涙で前が見えなかった。最終電車に乗って、家に帰った。母は寝ていた。起こしたくなくて、そっと自分の部屋に入った。ベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めた。そして、声を殺して泣いた。朝まで、ずっと・・・。好きだった。今も、好きだ。でも、一緒にはいられない。俊也の未来を、奪いたくない。「ごめんね・・・ごめんね・・・」何度も、何度も、呟いた。誰にも聞こえない、小さな声で。
翌朝、目が腫れていた。母が心配そうに見ていたが、何も聞かなかった。ただ、背中をさすってくれた。
「大丈夫よ、なつき」
母の優しさが、また涙を誘った。
母が荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
「なつき、きっと先生がしっかり診てくれるからね」
母は明るく振る舞おうとしていたが、目が赤かった。きっと昨日も泣いていたのだろう。病室は六人部屋だった。窓際のベッドに案内される。看護師が丁寧にベッドの使い方、ナースコールの場所、消灯時間などを説明してくれた。
窓の外は梅雨入り前の晴れた日で、木々の緑が濃かった。紫陽花の蕾が膨らみ始めている。風に葉が揺れている。きれいだと思った。でも、どこか遠くの世界の出来事のように感じた。私には、もう関係のない景色。
母が帰った後、私はベッドに横になった。カーテンで仕切られた狭い空間。これが私の世界になる。隣のベッドからは、高齢の女性の咳が聞こえる。廊下を車椅子が通る音。ナースステーションから看護師の声。病院の音。これから何年、この音を聞き続けるのだろう。いや、何年も聞けないかもしれない。
一週間が過ぎた。治療が始まった。点滴、内服薬、検査。毎日同じルーティン。朝六時に検温、七時に朝食、九時に回診、午後は検査か点滴。点滴のチューブは、私を病室に繋ぎ止める命綱であり、同時に足枷でもあった。薬の副作用で吐き気がした。食事がまずく感じられた。体がだるくて、何もする気が起きなかった。
担任していた子どもたちから手紙が届いた。色とりどりの便箋に、たどたどしい字で書かれたメッセージ。
「せんせい、はやくげんきになってください」 「またじゅぎょうしてください」 「せんせいのえがおがすきです」
読むたびに涙が溢れた。優しい言葉が胸に刺さった。もう、あの教室には戻れない。子どもたちの笑顔も、黒板に書くチョークの感触も、「せんせい!」と呼ばれる声も、もはや私の手の届かない過去のものになった。手紙は引き出しにしまった。読み返す勇気がなかった。
夜が一番きつかった。消灯後、病室は静かになる。でも眠れなかった。天井を見つめていると、いろいろな考えが頭を巡る。
これから私はどうなるのだろう。
痛みはもっとひどくなるのだろうか。
最期はどんなふうに訪れるのだろうか。
俊也は、新しい人と幸せになってくれるだろうか。
子どもたちは、私のことを忘れてしまうのだろうか。
考えれば考えるほど、不安が大きくなった。胸が苦しくなった。呼吸が浅くなった。ナースコールを押そうかと思ったが、やめた。看護師を呼んで、何を言えばいい?「怖いんです」とでも?私は枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
それから一週間が過ぎた頃、病室の配置換えがあった。私の隣のベッド、それまで高齢の女性が使っていた場所に、新しい患者が来た。カーテン越しに聞こえる声は明るく、看護師の笑い声が混ざった。
「島田さん、こちらのベッドです」
「ああ、窓に近いね。いい場所だ」男性の声。明るい声だった。
「また入院ですか、島田さん」
「三回目だよ。もう慣れたもんだ」
看護師が笑う声。男性も笑っている。病院で笑う人がいるなんて。私は不思議に思いながら、カーテンの向こうの気配を感じていた。私はカーテン越しに、その乾いた笑い声の正体を探っていた。それが、この閉じられた世界の壁を破る最初の音だとは・・・。
第二章:出会い
翌朝、隣のベッドの人物の姿を初めて見た。島田健吾さん―そうベッドの名札に書いてあった―は、七十八歳とは思えないほど背筋が伸びていた。白髪だが、目は生き生きとしている。朝食を食べながら、看護師と冗談を言い合っていた。
「島田さん、また痩せましたね」
「ご飯が美味しくなくてね。病院食の改善を訴えないといかんなぁ」
「またそんなこと言って。ちゃんとしっかり食べてくださいよ」
「はいはい」
看護師が去ると、島田さんは窓の外を眺めた。そして、ベッドサイドの引き出しから何かを取り出す。スケッチブックだった。鉛筆を持って、窓の外の景色を描き始める。私は自分のカーテンの隙間から、その様子をこっそり見ていた。島田さんの手は、確かな線を引いていく。迷いがない。
「おはよう」
突然、声をかけられた。島田さんがこちらを見ていた。
「あ・・・おはようございます」
慌てて答える。見ていたのがバレてしまい、恥ずかしかった。
「水野さんといったね、よろしく」
「はい・・・よろしくお願いします」
島田さんは微笑んで、またスケッチに戻った。私はカーテンを閉めた。心臓がドキドキしていた。人と話したのは、お母さんと看護師以外では久しぶりだった。
それから数日、私は島田さんを観察するようになった。毎朝、島田さんは窓の外をスケッチする。同じ景色を、毎日描いている。遠くの山の木々、向こうに見えるマンション、空。
「同じ景色なのに、毎日描いているんですね」ある朝、思わず声をかけていた。
島田さんは手を止めて、こちらを見た。
「同じに見えるかい?」
「え?」
「この景色。毎日同じに見えるかい?」
私は窓の外を見た。山の木々、マンション、空・・・どれも昨日と同じに見えた。
「同じ、だと思います」
「そうかなぁ」島田さんはスケッチブックを見せてくれた。
「これが一昨日。これが昨日。そして今日」
三枚の絵が並んでいた。同じ構図だが、よく見ると違った。一昨日の絵では、木の緑がまだ明るかった。昨日の絵では、少し濃くなっている。今日の絵では、さらに深い緑になっていた。紫陽花の蕾も、日に日に大きくなっている。空の色も微妙に違う。雲の形も。
