【第58話】便箋の声、閉じていた季節が開く音
ポストを開けたのは、ほんの偶然だった。
普段は夕方まとめて見るのに、
その日はなぜか朝の光の中で、ふと思い立った。
広告に混ざって、一枚の封筒があった。
差出人の名前も、住所もない。
けれど、手に取った瞬間にわかった。
この手触りは、ケイコのもの。
あのとき、ポストカードに重ねられた星印と同じ匂いがした。
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部屋に戻り、
カリブの鍵を机の上に置いて、
封筒をそっと開けた。
中には、薄い便箋が一枚。
折り目が何度もつき直された跡。
ためらいながらも、確かにそこに書かれた文字たち。
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ハルくんへ
手紙を書くのは、これが初めてかもしれへんね。
一行目で、胸が詰まった。
読み進めるごとに、
彼女の声が頭の中で再生されていった。
ためらうように始まり、
でも、少しずつテンポを取り戻していくリズム。
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でも、ほんまは、
ハルくんと過ごした時間が、
私のなかでいちばん“ちゃんと生きてる時間”やってん。
その行を読んだとき、
僕の中の“止まっていた時間”が、静かに再生を始めた。
助手席で彼女が笑ったこと、
紅茶をふたりですすった午後、
そして、金沢の町で彼女が「ここ、夢で見た」と言った横顔。
すべてが、いまここに戻ってきた。
すれ違ったあの日、
声に出さずに見つめ合ったあの瞬間、
私は、また進みたいって思ったん。
“また、ここで”
そう思えたん。
*これは、“好き”のかわり。
星印の横に、ほんの小さなにじみがあった。
たぶん、それは手のひらの汗か、涙のあとだった。
それさえも、愛おしかった。
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僕は便箋を、
音を立てずにもう一度折りたたんだ。
そして、ノートの最後のページに挟んだ。
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返事は書かない。
今はまだ、そのタイミングじゃない。
でも、次に彼女と会えたとき、
この言葉の続きを、ちゃんと声で届けようと思った。
窓を開けると、風がカーテンを揺らした。
初夏の空は高く、
ふたりを分けていた雲のような時間が、
ようやく少しずつ、晴れていく音がした。




