表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風の向こうに、君がいた。  作者: 宮滝吾朗
21/77

【第21話】古い楽器店と、音の記憶のはじまり

その日、ふたりは駅前の小さな古本市を見てまわった。

ケイコが「この匂い、落ち着く」と言ったので、僕も何となく一緒に歩いた。

風はまだ冷たかったけれど、陽ざしはやわらかかった。

商店街に張られた薄いビニールの屋根が、風に揺れてカサカサと鳴る。

何冊かの古びた詩集や手帖をめくりながら、

ふたりはとりとめのない話をした。

「詩って、説明してくれへんところがええよな」

「うん。説明されたら、急に安くなるときあるしな」

ケイコの言葉は、いつも少し先を歩いていた。

年齢では測れない感覚が、確かにそこにあった。

帰り道、僕たちは偶然、古い楽器屋の前を通りかかった。

古びたトラス構造の看板、飴色の木製ドア。

アコースティックギターと電子ピアノの間に、ひっそりと一本のセミアコースティック・ベースが吊られていた。


挿絵(By みてみん)


「……ちょっとだけ、ええ?」

そう言って、僕は吸い込まれるように扉を押した。

店内には、静かに流れるジャズのピアノ。

すこし埃っぽい空気の中に、弦楽器の乾いた匂いが漂っていた。

僕は無意識に、そのベースに手を伸ばしていた。

重み。手触り。

ネックの太さ、フレットの感覚。

……身体が覚えている。言葉よりも確かに。

右手の指で、ボン、と鳴らす。

その一音に、空気がわずかに震えた。

指が動くたび、音が滲むように広がっていく。

僕は夢中になっていた。

店の片隅でケイコが黙って見ていることにも、気づかないふりをしていた。

やがて、音がふっと止んだ。

僕はベースをそっと元の場所に戻して、ケイコの方を見た。

「ごめん、待たせたな」

ケイコは、なにも言わずにこちらを見ていた。

それから、ゆっくりと首をかしげるようにして言った。

「……私、あの音、知ってる気がした」

僕は一瞬、動きを止めた。

「……ほんまに?」

「うん。夢の中で聴いたことあるんかな……

私が、眠ってるときに流れてるみたいな音やった」

彼女は、なにかを思い出しかけている表情をしていた。

「おっちゃん、ほんまは何者なん?」

その言葉は、冗談でも、探るでもなく、ただまっすぐな問いだった。

答えは、まだ与えないことにした。

それは、これから彼女自身の中に芽吹いていくものだから。

でも僕は、こうだけ返した。

「いつか、全部ちゃんと話す。

でもその前に、君に自分のことを思い出してもらえたら、もっと嬉しい」

ケイコは、それ以上なにも言わなかった。

ただ、音の余韻を胸に抱えたまま、店をあとにした。

外に出ると、もう陽は傾いていた。

通りの向こうから、ふいに風が吹いた。

その風にまぎれて、先週出会ったキジトラが、ふたたび姿を現すのは——まだ少しだけ、先の話。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