「景色というのはねぇ、生きているんだよ。毎日、少しずつ変わっている。同じ日なんて一日もない」島田さんの言葉は、私の心臓に静かな振動を与えた。私にとって、毎日は同じだった。朝が来て、検温があって、食事があって、点滴があって、夜が来る。同じ天井、同じ壁、同じベッド。でも、本当は違うのかもしれない。
「島田さんは、絵を描くのがお好きなんですね?」
「まあね。絵本作家だったんだ」そう言うと少し照れたように笑った。
「絵本作家!」思わず声が大きくなった。
「子どもの頃から、ずっと絵本を描いてきたんだよ。もう五年ほど前に引退したんだけどね。でも、最後にもう一冊だけ描きたくなったんだ」島田さんは少し寂しそうに笑った。
「最後の一冊」
その言葉の重みが、わかる気がした。
それから、島田さんとは毎日少しずつ話すようになった。島田さんは、病気のことをあけすけに話した。
「肺がんでね。三年前に見つかって、手術したんだけど転移しちゃった。今は緩和ケアを受けながら、できるだけ普通に過ごしてる」
「そうなんですか・・・」
「水野さんは?若いのに、大変だね」
私は自分の病気について話した。膠原病のこと、教師を辞めたこと、婚約者と別れたこと。話していて涙をこらえられなくなった。
「すみません・・・」
「いや、泣いていいんだよ」島田さんは優しく言った。
「辛いよね。これからどうなるかわからない。不安で仕方ない。でもね、水野さん」島田さんは窓の外を指差した。
「あの木々を見てごらん。今は緑が濃いけれど、やがて秋には黄金色に染まる。そして、葉を落とし雪に耐えた後も、また春には芽吹く。それが自然の命の巡りなんだ」
「自然の・・・巡り」
「そう。今の緑の時期も美しい。でも、それが永遠に続くわけじゃない。色々と変化していくんだ。それが自然の巡りなんだよ。変わらないものなんてない、人間だって同じはずだよ」
私は窓の外を見た。風に揺れる木々。紫陽花の蕾がさらに膨らんでいる。
「変わっても、終わりじゃない」気づくと島田さんの言葉を、私は繰り返していた。
ある日、島田さんが咳き込んでいた。
「大丈夫ですか?」心配になって声をかける。
「あぁ、ちょっとね」
水を飲んでゆっくり息を整えるその手から、鉛筆が床に落ちた。
「あっ」私は思わずベッドから降りて、それを拾いあげた。そのとき、島田さんのベッドサイドのテーブルに、スケッチブックが開いているのが目に入った。でもそれは、窓の風景ではなかった。絵本のラフスケッチだった。
体の中の不思議な世界――細胞や血管がまるで別の国の住人のように息づいている。小さな男の子がその世界を旅していた。
「見ちゃった?」島田さんは少し照れくさそうに笑った。「『小さな種の冒険』っていうんだ、これを最後の作品にしたいと思ってね」
「小さな種の冒険?」
「主人公は病気の男の子。ある日、自分の体の中に入り込んで、病気と闘う細胞たちに出会うんだ」
私はスケッチを見つめた。細かく描き込まれた細胞たち。それぞれに顔があって、表情がある。
「細胞たちは、男の子の体を守ろうと必死に働いている。でも、病気は強くて、細胞たちは苦戦する」
「それで・・・男の子はどうするんですか?」
「それがね、まだ決めてないんだ」島田さんは空白のページを見た。
「ラストが、決まらない。どう終わらせるべきか・・・」島田さんは空白のページを見た。
「病気に勝つ、というのは簡単なんだ。ハッピーエンド。でも、それは嘘になる」
「嘘・・・」
「現実には、そう簡単じゃぁない、病気に勝てない子だっている。僕もそうだ。でも、だからといって『負ける』という話にはしたくない」
島田さんの目が、真剣だった。
「勝つでも負けるでもない、第三の答え。それが何なのか、まだ見つけられていないんだ」
なんとなくその意味がわかる気がした。島田さん自身が、答えを探しているのだ。病気と闘うことの意味。生きることの意味。それは、勝ち負けじゃない何か。
「でも、なんとかこれを完成させたい。子どもたちに、特に病気で苦しんでいる子どもたちに読んでもらいたいんだ」島田さんの目が、真剣だった。
私は、久しぶりに何かが胸に灯るのを感じた。
「素敵な物語ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
それから、私は島田さんの絵本制作を見守るようになった。
数日後、島田さんがまた咳き込んでいた。今度は長く、苦しそうだった。看護師が来て、背中をさすっている。
「島田さん、無理しないでくださいね」
「大丈夫、大丈夫」
でも、島田さんの顔は青白かった。
しばらくして島田さんの様子が落ち着いたとき、私は声をかけた。
「島田さん、絵本・・・私で、何かお手伝いできること、ないでしょうか」
「え?」
「私、小学校で子どもたちと接する仕事をしていたので。子どもがどんな言葉を理解できるか、どんな場面で心を動かすか、少しはわかるつもりです」
島田さんは驚いた顔をした。それから、ゆっくりと笑った。
「そうだったね。教師をされていたって言ってたね。それは心強い。じゃあ、お願いしてもいいかな?」
「はい」
「この場面なんだけど」島田さんはスケッチを見せてくれた。男の子が、白血球たちと話している場面。
「白血球たちが、男の子に『僕たちが君を守る』って言うシーン。でも、何か足りない気がするんだ」
私はスケッチを見た。そして、考えた。
「子どもの視点で見ると・・・この子は怖いんじゃないでしょうか」
「怖い?」
「だって、自分の体の中なのに、知らない世界。知らない誰かが、自分を守るために闘っている。それって、少し怖いと思うんです」
島田さんは黙って聞いていた。
「だから、白血球たちが『僕たちが君を守る』じゃなくて……『僕たちは、ずっと君の一部だったんだよ』って言ったら、どうでしょう」
「一部・・・」
「そう。男の子と白血球は別々じゃなくて、最初から繋がっている。それに気づく場面にしたら」
島田さんの目が輝いた。
「それだ!水野さん、それだよ!」スケッチブックに文字を書き込む手は、少年のように軽やかだった。
私は、久しぶりに誰かの役に立てた気がした。胸が温かくなった。
それから、私たちの共同作業が始まった。島田さんが描いた絵を見て、私が子どもの視点で意見を言う。セリフを考えたり、場面の順番を入れ替えたり。病室が、創作の小さな工房になった。
「この場面、子どもには難しいかもしれません」
