【第8話】焼きそばセットと、時間の隙間
江坂から地下鉄に揺られ、緑地公園を越えたあたりで、ふと思い出した。
「……関大、行ってみよかな」
理由はなかった。ただ、あの町の匂いをもう一度吸っておきたかった。
僕は桃山台で一度改札を出て改めて下り方面の電車に乗り直した。
梅田まで戻り、阪急電車でまた折り返す。千里線。
——関大前駅を出ると、ゆるい坂道を上っていく学生たちの姿があった。
リュックにカセットプレイヤーをぶら下げてるやつ、ハイウエストのジーンズを履いた女の子、ウインドブレーカーをばさばさいわせながらチャリをこぐサークルの新入り。
まるで、時が戻ったというより、時間の隙間に落ち込んでしまったような気分だった。
喫茶店が立ち並ぶ関大前通りを大学の正門に向かい、途中で一本裏道に入る。
並ぶのは、見覚えのある看板ばかり。
——そして、あった。「喫茶ランザム」。
相変わらず入り口のドアの取っ手が少しぐらぐらしていたのまで、記憶どおりだった。
中は、すこしタバコの煙がこもっていた。
窓際の席に座り、古びたメニューをめくると、そこにあった。
「焼きそばセット 600円(コーヒー付き)」
「……まだあったんやな」
注文を伝えると、ママは無言でうなずき、厨房に消えていった。
BGMは、サザンだった。
♪涙のキッス もう一度〜
その音が、なんだか胸の奥にまで入り込んできて、何も考えたくなくなった。
ほどなくして焼きそばセットがやってきた。
木の下敷きの上に黒い鉄板、そこに茶色く焦げ気味の焼きそば。ほとんど具はなくて、申し訳程度のキャベツと、紅しょうが。
付け合わせは、サラダじゃなくて千切りキャベツにマヨネーズがちょんと。
「うまくはないんやけどな……」
割り箸を手に取り、一口すすった。
あの頃と同じ味だった。味付けは濃く、麺はちょっとだけパサついていて、でもなぜか妙に落ち着く。
不意に、自分の姿が窓に映り込んだ。
喫茶店のカーテン越しの影で、よく見えない。
けれど、姿勢がよくなっている気がした。目の奥のくすみが減っているような。
指の節のかたさが、ほんの少し、昔の感触に近いような。
「ほんまに……戻ってしもうたんやな」
口の中に、ソースの残り香と、コーヒーの酸味が重なっていく。
ふと、学生たちの笑い声が、店の外から聞こえてきた。
若い声。あたらしい靴音。
それが少し、羨ましかった。
でも、不思議と、焦りはなかった。
ここにいることが、自然に思えた。
あの頃は見過ごしていた細部たちが、いまは全部、宝石のようにきらめいて見えた。
「やっぱ、もうちょい、ここにいよかな」
そんな言葉が、ポロッと口からこぼれた。
午後の光が、カーテン越しに差し込む。
レジの横に、古びた週刊文春とスポニチが置かれていた。
帰り際にママがぽつりと言った。
「ハルヒト君、久しぶりやな!また来てな。」
まだ僕のことを覚えていたことに思わず笑ってしまった。
「……来るよ。何回でも、ね」