【第2話】僕のこと
僕の話をしよう。
昭和40年代前半。大阪万博を数年後に控え、日本中が21世紀・宇宙時代への夢を抱き、明日はきっと今日より良い日になると信じて疑わず、実際にその通りだったいわゆる高度経済成長期のど真ん中に、僕は生まれた。
四方を田んぼに囲まれ、村の中に用水路が張り巡らされた農村。かすかに残る記憶の中では、家の前の道路はまだ舗装されておらず、排気ガスの臭いをさせた車が(めったには通らなかったが)通る度に砂煙が上がっていた。
その道路がアスファルトになったのと、家のテレビがカラーになったのとが、同じ頃だった気がする。
昼間でも薄暗い家の中には、広い土間とかまどがあり、夏の昼間の露出オーバーの屋外から中に入ると、くらくらするような暗闇で、幼い僕はその濃密な暗さが好きだった。
夏になると蚊帳の向こうからカエルの大合唱が聞こえ、冬になると屋根に降り積もった雪が落ちるどさぁという音で怠惰な冬休みの布団の中から這い出す。
居間とも呼べない狭い畳の部屋には脚が折れるタイプのちゃぶ台があり、夜になるとそこで家族で夕食を食べた。
麦茶の入ったガラスポット、コップ、卓上調味料ケース、炊飯ジャー、カレーライスの入ったお皿、何から何まで全部花柄だった。カレースプーンの柄まで花柄だ。
木目の重厚なテレビではプロ野球中継が映り、その上には母が編んだ丸いレースの白い敷物があって鮭を咥えた熊の木彫りが載っている。誇らしげな熊の横には、太陽の塔のミニチュアが置かれていた。
兎にも角にもそんな、軽薄なサブカルかぶれの女の子が古い町家をリノベーションしてオープンしたカフェの様な、典型的な昭和の一般家庭で僕は育ったのだ。
予鈴が聞こえてから大慌てで家を飛び出してダッシュすれば始業に間に合うほどに近い、木造校舎の小学校。
白いヘルメットをかぶり、飛び出すヘッドライトの付いた自転車で通った、鉄筋コンクリートの中学校。
大ヒットした田舎暮らしシミュレーションゲームのまんまの、悩ましくも愛おしい濃密な日々。
舞い散る桜も、水の張られた水田も、煌めくプールも、セミもクワガタも、背より高いススキの原も、くるぶしまで埋まるほどの落ち葉も、目が開けていられない程に眩しい雪景色も、およそ今ではノスタルジックな幻想として描かれる全てのモチーフが、僕の少年時代に詰まっていた。
やがて地元では一目置かれる進学校を経て、この地方では一応名門とされる私立大学に進学する頃になると、それまで近所や親戚の人間から僕に与えられていた「神童」という評価は、徐々に「新人類」という蔑称に変化していき、それと共に僕の生まれ育ったこの地への想いも、愛着からやがて、懐かしくはあるが忌避すべき場所へと変化していった。
実際に大学を出ると僕は華々しきバブル世代の新入社員として都会の広告会社に就職し、村を出て、それ以来戻ることはなかった。
家を出るときも、寂しさも不安も寂寥感も、何も全く無かった。ただこの柵と相互監視で成り立った場所から抜け出して、自分の道を自分で歩いてゆくというわくわくでいっぱいだった。
ただひとつ、実家で飼っていたキジトラ猫が心残りといえば心残りではあったが。
"ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや"