【第43話】鏡の前、まだ言えない言葉のために
日曜日の朝。
目が覚めた瞬間、あの夢の部屋がまだ胸の奥に残っていた。
窓際のカーテン、紅茶の湯気、名前を呼ぶ声。
「お湯の温度がぬるくても、ハルくんがいればいい」
自分で言ったその言葉が、
なぜか、昨日より少しだけ“今の私”に近づいている気がした。
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今日は、ハルくんと会う約束がある。
何かを決めたわけじゃない。
でも、今日の私は、昨日の私とは違う気がした。
制服じゃなく、白いブラウスを選んだ。
髪もすこしだけ、丁寧にまとめた。
「こういうの、気にするの、まだ早いんかな」
鏡の前で、小さくつぶやいた。
でも、すぐに笑ってしまった。
たぶん、誰も気づかない。
でも、ハルくんなら、きっと気づく気がした。
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家を出る前に、部屋の片隅に置いたノートを開いた。
前の夜に書いた、“ぬるいお湯”のフレーズの下に、
こんなふうに書き足してみた。
「伝えなくても、伝わることがある。
でも、ちゃんと伝えたいって思うとき、
私はきっと、大人になっていくんやろな」
ページを閉じた。
ポストカードを小さなバッグに忍ばせた。
言葉にはまだできないけど、“持っていたい”と思ったから。
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駅までの道すがら、空は少し霞んでいた。
春と夏の境目にある、白っぽい光。
私はそれを見上げながら、
「今日、ちゃんと目を見て話せますように」
と、小さな願いを胸に浮かべた。
まだ何も決まっていない。
でも、何かがはじまりそうな予感だけは、確かにある。
そしてそれは、
この季節の風といっしょに、
ハルくんのもとへ、もう向かっている気がした。