「じゃあ、こう変えたらどうかな」
「いいですね!」
会話が弾んだ。時間を忘れた。他の患者さんたちも、興味を持ってくれた。
「何を作ってるの?」向かいのベッドのおばあさんが聞いてくる。
「絵本です!」
「まあ、素敵ね。見せてちょうだい」島田さんがスケッチを見せると、おばあさんは目を細めた。
「いい絵だわ。孫に読んであげたい」その言葉が、嬉しかった。
病室の雰囲気が変わった。それまでは、みんな静かに自分の病気と向き合っていた。でも今は、絵本の話題で盛り上がる。
「この男の子、頑張ってるわね」
「この細胞さんたち、可愛い」
「ラストはどうなるの?」
みんなが、続きを楽しみにしてくれた。私も、毎日が楽しみになった。朝、目が覚めると「今日はどの場面を作るんだろう」と考える。島田さんと話すのが、楽しかった。絵本について、子どもたちについて、人生について。
「水野さんは、さぞかしいい先生だったんだろうね」ある日、島田さんが言った。
「そうですかね・・・」
「子どもの気持ちがわかる人は、少ないんだよ。水野さんには、それがある」
その言葉が、嬉しかった。教師を辞めてから、自分には何も残っていないと思っていた。でも、違った。子どもたちと過ごした時間、学んだこと、感じたこと。それは、消えていなかった。
絵本は、少しずつ完成に近づいていった。主人公の男の子は、体の中で細胞たちと出会い、病気と闘う姿を見る。そして、気づく。細胞たちは、自分自身の一部なのだと。
「病気と闘うんじゃない。弱った自分を、支える自分に気づくんだ」島田さんは、そう言った。
「それが、僕の伝えたいメッセージなんだ」
私は、その意味が深くわかる気がした。病気になって、私は自分が壊れていくと思っていた。でも、違うのかもしれない。私の中にも、闘っている何かがある。弱った私を、支えようとしている何かが。
絵本の八割が完成した頃、島田さんが言った。
「来月には仕上がるな」
「楽しみですね」
「ああ、水野さんのおかげだよ」
「私こそ、島田さんのおかげです。生きる意味を、また見つけられた気がします」
島田さんは優しく微笑んだ。
「お互い様だなっ」
窓の外では、紫陽花が咲き始めていた。淡い青と紫の花が、緑の中で輝いている。景色は、確かに毎日変わっている。そして私も、少しずつ変わっている。病室からの景色は、もう色を失ってはいなかった。
私は、なんとも言えない複雑な気持ちに包まれていた。病気にならなければ、島田さんに出会うことはなかっただろう。今頃は教壇に立ち続け、この病室とは無縁だったはずだ。あの教室で、子どもたちと笑い合っていたはずだ。だがその代わりに、この絵本作りに携わることも、島田さんの優しさに触れることもなかった。この温かい時間を知ることも、決してなかっただろう。
「病気は、悪いことばかりじゃないのかもしれない」
そのようにすら思えるようになっていた。失ったものは大きい。でも、得たものもある。その夜、私は久しぶりにぐっすり眠れた。悪夢も見なかった。朝が来るのが、楽しみだった。明日、島田さんとまた絵本を作る。明日が、待ち遠しい。そう思えるようになっていた。
第三章:喪失
翌朝、目が覚めると、病室がいつもと違う雰囲気だった。看護師たちが慌ただしく動いている。隣のベッドのカーテンが閉まったまま、無機質な白い壁となって、彼の存在を完全に遮断していた。
「あの・・・島田さんは?」担当の若い看護師、山中さんに聞いた。山中さんは、少し困った顔をした。
「島田さんですけど・・・夜中に容態が急変されて、集中治療室に移られました」
頭が真っ白になった。昨日はあんなに元気だったのに。「来月には仕上がる」と笑っていたのに。
「大丈夫・・・なんですか?」
「今、先生方が処置をされています」
山中さんは、それ以上何も言わなかった。その表情には、無力な悲しみがにじんでいた。私は、昨日まで私に「明日」を描かせてくれた人の、突然の不在を、ただ白いカーテン越しに感じていた。島田さんのベッドには、誰もいない。スケッチブックだけが、ベッドサイドのテーブルに残されていた。
その日、私は何も手につかなかった。朝食も、昼食も、喉を通らなかった。集中治療室は、一般病棟とは別の場所にある。面会もできない。ただ、待つしかなかった。夕方、山中さんが病室に来た。
「水野さん、少しいいですか」
その表情を見て、私は悟った。
「実は・・・さきほど島田さんが亡くなられました」山中さんの声が遠くから聞こえた。「夜中の二時頃、呼吸が止まって。すぐに処置をしましたが・・・ご本人の意思で、延命措置は希望されていませんでしたので・・・」
私は、何も言えなかった。
「最期は、苦しまずに逝かれました」山中さんはそう言って、去っていった。
私はカーテンを閉めて、ベッドに倒れ込んだ。涙が止まらなかった。島田さん。昨日まで、そこにいたのに。一緒に絵本を作っていたのに。
「来月には仕上がる」と言っていたのに・・・。
なぜ。なぜ、こんなに突然・・・。私は枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
「また、奪われた」そう思った。教師の仕事も、俊也も、健康も。そして今度は、島田さんまで。やっと見つけた生きる意味が、またしても手から零れた。絵本は、どうなるんだろう。八割方完成していた。あともう少しで完成するはずだったのに・・・。でも、もう島田さんはいない。
私は混乱していた。島田さんになど、出会わなければ良かったのではないか。希望を見出してしまったがゆえに、失った時の絶望が、これほどまでに深いなんて・・・。何も期待しなければ、これほど胸を抉られるような苦しみを味わわずに済んだのに・・・。生きる意味を見つけてしまった。だからこそ、それを奪われた喪失感は耐え難い。もし島田さんと出会わなければ、このまま静かで平坦な絶望の中で、ただ身を横たえていられたかもしれない。それなのに、私は出会ってしまった。そして、失ってしまった。なぜ、運命はこれほどまでに残酷なのだろうか。
次の日も、その次の日も、私は何もする気が起きなかった。島田さんのベッドには、新しい患者が来た。六十代くらいの男性。糖尿病で入院したという。でも、私は話しかける気にはなれなかった。誰とも話したくなかった。窓の外を見ても、もう何も感じなかった。新緑の木々も、青い空も、ただの景色でしかなかった。
