【第55話】偶然の角、風のにおいとポケットの紙片
その日は、買い物の帰りだった。
いつもは通らない小道を選んだのは、ほんの気まぐれだった。
季節は、もう初夏。
陽射しは強いけれど、風にはまだ春の名残がある。
カリブは洗車したばかりで、ボディが少しだけまぶしかった。
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駅裏の商店街を抜けて、細い路地へ入ったとき、
向こうの角でひとりの少女とすれ違った。
目を伏せていたから、最初は気づかなかった。
でも、すれ違った直後、
背中にふわりと風が通って、
なぜか、“紅茶とくるみのケーキの香り”がした。
……その瞬間、僕は振り返った。
彼女も、すこし遅れて振り返っていた。
目が合った。
「……ケイコ?」
小さく名前を呼ぶと、
彼女の目が、ふっと揺れて、
ほんのわずかに潤んだ気がした。
でも、彼女は首を横に振った。
それから、小さく笑った。
「私、今“中学生の顔”してるで」
「……ほんまや」
「でも、ちょっとだけ、
“また会えるかもしれん”って思ってた」
「俺もや」
それだけだった。
言葉はそれ以上、続かなかった。
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ポケットに手を入れると、
くしゃくしゃになったままの紙片があった。
彼女がくれた、あの言葉の紙。
「“好き”って言葉を使わずに、
好きって伝える方法を、
私は今、探してる」
それを、もう一度折り直した。
彼女が歩き去ったあと、
その後ろ姿に「何も言わないこと」を選んだ。
それは、言葉よりも強い“また、ここで”の合図やと思ったから。
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帰り道、カリブの助手席をちらりと見た。
そこには誰もいなかったけど、
風が、ほんのすこし甘く香っていた。
その香りが、「未来の予告」のように感じられた。




