【第27話】遠い海の音、目を閉じたらそこにあったもの
その晩、ふたりは駅前の商店街を少しだけ歩いた。
午後の出来事を思い出しては笑い、また無言になっては風の音に耳を澄ませた。
「ほんま、危なかったな」
「うん。ていうか、“家庭教師”って、我ながらよう言えたと思うわ」
「お前、ほんまに中学生か?」
「おっちゃんこそ、20代ちゃうやろ?」
不意にそう言われて、僕はちょっとだけ言葉に詰まった。
でもケイコはそれ以上は何も言わなかった。
問いかけではなく、ただの感覚としてそう言っただけだったのかもしれない。
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しばらく歩いたあと、ふたりは駅の裏手にある川沿いのベンチに腰を下ろした。
街灯の灯りが、川の表面にゆらゆらと映っていた。
風が少し強くなってきて、ケイコのマフラーがふわりと揺れた。
「なあ……私、最近、海の夢ばっかり見るねん」
「海?」
「うん。白い砂浜。風が静かで、波がときどき砂に寄せてくる音。
そんで……だれかと並んで歩いてる」
「顔、見える?」
「……見えへん。けど、隣にいるのは、“知ってる人”って確信がある」
彼女の言葉の奥には、迷いと、それを包むような温もりが混じっていた。
「でな、手ぇ、つないでてん。
なんか、指の太さとか、触れたときの感じとか……全部、ほんまに知ってる気がして、起きてから泣きそうになってまう」
風が、ふたりの間を抜けていった。
その空気に混じって、ほんのかすかに潮の匂いがした気がした。
「それ、ほんまに“夢”なんかな」
僕はそう言って、ケイコを見た。
彼女は、遠くの暗い川面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「夢って、目ぇ覚めたら消えるはずやろ?
でも私は、その“海の感覚”がずっと残ってんねん。
風の温度とか、足の裏の砂の感じとか」
「……それはもう、夢ちゃうと思うわ」
「私も、そんな気がする」
しばらくふたりは黙った。
その沈黙は、悲しいものでも、気まずいものでもなく、
ただ“何かを受け止めようとする前の、静けさ”だった。
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「また……行ってみたいな。ほんまに、そんな海があるなら」
「あるよ。行こうや。いつか、また」
「“また”って……なんか変やな。
でも、なんか、“また”って言いたくなる」
そう言って笑ったケイコの顔は、
どこかで見た“旅の途中の横顔”だった。
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その夜、僕は久しぶりに自分の夢の中で、
砂浜を歩くふたりの影を見た。
遠くの空に、鳥の群れが飛んでいて、
その音が波の音に混ざっていた。
目が覚める直前、ケイコが僕の手をぎゅっと握る感触が、確かに残っていた。
それは、思い出の夢じゃなく、“未来と過去の重なった景色”だった。




