【第29話】白い浜辺と、呼びかけの余韻
電車を降りて、ふたりは静かな海辺の町に降り立った。
改札を出たとき、風の匂いが変わった。
少し塩の混じった空気。
頬にあたる風の温度。
遠くに波の音がかすかに聞こえる。
「……ここ、なんか、近い気がする」
ケイコがぽつりとつぶやいた。
「夢の中の海に?」
「うん。風のにおいが似てる」
ふたりは並んで歩いた。
道沿いに咲いていたピンク色の花が、ゆっくり風に揺れていた。
やがて、防風林を抜けた先に、海が見えた。
•
白い砂浜。
穏やかな波。
遠くに、かすかに鳶の鳴き声。
「……ここや」
ケイコは、まるで記憶の映像をなぞるように、靴を脱いで砂の上に足を下ろした。
「冷た……でも、気持ちええな」
彼女は波打ち際まで歩いて、しばらく立ち止まった。
僕はすこし後ろから、その背中を見守っていた。
そのときだった。
ケイコが、ふいに振り返りそうになって、
けれど振り返らず、波の方を見たまま、こう言った。
「……なんか、今、呼びたくなった。
“ハルくん”って。
なんでか分からへんけど」
その声は、風に乗って、すぐに消えた。
でも僕には、確かに聞こえた。
“ハルくん”
それは、未来のケイコが僕を呼ぶときの、あのやさしい声だった。
ケイコは、自分の言葉に少し驚いたようだった。
「変やな……今まで一度も、そんなふうに呼んだことないのに」
「でも、しっくりきた?」
「……うん。なんか、“前からそう呼んでた”みたいやった」
僕はその言葉に、ただ微笑んで頷いた。
彼女の中で、まだ名前のない“記憶の声”が、
ゆっくりと輪郭を持ち始めているのが、わかった。
•
夕暮れまで、ふたりは何も言わずに、波のそばを歩いた。
歩幅が自然に合っていた。
海風が、ふたりの影を静かに揺らしていた。
それは、まだすべてを思い出していないふたりにとっての、
たしかな再会の予感だった。




