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第四章  夢見る山と咎 ~Seekers

 山肌から削りだされたような坂道から下りてきたのは、目に痛いほど白い肌に、蕾の人々が着ていたような、たっぷりとした衣をまとわせた人でした。彫像のようなくっきりとした顔立ちが印象的で、背はアリューテたちよりも高く、そして、布の合間から突き出た手足の所々が、何か大きな怪物に食いちぎられでもしたように、引きつれて壊れています。しかし、その所作は滑らかで、どうやら本当に怪我をしているわけではなく、体の表面が生まれつき変性しているようでした。

「この時期は、まだ蕾の使いが来るには早いはずですが……そもそもあなた方は、あまり蕾の方のようには見えませんね」

 よく響く、聞き取りやすい声です。アリューテは、ルーヤに支えられて、何とか立ち上がりましたが、それでも、自分たちについて丁寧に説明する気力はありませんでした。代わりにルーヤが、素性といきさつをかいつまんで話します。

「僕たちは、揺籠の出身です。少し込み入った事情があるのですが、戦乱から逃れるために、蕾の方々に、山脈社を紹介してもらったんです」

 目の前に立つその人は、考え込むような沈黙の後、こう言いました。

「ともかく、お話を伺いましょう。建物まで登れそうですか」

 アリューテの肩を支えるルーヤの手から、小さな動揺が感じられます。

「いいんですか? 突然やってきて、敵かもしれないとか、お考えにならないんですか」

「このような奇異なる来訪者を追い返したら、こっぴどく叱られてしまいます。それに、ご案内するのは入り口の辺りまでです。我々の建物は迷宮のようなものですから」

 その人は、中指から小指までが癒着したような、いびつながらも清潔感のある手を、こちらに伸べました。

「私はササリエ。山脈の外交官の下っ端です」

 アリューテがしばらくぼうっとそれを眺めていると、ササリエはふいと手をルーヤのほうに向けて、蕾社の父を繋ぐ縄を手に取りました。どうやら、引いて行ってくれるようです。

「さあ、こちらへ。山はお二人を歓迎しますよ」


 建物の入り口は、坂をずっと登っていった先の岩肌に、ぽっかりとくりぬかれたように開いていました。ササリエを先導に、アリューテたちがその中へと足を踏み入れると、中は驚くほど明るく、しかも、天井も高く抜けています。山脈社の建物は、山肌から突き出した塔のような格好ですが、どうやら山に沈み込んでいる部分は、岩を掘って空間を作ってあるようです。振り向いてみると、背後の滑らかな壁のあちこちに、大きな窓が作られて、そこから外の光が差し込んでいました。

 ササリエが連絡をしていたのか――竜でも蕾でも、アリューテたちには感じ取れないもので意思疎通をしていたようですし、ここで同じことが起こらないとは限りません――、その広い空間には、既に誰かが待ち構えていました。その人はササリエと同じように、真っ白な、ところどころが削れたような姿をしていて、特に顔の、本来左目がある辺りから側頭部にかけてが潰れて駄目になっていました。背はササリエより低く、アリューテたちとさほど変わりません。

 その人はアリューテたちが入ってくるのを見るや、いそいそと近寄ってくると、ササリエを押しのけるようにして、アリューテの前に立ちました。

「あなた方が、揺籠から来たという客人ですな」

 その人が急に距離を詰めてきたかと思うと、アリューテとルーヤの手を順に取り、強く握って上下に振りました。

「お会いできて光栄です。あなた方、お名前は? 何故、遠く離れた山の地に? ああ、すみません。私はユンムルと申します」

 ぽかんとするアリューテとルーヤの周囲を、ぐるぐると回って観察しながら、ユンムルはまくし立てます。

「それにしても、ひどい格好ですなあ。まさか砂漠を越えて来られたので? なんとまあ、大変なことをなさったものです。たったお二人でいらっしゃったのですか?」

「いえ、その……仲間が」

 ルーヤが口を挟もうとしますが、ユンムルがぐぐっと脚に顔を近づけたので、怯えるように言葉を切ってしまいました。

「これは、怪我をなさったのですかな? 紙が巻いてありますが。どれどれ」

 ユンムルが勝手に、ルーヤの脚に縛ってあった地図を取り外します。アリューテはここにきてようやく、抗議のために自分から発言しました。

「何をするのです」

「いやいや、お怪我なさっているのなら、相応の用意がいるでしょう」

 ユンムルは悪びれもせずに答えて、それから、おや、と顔を引きました。

「何ともないではありませんか。ではこの処置は、一体? ああ、詰め物が外れかかって、隙間が空いてしまいそうなのですな。それにしても……ふむ、これは……わざとはがしでもしたのですかな?」

 その言葉に、アリューテもルーヤもびっくりして、固まってしまいました。ユンムルはその引きつれたような指を、ルーヤの脚に走らせます。

「しかし、これは妙な具合になっていますな。ここから下は、表皮の錆が随分と少ない。覆いでもしてあったのですかな? いやはや、興味深い」

 ユンムルはここでやっと、アリューテたちの顔を見上げました。

「おや、教えて下さらないのですか?」

 アリューテは、割って入る間などなかっただろうと思いましたが、口にはしませんでした。ユンムルはなおも、ルーヤの脚をしげしげと眺めています。

「よく見ると、色の具合も、外れた詰め物の下側だけ違いますな。素材の分量が異なっているのでしょうか? 一人の表皮でこういった差異があるのは珍しいですな」

 アリューテは少し言いよどんでから、それでも、こう打ち明けました。

「この子の脚は……もともと、別の仲間のものなのです」

 ユンムルは、唖然としているようでした。アリューテ自身、そのような話はほかに聞いたことがありませんでしたから、驚くのも不思議ではないと思う一方、ユンムルのそれは、ただ未知なるものを目にしたのとは質が違うようにも感じられました。

「つまり――別人の器官を取り外して、付け替えたと。そしてそれが、まるでもともとついていたものかのように、神経がかよって機能していると、そういうことですかな」

「ええ……そういうことになるのではないかと、思いますが」

「いやはや……」

 ユンムルは大きくかぶりを振ったかと思うと、アリューテたちがそこにいるのを忘れたかのごとく、立ち上がって、その場でぐるぐると歩き始めました。

「……それは……」

 歩き続けるユンムルから、不意に言葉が投げられます。

「それは、揺籠にそういった技術があるということですな?」

「いえ……」

 ユンムルが弾かれたように足を止めて振り返ったので、アリューテはびくっとし、言葉を継ぎました。

「わ、分かりません。私は、城――私の故郷で行われていた研究について、詳しくありませんから、実はあるのかもしれません。ですが、ルーヤの脚を取り換えたのは、私が自分でしたことです」

「なんと、それは……いやはや……」

 ユンムルはまた、ぶつぶつ言いながら首を振っています。

「そうすると、何ですかな……あなたは、そう……やってみたら、できた、と」

「ええ、まあ……」

 ユンムルはどこか、腹を立てているかのように、腕をぶんぶん振りました。

「信じがたい。あなた、信じがたいことですぞ、これは」

「はあ、そうなのでしょうか」

「そうですとも。それこそは我らが悲願、我らが長い年月をかけての探究で、決してなしえなかったことなのですぞ。それを成したとなると、これは……ああ、本当に、本当でしょうな?」

 アリューテが気おされながらもうなずくと、ユンムルはまた、大きく腕を振って、踵を返しました。

「これは皆に伝えねばならん……あなたがた、少しここで待っていてくだされ。じきにまた誰か寄越しますからな。ササリエ、すまんが元老たちに連絡をしておいてくれるかね」

 ササリエが頷き、二人は早足に、それぞれ別の廊下へと姿を消しました。残されたアリューテとルーヤは、お互いに顔を見合わせ、揃って小さく肩を落とします。

「さっきの人、何なんでしょう。ちょっと、その、気色が悪くありませんか」

 ルーヤが言いにくそうにこぼすので、アリューテは曖昧に相槌を打ちました。

「まあ……ですが、ここのことは、私たちも、まだ良く知らないわけですし、何か事情があるのかもしれません」

「向こうだって、僕らのことを知らないのは同じでしょう。今のはやっぱり、不躾ですよ。あの人たちに助けを求めて、大丈夫なんでしょうか」

 ルーヤの心配も、今となってはもっともなように思われます。何せ、アリューテたちは、山脈社が蕾社の交易相手で、今回の戦に関わりそうもない唯一の場所、という程度のことしか、ウィマーニーから知らされていないのです。アリューテは、それだけしか知らないのに、何故たくさんの仲間を犠牲にしてまでここを目指したのか、自分でもよく分かりませんでした。


 さほど経たないうちに、ササリエもユンムルも、アリューテたちのもとに戻ってきました。しかも後ろに、山脈の仲間と思われる人々を、幾人も連れています。皆、一歩後ろのほうに立ってこそいますが、興味津々といった様子で、アリューテたちを見つめていました。ユンムルが人のよさそうな仕草で両手を広げます。

「さあ、お二方、ひとまずこちらへ。奥へご案内しましょう」

 アリューテとルーヤは、目配せをしあってから、仕方なくユンムルたちについていきました。

 一行は、廊下の奥へと進んでいきます。歩いているだけでも、この建物が、かなり山の深みまで掘られていることが分かりました。廊下はほとんど扉もなく、まっすぐに伸びていましたが、あるところで階段を上ると、その先が入り口と同じように明るい、広間になっていました。どうやらここも、山肌の外に接していて、空からの光を取り入れているようです。広間にはたった今上がってきた階段を含めて、四つの出入り口がありました。

 ユンムルが、アリューテを指先で手招きします。

「あなたは私と一緒においでください、ええと……そういえば、お名前をうかがっておりませんでしたな?」

「アリューテです。こちらは、ルーヤ」

「ではアリューテ殿は、私と共に。ルーヤ殿は、ササリエがご案内いたします」

 ササリエと、その後ろに並ぶ人々が、一斉に頭を下げました。ルーヤは不安そうにアリューテへ視線を寄越しますが、まだここでの対応を決めかねているアリューテが曖昧にその目を見返すと、覚悟を決めたようにうなずきました。

