第三章 花園が燃える夜 ~The Devoted Friend
飛竜での旅は長く、離陸してしばらく感嘆の声を上げていた水運びたちは、そのうちにじっと座って、景色を眺めるだけになっていました。ぽつぽつと言葉を交わしていたアリューテとウルファも、今はただ身を寄せ合っています。
オウヴァムは、蕾の土地までは半日近くかかると言っていました。現に、飛び立った頃は朝方の薄明るさだった空が、今はもう昼の一番眩しい時間帯を過ぎて、徐々に夕方へと近づいているようでした。
アリューテは、ぼうっと空を見上げながら、確かにこの調子では到着までもたないかもしれない、などと考えていました。何せ、飛竜の背には『父』を乗せられないので、蕾社につくまでは栄養がとれないのです。城では、半日ほど動き続けた後、数時間の休憩時間に点滴を受ける生活を送っていましたから、体を動かさないとはいえ、あまり長時間起きていられるとは思えませんでした。
隣のウルファが身じろぎをして、アリューテはふと顔を向けました。
「どうかしましたか」
ウルファは何も答えず、膝を抱えていた腕をすっと上げて、前方を指さしました。アリューテはそこにある景色に、思わず一度、目を片手で覆い、それから見直しました。
「空が、青い?」
もともと城にいた間、空など見たことがなかったアリューテですが、この二日間で目にした空は、昼間はずっと灰色で、精々日没直前にうっすら赤みがさす程度のものでした。アリューテの頭の中に浮かんだ考えが、口をついて出ました。
「そうだわ、空は青いもの……」
アリューテはそれを知識として知っていました。それでも遠く彼方、灰色の裂け目から鮮烈なまでの青色がひらめいているのは、現実ではないような気がしました。
飛竜はその、灰空の裂け目へと向かっているようでした。
アリューテはウルファと顔を見合わせました。あの先に、蕾の土地があるのでしょうか。同じ飛竜に乗り合わせた水運びたちも、ちらほらと気づき始めたようで、てんでに指をさしながら、興奮を抑えたような声でひそひそとささやきあっています。
「ねえ、あれは何かしら」
そのうちの一人から、甲高い声が上がりました。
「地面が緑色をしているように見えるの」
アリューテもウルファも、思わずちょっと身を乗り出しました。確かに、空が青くなっている辺りの真下、遠く連なる山々の手前の平地が、くすんだような緑に覆われています。飛竜が進むにつれて、アリューテはとうとう、気付きました。
「木だ……あそこは、森になっているんだわ」
水運びたちは――ウルファも――アリューテの言葉に、ああ、と感嘆の声を漏らしました。自分たちが知っているけれど、見たことのなかったものが、今、ぐんぐんと目の前に近づいてきているのです。
水運びたちはまた、口々に感動を伝えあっています。ですがアリューテは、あの景色が、どこか恐ろしいのでした。今まで自分が生きてきた現実に、知識の世界が侵食してきて、壊してしまうような気すらするのです。
前方から顔をそむけたアリューテは、飛竜の後ろの方にどっかと座っていたオウヴァムが、頬杖をついて景色を見ていることに気付きました。
膝を飛竜の背中についたまま、アリューテはオウヴァムの方ににじり寄りました。三つの目を数度瞬きさせてこちらに視線を投げたオウヴァムに、アリューテはたずねます。
「あなたにとっても、あの景色は珍しいのですか」
「ああ。初めて見た」
「蕾社に行ったことはないのですか?」
「ない」
その答えは少し意外で、アリューテは、そうですか、と呟きました。オウヴァムはまたひとつ瞬きをして、逆に問い返してきます。
「それだけ訊きに来たのか?」
アリューテはその場に腰を下ろし、青空をちらりと振り返りました。
「何か知っていることがあるなら、聞こうと考えていたのですが」
オウヴァムは肩をすくめ、言いました。
「俺も、詳しくない。ダウフィエなら別かもしれないが。あの森の中に蕾社の拠点があるのは確かだ」
ダウフィエの名を聞いて、アリューテはむっつりと、隣の飛竜を見やりました。飛竜は上昇が落ち着いてからこちら、綺麗に整列して飛んでいるので、背中に乗っている人々の姿も容易に認めることができます。距離があるので、声を聞いたり、細かい所作を確認したりはできませんが、ダウフィエがオウヴァムと同じように、飛竜の一番後ろに座って、何やら手元を見ているのは分かりました。
「……ともかく、そろそろ目的地に着くのですね」
「そうだな」
アリューテはそれだけ聞くと、またウルファのもとに戻りました。ウルファはオウヴァムに対しても、警戒するような、不安そうな目を向けていました。
