【第5話】十三の街と、25歳の靴音
道がやけに広く見えた。
いつもなら混んでいるはずの交差点に、タクシーが一台、ゆっくりと信号待ちしているだけだった。
車体には「電話予約可」という文字。見覚えのあるフォントだったが、どこか古くさく感じた。
「……なんかおかしいな」
そうつぶやきながら、僕はスプリンターカリブを停め、ドアを開けて外に出た。
風が冷たい。指先がかじかむほどの空気の中に、焼きそばとバターの香りが漂ってくる。
十三の高架下。あのごちゃっとした居酒屋街が、やけにすっきりと整っていた。
「あれ?“いっとく”って、こんなとこにあったか?」
ふと気づくと、駅前のコンビニがローソンではなく「サンエブリー」になっていた。
壁に貼られたポスターには、《少年隊・初ドームライブ決定!》の文字。
自分の脳内がどうにかなっているのか、それとも街そのものがおかしいのか。
なんとなく歩き出すと、足元がやけに軽かった。靴が新しい。
ふとしたはずみで、ガラス戸に映った自分の姿を見て、胸がざわついた。
肩にかかるジャケットのライン、ジーンズの腰の位置、髪のボリューム。
どう考えても最近の自分じゃない。
「まさか……」
急に喉が乾いて、自販機を探した。
駅のホーム下にあったベンダーは、昔懐かしい「アクエリアス」や「ピンクレモネード」の缶がずらりと並んでいる。
財布を取り出すと、千円札の顔が野口英世ではなく、夏目漱石だった。
僕は慌てて、十三駅の売店に並ぶ新聞を無造作に手にとって日付を見た。
1990年1月6日(土)
ここまできてようやく、僕は思った。
——これは夢じゃない。
でも、理由もルールもわからない。
ただ、ひとつだけ確かなのは、この世界がかつて自分が確かに生きていた1990年そのものだということだった。
喫茶店「バンビ」の赤いテントを見つけて、ふと足を止めた。
大学時代、よくここで広告研究会の打ち合わせをしていた。
今でもチョコレートパフェが信じられないくらい大きかったことを覚えている。
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
奥の席に学生服のカップルが並んで座っていた。テーブルにはパフェとクリームソーダ。
BGMはFM大阪。スティービー・ワンダーの「I Just Called to Say I Love You」が、ゆったりと流れていた。
僕は窓際の席に腰を下ろし、ブレンドを頼んだ。
カップを持つ手が少し震えた。
「俺、どうしたらええねん……」
思わず漏れた声をかき消すように、扉が開いて冷たい風が入ってきた。
制服姿の少女が、一人で入ってきた。
すっと視線を向けると、彼女は一瞬、こちらを見たような気がした。
けれどすぐにカウンター席に腰を下ろし、ホットミルクを頼んだ。
妙な既視感に飲み込まれつつ、僕はまだ混乱していた。