「分かりました。アリューテさん、また後で」

 ササリエたちは、ルーヤを伴って、右側の廊下へと姿を消しました。

 残されたアリューテが何気なく目をやると、ユンムルはうずうずと身をゆすりながら、アリューテを左手に伸びる廊下へ誘おうとしていました。

「さあ、さあ、こちらへどうぞ」

 アリューテとユンムルは、廊下を奥へと進みました。明るい広間からの光が届かなくなると、廊下を照らすのは、冷たい色合いの照明の光だけになりました。

「それでは、早速伺いたいのですが……」

 ユンムルが、水晶のように透き通った片目を輝かせて、アリューテの顔を覗き込んできます。

「あなたは先ほど、あの継ぎ替えは、揺籠の研究の一環で行ったものではないと、そういった趣旨のことを仰いましたな。では、どういったいきさつでなさったのです?」

 アリューテはその、悪意はないらしいものの、不思議と気迫のある言葉に、口ごもりながらも、隠さず答えました。

「いきさつと言いましても、成り行きというか、必要に迫られてのことだったのです。ルーヤは、もともと足が悪くて……ここに来ることになったのは、滞在していた蕾社が戦乱に巻き込まれそうだということで、逃げるようにと案内してもらってのことなのですが……過酷な道を進むうちに、仲間の一人が、点滴を受けられない体になってしまいました。彼女は、脚は健康でしたから、ルーヤの脚と取り換えることができれば、せめてルーヤは一緒に進めるだろうと……」

 言いながらアリューテは、気分が沈んできて、思わずこんなことを口走りました。

「あれ以外のいい方法はなかったんでしょうか。私はもっと、うまいこと、二人を助けることができたんじゃ……」

「ふむ、ふむ」

 ユンムルは重々しく相槌を打っていますが、アリューテにはそれがどこか、興味のない話をさっさと聞き流してしまおうという調子にも思われました。

「それは、大変苦労なさったのですなあ。他にお仲間はいらっしゃらなかったので?」

「途中ではぐれてしまったのです」

 アリューテはそう返してから、はっと思い出して、ユンムルに訊ねました。

「ここに、私たちの仲間が来ていませんか。少なくとも数十人はいるはずなのですが」

 ユンムルは肩をすくめます。

「そのような大所帯は、ここ何十年もいらしていないと思いますがね」

 アリューテも、アークェたちが到着していたら、すぐにそれと分かっただろうと考えていましたから、これは予想通りの回答ではありました。それでもアリューテは、こう付け加えます。

「仲間が同じように、ここを目指しているはずなのです。もし後から誰かが辿りついたら、教えていただけませんか」

「それは構いませんが、あまり人数が多いと、元老たちが立ち入りを拒むかもしれませんぞ。我々は揺籠と違って小規模な集団なので、長たちが警戒するはずです。まあ私なぞは、来客はいくらでも歓迎なのですがね……もちろん、あなたやルーヤ殿と違った手合いの方もいらっしゃるのでしょう?」

 ユンムルがうっとりと両頬を手で包んでいるので、アリューテは何だか嫌な予感がして、話題を変えました。

「あなたは先ほど、ルーヤの脚を取り換えたのが、自分たちにできなかった悲願のようなものだと、そう仰いましたね。ここでは、そのような研究が行われているのですか?」

「そうですとも」

 ユンムルは大きく頷きました。

「我が社で研究を進めているものごとのうち、目下の大課題がそれなのですが、さて、さて……何からお話ししたものでしょうかな」

 ユンムルは歩きながら、両手をせわしなくこすり合わせています。

「我々も、まさか外部の来訪者から成功例がもたらされるとは、夢にも思っていなかったのですよ。詳しい方法については、後ほど詳しくうかがうこととして……まずもって、何を我々がそんなに驚いているのか、というところからでしょうかな」

「ええ。ぜひ、お聞かせ願いたいところです」

「人間が滅びの淵にあるということはご存じで?」

「はい」

「これはさしもの揺籠社でも、共通の認識といったところですかな。このままいけば、自律工場の設計図は歪み続け、人類の在り方もまた、それに伴って狂っていってしまうでしょう。自律工場の製法や修繕法は、もっぱら神々の間で受け継がれたもので、我々人間には断片しか与えられず、その断片すらも、永い時とともに失われてしまった。これは、人間という個体についても同じことです。自律工場の機構が分からないということは、人間の機構が分からないというのと同義ですからな」

 この間、アリューテは相槌すら打っていないのですが、ユンムルは気にした様子もありません。こつこつと足裏を鳴らして廊下を進みつつ、説明を続けます。

「つまり、自律工場に繁殖を依存する我々は、その世代交代に伴う身体の変性を甘んじて受け入れるしかありません。究極的には、これが諸悪の根源のようなものです。これがあるために、人間は滅びようとしているし、その運命を少しでも遅らせようと、企業同士が醜い争いを繰り広げているのです。では、この問題が解決されるなら、どうか」

「え?」

「え、ではありませんぞ」

 ユンムルはこのときになって、やっとアリューテの方を振り向きました。

「お分かりになりませんか。自律工場の変性は、種類や企業によってその箇所が全く異なります。もし、複数の人間のまともに機能する部分を切り出して、互いに継ぎ合わせる技術が確立できたなら、人類という種族は、当面生き永らえるでしょう」

「それは――そうかもしれませんが」

 アリューテは口ごもりました。

「ですがそれは、ただ問題を先送りにしているだけなのではありませんか。私のしたことが、そういった可能性を提示するものだとしても――」

「そう、可能性です。この状況においては、それが最も肝要なことなのです」

 ユンムルはアリューテの言葉を遮り、大きく頷いてみせました。

「あなたの言わんとすることもよく分かります。そういった技術ができたとして、ありとあらゆる自律工場の設計図が致命的に変性すれば、再び人類が滅亡の淵に立たされることは確実でしょう。ですが、よろしいですかな、今まではそれすらできなかったのです。それが可能になったとすれば、それは、我々人類が、現状よりも叡智の水準を押し上げて、困難を打開できるかもしれないという、その先駆になるのです」

 アリューテは半ば無意識に、片手で自分の肘辺りを掴みました。

「私のしたことは、そのような、大層なものだったのでしょうか」

「あなたの言葉が事実なら、そうでしょう」

「ですが、ただ脚を――その、脚を継ぎ目のところから取り外しただけでも、詳しい仕組みはともかく、どこをどう繋げばいいのかは、おおよそ分かりました。私は、知識があったわけでも、研究に携わった経験があるわけでもありません。あんな簡単なことを、これまで誰一人試さず、成功させなかったなどということが、ありえるのでしょうか」

「考えられるのは二つですな」

 ユンムルは迷いなく返しました。

「あなたがかつて存在しなかったほどの、天性の才能を持っていた。もしくは、揺籠社の人間が、そもそも継ぎ替えがやりやすいような体の構造をしていた。私が思うに、後者が妥当でしょう」

 アリューテがぴんときていないことに気付いたのか、ユンムルは説明を加えました。

「我々は、器官の継ぎ替えについては何世代もかけて研究を繰り返しております。しかし、それは常に、山脈の死亡した者を使ってのことです。揺籠の人間など、私とて初めて見ましたからな。揺籠社の人間が、山脈の人間とは全く異なる体の構造をしていたとしても、驚くことはないでしょう」

「ですが、それだと、揺籠社の賢者の方々が少し思い立てば、その事実に気付いていたはずではありませんか」

「気付いた者が既にいる可能性も否定はできませんがな、私の意見では、誰一人思い立たなかったのでしょう」

 アリューテは困惑しました。

「そんなことがあり得るのですか? あなたも仰っていたではありませんか。もし可能になれば、滅亡を当面回避しうると。そんな重要な技術を、誰も試さないなどということがあるでしょうか」

「我が社ならともかく、別の企業なら十分考えられることでしょう。たとえば、揺籠では各々の業務が明確で、役目と異なることを行う人など、いなかったのではありませんか?」

 アリューテが戸惑いがちに頷くと、ユンムルは首を振ってみせました。

「それではいけません。与えられた役目のみをいくら懸命にこなしても、進歩は遅いのです。この世の全てのものは、独立にではなく、複雑に絡み合って存在しているのですから、たとえ一つの分野を探究するのであっても、そこから外れた事柄への知識が糧となるものです。よその企業は、そこらへんが弱いのですな。ひっくるめて言えば、揺籠の研究者は、昔から定められた自分の職務に邁進するばかりで、まだ誰も試したことのないことを試そうとはしなかったのでしょう」

 アリューテはその言葉から、実感は湧かないものの、どことなく、的を射た指摘という印象を受けました。城での生き方が、ユンムルの言うような劣ったものだとは思いませんが、少なくとも、新しい事実を発見し、それに基づいて技術を発展させるということには、なかなか繋がらないでしょう。

 アリューテはそこで、ふと、訊ねました。

「私の故郷ではそうですが、では、あなたがたはどうして、そういった研究を試みようと考えたのですか?」

 ユンムルは自慢げに首をそらせると、芝居がかった仕草で、また歩き始めました。

「我らが『山脈の鋭き尾根』社の者は、あなたがた、ほかの企業の人間とは、決定的に性質が違うのです。例えば、そうですな、あなたがたは、生まれついたときから明確な自我と知性、知識を具えているでしょう」

「ええ。それが普通なのではありませんか?」

「ところが、我が社の人間は違うのです。我々は最初、何も知らないまっさらな状態で生まれます。知識や技術というものは、ああもちろん、言語や文字も含めてですが、全て後天的に、先に生まれて既に十分な能力を得た者たちから教わることで身につけるのです。これがどういった効果をもたらすかお分かりですかな?」

 ユンムルは問いかけておきながら、アリューテが考えるのを待たずに続けます。

「ここには進歩の余地があるのです。生まれたときから十全のものを与えられていると、それを後から変化させるのは非常に難しい。ですが我々の場合、もし先人が何か、効率のいい技術を発見していたとすると、新しい世代には、古い技術を教えずに、それを真っ先に教えることができます。彼らは効率のいい技術のほうを当然のものとして、その後の人生を生きていくわけです。もっというと我々は、新しいことを学ぶということを、生まれながらの性質として持っているわけですから、今までにない技術を見つけ出すことに、抵抗というものがありません」

