【第64話】午後のテーブル、話さなくても伝わること
約束の時間より、十分早く着いてしまった。
駅前の喫茶店。
少し色あせたソファ、控えめなジャズ、
カップのふちにかすかに残る紅茶の香り。
何度も来たはずなのに、
今日はやけに落ち着かない。
ノートを開いたり閉じたりしている私に、
ドアの鈴が鳴った。
「お待たせ」
ハルくんだった。
ほんのすこし髪が伸びてて、でもそれがまた似合っていた。
向かいに座った彼が、
ちょっとだけ目線を泳がせながら言った。
「今日な、実はひとつ言いたいことがあって」
「私もやで」
「先言っていい?」
「どうぞ」
•
彼は、コーヒーをひと口すすってから、
少し照れたように口を開いた。
「俺、またちょっと文章、書きはじめようと思ってん」
「……え?」
「昔な、コピーライターになりたかったんよ。
でも配属も違ったし、諦めたままやった。
せやけど、ケイコの夢の話聞いてから、
なんか、俺ももう一回やってみたなって」
「それ、めっちゃうれしい。
私、ハルくんの言葉、ずっと好きやったから。
なんか、ちょっと自分の気持ちも言うてくれてる気ぃしてて」
ハルくんが少しだけ顔を赤らめて笑った。
私は、バッグの中からノートを出した。
「これ、最近書いてるんやけど……」
ノートの端には、紅茶の種類やレシピ、
店に置きたいカップのデザインのスケッチがあって、
そして、その下に一行──
「古いキューバ音楽と紅茶と、雨の日の匂いが似合う店」
ハルくんがそれを見て、
ゆっくりうなずいた。
「いいな。
俺、雨の日に通う客になるわ」
「……私の店に、毎日来てくれる?」
「毎日かどうかはわからんけど、
一日でも来ぇへん日があったら、きっと後悔する気がする」
その言葉が、
まるで“またここで”の続きみたいに聞こえて、
私は静かに笑った。
•
カップの中の紅茶が残りわずかになったころ、
ふたりの間にはもう、
なにも言葉を足さなくても伝わる空気が流れていた。
**
ふたりとも、まだ“途中”のまま。
でも、“途中”って、
こんなに幸せな場所なんやと、思った。




