1:マリーグレイス、生まれる。
よかった、ちゃんと年内に生まれた!
薄らと暗い冬の夕暮れどき。
重く厚い灰色の雪雲に覆われた厳冬の空の下に、なだらかな傾斜地の頂点に高く聳える堅牢な城が見える。扇状に大河ワズ川へ向かって広がる斜面には、領都の街並みが広がっていた。城壁付近には家臣団の屋敷が整然と立ち並ぶ。川縁に向かって街並みは少しずつ猥雑になってゆく。船着場がある河岸周辺の建物にはすでに明かりが灯り始めていた。
————不意に上空の雲が割れた。裂け目から薄い玻璃のような黄金の光が差し込み、領都に満ちてゆく残日の薄い闇からワイズロッド公爵家の居城を切り抜いた。
「ふんぎゃーーーーーーーーーーーァぁぁぁぁっっ」
奇跡を描いた絵画のような眺望が現れたと同時に、城の南面に設られた産屋から、元気な元気な、聞く人によると悲痛とも思えるような、高らかな産声が上がった。
マリーグレイスの誕生である。
雲が割れ、垣間見えた淡いグレープフルーツ色の空から金色の薄日が城を照らし出したとき。城都を望む丘越えの道に、一両の頑丈な馬車とそれを囲むように配置された冬装備の騎士の一団が差し掛かっていた。馬車が止まり中から出てきた銀鼠色の髪の大柄な男を、ルーファス・ロアン・ワイズロッドという。領主ソフィーリア・ワイズロッド公爵の伴侶であり、この国の宰相を務める男だ。
「・・・空が。父上」
馬車の窓から身を乗り出し城の方角を見た美しい月色の髪の少年はアレクシス・ワイズロッド、その胸元から半分だけ顔を出している銀髪の愛くるしい幼児はジョシュア・ワイズロッド。公爵家の10歳と5歳の兄弟だった。
「・・・吉兆だ。心配するな」
ルーファスは子供達を振り向きもせず平坦な口調でそう告げると、先頭を守る騎士に歩み寄る。
「アレン、馬を貸せ」
「は? しかし閣下」
「シリウスなら凍てついた街道でも駆けられる。目利きのソフィーリアが下賜した馬だ」
そう言いつつ手綱を奪い、戸惑う公爵家騎士団副団長アランを引き摺り下ろす。
「お前は馬車に同乗し息子たちを守りながら来い。頼んだぞ」
ついでにアランから分厚い外套をひっぺがしてバサリと羽織ったルーファスは、城に向かう街道を一目散に駆け出した。
「父上!!!私も行きます!!!!!」
背後で長男アレクシスの悲痛な叫びが聞こえたけれど、去来する胸騒ぎに構ってやる余裕はなかった。
魔力の高い子供を出産するのは命懸けである。
長男アレクシスの時も次男ジョシュアの時も、出産後のソフィーリアは生死の境を彷徨った。特に魔力の大きなジョシュアの妊娠出産は過酷だった。自分よりも魔力の高い子供を身籠ることだけでも母体は苛まれる。血液を通して混ざり込む胎児の魔力を体外に放出する最高級の魔道具を装着していても、ダメージがなくなるわけではないのだ。
王侯貴族であれば、生まれる予定の王子か王女の年齢になるべく近くなるように子供を儲けるのは当然のならいだったし、心身ともに健康な上位貴族の夫婦であればいずれ王子や王女とともに国を支える子息女を家門から排出するのは、為すべき重要な政略だ。
謀反を疑われないためにも、特に王族にも比類する力を有すると評価されるワイズロッド公爵家の女当主ソフィーリアはこの政略的な妊娠出産を、領民の平和と領地の安全保障のため己の為すべき仕事であると思い極めてる。配偶者であるルーファスは、それを十二分に理解していた。
学生時代に公爵家から打診された政略結婚だった。
歴史ばかり古い貧乏伯爵家ロアンの嫡男だったルーファスを爵位ごと公爵家に取り込むことを望んだのは、弟を退け次期公爵の地位を確定させていたソフィーリアの望みだった。
ソフィーリアとは、入学から卒業まで首席と次席を争った。
幼い頃から貧乏伯爵家での苦労が絶えず常時表情筋が死んでいるルーファスと、恵まれた境遇に比例する厳しい教育をしれっとした顔で体得してきた穏やかでたおやかな美貌の公爵令嬢の組み合わせが公表されたのは、2人の卒業式当日。式典会場にルーファスはソフィーリアをエスコートして入場した。ルーファスはソフィーリアの瞳の翡翠色を、ソフィーリアはルーファスの瞳の紫紺を差し色にした衣装を身につけた。並び歩く2人の姿に式典会場は騒然となったものだ。空気を震わせる衆目のどよめきに、ルーファスの頬はぴくりと引き攣ったけれども、ソフィーリアは小憎らしいほどに平静で冷静で、なんなら薄らと幸せオーラまで発散してみせる余裕があって……
度量の違いをまざまざと見せつけられて、悔しかったものだ。
緩やかにうねり流れる月色の髪。
新緑の森に開けた湖のような澄んだ翡翠色の瞳。
細身に見えて、護身のためしっかりと鍛え上げているしなやかな身体。
怒った時に口元に静かに浮かぶ冷たい微笑は、ルーファスの背筋をも凍らせる。
強かな人だ。
自分などいなくても、北に広がる魔の森と北東に位置する癖の強い隣国フェンザズ帝国との境を擁する公爵家を回せる手腕と度量を持った人だ。
妊娠出産という命を削る政略を3度も試みる無謀にルーファスは反対した。1度で十分だ。長男を得たならもういいだろうと主張した。けれども、彼女は受け入れなかった。アレクシスは第一王子と同年代、ジョシュアは第一王女の一つ年下、そして夏に生まれた第二王子の世代に加わる子供が生まれる。
今回の妊娠はずっと楽だと聞いていたが、安心などできるはずがない。
これで最後にするからと笑うソフィーリアが出産のために王都から領都へ向かったのは、半年ほど前だ。以来、彼女の顔を見ていない。
最後は女の子がいいと言った。名前を決めろというから『マリーグレイス』とまだ生まれぬ、性別も分からないお腹の中の子供に名前をつけた。ルーファスが丁寧に書いた名付けのカードを受け取って、いい名前ねと小さく笑て本領に向かったのが若葉の眩しい初夏だった。
—————あの美しすぎる眺めは何の兆候だ?
胸騒ぎがしてしょうがない。
馬を駆り城に辿り着いたルーファスは、怒鳴りつけるように開門を叫んで城内に駆け込む。
シリウスから飛び降り、玄関ホールに転がり出るように現れた初老の執事長をせかしてソフィーリアのいる部屋へ急行した。