 ユンムルはここでふと足を止め、目の前にある扉を開けました。その先は薄暗く、整然と棚が並べられていて、そこにぎっしりと、石板が詰め込まれています。

「ちなみに、かつてこの世界を支配した神々も、我々と同様、知識を後天的に会得する性質だったようですぞ。つまり我々は、神々の在り方に最も近いと言っても――」

「待ってください、そんなことは初耳です」

 扉の向こうに足を踏み入れようとしていたユンムルは、振り向いて肩をすくめました。

「それは、あなたは知らんでしょうな」

「ではあなたは、どうして神代のことを知っているのです」

「先祖から知識が受け継がれているからですよ。これもまた、今の話の効用なのです。我々は生まれながらに無知ですから、知識を得ようと思えば、先人のそれに依存するしかありません。先人たちもそれを知っているので、様々な記録でもって、知識、技術、そしてかつて起こった歴史を残しているのです。神代のただ中に記された記録なぞは、かなりの部分が失われていますし、残っているものも我々の読めない方式で記されているのですがね。それでもかなり古い記録が、いくらか保管されているのです」

 アリューテは、思わず訊ねました。

「ほかのこともご存じなのですか。例えば、私たちが何故造られたのかとか、企業というものの由来とか……」

「無論ですとも。我々は、古の歴史を最も深く知る企業ですぞ」

 ユンムルは誇らしげに胸を張って、石板で埋め尽くされた棚の間を歩いていきます。

「折角ですから、それからお話いたしましょう。――そもそも企業というのは、神代から続くものなのです。その昔、神々は皆例外なく四つの企業のいずれかに属し、企業のために働き、戦ったと聞きます。その際、神々が直接手をわずらわせるまでもないような、諸々の雑務をさせるために、自らの姿に似せて、我々を造りたもうたと――」

 アリューテは一瞬固まって、直後にユンムルを問いただしました。

「では神様は私たちを、仕事をさせるために造ったということですか」

「ええ、たった今そう言ったではありませんか」

 ユンムルが気おされたようにたじろぎます。

「確かなことなのですか? そういった記録があると?」

「はっきりとそういった文言が残されているわけではありませんが、これは我が社では通説でして……諸々の描写を見るに、それ以外に解釈の余地はないのです」

「諸々の描写というのは、どういったものなのです」

 ユンムルはとうとう、ぽっきり折れたようにうなだれました。

「そんなに気になりますか。そうですね、例えば、建物を建てるのに数百人が動員されたらしいとか、神々が近くに控えさせていた、色々なことを覚えさせておくための人間が何々をしたそうだとか、そういった類のものです。申し上げた通り、神代の書物を読み解く技術は失われていまして、これらも全て後々の記述ではありますが、人間については徹頭徹尾、何らかの仕事と関連づけられて書かれているのです。もっと別な目的で造られていたなら、一つや二つ、違った書き方をしたものが見つかっていてもいいでしょう」

 アリューテはそれを聞きながら、ずっともやもやと深みによどんでいた、不安、疑念、そういったものが、ゆっくりとほどけていくのを感じました。

「ああ、やっぱり、そうだった」

 アリューテは思わずつぶやきました。

「私たちには生まれる前から役目が定められていて、そのために生きるというのが、神代からの自然なあり方なのだわ。私は、仲間たちは、何も間違っていなかった」

 身の内からわき起こる、この務めを果たさんとする衝動は、思い込まされたものでも何でもありません。間違いなくアリューテという人間が持つ、本来の心の動きなのです。アリューテは自分の気持ちを信じてよいのです。

 アリューテは深々と、ユンムルに頭を下げました。

「ユンムルさん、ありがとうございます。私、今の話だけでも、聞けて本当に嬉しいです」

「はあ、左様ですか」

 ユンムルは困惑気味に顎を撫でています。

「しかし実際のところ、神代で何らかの目的をもって我らが造られていたとして、神々はもうこの世のどこにもいないわけですからなあ。最早我々が本来のあり方に沿って生きることなど、そもそも不可能なのですぞ」

「分かっています。私も、神様とやらにはお会いしたことがありませんから。これは、そう――精神的な話です」

「はあ」

 ユンムルの声はまだ怪訝そうでしたが、アリューテは納得する答えを見つけられた感動に浸っていたので、気になりませんでした。ユンムルは肩をすくめています。

「まあ、構いませんが。あなた方が企業ごとに争い続けているのも、そのように造られたからというのが大きいのでしょうからな」

 アリューテは言われて、ようやく我に返りました。

「私たちの仕事というのが、本来、別の企業と戦うことだったと?」

「大本を辿れば、ですがね。神々にとってみれば、それが一番合理的だという話ですよ」

 ユンムルはやれやれと首を振ってから、棚に貼られた標識を指先で辿りつつ、また歩きはじめます。

「我々はどんなに長くとも二十年ほどしか生きられませんが、神々は非常に長命で、百年も生きるうえ、多少の傷はひとりでに塞がり、肌が水に触れても体を侵されることがなかったといいます。しかし決して不死身ではないのです。神々はその長命さにも関わらず――あるいは長命であるがゆえかもしれませんが、死をひどく恐れたそうでしてね。戦いというのは危ないでしょう。代わりの者に戦わせたいと考えるのは自然なことです」

 アリューテは、自然と湧き上がってきた疑問を、素直に口に出しました。

「では、神様はどうして争っていたのです? 死ぬのが恐ろしいのなら、戦争をやめればいいではありませんか」

「そこまでは何とも。我々が知っているのは、我々の存在や企業という枠組みがその戦いに由来することと、長い戦の結果として、この世界の大半が灰に沈み、神々もまた滅びてしまったということのみです」

「神様は、人間を代わりに戦わせたのに、滅びてしまったのですか」

「人間をいくら殺しても、企業そのものにとって十分な打撃とならないことは、どの企業に属する神々も承知していたでしょうからな。僕たる人間に、敵対企業の神を襲わせることも多かったのでしょう」

 アリューテは、心の中を駆け抜けた寒気に、思わず声を漏らしました。

「そうまでして……」

「おや、あなたにも、そういった感性はおありなのですな。我々にしてみても、神々の気性は、ちと苛烈に思えますが」

 ユンムルは棚の間をきょろきょろと覗き込み、ここで、別の通路に入りました。

「まあ、実際、奇妙な部分もあるのです。我々人間というものは、自律工場由来の変性を差し引いたとしても、企業ごとにひどく様相が異なりますが、かと思えば、似通った部分もあるのですからな。動力の互換がききますし、言語形態も近い。これは私の個人的な見解ですがね、企業というものは、神代の戦の前は、友好的な交流があったのではないかとすら思えるのです」

 アリューテの反応がないのに気付いているのかいないのか、ユンムルは嬉しそうに、あった、と声を上げました。

「この辺り、この棚から向こう十列ほどが、継ぎ替えの実験記録です。その過程で得られた、我々の体の構造に関する知見も、たくさん記されています」

 アリューテは唐突にそう言われて、はあ、と気の抜けた声を漏らしました。

「随分とたくさんあるのですね。それがどうしたのです?」

「どうしたも何も、あなたは研究者の類ではないのですか?」

 アリューテは呆気に取られましたが、ユンムルのほうでも、アリューテの反応に意外そうにしていました。

「違うのですかな? 今後、お互いの技術を発展させるためには、我々の積み重ねてきた知見をお見せするべきでしょう。あなたにとってめぼしいものがあるかは分かりませんが、我々も継ぎ替えの技術は是非実用化したいところ。できる限りの力添えはしましょうぞ」

「違います、私はただの水運びで……揺籠でも低位の労働者にすぎません。研究者だなんて、そんな」

「何ですと?」

 ユンムルは手に取りかけた石板を取り落としそうになって、ぎりぎりで受け止めました。

「あれほど先進的なことをなさったのですから、揺籠でもさぞ名高い方であろうと……そういえば、揺籠の研究には詳しくないとか何とかも仰っていましたが、なんとまあ、揺籠というところは、相当のぽんこつどもが牛耳っているようですな。いやしかし、考えてみれば、上に行くほど保守的な人間が多い可能性もあるわけですか」

 アリューテは、賢者たちをぽんこつ呼ばわりされて、さすがに文句の一つも言いたくなったのですが、そんな隙を与えるユンムルではありません。

「ということは、成り行きで必要に迫られて、というのは、ごく言葉通りの意味だったのですな。私はてっきり、もともと類似する研究をなさっていたものとばかり。失礼、失礼。我が社では、人間の半分は何らかの研究に従事しているもので、それが当然だと思っておりました。では、こういったものにはご関心がありませんか」

 ユンムルが、取り出したばかりの石板を片付けようとするので、アリューテは慌ててそれを止めました。

「いえ、関心がないわけではないのです。折角連れてきて頂いたのですから、お見せください」


 アリューテはユンムルの案内のもと、価値のありそうな石板を手にとっては目を通していきましたが、そこに記されているのは、大半が人間の内部構造の克明な模写で、部位ごとに様々試みた接続実験は、ことごとくが失敗しているようでした。それでも、アリューテにとっては、得るものもありました。

 第一に、ユンムルの推測はかなり的を射たものだったようです。石板に描かれた絵図は非常に複雑で、アリューテが目にした、ウルファやルーヤの脚内部と比べると、遥かに繊細そうでした。こうも部品が多いと、体の分解に成功したとして、それを再び別の人間に継ぎ合わせるのは、実際、至難の業でしょう。神々であれば、設計図から何から手元で読めるのでしょうから、何ということはなかったのでしょうが、今やそれが残っているかも怪しく、あったとして、それを読む術は失われているのですから。

