【第30話】帰り道の夕暮れと、ささやかな願い
海からの帰り道は、行きとは少し違うルートを選んだ。
町のバスに揺られ、丘を越えて、
またローカル線の駅へと向かう。
ケイコはずっと窓の外を見ていた。
風景が変わるたびに、小さく口を開いては、なにかを感じ取っているようだった。
「……この道も、なんか知ってる気がする」
「またか」
「うん、またや。でも、今度のはもっと“日常”の記憶な気がした。
買い物帰りとか、たまご買って帰ってる感じ」
「たまご限定か」
「いや、なんとなく」
ふたりは笑った。
その笑いは、もうずっと前から交わしてきたような、そんな響きだった。
駅につくと、ちょうどタイミングよく電車が入ってきた。
2両編成。
座席に並んで腰かけると、空はすでに薄紫色に染まりはじめていた。
窓の外を流れていく田んぼや家々が、夕焼けに照らされていた。
ケイコが、ぽつりとつぶやいた。
「なんか、このまま時間止まってくれへんかな」
「電車ごと?」
「うん。いまこの瞬間、ぜんぶ閉じこめておきたい。
……“未来”に持って行けたらええのにな」
その言葉に、僕はドキリとした。
未来。
それは彼女が、今この瞬間、自分のどこかで確かに“意識している”ということだ。
「……私はな、ハルくん」
まただ。
“ハルくん”と呼ばれた。
それはもう、記憶の断片ではなく、
彼女の中で“自然な呼び方”になりつつあった。
「私は、きっとこれからも、あんたのこと、思い出していくんやと思う。
でも、今だけは、忘れてるままでおりたい」
「なんで?」
「だって……この気持ちが、“初めてのまま”でいられるやん」
彼女はそう言って、すこしだけ照れくさそうに、窓の外を見た。
•
電車は、静かに走っていた。
車輪の音が、まるでレコードの針のノイズのように心地よかった。
ケイコが、小さな声で言った。
「……なあ、これって恋なんかな」
「どうやろな」
「でも、私、今の私のままでハルくんのこと好きやと思う。
……ちゃんと、覚えてたらどうなるんやろ」
僕は答えなかった。
けれど、心の奥で、
“覚えてからのふたり”と、“今のふたり”が、
どちらも間違いじゃないという確信が、しずかに灯っていた。
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電車はやがて、街の灯りの中へと戻っていった。
窓に映るふたりの顔が、
夕暮れと駅の光のなかで、ゆっくりと重なっていた。




