【第56話】すれ違った日と、もう一度だけページを開く夜
その日は、ほんとうに何気ない一日だった。
塾の帰り道、スーパーの脇を抜けて、
駅裏の小道を通ったのは、たまたまのこと。
細い道の向こうから、青い車がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
光が反射して、最初は気づかなかった。
でも、すれ違った瞬間、
風が吹いた。
その風に、懐かしい音と匂いが混じっていた。
“カリブの助手席の窓を開けていたときの空気”だった。
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「……ハルくん?」
声には出さなかったけど、
私は振り返っていた。
彼も振り返っていた。
目が合って、
それだけで胸の奥がぎゅっとなった。
言葉は交わさなかったけれど、
その沈黙のなかに、“たしかな気持ち”があった。
笑って、首を横に振ったのは、
「まだ中学生の顔やから、今はこれでええねん」っていう合図だった。
そして、歩き去る背中に感じたのは、
“待ってるよ”という、無言のやさしさだった。
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家に帰って、制服を脱いだあと、
机の引き出しから、久しぶりにポストカードを出した。
星印の下に、
もうひとつ小さな印を描いた。
「*+」
これは、“また会えた”の記し。
ほんのすれ違いでも、
たしかに“もう一度、風が通った”という証拠。
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その夜、ノートをひらいて、こう書いた。
「次は、私のほうから動きたい。
手紙でもいい。言葉でもいい。
ちゃんと、自分で“また”をつかまえたい」
書き終えて、ノートを閉じた。
この気持ちを、言葉にして、
きちんと自分の手で届けたいと思った。
それはまだ、勇気というより、
願いのような温度だった。
でも、それがあれば、
「もう一度会える」って、信じられる。
風がまた、窓の外で揺れていた。
季節が、変わりはじめている。
私のなかの季節も──
ようやく、変わりはじめている気がした。