 第二に、記録は、人体を構成する部品の機能から繋ぎ方を類推するということが、非常に困難であることを示唆しています。この記録における人体の分解は、アリューテが経験したものよりずっと徹底的でした。器官を交換するのに失敗してしまうと、今度は原型を残さず、部品単位にまでばらしているのです。そこから分かることは、極限まで分解した一部品ですら、人間には理解の及ばない、高度な技術で作られているということでした。部品を目の前に置かれたとして、アリューテたちには、それがどのような機能を持っているのかすら、判断がつかないのです。

 第三に――これがアリューテにとっては最も関心を引いたのですが――大量の資料のうちいくらかは、分解した一器官、ないし一部品に対して、衝撃を与えたり、水に浸したりと、様々な環境においた場合の変化を記していました。そして、ある記録が提示していたのが、体の内部にある部品が長時間水に触れ、錆びてしまうと、可動部の動きが如実に悪くなる、という実験結果でした。これのみでは、水がかかった直後に体が動かなくなる理屈は説明できませんが、少なくとも、一つの可能性を考えることができます。つまり、水が内部に侵入しなければ、体が動かなくなる危険性は低いのではないでしょうか。

 アリューテはその記述を読んだとき、思わず、石板から自分の脚へと目を移しました。ウルファもルーヤも、肌と肌の隙間を塞ぐための素材には、ところどころ、ほころびのように、薄くなって浮き上がった箇所がありました。あまり真剣に見たことはありませんでしたが、ほかの水運びも、おおよそ似たような状態だった気がします。アリューテの脚には、驚くほどそれが少ないのです。アリューテの肌にも、よく見ると、点々と茶色く錆が浮いた箇所があるにも関わらず、体が動かなくなるような致命的な症状が出ていないのは、内部に水が浸入しなかったからではないでしょうか。

 アリューテは、竜たちが城を襲った日のことを思いだしました。あのとき、シャルカマーリアは、アリューテの手を水に浸させ、のみならず、ほかの水運びを指名して、同じことをさせようとしました。そのとき、件の見慣れない賢者――エドゥムハジアの言から推察するに、あれが揺籠社においてシャルカマーリアより高位の『十六』だったのでしょうが――とシャルカマーリアが交わしていた会話も、アリューテは事細かに覚えています。

 アリューテは、どうやら、水を克服したと言ってもいい身体を持っています。そして、シャルカマーリアは、そのような人間を生み出すことをこそ、目的としていたのです。

 アリューテはその気付きに至ったとき、いても立ってもいられなくなって、石板を棚に押し戻して歩き出そうとし、そこで初めて、自分の体が重たいことに気付きました。あまり長い時間熱中していたために、前回の点滴から時間が空きすぎたのです。

 アリューテが慌てて石板を置き、棚の間から抜け出すと、ユンムルも棚に背中をもたせて、どこか憮然とした様子で宙を眺めているのでした。どうやら、アリューテのせいで、ユンムルにまで無理をさせてしまったようです。

「すみません、ユンムルさん。興味深い資料が多くて」

 ユンムルはぱっと顔をこちらに向けると、大きく手を振りました。

「いや、いや。それは何よりです。我々の先祖代々の研鑽が残した成果物ですから、それは興味深いでしょうとも。しかし、まあ、そろそろ一休みしてもいい頃合いかもしれませんな。なに、記録は逃げはしませんよ。お望みとあらば、また明日にでもご案内しましょう」

 アリューテとユンムルは連れ立って、石板が大量に収められた、書庫のような部屋を後にしました。

「合成機は、少し離れたところにありましてね。蕾のものが体に合ったということですから、おそらく我が社の端子も使えると思うのですが」

 ユンムルは、どんどん廊下を進んでいって、二人はとうとう、ルーヤと別れた広間にまで戻ってきました。誰もいない広間を何気なく見回して、アリューテはユンムルに訊ねます。

「ところで、ルーヤはどこにいるのです? 先に休憩しているのですか」

「あの方なら、研究区画にいるはずですよ」

 ユンムルはこちらを振り向きもせず、さらりと答えました。

「何せ、我々も継ぎ替えが成功した方は初めて目にしますからな。詳しく調べさせて頂かないと」

 アリューテは、ぴたりと足を止めました。

「その調べるというのは、どのような……?」

「それはもちろん、接合部を解体して――」

 アリューテはぎょっとして、悲鳴に近い声を上げました。

「何てことを!」

「は、しかし、あなたが仰ったのではありませんか、見ればすぐに分かったと――」

「ルーヤを連れて行ったのは、私がそうお伝えする前でしょう! それは、ルーヤは、今どこに!」

 アリューテに詰め寄られたユンムルは、たじたじと廊下を指さしました。

「す、すぐご案内します、こちらです」

 ユンムルを置き去りにする勢いで廊下を走り抜け、アリューテが部屋に駆けこんだとき、ルーヤは広いベッドに横たわって、周りを研究者たちらしき人々に取り囲まれていました。既に片脚が外れ、もう片方もかなりのケーブルが取り外されています。

「ルーヤ!」

 ぽかんとして身を起こそうとするルーヤに、アリューテは研究者たちを押しのけるようにして近寄りました。

「ルーヤ、今もとに戻しますからね」

「ちょ、ちょっと、あなた」

 研究者が肩に手をかけてくるのを、アリューテはひと睨みで離させると、ルーヤをまた寝かせました。研究者はアリューテたちを遠巻きにしていますが、せっせと紙に記録を取るのだけはやめようとしません。アリューテはそれに対しては文句をつけず、ベッドの下の方に置かれている脚を両手で抱え上げて、取り付け作業を始めました。

 アリューテが黙々とルーヤの脚のねじを締めていると、ルーヤが遠慮がちに申し出ます。

「怒らなくても大丈夫ですよ、アリューテさん。僕のことなら」

「いいえ。これは怒って然るべきです」

 アリューテは、整理されて広げられていたケーブルの束を指先で辿りながら、むっつりと言いました。

「でも、ちゃんと戻せそうじゃないですか。あの人たちだって、真剣に研究してるわけでしょう。僕の体を見せることぐらい……」

「いけません。せめて、一度内部の様子を見た私の立ち合いのもとでやるべきでした。その私ですらも、はっきりとした仕組みは分かっていないのですよ。せっかく動けるようになったのに、下手にいじって、また足を失うようなことになったらどうするのですか」

 アリューテが再びユンムルたちの方を睨むと、研究者たちは一斉に身を縮めます。ユンムルが、腕を控えめに振って弁明しました。

「もう二度といたしませんぞ。さっき、ある程度の記録は取りましたから、再度解体する必要は――」

 アリューテは深々とため息をつきました。これまでそのような真似はしたことがありませんでしたが、現在の心境を表現するには、なかなか効果てきめんでした。ユンムルを黙らせることができたばかりか、山脈の研究者たちに対して芽生えつつあったある種の尊敬の念が、まだアリューテの中で消えていないことを、隠していられたのですから。



 多少の波乱がありつつも、アリューテとルーヤはその後数日を山脈社で過ごしました。一つには、もちろん、アークェたちがそのうち辿りつくかもしれないという期待があったためですが、アリューテは実際のところ、ユンムルをはじめとする研究者たちとのやりとりに時間を費やしていました。無論、真っ先に着手したのが、ルーヤとウルファの脚部内構造を思い出しながら詳細に描いて、ユンムルたちに渡すことであったのは、言うまでもありません。

 今や好奇心旺盛な研究者たちは、アリューテをすっかり同志と認め、山の奥深くに造られた実験室にすら、好きに出入りをさせてくれるようになっていました。ここの人々を突き動かすのは、何よりも真新しいものを見たいという欲求で、そのためならば多少の危険性は受容して当然とでもいった態度です。もっとも、山脈の人間が束になってかかれば、アリューテが反抗することなどできないのですから、危険を承知でいるのはむしろ、アリューテのほうでした。今はアリューテという存在自体が真新しいので、それ以上のことを知ろうとはしてきませんが、もし物足りなく思われでもしたら、ルーヤともども解剖されないとも分かりません。エドゥムハジアがいつか冗談のように口にしたのとは違って、ここの人々は何の悪気もなく、簡単にそういったことをしでかしそうでした。

 アリューテはまた、研究者たちとの対話のうちに、知識だけでなく、いくらかの貴重な道具を借り受けることもできました。生まれ持った指でできることには限りがあるだろうというわけです。また、ここでは死んだ者をただちに神殿へ還すような風習はないらしく、あちこちに人間の死体や、それを解体した部品が保管されていて、アリューテにもその一部を触る権利が与えられました。それでアリューテは、ケーブルを綺麗に切断したり、ねじを素早くつけ外ししたり、薄い金属板を都合のいいように曲げたり、といった作業を、すぐに習得することができたのです。

 一方ルーヤは、自分では特に何をするでもなく、忠実なまでに、しかしどこか距離を置きながら、常にアリューテの側について行動していました。

 ルーヤはアリューテが研究者たちのもとで時を過ごすことに、特に文句をつけるわけでもなく、ただ理解できないものを見るように見ていました。とはいえアリューテも、自分がここまで技術の習得に熱中するのは何故なのか、よく分かっていませんでした。アリューテと似たようなことを試みてきた人々と共にいることで、罪の意識が薄らぐような気がするのでしょうか。あるいはアリューテの深奥には、もともとそういった、猟奇的ともいえる行動への関心があったのでしょうか……これが猟奇的でなくて何だというのでしょう? まして、これはアリューテがするべきことなのでしょうか? シャルカマーリアのもとで水運びとして生を受けた自分が――。

 何にしても、その日研究者たちとの会合がなかったのは、珍しい事態でした。その理由は明白といえば明白で、ササリエが――この人物は当初の申告通り研究者ではなく、従って気質もユンムルたちとは少し異なるようでした――元老たちからの通告と称して、部外者に機密情報をほいほい開示するのは感心しない、と言い出したためです。それでもユンムルをはじめとする一部の研究者は、アリューテのもとに試料を差し入れに来たのですが、めぼしいものは没収されてしまったようでした。

