【第17話】バニラの午後と、珈琲のあいまいな境界線
約束の日曜。
天気は、冬にしてはやさしい光だった。
僕は、図書館の隣にある喫茶店「風月」に少し早めに入った。
店内は、こぢんまりとした造りで、窓際にふたつだけ並んだ席がある。
木製のテーブルには手編みのレースクロスがかかっていて、音楽は流れていなかった。
代わりに、コーヒーミルの“ゴリゴリ……”という音と、マスターの足音だけが、店内の時間を支えていた。
静寂を吸い込むように、パウル・クレーの絵が壁に飾られている。
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僕は窓際の席でブレンドを頼んだ。
やがて扉のベルが鳴って、ケイコがやってきた。
少し走ったのか、頬が赤くなっていた。
彼女は、ソファの席にちょこんと座り、ソフトクリームを注文した。
ほどなくテーブルに運ばれてきたコーヒーとソフトクリームをそれぞれが口に運ぶ。
「コーヒーの匂いと一緒にいると、甘いもんが余計にうまく感じるな」
「うん、それはわかる。逆に、甘いもん食べてからコーヒー飲むと、味がしまる」
「大人の味覚やな」
彼女は笑った。その笑顔は、どうしようもなく懐かしかった。
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しばらく、ふたりとも何も話さなかった。
店内には時計の秒針の音すらなく、ただ静かだった。
けれど、その沈黙は、重たくなかった。
むしろ、やわらかかった。
言葉がいらない時間というのは、あるんだと、あらためて思った。
彼女がふと口を開いた。
「……おっちゃん、私のこと、知ってる?」
予想していたはずの問いだったのに、胸がひとつ鳴った。
「たぶん、知ってる。けど、今の君のことは、まだ全部は知らん」
「へえ、変なの」
「変やな。でも、悪くない」
彼女は少しだけ、コーヒーカップのふちに目を落とした。
「この前、おっちゃんと話したあと、夢見てん。
砂浜で手つないで歩いてる夢。なんか、めっちゃあったかくて、うれしくて……」
彼女の声は、かすかに揺れていた。
そして僕も、返す言葉を選ぶのに少し時間がかかった。
「それ、いつかほんまになるかもしれんな」
「……夢の続き、見たいと思ったん、久しぶりやったわ」
それは、13歳の少女が語るには、すこしだけ“過去を知りすぎた”言葉だった。
けれど僕は、その違和感を、あえて口にしなかった。
なぜなら、きっと彼女自身がもう、うすうす気づいているからだ。
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喫茶店を出たあと、ふたりで商店街を少しだけ歩いた。
「また、ここでコーヒー飲もな」とだけ言って、角を曲がって消えた。
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その夜、僕は夢を見た。
砂浜。海の音。彼女の手。
そして、見覚えのある声がこう言った。
——「やっと、追いついたね」
目が覚めたとき、心の中にあったのは不安でも期待でもなく、
ただ、あたたかい予感だった。




