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風の向こうに、君がいた。  作者: 宮滝吾朗
23/77

【第23話】キジトラ、午後の路地裏にて

日が少しずつ長くなりはじめていた。

風はまだ冷たいけれど、陽ざしの輪郭がどこか丸くなっていた。

その午後、ふたりは古い路地裏を歩いていた。

喫茶店でもなく、図書館でもなく、ただあてもなく町の隙間を散歩する。

そんな時間が、だんだんと自然になってきていた。

路地裏には、小さな神社と、古い塀と、だれもいないベンチ。

風に揺れる洗濯物の匂いと、味噌汁のような夕飯の気配が混ざっている。

「ここ、なんか落ち着くな」

ケイコが言った。

僕も頷いた。

「ほんまにな。ここだけ時間止まってるみたいや」

そのときだった。

路地の影から、ふわりと姿を現したのは──キジトラの猫だった。

ふたりは同時に立ち止まった。

その猫は、しばらくこちらをじっと見ていた。

目が合った。細く光る琥珀色の目。


挿絵(By みてみん)


そのまま、すこしだけ近づいてきて、

僕の足元にすり寄るようにして身体を擦りつけた。

無意識のうちに、僕はつぶやいていた。

「……ゴローちゃん」

言った瞬間、息を呑んだ。

そして、ケイコも、はっとして僕を見上げた。

「いま……なんて言うた?」

「え?」

「猫の名前……“ゴローちゃん”って……」

その声には、驚きと、戸惑いと、どこか懐かしさが混じっていた。

「なんで、名前知ってるん?」

僕は、黙ってしまった。

説明できる言葉が見つからなかった。

でも、ケイコはそれ以上問い詰めなかった。

猫の方を見ながら、ぽつりとつぶやいた。

「……ゴローちゃん、やった気がする。

なんでか知らんけど、“そうや”って思った」

猫はふたりの間をふらふらと通り抜けて、路地の奥へ消えていった。

しばらくして振り返ると、もう姿はなかった。

「名前って、不思議やな」

「うん?」

「忘れてたはずのもんが、口に出された瞬間、

一気に思い出されることって、あるんやなって」

ケイコの声は、風に混じって、少し遠くに聞こえた。

そのとき、僕は思った。

——たぶん彼女の中に、何かが確かに残っている。

そしてそれは、これからゆっくりと、ひとつずつ、思い出されていく。

それでいい。

急がなくていい。

この記憶は、きっとふたりの時間そのものだから。

その帰り道、ケイコは「私も猫、飼いたいな」とぽつりとこぼした。

「名前、もう決めてるねん。

……たぶん、シロさん」

それを聞いて、僕は思わず足を止めた。


ケイコは、僕の顔を見上げて言った。

「変な名前やろ?

でもな、なんか、どっかで誰かがそう呼んでた気がしてん」

僕は、ただ微笑んでいた。

そしてその心の奥に、あたたかくて、ちょっと泣きたくなるような、

静かな確信が灯った。

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