「アークェさんたち、来ませんね」

 部屋に備え付けの机について、部品の山を指先で崩しながら、ルーヤが何気なく呟きました。

 窓の外を眺めていたアリューテは、ルーヤの方へ目を向けると、思い切って提案します。

「ルーヤ、蕾社に戻りましょうか」

「ええっ?」

「もしかすると、アークェたちは、進むのを諦めたのかもしれません。蕾社に引き返したのかも……」

「そんな、だって……蕾は戦場になるって話だったじゃないですか。いくら道が危ないからって、戻ろうとは思わないんじゃないですか」

「もともと、山脈に逃れようというのは、私の決断です。私がいなくなったことで、揺籠の軍隊に助けを求めようと考えた可能性もあります。もっとも、蕾の地にはダウフィエたちもいますから、それが上手くいったとは限りませんが」

 ルーヤは、アリューテの目から、意図を見透かそうとしているように、こちらを見つめています。

「アリューテさんも、揺籠に戻ろうと思っているんですか?」

「ええ」

「それは、つまり、覚悟ができたってことなんですか。神殿に還る……」

 アリューテは首を振りました。

「私自身については、最初から神殿に還ることは構わなかったのです。ですが少なくとも、直ちにそうなるわけにはいきません。ここでいくつか、貴重な知見を得ました。ウルファとあなたの件も含めて、シャルカマーリア様に全てを報告しなくてはなりません」

「でも、軍隊を率いているのは、多分、シャルカマーリア様ではないんじゃないでしょうか。アリューテさんを見つけ次第罰するように指令が出ていたら、話を聞いてもらう時間なんてないかもしれません」

 ルーヤが遠慮がちに指摘します。アリューテは、頷き返しました。

「ですから、まっすぐ揺籠の軍隊には戻りません」

「えっ?」

「まずは、ダウフィエたちと合流しようと思います」

 ルーヤが呆気に取られたような声を上げます。

「そんな、何だってまた」

「シャルカマーリア様と、あるいは、シャルカマーリア様をよくご存じの方とお話ししようと思えば、竜たちの力を借りるのが確実でしょう。揺籠の軍隊に掛け合っても、事情を理解していただけるとは限りません。争いの状況がよく分からない以上、飛竜を使えるダウフィエのもとに身を寄せるのが都合がいいはずです」

「アリューテさん、あいつが僕たちの頼みごとを素直に聞いてくれるだなんて、本気で考えてるんですか?」

 ルーヤが、ぞっとしない、というふうな声で訴えました。

「要するに、シャルカマーリア様のもとに僕らを帰してくれって、そう頼むわけでしょう? あいつがそんなのを吞むわけないじゃないですか」

「あの戦いは、もとを辿れば、竜たちが変性に苦しんでいたのが原因なのですから、私の知見を伝えれば、たちまちの間は、危険を冒して戦う必要はなくなるはずです」

 アリューテは慎重に理論を組み立てました。

「本社を失っているところから見ても、このまま戦を続ければ、不利になるのは竜たちのほうでしょう。本当は戦いたくなどないはずなのです。誰かが揺籠との交渉を取り持ってくれるとなれば、ダウフィエもいやとは言わないはずです」

「竜側がこれ以上攻撃をしないなら、賢者の方々に戦うのをやめるよう進言してあげる、とでも言うわけですか?」

「ええ」

 皮肉のつもりだったらしいルーヤは、アリューテが真面目な顔で肯定したために、黙り込んでしまいました。ルーヤはしばらく、指と指をゆっくりと絡ませて、思案している様子でしたが、そのうちに、控えめに言いました。

「そんなにうまくいくでしょうか。アリューテさん、あいつらが仲間を乗っ取って僕らを騙した挙句に、城の外壁をぶち破ったの、忘れてませんか」

「あれは、向こうも切羽詰まっていたからです。私が思うに竜たちは、状況によっては私たちよりもずっと、理性的な生き物です。当座を生き延びる手段が見つかってなお、自滅を選ぶようなことはないでしょう」

 ルーヤはなおも、でもそれはアリューテさんの考えにすぎませんし、などともごもご言っていましたが、アリューテがさらなる説得を始めるより先に、力なく両手を挙げました。

「分かった、分かりましたよ。アリューテさんは、どうしてもそうやるべきだと思ってるんでしょう。僕は納得がいきませんけど、でも、アリューテさんがやると決めたことなら、止めません。というか、止められる気がしません」

 アリューテは、ルーヤの言葉を心外に思いました。

「そんな、話しても無駄な相手のように言うことはないでしょう」

「いや。アリューテさんは、自分で考えを決めてしまったら、ききませんよ」

 ルーヤは断言しました。

「思えば最初からそうだったじゃないですか。僕らとは、似ていても、どこか違う」

「そうでしょうか」

 まだ納得していないアリューテを、ルーヤはしばらく見つめていましたが、そのうち、ふいと顔をそむけました。

「……あの状況で、アリューテさんは、最善の選択をしたんだとは思います。でも、僕はやっぱり、ウルファさんを身代わりにして、自分が生き延びたように思われてならないんです。だから僕は……ウルファさんの代わりに、アリューテさんの隣にいなければいけないという気がしているんです。ウルファさんなら、いくらアリューテさんの身が心配でも、その決断を邪魔するようなことはしないでしょうから」

 アリューテは、思いがけない言葉に、少なからず心を揺さぶられました。アリューテは自分の手首を握り、そしてできるだけ優しく、こう言いました。

「ひょっとしたら、私が揺籠に戻っても、何ともないかもしれませんよ。シャルカマーリア様は、私を研究の成功例のようにお考えのようでしたから」

 ルーヤはぎょっとしたように振り向いて、少し経ってから、ゆるく首を振りました。

「……そうですね。そうかもしれませんね」



 翌日の明朝、アリューテはユンムルとともに、建物裏手の山道にいました。ですが、この場にいるのは、二人だけではありません。

 ユンムルが誇らしげに連れているのは、四本足の見慣れない生き物です。ユンムルらと同じように真っ白な身体をしていて、脚はどれもひょろりと長く、胴の部分は縦にひしゃげた円柱形でした。頭らしい器官が見当たりませんが、前は見えているのでしょうか。

「さあ、早速お試しくだされ。準備は万端です」

 ユンムルがその生き物の背を叩きます。よく見ると、その胴体には、大判の布が載せられ、縛って固定してありました。

 アリューテが近寄ると、その生き物は四本の足を行儀よく折りたたんで、姿勢を低くします。アリューテはよじ登るようにして、その背にまたがりました。

「よいですかな、ここを触ると前進、こっちが後進、この左右の角のような部分で方向転換です。そのほかのことは、気にしなくてもよろしい。まあ、実際乗ってみるのが手っ取り早いでしょう。それ」

 おざなりに説明を済ませたユンムルは、その生き物の尻――だと思われる辺り――をぺしんと叩きました。途端にその生き物は脚を伸ばして立ち上がり、一拍を置いて、ゆっくりと走り始めます。

 アリューテは、最初こそ座面のぐらつきに戸惑いましたが、慣れてみると姿勢を保つのは簡単でした。というのもこの生き物は、多少の高低差があっても、それぞれの足を器用に曲げ伸ばしして、背中を平らに維持してくれるのです。山道はでこぼこでしたが、このくらいは早駆けでも全く問題がありません。

 アリューテは少し道を外れて、整備されていない山肌に踏み入れてみました。こちらも、あまり焦らなければ、歩くのに支障はないようでした。アリューテであれば全身を使ってよじ登らなくてはならないような場所も、平然としたものです。

 アリューテはしばらく辺りを駆け巡ってから、ぐるりと方向を変えて、ユンムルのもとに戻ってきました。

「どうです! この馬にかかれば、岩山だろうと砂漠だろうと何のその、人の足の何倍もの速さで駆け抜けることが可能ですぞ!」

 興奮して両腕を振り回しているユンムルの目の前に、アリューテはするりと降り立ち、素直に賞賛を送りました。

「すごいですね。こんなものをお借りして、本当に良いのですか?」

「借りるもなにも、お譲りしますよ。自律工場を時々動かさないといけないので、半年おきに材料を与えて産ませているのですが、この種類は我らが山の地では持て余すのです。何せ、我々は滅多に遠出をしませんからな」

 何故か自慢げなユンムルですが、アリューテは静かに返します。

「いえ、それもですが、元老とかいう方々には何も言われなかったのですか?」

 ユンムルはぎくりと身じろぎをして、肩をそびやかしました。

「何も言われませんが?」

 アリューテは、この譲渡契約がふいになる前に、早いこと出発しようと決めました。

 鞍の具合を確かめているアリューテに、ユンムルはふと不安げに訊ねます。

「本当に、戻られるのですな?」

「ええ」

 アリューテのためらいのない答えに、ユンムルは嘆息しました。

「あなたは、揺籠ではかなり低位なのでしょう? 山脈のような風土ならまだしも、揺籠では上下関係が非常に厳しいという話ではありませんか。戻ったところで、あなたの言が聞き容れられ、戦が終わるとは限りませんぞ」

「仲間がいます。声が届くよう、力を借りるつもりです」

「以前仰っていた、引き返したかもしれないお仲間ですか?」

 アリューテは一瞬の間の後、正直に答えました。

「彼女たちもそうですし、竜や蕾の方にも、話を聞いてくれそうな人がいます」

「ほう」

 ユンムルの目が意外そうに光りました。

「他社の方からそのような台詞を聞けるとは思いませんでしたな。きっと、信頼のおける方なのでしょう」

「いえ、信頼できるかは分かりませんが……」

 がくっと肩を落とすユンムルに、アリューテは悪戯っぽく付け加えます。

「貸しがあるのです」

「はあ。まあ、他所の企業のことはよく分かりませんな」

 ユンムルはそれだけ言って、ふと背後を振り返りました。アリューテは、建物の裏口から、ルーヤが蕾の父を引いてこちらへ上がってくるのに、遅れて気付きます。

「ルーヤ、どうしたのです」

 アリューテが声をかけると、ルーヤは山道を登りきってしまってから、答えました。

「そろそろ出発するんじゃないかって、ササリエさんが言ってきたものですから、様子を見に来たんです」

「ササリエさん?」

 アリューテは思わず聞き返しました。アリューテとユンムルがここで車に乗るのを試しているのも、知っているのでしょうか。だとすればササリエは、昨日のように、ものを勝手に与えるなと文句を言いにきてもおかしくないはずです。