「景色は生きている」島田さんの言葉を思い出す。でも、もう島田さんはいない。あの言葉も、あの笑顔も、もう二度と見られない。
食事が喉を通らなくなった。
「水野さん、ちゃんと食べないと」
山中さんが心配してくれるが、食べる気にはなれなかった。体重が減った。血液検査の数値も悪化した。山中さんが心配そうに言った。
「水野さん、島田さんのこと・・・」
私は黙って頷いた。
「仲良くされていましたからね、お辛いでしょう」山中さんは優しく言った。「でも、水野さん。あなたが倒れたら、島田さんも悲しみますよ」
その言葉が、逆に重荷に感じられた。島田さんはもういない。私が何をしても、もう関係ない。
「少し、休んでください」山中さんはそう言って、睡眠導入剤を処方してくれた。
それから数日間、私はただベッドで横になっていた。天井を見つめる。白い天井。病院に来た頃と、同じだった。生きる意味がわからない。なぜ、生きているんだろう。
ある日の午後、病室に来客があった。
「水野なつきさん、ですね?」女性の声。四十代くらいの、きちんとした服装の女性だった。
「はい・・・」
「初めまして。私、島田晴海と申します。島田健吾の娘です」
島田さんが入院していたとき、何度か顔を合わせたことがあったのを思いだした。私は慌ててベッドから起き上がった。
「お父様には、大変お世話になりました」
「こちらこそ。父が、水野さんのことをよく話していました」
晴海さんは、優しく微笑んだ。
「父は、水野さんと絵本を作るのが、とても楽しかったようです。生前、よく話してくれていました」
「そうだったんですか・・・」
「ええ。『いい先生に出会った』『この絵本は、きっといいものになる』って」晴海さんの目が、少し潤んでいた。
「父が、これを」晴海さんは、封筒を差し出した。「父の遺品です。水野さんに、渡してほしいと」
私は震える手で、封筒を受け取った。中には手紙とともに短い鉛筆が入っていた。そうだ、あのとき床から私が拾い上げたあの鉛筆だ。
「それと、これも」晴海さんは、もう一つ大きな封筒を出した。こちらには、スケッチブックと、小さな名刺が入っていた。
「父の絵本の原稿です。そして、出版社の方の名刺です」
「出版社の・・・」
「ええ。父は、この絵本を出版するつもりでした。すでに出版社にも話をつけていたようです」
私は、スケッチブックを見た。『小さな種の冒険』。島田さんと一緒に作った、あの絵本。
「父が言っていました。もし自分が完成させられなかったら、後のことを水野さんに託したいと」
「え・・・私に?ですか?」
「出版社の方も了承されています。水野さんが引き継いでくれるなら、必ず出版すると」
私は言葉が出なかった。
「もちろん無理にとは言いません。体調のこともあるでしょう。でも、父の遺志を・・・なんとか考えていただけないでしょうか」晴海さんは、深く頭を下げた。
晴海さんが帰った後、私は封筒から手紙を取り出した。島田さんの、丁寧な字。
「水野さん
この手紙を読んでいるということは、僕はもう完成を見られなかったのでしょう。残念ですが、仕方ありません。僕の体は、もう限界だったのですから。でも、後悔はしていません。あなたと出会えて、一緒に絵本を作れて、とても幸せでした。
あなたは、子どもの心がわかる人です。だから、お願いがあります。この絵本を、完成させてください。最後の場面、僕は迷っていました。男の子は、体の中の旅を終えて、何を見つけるのか。病気に勝つのか、負けるのか。でも、あなたなら答えがわかると思います。あなた自身が、その答えを生きているのですから。
この絵本は、病気の子どもたちへの贈り物のはずでした。でも、作っているうちに気づきました。これは、あなたへの贈り物でもあったのだと。
あなたに、生きる理由を見つけ出してもらいたかった。あなたが完成させてくれたら、それが僕の一番の喜びです。病室からの景色は、まだ続きを見せてくれるはずだから。毎日、少しずつ変わっている。あなたも、これから少しずつ変わっていく。その変化を、見届けたかった。でも、僕の時間は終わりました。
だから、お願いします。あなたの時間を、生きてください。この絵本を完成させて、子どもたちに届けてください。それが、僕の最後の願いです。ありがとう、水野さん。あなたと出会えて、本当に良かった。
島田健吾」
読み終えた時、気づくと涙が頬を伝っていた。でも、それは悲しみだけの涙ではなかった。島田さんは、私のことを考えてくれていた。最期まで、私のことを・・・。
私は、スケッチブックを開いた。島田さんの絵。細かく描き込まれた、温かい絵。八割が完成していた。残りは、ラストの数ページ。男の子が、体の中の旅を終える場面。空白のページが、私を見つめていた。
「完成させます」私は、声に出して言った。
「島田さん。約束します。必ず、完成させます」
それは、自分自身への誓いでもあった。私は、まだ生きている。島田さんは逝ってしまったけれど、私はまだここにいる。ならば、やるべきことがある。島田さんとの約束を、果たさなければ。
不思議だった。島田さんが生きていたら、絵本は一緒に完成させられた。でも、私はただの協力者だった。島田さんが亡くなったいま、この絵本は私の使命になった。完成させなければ、という強い想いが生まれた。生きる理由が、明確になった。悲しみが力に変わる。失うことが得ることになる。人生は本当に不思議だ。
その夜、私は久しぶりに食事を完食した。山中さんも驚いていた。
「水野さん、良かった。ようやく食べてくれて」
「すみません、ご心配をおかけしました」
「いいえ、元気になってくれて嬉しいです」山中さんの笑顔を久しぶりに見た気がした。
私は、窓の外を見た。夜空に、星が見えた。島田さんも、どこかでこの星を見ているだろうか。いや、島田さんは星になったのかもしれない。見守ってくれている。そんな気がした。
「頑張ります」私は、星に向かって呟いた。「島田さんの分まで、生きます」
風が、窓を撫でた。それは、島田さんの返事のように感じられた。
第四章:創作と命名
