【第11話】言葉の種、風の中の面影
週明けのオフィスは、相変わらず騒がしかった。
電話は朝から鳴りっぱなし、プリンターはギィギィ唸り、上司は「ファックス送った!?」を連呼していた。
僕はといえば、スケジュール表と伝票と得意先の要望を三つ巴で追いかけていた。
営業の仕事なんて本当はやりたくなかった。コピーを書きたかった。
でも、いまは“走っている”ということ自体が、不思議と楽しかった。
「ハル、お前コピーのセンスあるな。こっそり作ってみ」
そう言ってくれたのは、三つ上の先輩だった。
その人は入社三年目にしてすでに電通との折衝を任されていて、クールな印象とは裏腹に、部下にはやさしかった。
夜、オフィスの会議室でこっそりコピー案を練っていると、向こうの部屋で同期たちがチラシのレイアウトに悪戦苦闘していた。
僕はひとこと、「ここの文字、縦の方が流れいいんちゃうか?」とつぶやいただけだったが、彼らは真剣にうなずいて、レイアウトを修正しはじめた。
——そうだ。こんなふうに、自分の言葉が誰かの何かに“届く”瞬間が、好きだった。
その夜はコンビニで買ったカップラーメンを、事務所の非常階段で食べた。
風は冷たく、コンクリの匂いが鼻に残った。
遠くに見える新大阪駅の輪郭が、ビルの間からぽっかり浮かんでいた。
翌日の午後、得意先に届け物をしての帰り道、僕は天満橋の川沿いを歩いていた。
橋の欄干に手を置き、缶コーヒーを口に運んだそのとき、川向こうの商店街の入り口で誰かがスケッチブックを落としたのが見えた。
制服の女の子が、慌ててそれを拾い上げる。
……一瞬、鼓動が止まる。
風に揺れた髪の動き、少し内股気味な歩き方、そして横顔のフォルム。
どこかで何百回も見てきた気がした。
いや、確信があった。
「ケイコ……」
そう口に出したとたん、風が吹き抜けた。
次の瞬間、彼女の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。
会社の上司に無理を言って保証人になってもらい何とか借りられた部屋のベッドに横たわりながら、僕は天井を見つめていた。
見間違いではない。あの横顔、あの歩き方。
——13歳のケイコだった。
現実の記憶の中にある妻。46歳のケイコ。
その姿が、今は13歳の少女としてこの世界に生きている。
「これ、いったいどうなるんやろ……」
会っていいのか。
話しかけてしまってもいいのか。
そもそも彼女は、僕のことを“未来の夫”として覚えてくれるのだろうか。
ラジオをつけると、サザンの「いとしのエリー」が流れてきた。
あのメロディだけで、胸の奥に海の光と遠い夏の匂いがよみがえる。
「……俺の人生、また動き出したんかもな」
そうつぶやいたとき、部屋の外を誰かが通り過ぎた音がした。
ドアの下に、何かがスッと差し込まれた。
拾い上げると、それは1枚のカードだった。
表には、小さく手書きでこう記されていた。
“いつか、話そう。”
文字の右下に、小さな鉛筆書きの“K”のイニシャル。
僕は、心臓が強く打つのを感じながら、カードを胸ポケットにしまった。