 アリューテが思わずユンムルを見ると、肩をすくめられました。

「あれも悪人ではないのですよ。普段、ちょいと堅物なのは間違いありませんがね」

「見逃してくれるということでしょうか」

「そういうことでしょう。ルーヤ殿をここまで来させたということは、上の目を誤魔化すのに限界があるから、出て行くなら急げということですな」

 ルーヤが、父に繋がる縄を持つのと反対の手を、持ち上げてみせました。袋が握られています。

「アリューテさんの荷物、まとめて持ってきましたよ。ここで貰った道具、持って行きたいでしょう?」

 アリューテはルーヤから袋を受け取ると、ユンムルの方を振り向きました。

「ユンムルさん、お世話になりました。ササリエさんにも、あとでよろしくお伝えください」

 ユンムルは手を大仰に振りました。

「何の、何の。私どもの方こそ、滅多にない客人に、貴重な収穫がありましたから、こちらが感謝したいほどです。また落ち着いたら、ここにも来てくだされ。できればご友人も連れて」

 アリューテは、『苦笑』という言葉はこういうときにあるのだろうなと思いながら、ユンムルに頭を下げ、まずルーヤを車の背に乗せてから、自分もルーヤの前にまたがりました。馬は軽やかに山道を駆け下りはじめ、あっという間に、ユンムルが手を振るあの大げさな仕草も、見えなくなってしまいました。



 山脈の馬は、なかなか大したものでした。アリューテたちが何日もかかってやっと越えたあの砂漠を、半日もかからずに踏破してしまったのです。アリューテの頭には一瞬、この機動力なら、ウルファの遺体を探して回収することもできるのではないか、という考えが頭をよぎりましたが、それは諦めました。あのときは砂嵐の拍子に道を外れていたらしく、まっすぐ走っていてもそれらしい岩陰が見当たらなかったことと、仮にウルファを見つけられたとして、馬の背にほとんど余裕がないことが理由でした。それでも、また状況が落ち着けば、アリューテだけ引き返してきてでも、ウルファを探すことはできそうです。アリューテはそれをせめてもの慰めに、一路、砂漠の向こうに広がる岩地を駆けました。

 さほども経たないうちに、遠方に青空が見え始めました。

「あの崖!」

 ルーヤがアリューテの後ろから、身を乗り出すようにして声を上げます。

 岩の狭間に覗いたり、隠れたりしている、右手に向かってすっと低くなっていく崖は、アリューテたちが蕾の地を出発するときに、最初に下ったものに違いありません。上端には線を引いたように緑の芝も見えています。

 アリューテの緊張は、そのときほっと緩みかけました。ですが直後、アリューテは異変に気づきます。

 本来なら、崖の上に頭を出した森は、崖の上の草よりもずっと、深い緑色を見せているはずです。しかし今見えているのは、ほとんどが乾いた茶色に沈んだ、ひどくまばらな塊なのです。

 馬が崖の真下まで辿りつくと、森の様子は一時、岩壁に遮られて見えなくなりました。そして次に、崖に切り出された斜面を登り切って、その姿を目にしたとき、アリューテは身をすくめました。

 潰れた半球のように、隙間なく盛り上がっていたはずの木々の葉が、ほとんど消えています。辛うじて残っている葉もありますが、むき出しになった枝の先端の辺りに、点々としがみついているだけです。それもまだらに茶色く変色して、かつての面影すらありません。裸になって隙間を見通せるようになった枝の奥には、同じような木々が、ずっと続いています。辛うじて地面にへばりついた下草だけが、まだくたびれた緑色を残しているようです。

 アリューテの頭に最初によぎったのは、木の中には寒くなると葉を落とす種類のものがあるという知識でした。ですが、ここを出発して十日経つか経たないかのうちに、森中の木が落葉するなどということがあるでしょうか。

 アリューテは馬を慎重に進めて、見るも無残な森のすぐそばに停め、草地に降りました。ついてくるルーヤを待たず、木に近寄って、手を触れます。樹皮は驚くほど乾燥して、全体が網目のように割れてめくれ上がり、あちこちが黒くなって、細い枝は先が朽ちたようになくなっていました。

「燃えた……いえ、燃やされたのでしょうか」

 アリューテの独り言に、ルーヤが手を引いて揺すってきました。

「早く、先へ行ってみましょう。この分だと、蕾の街がどうなっているか、分かったものじゃありませんよ」

 アリューテは、素知らぬ表情で佇んでいる馬と、その脚にくくりつけられた父に目を向けてから、頷きます。

「行きましょう。ですが、慎重にしなくてはなりません。もしかすると、戦いの真っ最中かもしれません」

 二人は馬をそこに置いて、急ぐ足を気をつけて抑えながら、木々の間を歩いていきました。進むにつれて、状況は最初の印象よりもずっと悪いらしいことが分かってきます。アリューテたちがまず目にした木々は、街から少し離れた森の端だったので、まだ被害がましだったのです。中央に行くほど木の燃え方はひどかったようで、その上、木が切り倒されてしまった跡らしい切り株もたくさんありました。

 さらに進んでいくと、不自然なまでに開けた、すかすかな視界の中に、とうとう、街並みが飛び込んできます。それは森の様子と同じか、それ以上に悲惨な光景でした。あの木々に溶け込んだような自由気ままな建物は、あちらが全壊し、こちらが灰に煤けて、既に廃墟の様相でした。

 アリューテたちは、街に面した森の途切れた辺りで――ほんの十日前まで、蕾の街に森の端などというものはなかったのですが――立ち尽くしていました。街では戦いが起こっているようには見えませんでしたが、もっと正確に言えば、誰一人いないのでした。これではどこに向かえばいいものやら分かりません。

「ここでの戦いは、もう終わってしまったのでしょうか」

 アリューテは、眼前の光景に目をくぎ付けにされたまま、言いました。

「もしかすると、別の場所に向かった方が――」

 そのときでした。遠くで枯葉を踏む音がして、二人は驚きと警戒、そして一抹の期待から、瞬時に視線を走らせます。足音ははじめ、ひどく慎重なものでしたが、あるとき駆けだしたように早足になり、そしてその主が、木陰からあっという間に姿を現しました。

「ウィ――!」

 ウィマーニーが顎のあたりに指を立て、『喋るな』という仕草を見せたので、アリューテは上げかけた声を押し殺しました。今は通訳のリュリーはおらず、ウィマーニーもあの黒板は手元に持っていないようです。ウィマーニーはアリューテとルーヤの手をがしっと掴むと、二人を引きずって走り出しました。アリューテとルーヤは悲鳴を何とか堪え、それに足の動きを合わせます。ウィマーニーが一瞬、不思議そうにルーヤを振り向きましたが、今ウィマーニーに事情を説明する手立ては存在せず、また、そのような余裕のある状況でもないようでした。

 ウィマーニーは一旦、枯れた木立の中に戻ってから、ぎゅっと走る方向を直角に変えて、街の一番西側にある、小さな建物のそばへ飛び込みました。本来、その建物の入り口は、今アリューテたちがいる森側ではなく、街の中に広がる道に面しているらしいのですが、ちらりと目に入った限りでは、そこは封じられていました。ウィマーニーは、二人の腕を掴んでいた手を離したかと思うと、建物の外壁沿いにこんもりと積まれた、はがれた屋根板の瓦礫を押しのけはじめました。その陰から現れたのは、人ひとりが辛うじてくぐれるくらいの大きさの、壁に空けられた穴でした。ウィマーニーは、ひとたび離した手で、もう一度アリューテとルーヤの腕をぐいと引き、その穴の中へともぐっていきます。アリューテとルーヤは、困惑しながら目配せをしあって、順にウィマーニーの後に続きました。

「アリューテ!」

 がさついた声が部屋に響いて、穴から這い出たばかりのアリューテは、ぱっと顔を上げました。部屋の奥から駆け寄ってきたのは、オウヴァムです。

「どうして戻った。お前も、山脈にはたどりつけなかったのか」

 アリューテはそれには答えず、ひとまず立ち上がって、部屋を見回しました。外から見た建物がまず小さかったので、当然といえばそうですが、ひどく窮屈で圧迫感のある空間です。明かりも、どこかから引きちぎってきたらしい、点滅を繰り返す神代の遺物が、床に転がっているだけでした。部屋の片隅には父――蕾の方式のようなので、合成機と呼ぶべきでしょうか――が据え付けられ、そのほか、アリューテがかつて見たこともない雑多なものが、内壁沿いに積み上げられています。その中には、以前ウィマーニーが持っていたような棍棒もあり、どうやらその近くに集められているのも、武器の類のようです。中身の分からない袋が、山と重ねてある場所もありました。

 ルーヤがようやく、アリューテの後から部屋の中へ這いだしてくると、ウィマーニーが即座に外へと手を伸ばし、瓦礫を引き寄せて、穴を塞いでしまいました。

「ここは?」

 アリューテの問いに、オウヴァムは短い沈黙の後、言いました。

「抵抗拠点の一つだ。お前、運が良かったな。ここにいるのが俺とウィマーニーでなければ、敵と見做されて襲われていたかもしれない」

 アリューテは、内壁のすぐ近くに立つウィマーニーへ、視線を向けました。ウィマーニーは、やっと緊張を緩めたように、耳元の葉っぱのような部分を撫でています。アリューテはここで初めて気が付いたのですが、葉の枚数が、記憶にあるものよりも少なくなっていました。

「まだ答えてもらっていないぞ。なぜ戻ってきたんだ」

「まず、状況を教えて下さい。時間がありそうなら、あなたにもゆっくりお話しします」

 アリューテにきっぱりと制されて、オウヴァムは面食らったように黙り込みました。

「アークェたちはどこに? 先ほどの言い方だと、山脈に行くのを諦めて、一度ここに戻ったのではありませんか」

「とうの昔に揺籠に降った。その後どうなったかは知らん」

 オウヴァムはぶっきらぼうに言いました。ある程度予想していた答えだったので、アリューテは特に動揺もせず、それならアークェたちのことを心配することもないだろうと、話題を変えました。

