【第21話】古い楽器店と、音の記憶のはじまり
その日、ふたりは駅前の小さな古本市を見てまわった。
ケイコが「この匂い、落ち着く」と言ったので、僕も何となく一緒に歩いた。
風はまだ冷たかったけれど、陽ざしはやわらかかった。
商店街に張られた薄いビニールの屋根が、風に揺れてカサカサと鳴る。
何冊かの古びた詩集や手帖をめくりながら、
ふたりはとりとめのない話をした。
「詩って、説明してくれへんところがええよな」
「うん。説明されたら、急に安くなるときあるしな」
ケイコの言葉は、いつも少し先を歩いていた。
年齢では測れない感覚が、確かにそこにあった。
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帰り道、僕たちは偶然、古い楽器屋の前を通りかかった。
古びたトラス構造の看板、飴色の木製ドア。
アコースティックギターと電子ピアノの間に、ひっそりと一本のセミアコースティック・ベースが吊られていた。
「……ちょっとだけ、ええ?」
そう言って、僕は吸い込まれるように扉を押した。
店内には、静かに流れるジャズのピアノ。
すこし埃っぽい空気の中に、弦楽器の乾いた匂いが漂っていた。
僕は無意識に、そのベースに手を伸ばしていた。
重み。手触り。
ネックの太さ、フレットの感覚。
……身体が覚えている。言葉よりも確かに。
右手の指で、ボン、と鳴らす。
その一音に、空気がわずかに震えた。
指が動くたび、音が滲むように広がっていく。
僕は夢中になっていた。
店の片隅でケイコが黙って見ていることにも、気づかないふりをしていた。
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やがて、音がふっと止んだ。
僕はベースをそっと元の場所に戻して、ケイコの方を見た。
「ごめん、待たせたな」
ケイコは、なにも言わずにこちらを見ていた。
それから、ゆっくりと首をかしげるようにして言った。
「……私、あの音、知ってる気がした」
僕は一瞬、動きを止めた。
「……ほんまに?」
「うん。夢の中で聴いたことあるんかな……
私が、眠ってるときに流れてるみたいな音やった」
彼女は、なにかを思い出しかけている表情をしていた。
「おっちゃん、ほんまは何者なん?」
その言葉は、冗談でも、探るでもなく、ただまっすぐな問いだった。
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答えは、まだ与えないことにした。
それは、これから彼女自身の中に芽吹いていくものだから。
でも僕は、こうだけ返した。
「いつか、全部ちゃんと話す。
でもその前に、君に自分のことを思い出してもらえたら、もっと嬉しい」
ケイコは、それ以上なにも言わなかった。
ただ、音の余韻を胸に抱えたまま、店をあとにした。
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外に出ると、もう陽は傾いていた。
通りの向こうから、ふいに風が吹いた。
その風にまぎれて、先週出会ったキジトラが、ふたたび姿を現すのは——まだ少しだけ、先の話。




