【第28話】午後の切符、まだ見ぬ海へ向かう話
日曜日。
曇り空の下、ふたりは駅の改札前で立ち話をしていた。
いつもなら図書館か、喫茶店に入ってゆっくりするところだが、
この日はどちらにも向かう気がしなかった。
「なんか、今日は空気が止まってる感じせえへん?」
「うん。私もそう思ってた。空も、ぜんぜん流れてへん」
言葉にするまでもなく、ふたりとも“何かを変えたい気分”になっていた。
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改札の中へ入ると、ふたりで券売機の前に立った。
ケイコがふと、小さくつぶやいた。
「どっか、行ってみたいな」
「どっかって、どこ?」
「うーん……“ここじゃない場所”」
彼女は、そう言って笑った。
「“夢で見た場所”に、似てる場所とかないんかな」
「たとえば、どんな場所?」
「海。白い砂浜。静かで、人が少なくて、
風がゆっくりで……歩くときに靴履いてへんかった気がする」
「裸足?」
「うん。波打ち際を、じゃりって歩いてる感覚。
足の裏がひんやりしてて、でも気持ちよかった」
彼女のその語り方が、あまりにリアルで、僕は一瞬言葉を忘れた。
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窓口で切符を買い、私鉄のローカル線に乗り換えることにした。
行き先は決めていなかった。
でもふたりとも、なぜか“南”の方向がいいと思っていた。
ホームに停まっていたのは、古びた2両編成の電車だった。
ガタン、とドアが開いて、
ふたりで隣に並んで座った。
発車のベルが鳴って、電車が動き出す。
景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
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「私、小さいころな、電車の窓から外の風景見るのが好きやってん」
「何考えて見てた?」
「“この景色の中に住んでる人は、今なにしてるんやろ”って」
「えらい哲学的やな」
「ちゃうよ。なんか、私もその中に混ざりたかっただけ。
自分が知らん場所に、ふと混ざってみたくなること、ない?」
僕は少しだけ笑ってうなずいた。
「あるよ。むしろ、最近はそればっかりや」
ケイコが、窓の外を見つめながら言った。
「夢の中の“海”も、私の知らん場所やけど、
知ってる気がするねん。
そこに行ったら、きっと……思い出す気がする」
電車は、町を抜け、川を渡り、小さな丘のトンネルに入っていく。
ケイコはその間、ずっと外を見ていた。
僕は横で、彼女の横顔を見ていた。
なにかが、ふたりの間で、すこしずつ揃っていく。
名前のない感情が、静かに重なりはじめていた。
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「なあ、ハルさん」
ケイコが、初めて“そう”呼んだ。
「私、もうすぐ、なんか思い出すと思う」
「なんで?」
「わからんけど、身体の奥で“準備できた”って言ってる気がする」
僕は、黙って頷いた。
ガタンゴトンという音だけが、会話の続きをしていた。
そして、電車は次の町へと向かっていた。




