【第68話】父の怒りと、念書という封印
ケイコの父親に呼び出されたのは、ある土曜日の午後だった。
電話口の声は低く、抑制されていた。
でも、その底にある怒りは明らかだった。
「明日、夕方五時。駅前の喫茶店で待ってる」
「ひとつ聞きたいだけや。お前は……どういうつもりや?」
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その店には、一度だけケイコと入ったことがあった。
テーブルクロスの柄も、妙に覚えていた。
父親はすでに来ていて、
背筋を伸ばして、メニューにも目をやらずに座っていた。
僕が席につくと、彼はじっと僕を見つめて、
少しの間を置いて、はっきりと言った。
「君、自分が何をしてるか分かってるか?」
僕は、うなずこうとして、止めた。
分かってるつもりだった。でも、説明できる自信がなかった。
「中学生の娘と、何度もふたりで会ってるそうやな。
中田くん、君は……娘と、どういう関係なんや?」
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頭の中では、いくつも言葉を探していた。
「将来を考えたうえで、今は距離を置こうと話した」
「やましい関係では絶対にない」
「彼女に何かを強制したことは一度もない」
でも、どの言葉も、口に出す前に崩れていった。
彼の眼差しは、父親として、
家族を守ろうとするひとりの大人として、
正しく、そしてまっすぐだった。
僕は、視線を落とした。
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「すまんけどな……これにサインしてくれるか」
そう言って差し出されたのは、
一枚の紙とボールペン。
そこには、明朝体でこう印字されていた。
「今後いかなる理由があっても、林恵子に近づきません。
関係を一切断ち、接触を行わないことを誓約します。」
手が震えていた。
でも、その紙に、僕はサインをした。
何も言えなかった。
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喫茶店を出ると、日が落ちかけていた。
冬に逆戻りしたような風が、コートの襟を揺らした。
駅前の歩道橋をひとりで渡りながら、
ふと空を見上げた。
澄んだ夕空の中に、
まだ太陽の赤が残っていた。
“いまは、これでよかった”
そう思い込むことでしか、気持ちの落とし所がなかった。
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家に帰ると、玄関の前に小さな野良猫が一匹、座っていた。
キジトラの毛並みに、どこか見覚えがある気がした。
僕の顔を見ると、一瞬こちらを見上げて、すっと路地に消えていった。
まるで、「まだ終わってない」とでも言いたげに。




