【第6話】コートのポケットに、1990年の冬
十三の高架下を歩いたあと、僕はクルマを時間貸しの駐車場に預け、ふらふらと電車に乗っていた。
どこへ向かっているのか、はっきり決めたわけじゃない。ただ、身体がなんとなく梅田へと向かっていた。
阪急電車の窓の外を、角ばったセダンやワンボックスカーが走り抜けていく。スカイライン、クレスタ、バネット。
全部、記憶の中にある車たちだった。けれど、それが車窓の向こうに“今”として存在していることに、脳が追いつかない。
淀川を渡っても、右前方に見えるはずのスカイビルはない。
鞄の中には、見たことのないデザインの手帳が入っていた。
開くと、ページの上に「1990年1月」と印字されていた。
電車を降りて、阪急三番街の地下街を歩く。
当たり障りのない、毒にも薬にもならないジャズが流れていた。トルコランプのような照明が照らす喫茶店の前で立ち止まる。
ガラス戸に映った自分を、無意識に見てしまいそうになる。
けれど、見ないようにした。まだその確認はしたくなかった。
喫茶店に入り、煙草の煙の中をかき分けるようにして席につく。
店員がメニューも聞かずに「ブレンドで?」と笑った。
僕は、ゆっくりと頷く。
ポケットから煙草を取り出そうとして、やめた。
もう20年は吸っていなかったが、何となく癖で指が探していた。
「なんやねんこれ……」
呟いた声に応えるように、ラジオから流れてきたのは、懐かしいナンバーだった。
佐野元春の「Young Bloods」。
コーヒーの香り。ガラス越しの人の流れ。
誰かが買ったばかりのレコード袋をぶら下げていた。
ふと、胸ポケットに何かが入っていることに気づいた。
取り出してみると、懐かしい使いかけの「POLO」のミントだった。
中には、折りたたまれたレシートが一枚。
「喫茶ルミエール 江坂店」
日付は、1989年12月27日。
少し笑ってしまった。
まるで、青春のど真ん中を丸ごと封入したタイムカプセルのようだ。
「俺、ほんまに戻ってもうたんやな……」
まだ心のどこかで「夢ちゃうか」と思っていた。
でも、この寒さ、空気、光の粒、コーヒーの苦味、それが全部、現実としてここにある。
外に出ると、雪がちらついていた。
大きな通りのネオンが、白く舞う結晶に反射して、ぼんやりとにじんでいる。
「このまま、何もしないでここにいたらどうなるんやろな」
独り言が、冷たい空気に吸い込まれていった。
僕は再び阪急電車で十三に戻ってクルマを出すと、パーキング付きの小さなホテルに泊まった。
部屋のテレビはブラウン管で、NHKでは「連想ゲーム」が再放送されていた。
鏡の前に立ち、僕はそっと顔を上げた。
そこには、見慣れない、しかし遠い記憶の中にある若い自分の顔があった。
肌はなめらかで、髪にはボリュームがある。目の下のくすみもない。
だけど、そこに映る目の奥には、58年の時の重みがはっきりと宿っていた。
「……おいおい。マジかよ」
呆れたように笑いながら、僕はベッドに倒れ込んだ。
どこからか、除夜の鐘のような音が、遠くにかすかに聞こえた気がした。