【第12話】午後の図書室と、ことばの手ざわり
土曜日の午後、予定もなく歩いていた。
大通りから一本入った路地は、舗装の剥がれたアスファルトに雑草が顔を出し、遠くで子供の笑い声が響く。
ふと、視界の端に白い壁が現れた。二階建ての小さな図書館。
赤レンガがアーチ窓を縁取り、錆びた風見鶴が屋根の角で傾いている。入口のガラス扉には、ピンクと緑のネオン風看板が「北淀図書館」と告げる。どこか、記憶の奥底でかすかに疼く建物だった。
脇の自転車置き場に赤いランドセルが無造作に置かれ、まるで時間が止まったような気配。吸い寄せられるように、僕は扉を押した。
中は静かだった。
ガラス扉の軋む音が響き、木製カウンターの司書が新聞をめくる。
古い紙とインクの匂いが鼻をつき、蛍光灯がチラつく薄暗いロビー。
壁の丸い時計が、カチカチとやけに大きく時を刻む。
閲覧室に入ると、ウォールナットの書架が並び、高い天井の梁が影を落とす。
窓際の木製机には、誰かの落書きが刻まれ、緑のビニール椅子が軋んだ。
棚から抜き取った『コピーライティング入門』は、背表紙が色褪せ、ページの間から鉛筆の走り書きが覗く。
「言葉は、風よりもゆっくりと人を動かす」。
ふっと笑った瞬間、低めの本棚越しに小さな影が動いた。
セーラー服の少女。肩下の髪、控えめな丸い眼鏡。スケッチブックを抱え、美術書をそっと開く。
——ケイコだった
まだ声はかけない。ただ、見ていた。
どこか、音楽のイントロのような、淡い気配がそこに漂っていた。
彼女が本を閉じて席を立とうとしたとき、思わず
「……その本、面白い?」
と声が出た。抑えきれなかった。
彼女は少しだけ驚いたように目を丸くして、僕を見た。
「うん……ちょっと難しかったけど、面白い」
笑った顔が、間違いなかった。
大人のケイコの、あの笑顔の原型がそこにあった。
「よかったら、これもおすすめ」
僕は自分が読んでいた『ことばの手ざわり』という古いコピー論の本を差し出した。
彼女は表紙を見て、すこし首を傾げた。
「ことばって、さわるものなん?」
「触れるというより、沁みるって感じかな。読み方で手ざわり変わるって、書いてあったよ」
ケイコはページをめくって、数秒黙ったあと、くすっと笑った。
「……わかった。読んでみる」
そして、そのまま静かに図書室を出て行った。
僕は椅子に戻り、もう一度、本を開いた。
さっきまでのページが、わずかにあたたかかった。
彼女の指が触れたところに、時間じゃない何かが、たしかに残っていた。
——もしかしたら、彼女も、何かを感じたのかもしれない。
今はまだ、遠い。
でも、同じ風の中にいる。
それだけで、今夜は少しだけ眠れそうな気がした。