翌朝、私は早くから目が覚めた。やるべきことがある。そう思うと、自然と体が動いた。朝食を食べ終えると、すぐにスケッチブックを開いた。島田さんの絵。温かくて、優しくて、でも力強い線。私には、この絵を真似ることはできない。でも、物語を完成させることはできる。島田さんが教えてくれた。子どもの心を理解することの大切さを。私には、それができる。
最後の場面。
主人公の男の子―名前はソウタ―は、体の中の旅を終えようとしていた。白血球のシロ、赤血球のアカネ、血小板のツブたち。彼らと出会い、一緒に冒険した。病気と闘う彼らの姿を見て、ソウタは気づいた。彼らは、自分の一部なのだと。でも、それから?ソウタは、何を見つけるのだろう。私は、ベッドに座って考えた。島田さんなら、どう描いただろう。いや、違う。島田さんは「あなたなら答えがわかる」と言った。私自身の答えを、見つけなければ。
私は、自分の体について考えた。膠原病という病気。免疫系の異常で、体が自分自身を攻撃してしまう。それは、体の裏切りだと思っていた。私の体が、私を壊そうとしている。でも、本当にそうなのだろうか。藤井医師が言っていた。「免疫系は、あなたを守ろうとして暴走しているだけです」守ろうとして、暴走している。それは、裏切りではない。間違った方法かもしれないけれど、守ろうとしてくれている。私の体は、私を愛している。そう考えると、少し見方が変わった。
ソウタは、何を見つけるのか。私は、鉛筆を持った。そして、書き始めた。
「ソウタは、ようやく出口にたどり着きました。長い旅でした。
シロやアカネ、ツブたちとお別れする時が来たのです。
『ありがとう、みんな』ソウタが言うと、シロが笑いました。
『また会えるよ。だって僕たち、ずっと君の中にいるんだから』
『そうだね』ソウタは、自分の胸に手を当てました。
ドクン、ドクンと心臓が鳴っています。
その音の中に、シロたちの声が聞こえる気がしました。
『僕たちは、いつも君と一緒だよ』
ソウタは、体の外に出ました。
目を開けると、病室でした。
お母さんが、隣で眠っています。
窓の外は、朝です。
ソウタは、窓の外を見ました。
昨日と同じ景色。
でも、何かが違う気がしました。
『毎日、少しずつ変わっているんだ』
ソウタは思いました。
景色も、自分も。
病気は、まだ治っていません。
これからも、シロたちは闘い続けるでしょう。
それでいいのです。
だって、シロたちは諦めていない。
ソウタといっしょに、毎日頑張っている。
だから、ソウタも諦めない。
『ありがとう、僕の体』
ソウタは、小さく呟きました。
そして、新しい朝を迎えました」
書き終えた時、涙が出ていた。これが、私の答えだった。病気に勝つことが、すべてではない。病気と共に生きること。自分の体を信じること。諦めないこと。それが、私が子どもたちに伝えたいことだった。
次の日、私は絵を描き始めた。島田さんのタッチは真似できない。でも、私なりの絵を描こう。ソウタが窓の外を見ている場面。朝日が、部屋に差し込んでいる。ソウタの胸に手を当てている場面。その中に、小さくシロたちの姿が見える。下手な絵だった。でも、心を込めた。
一週間後、ラフが完成した。私は、名刺に書かれた出版社に電話をした。
「あの・・・島田健吾さんの絵本の件で」
「ああ、水野さんですね。晴海さんからお話を伺っています」編集者の声は、明るかった。
「原稿ができたのですが、一度見ていただけますか?」
「もちろんです。水野さんのご都合のいいときにお伺いします」
三日後、編集者の加納さんが病室に来た。三十代くらいの、眼鏡をかけた優しそうな女性だった。子供向けの絵本の出版社から来ただけのことはある。
「水野さん、初めまして、加納と申します」
「よろしくお願いします」私は、原稿を渡した。
加納さんは、ゆっくりとページをめくった。私は緊張して、その様子を見守った。最後のページを見終えた時、加納さんは顔を上げた。
「素晴らしいです、絵がとっても温かくて、しかも勇気が湧くような文章で」
「本当ですか?」
「ええ。島田先生の遺作として、胸を張って出版できます。」加納さんは微笑んだ。
「こちら、最後の絵は、水野さんが?」
「はい・・・下手ですが」
「いいえ。島田先生の絵とは違いますが、それがいいんです。二人で作った絵本だということがよく伝わります」
その言葉が、嬉しかった。
加納さんは、原稿を閉じて言った。
「タイトルですが、『小さな種の冒険』でいいでしょうか?」
私は、少し考えた。島田さんが付けたタイトル。大切なタイトル。でも、この絵本には、もっと意味がある気がした。
「副題を、つけてもいいですか?」
「副題?」
「はい。『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』」
加納さんは、少し驚いた顔をした。
「病室からの景色・・・ですか」
「島田さんが、毎朝窓から見える景色をスケッチしていたんです」
私は、窓の外を見た。
「同じ景色でも、毎日違うって。この絵本も、読む子どもによって、読むタイミングによって、違う景色が見えると思うんです」
「なるほど」
「それに・・・島田さんとの日々も込めて。病室から見た景色は、決して暗いものじゃなかった。希望があった。そのことを伝えたいんです」
加納さんは、しばらく考えていた。そして、優しく微笑んだ。
「『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』。いいタイトルですね」
「本当ですか?」
「ええ。島田先生もきっと喜ばれます」
それから、編集作業が始まった。加納さんは週に一度、病室に来てくれた。文章を整えたり、絵の配置を決めたり。
「この場面、もう少し文字を減らしましょう」
「はい」
「この絵、とてもいいですね。子どもの目線が感じられます」
加納さんと一緒に作業するのは楽しかった。絵本が、少しずつ形になっていく。島田さんとの日々を思い出した。あの時間は、本当にかけがえのないものだった。
二ヶ月後、初稿が完成した。加納さんが、ゲラを持ってきてくれた。
「水野さん、見てください」
それは、はじめて本の形になった原稿だった。表紙には、ソウタの絵。そして、タイトル。
『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』
作・絵:島田健吾 文・構成協力:水野なつき
