【第42話】夢の中の部屋、紅茶の湯気と名前の声
その夜は、どういうわけか、眠るのが怖くなかった。
むしろ、眠りたかった。
「今日は、夢が見たいな」と思って目を閉じた。
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そこは、見知らぬ部屋だった。
でも、空気の匂いも、光の角度も、全部知っていた。
窓際には、植物モチーフのカーテン。
テーブルの上には、湯気を立てた紅茶のカップがふたつ。
私は、自分の指がそのカップの持ち手に自然に触れるのを見て、
「これ、前にもあった」と思った。
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誰かの声が聞こえた。
低くてやさしくて、少しだけ笑っているような声。
「……ケイコ、お湯の温度、ちょっと低くないか?」
それは、今のハルくんの声じゃなかった。
もっと深くて、落ち着いた、
未来の時間を知っている人の声だった。
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夢の中の私は、
迷わずこう言っていた。
「いいの。あんたが隣にいてくれたら、それだけでおいしいから」
その言葉に、自分でも驚いた。
そして、ふいに目が覚めた。
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部屋はまだ夜だった。
時計は、午前3時を少し過ぎたところ。
でも、私の中では、
朝が始まっていた。
記憶は、まだ全部は戻っていない。
でも、いまの私はもう、
それを無理に思い出そうとはしていなかった。
「思い出すこと」よりも、「感じたこと」を信じたい。
そう思えるようになったのは、きっと──
紅茶の湯気と、あのやさしい声のおかげやと思う。
私は、そっとベッドの脇に置いていたノートを開いた。
そして、誰にも見せないページに、小さくこう書いた。
「お湯の温度がぬるくても、隣にあんたがいれば、ぜんぶ大丈夫」
ページを閉じて、もう一度眠りについた。
今度は、あの部屋の続きを見られるように。