「揺籠との戦いは、思わしくないようですね。ダウフィエはどこにいるのです?」

「……ダウフィエなら今、前線に出ている」

 今度虚を突かれて言葉を失ったのは、アリューテのほうでした。

「ここは、ぎりぎりだ。いつ押し切られてもおかしくない。ダウフィエが――俺もだが――ここの最後の砦のようになっている」

 オウヴァムから話の流れを伝えられたのか、ウィマーニーが懐から、折りたたまれた紙を取り出して、アリューテたちの前に広げてみせました。それは、アリューテがリュリーから貰ったのと同じような地図でしたが、描かれている範囲はずっと狭く、蕾の拠点がある森の周辺だけが、詳細に記されています。上端に山脈があり、その下に半月型に森が広がっていて、左手が岩地、右から下端にかけてが荒野です。森のやや左寄りの地点にある、いびつな円形が、ここ、蕾の本社のある街でしょう。

 ここまでならば、何の変哲もない地図ですが、はっきりと奇妙な部分がありました。描かれている森のうち、右端から中央を少し過ぎた辺りまでが、斜線で塗りつぶされているのです。そしてその斜線は、拠点の右半分にまでかかっています。

「塗られた部分は、揺籠軍の手に落ちた」

 オウヴァムはしばらく、アリューテたちの反応を待っていたようですが、二人が完全に固まっているので、ちらりとウィマーニーを見て、続けました。

「見ての通りだが、本社の建物もやられて、ユーティーシュカーが使えない。もう破壊されているかもしれない」

「その、使えないとか、破壊されたというのは? ユーティーシュカーは、ここの主だという話ではありませんでしたか」

 アリューテの問いは、喫緊の問題から目をそらすような類のものだったかもしれませんが、オウヴァムは――もちろんウィマーニーの言葉を適宜通訳している可能性もあります――素直に教えてくれました。

「あれは蕾の感性でいうと、人間というより、問いかければ的確な答えを出してくる魔法の箱のようなものらしい。こいつらはそれの指示に従って、ここを運営していた。それが失われて以来、蕾は烏合の衆で、いいようにやられている」

 アリューテはかつての、城から突如引き離されたときの自分たちのことを思いだしました。

 ふと目を移すと、ウィマーニーは壁に背を預け、どこを見るともなく、ぼうっとしているように見えます。アリューテはこのとき、ウィマーニーの頭の葉がない辺りに、ぎざぎざと皮膚が壊れた場所があるのに気付きました。葉が少ないのは、怪我で失ったためなのでしょう。

「リュリーは……」

 アリューテは半ば無意識に問いました。

「他の仲間たちは、どこにいるのです? まだ森の半分を守り切っているのなら、抵抗の拠点がここしかないということはないでしょう」

 オウヴァムはしばらくの間、無言でした。ウィマーニーが部屋の隅で身じろぎをして、それからようやく、声が放たれました。

「確かに、他にも仲間は残っている。大半はもっと前線だ。だが、リュリーのことなら、死んだ。死体は揺籠に持ち去られた」

 アリューテは、自分のことよりもむしろ、隣にいるルーヤの、えっ、と間の抜けた声を出し、次いで愕然と口元を両手で覆う、その一連の所作に、意識が向きました。アリューテ自身も当然衝撃を受けていたはずですが、そのためにこそ、突いて出たのは別の問いかけでした。

「戦いの状況はどのようなものなのです。前線での戦闘の様子は」

 オウヴァムは今度、すぐに答えてくれました。

「森のこちら側を守り切れているのは、境界に流れる川のためだ。それなりの幅があるから、橋がかけられないように気をつけてさえいればいい。問題は街だ。さっきも言ったが、俺とダウフィエが交代で揺籠軍を引っかき回し、混乱した小隊を仲間たちと急襲して、何とか凌いでいる。森が焼かれていただろう。あれは、何度か木の上からの奇襲を試したのを、向こうが防ごうとしたためだ」

「勝ち目はあるのですか」

 オウヴァムは肩をすくめました。

「奴らはかなりの勢力をつぎ込んでいて、結構な人数の有翼どもがここまで足を運んでいる。俺たちは数で劣っているから、奴らの首を狙うほかない」

「では、ダウフィエたちは今、どこに?」

「市街にいるはずだ。正確な位置は分からんが、昨日、ここに有翼を伴った一行が突出してきていたから、それを狙いに――」

 地図を指さしながらそこまで言って、オウヴァムはふと顔を上げ、目を細めました。

「そんなことを聞いてどうするつもりだ?」

 アリューテは部屋を見渡しました。

「聞いて下さい。私なら、戦争を止められるかもしれません」

 オウヴァムだけでなくルーヤも、唖然としてアリューテを見つめました。ウィマーニーだけは最初、きょとんとしていましたが、オウヴァムが通訳したのでしょう、小首を傾げてこちらを眺めています。

「ですがそのためには、賢者の方と――できればシャルカマーリア様の研究をご存じの方と、話をつける必要があります。私はできる限りあなた方の味方をして、これ以上の攻撃をやめるように進言してみますが、その際にダウフィエたちの攻撃が続いていては、都合が悪いでしょう。何とかして中断してもらわなくては」

「おい、ちょっと待て。一体どうするつもりだ。何だって、城であれほどこき使われていたお前が、有翼どもと会って、そいつらを説得できるんだ」

 アリューテは、事情を話す余裕があるだろうかと思案してから、かいつまんででも説明しておこうと決めました。

「私の推測が正しければ、私は、シャルカマーリア様の研究で一番の成功例なのです。それをご存じの方と会うことさえできれば、おそらくそのまま城へ送り返されるはずですし、話を聞いていただく隙もあると思います。それに、私の試みとその成功についてお伝えすれば、少なくとも当面は、賢者の方々の戦争する気を失くさせることもできるでしょう。というのも私は、ルーヤの――」

 今まで間接的にしかアリューテの言葉を聞いていなかったためでしょう、この中で一番落ち着いていたウィマーニーが、このとき突然に、弾かれたように顔を天井へ向けました。少し遅れて、オウヴァムも大きく三つ目を見開き、辺りを見回します。

「どうしたのです?」

 オウヴァムが、ためらいがちな仕草で、角の根元を押さえました。

「ダウフィエからだ。貯蔵庫区画付近で揺籠の小隊と交戦開始、そこで隊を率いる有翼の一人がシャルカマーリアであることを確認」


 隠れ家を飛び出して以降のことは、アリューテにとって、体が勝手に動いているような印象で、どうにも現実味がありませんでした。アリューテが留まるように言ったのを無視して、後ろからルーヤたちが追いかけてくる気配がありましたが、いつの間にか――おそらくは、アリューテが道沿いの水路を無理やり突っ切った辺りで――はぐれてしまったようです。アリューテは記憶の中の地図と、あちこちが破壊され、木が焼失した現実の街並みとを照らし合わせながら、連絡で名の挙がった貯蔵区画という場所を探して、走り続けました。

 アリューテは、崩れかかった本社の辺りに来て、自分が進み過ぎたことを悟りました。街の中央に鎮座する建物の窓には、いくつか揺籠の人間らしい影があって、そのうちさらに一部は、道を走るアリューテに気付いたようでした。ですが、ここで事情を説明している暇はありません。このまま放っておけば、シャルカマーリアが、あるいはダウフィエが、どうにかなることは明白です。アリューテは即座に、本社に背を向けて引き返しました。

 アリューテが辿りついた貯蔵区画の倉庫は、蕾の建造物らしく、無秩序で有機的な場所でした。もっとも、もともとは葉を茂らせていたはずの木々は、すっかり切り倒されて放置され、建物は建物で、何をどうしたらああなるのか、ほとんど土台しか残らないまでに破壊されたものも珍しくない、といった有様です。建物の内側、均等に切り分けられた材木と、その上にのしかかる、かつて屋根やら壁やらであった残骸の傍らには、揺籠の兵士――と考えたのは、アリューテが城を離れる直前、あの広間で一度だけ目にしたのと似ていて、おまけにそのごつごつした手に、どうやら武器らしい、ひしゃげた金属棒を握っていたからです――と竜とが、折り重なるように倒れていました。二人とも、体のあちこちがめちゃくちゃに壊れています。アリューテはそれを一瞥するや、すぐに視線を戻して、その建物の裏手へ回り込みました。

 遠くの建物の陰に、真っ白な翼が広がっているのを目にしたのは、そのときでした。

 シャルカマーリアは、ぐったりとうなだれて、座り込んでいます。動かない右の翼が地面に投げ出されているだけでなく、怪我をしているのか、足の動きもどこか不自然です。それでも時折、思い出したように片翼を地面に押し付けて、立ち上がろうとしています。

 アリューテは無意識のうちにゆるゆると首を振り、すぐに走り出しました。城で幾度も目にした優美な姿とはかけ離れた状態でも、ともかく命だけは無事なのです。今すぐにでも助けなくてはなりません。

 道には瓦礫が散乱し、その上気が急いているので、足が何度ももつれます。アリューテはとうとう、シャルカマーリアを目前に、つんのめりました。

(えっ?)

 確かに、転んだ、と思ったはずが、視界は何故か、地面と空を半分ずつ、水平に見渡したままです。突然のことに困惑したアリューテは、足元を見ようとして、首が動かないことに気付きました。その間にも足はぐんぐんと体を前へとおし進め、シャルカマーリアのすぐ後ろへと迫ります。アリューテが望んでいないにも関わらず、です。

(ダウフィエ……!)