「本に・・・なったんですね」私は、ページをめくった。
島田さんの絵が、印刷されている。私が書いた文章が、活字になっている。最後のページには、ソウタが窓の外を見ている絵。私が描いた、下手な絵。でも、それが本になった。
「島田さん・・・」私は、ゲラを抱きしめた。「できましたよ。約束、守りました」涙が止まらなかった。もちろんそれは嬉しい涙だった。
「初版は三千部を予定しています」加納さんが説明してくれた。
「小さな出版社なので、あまり大々的な宣伝はできませんが、丁寧に届けていきます」
「ありがとうございます」
「出版は、二ヶ月後です。楽しみにしていてください」加納さんは、もう一部ゲラを置いていってくれた。
「これは水野さんの分です。ゆっくり読んでください」
その夜、私は何度も繰り返しゲラを読み返した。読むたびに、新しい発見があった。ああ、この場面は島田さんらしいな。この文章は、私の想いが。二人で作った物語。それが、本になった。窓の外を見ると、月が見えた。
「島田さん、見てますか?」私は、月に向かって呟いた。
「私たちの絵本、完成しましたよ」風が、優しく吹いた。
それは、島田さんの「よく頑張ったね」という声のように聞こえた。
翌朝、私は藤井医師の回診を受けた。
「水野さん、最近なんだか調子がいいですね」
「はい、絵本が完成して」私は、ゲラを見せた。
藤井医師は、興味深そうに読んでくれた。
「素晴らしいですね。子どもたちに、きっと響きますよ」
「そうだといいんですが」
「でも、無理はしないでくださいね」医師は少し心配そうに言った。
「血液検査の数値は改善していますが、まだ安定していません」
「はい、わかっています」私は頷いた。
でも、心の中では思っていた。もう少し、頑張りたい。この絵本を、子どもたちに届けるまで。
一ヶ月後、加納さんから電話があった。
「水野さん、重版が決まりました」
「え?まだ発売前ですよね?」
「はい。でも書店からの予約が予想以上に多くて。特に、小児病棟や図書館からの注文が」
「本当ですか!」
「ええ。口コミで広がっているようです。『病気の子どもに読ませたい』という声が多いんです」
嬉しかった。まだ誰も読んでいないのに、期待してくれている。島田さんに、早く伝えたかった。
でも、私の体は正直だった。毎日、絵本のことを考えて、加納さんとやり取りして。楽しかった。充実していた。でも、無理をしていた。ある朝、目が覚めると、息ができなかった。呼吸が浅い。苦しい。ナースコールを押そうとしたが、手が動かない。意識が次第に遠のいていく。
「水野さん!」看護師の山中さんの声が聞こえた。
でも、遠い。私は、ベッドの下に落ちていたゲラを見た。
『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』
完成した。約束を、果たせた。それだけで、いい。もう、十分だ。意識が、闇に落ちていった。
そのとき、島田さんの笑顔が見えた気がした。
「よく頑張ったね、水野さん」
そう言ってくれている気がした。ありがとう、島田さん。私、幸せでした。そう思いながら、私は目を閉じた。
第五章:奇跡と再生
「水野さん!水野さん!」山中さんの声が、遠くで聞こえた。でも、体が動かない。重い。とても重い。
「呼吸が弱くなっています!すぐに!」慌ただしい足音。複数の人の声。でも、すべてが遠くから聞こえる。私の意識は、次第に暗闇の中に沈んでいった。
暗闇。時々、音が聞こえる。機械の音。ピッ、ピッ、ピッ。人の声。でも、何を言っているのかわからない。体の感覚がない。痛みもない。苦しさもない。ただ、深い深い海の底にいるような感じ。
どのくらい時間が経ったのだろう。時々、意識が浮上する。そんな時、声が聞こえる。
「なつき、頑張って。しっかりして」母の声だ。泣いている。
答えたい。でも、声が出ない。また、暗闇に沈んでいく。
「集中治療室に搬送します!」藤井医師の声が、遠くで聞こえた。
「ご家族の方、こちらへ」山中さんの声。
私の体が、動かされているのがわかった。でも、自分では何もできない。ただ、流されていく。
「なつき・・・なつき・・・」母の声が、だんだん遠くなった。
集中治療室。機械の音が、規則的に鳴っている。ピッ、ピッ、ピッ。意識が、浮いたり沈んだりする。時々、会話が聞こえる。断片的に。
「・・・深刻です・・・」
「・・・多臓器不全・・・」
医師の声だろうか。でも、全部は聞き取れない。また、暗闇に・・・。
どのくらい経ったのだろう。時間の感覚がない。時々、意識が浮上する。そんな時、ふたたび母の声が聞こえる。
「・・・あの子なら、挑戦する道を選びます」
挑戦?何の?でも、考える力がない。また、沈んでいく・・・。体が、熱い。それだけは感じた。燃えるように熱い。苦しい。でも、声が出せない。体が動かない。ただ、耐えるしかない。熱が続いている。どのくらいだろう。わからない。時々、冷たいものが体に触れる。山中さんが、体を拭いてくれているのかもしれない。
「頑張って、水野さん」山中さんの優しい声。
答えたい。でも、できない。
暗闇の中で、私は声を聞いた。
「なつき、頑張って」母の声。
「水野さん、負けないで」山中さんの声。
「なつき・・・」俊也?
俊也の声が聞こえた気がした。なぜ、ここに?
「すまなかった。一人にして」俊也が、泣いている。
「もう一度、話がしたい。ちゃんと、向き合いたい」
俊也・・・。私は、答えたかった。でも、声が出ない。意識が、また沈んでいく。
そして、遠くから島田さんの微かな声が聞こえた。
「水野さん、まだ終わりじゃないよ、景色は、まだ続きを見せてくれる。あなたの景色も」島田さんの優しい声。「諦めないで。あなたには、まだやることがある」
やること・・・。絵本。そうだ、絵本。まだ、出版されていない。子どもたちに、届いていない。私は、見届けたい。島田さんとの約束を、最後まで・・・。
少しして、意識が少し浮上した。さっきより、はっきりと音が聞こえる。
「炎症マーカーが、下がってきています」医師の驚いた声。
「本当ですか?」母の声が、弾んだ。
「はい、こちらも驚くほど・・・効いています」
「娘は・・・」
「まだ意識ははっきりしていませんが、峠は越えたようです」
峠を・・・越えた?私は、生きている?
