【第7話】江坂の風と、広告研究会の記憶
翌朝、布団の中でまどろんでいた僕は、遠くでかすかに聞こえる電車の音に目を覚ました。
カーテン越しの光はまだ弱く、空は薄いグレーに包まれていた。
ホテルの小さな洗面台で顔を洗いながら、鏡を見て息を吐く。
——夢じゃない。
何度確認しても、そこに映るのは、若い自分の顔だった。
けれど、胸の中にある感情は、それを喜ぶにはあまりにも複雑で、ややこしいものだった。
電車に乗り、僕は江坂に向かった。
関西大学を卒業してまだ間もない頃、通い慣れた町。
駅の改札を抜けて地上に出ると、懐かしい風が顔を撫でた。
冬の朝特有の、ビルの隙間を縫ってくるような風。
乾いた空気に混じって、どこかミルクっぽい匂いがした。
駅前の「ロッテリア」はまだ健在だった。
隣の書店では、平積みにされた『Hanako』や『POPEYE』が、“今年のスキーウェア特集”の表紙で並んでいた。
目の奥が少しじんとした。
かつて、広告研究会の打ち合わせをしていた喫茶店「トレジャー」は、まだ営業していた。
大きなガラス越しに見ると、革張りの椅子と薄いベージュのテーブルクロスがそのままだった。
ドアを開けると、かすかにレコードの音が聞こえてきた。
「AORって、今はなんて呼ばれてるんやろな」
そんなことをぼんやり思いながら、隅の席に腰を下ろす。
注文を取りにきたウェイトレスは、僕の顔を見て「お久しぶりです」と笑った。
“誰かと間違えているのか”とも思ったが、ここではそれでいい気がした。
この世界の自分が“この時代にちゃんと存在している”と信じたくなるような、小さな温度だった。
ブレンドが運ばれてくる。
スプーンでそっとかき混ぜながら、僕はポケットから昨日のレシートを取り出した。
「1989年12月27日」
つまり、いまは1990年のはじめ。
バブルが膨らんで、まだ誰もその終わりを知らなかった頃。
世の中が浮かれていて、でもどこか哀しげだった時代。
窓の外を学生服のカップルが歩いていく。
彼女のマフラーの端が、風でふわりと舞った。
まるで、時間そのものが、そこに静かに降っているようだった。
僕は小さくため息をつき、コーヒーをひとくち飲んだ。
舌の奥に、あの頃と同じ苦さが広がった。
「……もっかい、ここから始めろってことなんか?」
誰にともなくつぶやいた言葉が、カップの中に沈んでいく。
そのとき、カウンターに座っていた男が、こちらに向かって軽く会釈した。
どこか見覚えのある顔だった。
大学の同期か、広告代理店の先輩か、それとも——
世界はまだ、少しずつ、少しずつ、僕を引き込んでいるようだった。