【最終話】夜のつづき、昼のまんなか
週末の朝。
山を越え、海を目指して走るハスラーの車内は、
ゆっくりと満ちていく光で温まっていた。
助手席ではケイコが、保温ボトルに入れた紅茶を紙コップに注いでいる。
「ちょっとぬるめのセイロン。覚えてる?」
「もちろん」
僕は笑って受け取り、ひとくちすすいだ。
あのときと同じ味だった。
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途中、猫たちは後部座席で丸くなって眠りはじめた。
信号で止まるたび、ゴローちゃんの耳がピクリと動いて、
シロさんは寝言みたいに小さく鳴いた。
「きっと夢、見てるよね」
「うん。あの春の続き、見てるんかもしれん」
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海に着くと、潮の香りが春の風に溶けていた。
あの埠頭は、少しだけ整備されていたけど、
防波堤の端は昔のままで、
潮の白い跡が、コンクリートに記憶のように染みていた。
ケイコが、バッグから一枚のはがきを取り出した。
それは、あの春の夜。
カセットと一緒にやりとりしていたポストカードのひとつ。
「またここで、って書いたでしょ」
「うん。ちゃんと、“またここに”来たな」
ケイコが小さくうなずいて、裏に一言だけ書き加えた。
“ちゃんと大人になって、また来たよ”
その字を見て、
なぜだかわからないけど、
僕はふいに泣きそうになった。
でも、泣かずに、そっとそのはがきを受け取った。
「このまま帰ったら、明日シンタが“猫たちだけズルい”って言うな」
「ふふ、また来ようね。今度は家族全員で」
「その時は、帰省してきたケンタも一緒のタイミングやな」
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帰り道。
車内の空気は静かだったけど、
エンジン音と風の音の中に、何かがずっと流れていた。
**
夜のつづきは、あの春に始まって、
いま、昼のまんなかをゆっくり進んでいる。
「なんか、私ら普通の夫婦みたい」
「普通って何やろな」
「……まあ、いいか。いまが好き」
「俺も。めちゃくちゃ好き」
ふたりの間に流れる会話は、どこまでも穏やかだった。
でも、その底には──
1990年のあの春の夜の記憶が、ちゃんと沈んでいる。
忘れてしまったわけじゃない。
あれは、ふたりが“出会い直す”ための、旅だった。
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夜のつづきは、夢のなかで終わったわけじゃない。
今もこうして、昼のまんなかにちゃんと続いている。
猫たちと、シンタと、時々帰ってくるケンタと。
季節の変わり目と、紅茶の香りと、猫の寝息と。
大きな奇跡なんて、なくていい。
毎日を重ねていくなかで、
あの春の“確かな余韻”が、ふたりの中に息づいていれば。
•
リビングの窓辺では、
ゴローちゃんがしっぽを伸ばして伸びをしていた。
その横で、シロさんが丸くなっている。
ケイコがカップに紅茶を注ぎながら、
僕に笑いかけた。
「ハルくん、春だよ」
僕はうなずいて、ひとことだけ答えた。
「また、ここで」
-了-