少しずつ、世界がはっきりしてきた。音が、以前よりクリアに聞こえる。
機械の音、人の声、足音。におい。消毒液のにおい。そして、光。瞼の向こうに、光を感じた。目を開けたい。でも、まだ重い。開けられない。
「なつき・・・聞こえる?お母さんだよ」母の声。近い。とても近い。手を握られているのがわかった。温かい。母の手だ。私は、必死に指を動かそうとした。少しだけ、私の指が動いた。
「なつき!」母が叫んだ。
「先生!指が動きました!」
「意識が戻りかけています。水野さん、聞こえますか?」医師の声。
聞こえる。聞こえています。でも、まだ答えられない・・・。
・・・・・・
それから何日が経ったのだろう、意識が戻った私は目を開けた。最初に見えたのは、白い天井。
「なつき!」母の顔が、視界に入った。
泣いている。そして笑っている。
「良かった・・・良かった・・・」母は、私の手を握りしめた。
「お母さん・・・」声が出た。かすれた、弱い声。でも、声が出た。
「なつき、なつき・・・」母は、何度も私の名前を呼んだ。
「水野さん、よく頑張りましたね」藤井医師が、優しく微笑んだ。
「治験は、成功です。炎症マーカーは劇的に下がりました」
「治った・・・んですか?」
「完治とは言えません。でも、病状は安定しています。これからも治療は続けますが、普通の生活ができるレベルまで回復する可能性が高いです」
信じられなかった。あれほど苦しんで悪化していたのに。死をも覚悟していたのに・・・。
「奇跡ですよ」医師は言った。
「あなたの生命力と、新薬と、そして・・・」医師は、ベッドサイドのテーブルを指差した。「これのおかげかもしれませんね」
そこには、一冊の本があった。
『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』
「出版・・・されたんですか?」
「ええ、先週のことです。島田さんのご遺族の方が、置いていってくれました」
私は、震える手で本を取った。表紙を見つめる。ソウタの絵。島田さんの絵。そして、タイトル。
『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』
「島田さん・・・」涙が溢れた。「完成しました。私たちの絵本」
本を開くと、中に手紙が挟まっていた。晴海さんからだった。
「水野なつき様
お体の具合はいかがでしょうか。突然のことで、大変驚きました。一日も早い回復を、心よりお祈りしております。
絵本が出版されました。父との約束を果たしてくださって、本当にありがとうございます。初版はすぐに完売し、重版されることになりました。全国の小児病棟や図書館から、たくさんの注文が来ているそうです。子どもたちからの感想も、届き始めています。『勇気が出た』『ありがとう』という声が、たくさん届いています。父も、きっと喜んでいると思います。そして、水野さんにも感謝していると思います。
どうか、元気になってください。まだ、あなたにしか見せられない景色があるはずですから。
島田晴海」
私は、本を抱きしめた。やり遂げた。島田さんとの約束を。そして、生き延びた。まだ、終わりじゃなかった。
「景色は、まだ続きを見せてくれる」
島田さんの言葉を思い出した。本当だった。私の景色は、まだ続いていた。
一週間後、集中治療室から一般病棟に戻った。元の病室。窓際のベッド。あの、島田さんがいた場所の近く。窓の外を見ると、季節が変わっていた。遠くの山にはうっすらと雪が積もり始めていた。
「本当に、毎日違うんですね」私は、窓に向かって呟いた。「島田さんの言った通り」
風が、カーテンを揺らした。それは、島田さんの返事のように感じられた。
病室に、加納さんが来てくれた。
「水野さん!良かった、本当に良かった」加納さんは、涙ぐんでいた。
「心配しました。でも、無事で」
「すみません、ご迷惑を」
「いえいえ、そんな。それよりこれ!見てくださいよ」加納さんは、たくさんの手紙を持ってきた。
「読者からの感想です。特に、入院中の子どもたちから」
私は、手紙を読んだ。
「この本を読んで、元気が出ました」
「私も病気だけど、頑張ろうと思いました」
「体の中の細胞さんたちに、ありがとうって言いました」
子どもたちの、丁寧な字。一文字一文字に、想いがこもっている。読むたびに、胸いっぱいに熱い光が差し込まれた。
「島田さんの思い、届いたんですね・・・」
「ええ。たくさんの子どもたちに」加納さんも、微笑んでいた。
「島田先生も、水野さんも、素晴らしい仕事をされました」
「ありがとうございます」私は、手紙を胸に抱いた。
生きていて、良かった。この手紙を読めて、良かった。
その夜、病室に別の来客があった。
「なつき」俊也だった。
「俊也・・・」私は驚いた。別れてから、半年ほどになる。なぜ、ここに?
「お母さんから連絡があって。意識が戻ったって」俊也は、椅子に座った。俊也の目が、赤い。泣いていたのだろうか。
「すまなかった。あの時、君を一人にして」
「ううん、私が決めたことだから」
「でも・・・」俊也は言葉に詰まった。「俺は、君がいない人生なんて考えられなかった。ただあのときは、君の決断を尊重しなきゃいけないと思って」
「俊也・・・」
「でも、危ないって聞いた時、後悔した。もっとちゃんと向き合えば良かったって」俊也は、私の手を取った。「なつき。もう一度、やり直せないか?」
その言葉に、私は戸惑った。嬉しかった。でも、同時に複雑だった。
「俊也。私は変わったの」
「変わった?」
「病気になって、島田さんに出会って、絵本を作って。以前の私じゃないの」私は、窓の外を見た。
「前は、教師として生きることしか考えていなかった。でも今は、違う。もっと、いろんな形で子どもたちと関わりたい。絵本を通じてとか、病院でとか」私は、俊也を見た。
「あなたが夢見ていた未来を、私は奪ってしまうかもしれない」
俊也は、少し考えていた。そして、微笑んだ。
「俺が夢見てた未来って、何だと思う?」
「普通の家庭・・・子どもがいて・・・ときどき旅行に出かけて・・・」
「違う」俊也は首を振った。
「俺が夢見てたのは、君と一緒にいることだ。どんな形でもいい」
「俊也・・・」
「君が変わったなら、それでいい。俺も、君と一緒に変わる」俊也の目が、真剣だった。
「時間をかけてもいい。ゆっくりでいい。もう一度、君との未来を築きたい」
私は、俊也の手を握り返した。
「ありがとう」今すぐ答えは出せない。でも、可能性を感じた。新しい関係の、可能性を。
第六章:新しい景色
二ヶ月後、私は退院した。完治ではない。月に一度の通院は必要だし、薬も飲み続けなければならない。でも、日常生活は送れそうだ。それだけで十分だった。退院の日、私は最後に窓の外を見た。病室からの景色。何度も見た景色。紫陽花が咲いて、そして散って、夏の緑が深くなり、秋を経て今はすっかり冬景色だ。
「ありがとう」私は、窓に向かって呟いた。この景色に、この病室に、島田さんに。すべてに、感謝していた。
「なつき、忘れ物ない?」母が、荷物を抱えて声をかけてくれた。
「大丈夫」
私は、母に支えられながら廊下を歩いた。まだ少し、足元がふらつく。
エレベーターで一階に降りて、玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。看護師たちが、病院の出入口で見送ってくれた。
「水野さん、お元気で」
「タクシー、もう来ているわよ」母が、優しく私の腕を取った。
