【第23話】キジトラ、午後の路地裏にて
日が少しずつ長くなりはじめていた。
風はまだ冷たいけれど、陽ざしの輪郭がどこか丸くなっていた。
その午後、ふたりは古い路地裏を歩いていた。
喫茶店でもなく、図書館でもなく、ただあてもなく町の隙間を散歩する。
そんな時間が、だんだんと自然になってきていた。
路地裏には、小さな神社と、古い塀と、だれもいないベンチ。
風に揺れる洗濯物の匂いと、味噌汁のような夕飯の気配が混ざっている。
「ここ、なんか落ち着くな」
ケイコが言った。
僕も頷いた。
「ほんまにな。ここだけ時間止まってるみたいや」
•
そのときだった。
路地の影から、ふわりと姿を現したのは──キジトラの猫だった。
ふたりは同時に立ち止まった。
その猫は、しばらくこちらをじっと見ていた。
目が合った。細く光る琥珀色の目。
そのまま、すこしだけ近づいてきて、
僕の足元にすり寄るようにして身体を擦りつけた。
無意識のうちに、僕はつぶやいていた。
「……ゴローちゃん」
言った瞬間、息を呑んだ。
そして、ケイコも、はっとして僕を見上げた。
「いま……なんて言うた?」
「え?」
「猫の名前……“ゴローちゃん”って……」
その声には、驚きと、戸惑いと、どこか懐かしさが混じっていた。
「なんで、名前知ってるん?」
僕は、黙ってしまった。
説明できる言葉が見つからなかった。
でも、ケイコはそれ以上問い詰めなかった。
猫の方を見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「……ゴローちゃん、やった気がする。
なんでか知らんけど、“そうや”って思った」
猫はふたりの間をふらふらと通り抜けて、路地の奥へ消えていった。
しばらくして振り返ると、もう姿はなかった。
•
「名前って、不思議やな」
「うん?」
「忘れてたはずのもんが、口に出された瞬間、
一気に思い出されることって、あるんやなって」
ケイコの声は、風に混じって、少し遠くに聞こえた。
そのとき、僕は思った。
——たぶん彼女の中に、何かが確かに残っている。
そしてそれは、これからゆっくりと、ひとつずつ、思い出されていく。
それでいい。
急がなくていい。
この記憶は、きっとふたりの時間そのものだから。
•
その帰り道、ケイコは「私も猫、飼いたいな」とぽつりとこぼした。
「名前、もう決めてるねん。
……たぶん、シロさん」
それを聞いて、僕は思わず足を止めた。
ケイコは、僕の顔を見上げて言った。
「変な名前やろ?
でもな、なんか、どっかで誰かがそう呼んでた気がしてん」
僕は、ただ微笑んでいた。
そしてその心の奥に、あたたかくて、ちょっと泣きたくなるような、
静かな確信が灯った。