 叫びたいのに、声すら出ません。とうとうアリューテの腕は、ぐいと持ち上げられ、シャルカマーリアの首筋へと伸びました。冷え切ったその肌が、自分の手に触れる感覚を、アリューテは腹の底から恐怖に震えながら、ただ感じることしかできませんでした。

 と、体に衝撃があって、視界がぐらりと斜めに傾きました。シャルカマーリアが振り返りざまに、まだ動く片翼でアリューテを跳ね飛ばそうとしたのです。しかしその力は、おそらく本来出せるものよりもずっと弱く、シャルカマーリアの半分ほどの背丈しかないアリューテが、小さくよろめいた程度でした。こちらに顔を向けようとする、その仕草もいかにも億劫そうで、アリューテは胸をかきむしられるようないたたまれなさに、とにかく一声でも、指先一本でもと、必死に体を動かそうと念じました。ですがその努力も虚しく、すぐに姿勢を戻したアリューテの体は、今度、思い切り足を伸ばして、シャルカマーリアの首筋を蹴りつけました。みし、と嫌な感覚が足先に伝わり、シャルカマーリアの上体がそのまま前へと崩れます。

(やめて……! やめて、ダウフィエ!)

「ざまあみろ」

 アリューテの声が、思ってもいないことを勝手に言いました。

「こいつらを散々こき使った報いだ」

 倒れ伏したシャルカマーリアの、まだ動く左の翼を踏みつけ、アリューテの手は再び、シャルカマーリアの首元を掴み、引きずるように持ち上げました。シャルカマーリアの、ほんの一瞬前まではなめらかだった皮膚が、べこりとへこんでいるのが目に映ります。

(やめて、ダウフィエ……シャルカマーリア様が、死んでしまう……)

 アリューテの手の中で、ぎ、ぎ、と耳を裂くような悲痛な音を立てながら、シャルカマーリアがほんの少しだけ頭をめぐらしました。その澄んだ瞳がアリューテの目に合わせられたとき、シャルカマーリアは、雑音に割れた声を、ふと上げました。

「アリューテ、無事だったのか。良かった」

 指先に力が入れられた感覚と、べきっ、という破壊音が耳に届いたのが、同時でした。それでもそのときはまだ、シャルカマーリアの頭は胴体と繋がっていて、目も微かに揺れているのが分かりました。

 アリューテの手は、すでにひどく変形したシャルカマーリアの首を、何度も掴み、力を込めてへし折ろうとし、かと思うと片手を上げて殴りつけ、最後にはその体を蹴飛ばして地面に倒し、もう皮膚が完全に引きちぎれて、中の配線や骨格がぐらついているだけなのに、何度も何度も首を踏みつけて、とうとうすっかり、肩からねじ切ってしまったのでした。

 アリューテの体はふと動きを止め、数歩、後ずさったかと思うと、その場に立ち止まりました。

「アリューテ」

 アリューテの声が、自分の名前を呼びました。ですが、それだけでした。後に続く言葉はありませんでした。

 アリューテはそのとき、もう、身じろぎをする気力すら失っていたので、自分の体を動かせるようになっていると気付くまで、ひどく長い時間がかかりました。アリューテは茫然と、自分の指が自分の意志で握ったり閉じたりするのを眺め、それから、視線を足元のシャルカマーリアに移しました。転がっている彼の頭部は、もはや目を動かすこともなく、一方で体の方も、ぴくりともしませんでした。

 アリューテはゆっくりと顔を上げ、辺りを見回しました。崩れかかった建物の向こうに黒い影を見た瞬間、何もかもが失われてしまったような、空っぽの心の中に、ふつふつと、怒りが湧き上がってきました。それはみるみるうちに膨れ上がり、アリューテの全身をみたしました。

 アリューテは、重石でもつけられたように重たい足を引きずりながら、瓦礫に背をもたせかけて座っているダウフィエに、一歩ずつ、迫りました。

「どうして、あなたは! いつもいつも、初めて会ったときからずっと、私のことを……!」

 ようやくダウフィエの目の前まで辿りついて、アリューテはそのごつごつした両肩を、怒りのままに掴みました。その体は何の抵抗もなくぐらりと傾ぎ、ダウフィエの大きな単眼は、アリューテではなく、虚ろに遠くを見つめていました。

「ああ……」

 アリューテが思わず手を離して後ずさると、ダウフィエは顔からぐしゃりと地面に倒れこみました。その背中は大きくえぐれて、歪んだ背骨が露わになっていました。

「ああ……どうして……」

 アリューテは、倒れたダウフィエのすぐ近くにへたりこみ、顔を覆いました。

 叶うことならば、ずっとこのまま、ただ地べたに伏していたいと、アリューテは思いました。ずっとというわけにいかずとも、ともかくできるだけ長い間、身じろぎすらしたくありませんでした。ですが、アリューテが望んだのよりもずっと早く、その時間は断ち切られました。

 様子を窺っているような、乾いた足音に、アリューテは目を上げました。振り向くと、先ほどアリューテが通ってきた建物の隣に、背の高い人影があります。おずおずと姿を見せたのは、何となく見覚えのある賢者でした。身を守るように体の前に翼を寄せています。

「しっ、死んだのか……?」

 アリューテはぼうっとしていましたが、ふとその賢者の視線が、ダウフィエに向いていることに気付きました。アリューテが小さく頷くと、その賢者は固く合わせていた翼をほっと緩めました。

「そうか……よかった、助かった……君が殺したのか?」

 アリューテは今度、首を振りました。言葉で答える気にはなれませんでした。

 その賢者は、腰が引けた足取りでこちらに寄ってきて、翼の先で、ダウフィエの亡骸をつつきました。反応がないことを確認してしまうと、今度はアリューテに目を向けます。

「それにしても君、水運びだな。なぜ、このような戦場のただ中にいる?」

 アリューテが黙りこくっていると、賢者はせっつくように、重ねて問いました。

「どうした。答えよ」

「私は――戦いを、止められるかもしれないと……」

「はあ?」

 アリューテはこれまでのいきさつを説明しなくてはと思いましたが、言葉が出ませんでした。賢者はしばらくすると、諦めたように首を振ります。

「まあ、よい。ともかく、よくやってくれた。早く拠点に戻ろう」

「ですから、これは、私では――」

 アリューテは無気力な声で否定しようとして、はっと、頬をひっぱたかれたように意識を引き戻しました。

「賢者様」

「トルァークシャだ」

「トルァークシャ様。その――いつから、ご覧になっていたのですか」

 賢者――トルァークシャは、少し首をかしげて、答えます。

「私は、君が走っていくのを見たので、気になって、少し後ろから様子を確認していたのだ」

「つまり」

 アリューテは頭のてっぺんまで張り詰めたような声で、問いました。

「シャルカマーリア様のことも――?」

「ああ、まあ」

 トルァークシャは気まずそうに目をそらします。アリューテはその瞬間、跳び上がるように立つと、上ずった声を叩きつけました。

「どうして、止めて下さらなかったのですか!」

「なっ、はっ?」

 トルァークシャがぎょっとしたように後ずさります。

「いや、それは、こやつに近寄るわけにはいかないだろう! ここ半月の間、この竜が、指揮系統を散々引っかき回してくれたのだ。あまり近くに行くと、私も――」

「賢者の方は乗っ取られません!」

 アリューテは悲愴な声で遮りました。

「分かるでしょう? シャルカマーリア様だって、傷つけられはしても、乗っ取られてはいなかったではありませんか! あなたが私を止めてくれさえすれば、シャルカマーリア様は、今も、まだ……!」

 トルァークシャはまだ、気おされたように翼を緊張させて、それでも何やら不明瞭な声を発しています。

「それは、しかし……だが、そういうのは、私の仕事では……そもそも……そんなことをすれば、私だって、どうなるか」

 アリューテは引きつれたように背を伸ばしました。

「あなたは……シャルカマーリア様のことを、何とも思っていないのですか」

 トルァークシャがびくりと言葉を途切れさせました。

「シャルカマーリア様のためであれば、危険を厭うことも、死を恐れることもないはずではないのですか。城に生きる者は、そういうものではないのですか!」

「きっ……君には分からないのだ」

 トルァークシャが突然、翼を大きく振りました。

「私はこんなこと、聞いていなかった。戦場にまで出ることになるなんて。私は秘書だ! 自らの仕事であれば、いくらでも忠実に行うし、上司にも尽くす。だがこんなのは、私の仕事ではない! こういうことは、兵士の仕事だ。私たちに求められていることは、職務に忠実であることであって、それ以外のことはするべきではないのだ!」

 アリューテは、そのまくし立てられる一言一言に、ゆっくりと興奮が冷えていくのを感じました。

 なおも何かを言おうとするトルァークシャを、アリューテはまた、遮りました。

「あなたの主張は、正しいと思います。ですが、それはひどく、表面的なものです。仕事に忠実であるべきだというのは、もっと奥にある、別なものへの忠実を求めてのことなのですから。あなたはそれを分かっていて、保身のために、目をそらしている」

 トルァークシャはうんざりしたように言い返します。

「君は、さっきから、何なんだ! 何を言いたいのか、さっぱり分からない」

「いいえ、分かっているはずです。でなければ、後ろめたそうにするはずがありません」

 トルァークシャは、ぐっと顎を引き、翼を体の前に寄せました。

「……シャルカマーリア様は、優秀な方だったが、上司としては不完全なところもあった。仕事を私に丸投げにしたり、反論を聞きもせずに無理やり行動に移したり……」

「だから見捨てた、とでもいうのですか」

「そうではない! だがいずれにしても、もともと、もう長くはなかったのだ。翼だってすっかり駄目になっていたし、それでなくても結構な年で――」

「だから、見殺しにしてもよかったのですか」

「そうではない」

 トルァークシャは弱々しく首を振りましたが、それ以上言い訳をしようとはしませんでした。アリューテは、急に空しさが戻ってきて、申し訳ございません、と呟いてから、うつむきました。

「君は一体、何なんだ」

 トルァークシャの声がしました。

「こんな場所にいることといい、賢者である私にあれこれ文句をつけることといい、ただの水運びとは思えない。君は、誰だ。何のためにここに来た」

 アリューテは少しだけ、顔を上げました。

「私は、アリューテ」

 トルァークシャが、体の前に掲げた翼を震わせます。アリューテは気にせず、今度は真っ直ぐにトルァークシャを見上げて、続けました。

「あなたは、恐ろしかったのですよね。戦の中で、自分の仕事を果たせずに死ぬことが。――私ならば、この戦いを止められるかもしれません。あなたが戦を嫌うなら、私に力を貸してはいただけませんか」

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