家に着いて玄関を開けると、見慣れた景色が広がっていた。
「おかえり、なつき」母が、少しだけ涙ぐみながら言った。
「ただいま、お母さん」
久しぶりの我が家。変わっていないはずなのに、何もかもが新鮮に見えた。リビングのソファ、キッチンのテーブル、自分の部屋・・・。当たり前の景色が、とても愛おしかった。
「ねえ、お母さん。どうして、私はあの治験を受けられたのかしら?私のタイプには非適用だったはずだけど」
その薬は本来、私の治験の選択肢から除外されていたはずだった。
母は語った。病状が重篤化した際に主治医から「認可前の薬ですが、通常では選択肢にならない治験を検討できます。ただし、効果の保証はありませんが。いかがでしょうか」と相談されたという。
母は「あの子なら、挑戦する道を選びます」と即答したようだ。
私が命を繋いだのは、絶望的な症状の悪化が、皮肉にも開いた最後の扉だった。通常なら閉ざされていた治療法が、崖っぷちで初めて差し伸べられ、私は生還したのだ。
翌週になって、加納さんから電話があった。
「水野さん、お願いがあるんです」
『小さな種の冒険』の三刷が決まり、都内の小児病院で読み聞かせイベントをやりたいという。
「もしよければ、水野さんに読んでいただきたいのですが」
体調は安定しているけれど、まだ完全ではない。でも・・・。
「やります」答えた。島田さんとの絵本を、子どもたちに直接届けたい。迷いはなかった
一週間後、私は小児病院のプレイルームにいた。十人ほどの子どもたちが集まっていた。点滴スタンドを引いている子、車椅子の子、包帯を巻いている子。みんな、病気と闘っている。
「こんにちは。水野なつきです」私は、子どもたちに微笑みかけた。「今日は、『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』という絵本を読みます」
子どもたちの目が、輝いた。読み始めると、子どもたちは真剣に聞いてくれた。最後の場面、ソウタが窓の外を見るシーンで、一人の女の子が言った。
「わたしもみてる。まどのそと」
「そうなの?」
「うん。まいにち、ちょっとずつちがうの」
その言葉に、私は胸が熱くなった。島田さんの言葉が、この子に届いている。
「そうだね。だから、明日も楽しみだよね」
女の子が、頷いた。
読み聞かせの後、一人の男の子が聞いてきた。
「おねえさんもだったの?」
私は頷いた。びょうき
「うん、そうよ。今も、まだ病気と一緒に生きてるの」
「じゃあ、ソウタみたいに体の中でさいぼうさんたちががんばってるの?」
「そうだね。きっと頑張ってくれてる」
男の子は、自分の胸に手を当てた。
「ぼくの中でも、がんばってくれてるのかな」
「もちろん。みんなの体の中で、細胞さんたちは毎日頑張ってるよ」男の子が、微笑んだ。
「じゃあ、ぼくもがんばる」
その言葉に、涙が出そうになった。でも、笑顔で答えた。
「うん。一緒に頑張ろうね」
イベントの後、看護師長が話しかけてきた。
「水野さん、定期的に来ていただくこと、できますか?できれば、月に一度くらいなんですが」
私は、すぐに答えた。
「喜んで、私にできることがあるなら」
教師には戻れていない。でも、新しい形で子どもたちと関われる。絵本を通じて。病院で。それは、以前とは違う形だけれど、私らしい形だった。
三ヶ月後。
『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』は、五刷が決まった。全国の図書館に置かれ、学校の推薦図書にも選ばれた。読者からの手紙が毎日届いた。病気の子どもたちからの手紙、その親からの感謝の手紙。みんな、絵本に救われたと書いてくれていた。「島田さん」私は、空を見上げた。「届いていますよ。あなたの想いが、たくさんの人に」風が、優しく吹いた。
ある日、晴海さんから連絡があった。カフェで会うと、晴海さんはバッグから何かを取り出した。
「これ、父のスケッチブックです。病室で描いていた、景色のスケッチ」開くと、そこには島田さんが毎朝描いていた景色があった。日付が書いてある。毎日、少しずつ変わっている景色。紫陽花の蕾が膨らんで、咲いて、散っていく過程が、一枚一枚に記録されていた。
「毎日、違うんですね」私は、改めて思った。「本当に、毎日」
「父は、いつも言っていました」晴海さんが、静かに話した。「『同じ日なんて一日もない。だから、今日を大切に生きなければ』って」
その言葉が、胸に響いた。
半年後。私は、病院での読み聞かせを続けていた。月に一度、時には二度。子どもたちは、いつも楽しみに待っていてくれた。ある日、以前会った男の子が声をかけてきた。
「おねえさん!ぼく、たいいんできるんだ。らいしゅう」
「本当?良かったね!」
「うん。さいぼうさんたちががんばってくれたから」男の子は、嬉しそうに笑った。「おねえさんのえ本、おうちでもよむね」
「ありがとう。元気でね」
男の子が去った後、私は窓の外を見た。病院の窓から見える景色。希望が見える。未来が見える。
その日の夜、俊也と食事をした。最近、俊也とは頻繁に会うようになっていた。すぐに恋人に戻ったわけではない。でも、友人として、支え合う関係を築いていた。
「なつき、近頃元気そうだな」
「うん。とっても充実してるから」
「病院でのボランティアは楽しい?」
「そうなのよ、子どもたちの笑顔を見ると、頑張ろうって思える」
「それは良かった」俊也は、少し照れくさそうに言った。
「実は、・・・君ともう一度、やり直せないかって思って・・・今度は、対等な関係として」
「対等な関係?」
「ああ。俺が支えるとか、なつきを守るとか、そういうんじゃなくて。お互いに支え合う関係でいられたらいいなって思って」
私は、少し考えた。そして、微笑んだ。
「ゆっくりでもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、もう一度、始めましょうか」
俊也の顔が、明るくなった。私たちは、グラスを合わせた。新しい始まりに、乾杯。
一年後。
私が病室で蒔いた『小さな種の冒険〜病室からの景色〜』は、多くの読者の手の中で、静かに芽を出し、成長を続けていた。五万部という数字は、私の絶望が、誰かの希望に変わったことの、ささやかな証だった。私は新しいことを始めていた。病気の子どもたちのための、絵本作りのワークショップ。
「おねえさん、このえどう?」
「すごくいいね」
病というカーテンの中で、「今」を生きる彼らの創造力は、無限に輝いていた。私はもはや「先生」ではない。ただ、彼らの物語という種の成長を見守る、一人の庭師だった。
病院を出ると、秋の風が吹いていた。もう二年が経つ。あの暗闇から、ここまで来た。スマートフォンが鳴った。俊也からだった。
「今日、迎えに行こうか?」
「ありがとう。でも、歩いて帰る」
「気をつけてな」
電話を切って、私は歩き始めた。秋の空は、高く青い。木々は色づき始めている。景色は、確かに毎日変わっている。そして、私も。
夜、ベッドに横になりながら、私は天井を見た。白い天井。でも、もう怖くない。明日が、楽しみだった。毎日が、少しずつ違う。そして、毎日が、愛おしい。
「おやすみなさい、島田さん」私は、いつものように呟いた。「また明日」
窓の外で、星が瞬いていた。それは、島田さんの「おやすみ」の返事のように思えた。私は、微笑んで目を閉じた。病室からの景色は、まだ続いている。新しい景色を、これからも見ていける。そう信じて。
(終)