飛竜たちが降り立ったのは、森の縁に開けた草地でした。アリューテたちはおそるおそる、その上に足を触れさせ、肌をくすぐる草を踏み、そして改めて、辺りを見渡しました。
飛竜たちがたった今通ってきた、竜社がある方向には、いくらかの丘があるばかりの平らな大地が遠く広がっています。灰色と、薄い土色だけの世界です。なだらかな谷間には点々と建物の跡が見えますが、とうの昔に朽ち果てていました。
しかしその見慣れた景色は、手前に来るにしたがって徐々に彩度を増し、アリューテたちの足元に至ると、草地は目にも鮮やかな緑色を繰り広げています。空を見上げれば、灰色の雲がところどころを細い筋のように横切っているものの、そのほとんどは吸い込まれるような薄青に占められていました。
後ろを振り返ると、草地よりももっと深い、濃密な緑が、むくむくと地面から立ち上がっています。上空からも見えていた森です。蕾社の拠点は森の中とのことでしたが、この中を進まなくてはならないのでしょうか。しかしよく見ると、隙間なくひしめいているのは木々の枝葉の部分で、地面に近い辺りは、幹と幹の間にある程度の隙間があるようでした。
別の飛竜から降りてきたダウフィエが、こちらへ歩いてきて、オウヴァムとなにやら目配せをしています。既に手筈は決まっていたのか、すぐにダウフィエは、アリューテたちに呼びかけました。
「集まれ。蕾社の使いが来てくれた」
言われてアリューテは初めて、森と草地の境目に、人影があることに気付きました。
その姿を目にした瞬間は、ひどくずんぐりとしているように見えましたが、どうやらそれは、たっぷりとした布地に全身を包んでいるためで、そこからのぞく首筋は、ひょろりと細長いものでした。顔立ちや体型は、竜たちよりはまだ、アリューテら揺籠の人間に近いように思われます。それでも、頭の左右をまばらに縁どって生える葉のようなものや、布地の間から伸びる手や足の先がぐわんと広がって、大きくどっしりとしているさまは、明確にアリューテたちとは異なっていました。
蕾社の使者は、アリューテたちがこちらに気付いたのを見て、草地をその大きな足で踏みしだきながら近づいてきました。ですが、使者はダウフィエの目の前まで来たかと思うと、その場で立ち止まり、どこか焦点の合っていないような目で、じっと黙り込んでしまいました。ダウフィエもそれを気にしたふうもなく、時折オウヴァムやアリューテたちを振り返りながら、何も言わずにいます。
アリューテは少し後ろから、その奇妙な様子をしばらく見守っていましたが、唐突にダウフィエが首をひねり、きいてきました。
「あんたら、文字とか分かるか?」
アリューテはおうむ返しをしました。
「文字が分かるか? 私たちがですか?」
「他に誰がいるんだよ」
「知っているものば読めるでしょうが、急に何です」
「いや、こいつが訊いてくるから」
ダウフィエが蕾社の使者を曲がった親指で指し示すので、アリューテは余計に戸惑いました。
「さっきから何も話してなどいないでしょう」
「……あっ、くそ、そうか。お前ら、見えないのか」
アリューテは、この幾度あったか分からないようなくだりに、肩を落としました。
「だから何の話です。あなたの話はいつも要領を得ませんね」
「そうだな、今のは俺が悪かった」
ダウフィエが殊勝に非を認めたので、アリューテは肩すかしを食らったような気分になりました。ダウフィエは一歩下がると、不思議そうに目をうろうろさせている使者を、改めて手で示しました。
「蕾社の奴らは、声で会話をしないんだ。そもそも口がきけないし、耳も聞こえない奴が結構いる。こいつもそれらしい」
アリューテはきょとんとしましたが、すぐに飲み込みました。
「なるほど、それで文字ですか。……それで、あなたはどうして、この方の考えていることが分かるのです?」
「こいつらだってものは言う。ただそれが、声でなしに、目には見えない光を使ってるもんだから、あんたらじゃそれが分からないんだ」
「光?」
アリューテは使者の方を透かし見ましたが、特にそれらしいものは分かりません。
「光なのに目に見えないというのは、どういうことです?」
「普通の目には見えねえってだけだ」
アリューテはまた小さく肩を落とし、首を振りました。
「目に見えないなら、あなたはどうやってあの方の言葉を見ていると?」
「この角だ」
ダウフィエは自分の頭を指さしてみせます。
「ここで、目では見えない光が見えるんだ」
アリューテはまじまじと、ダウフィエの両の角を見つめました。見える、ということは器官としては目の類なのでしょうが、ぐにゃりと途中で曲がって上へと伸びるそれは、とても目であるようには思われません。
「角の先に、小さい目玉がついているのですか」
「そういうのじゃなくて、角全体で受け取ってる感じなんだが……そもそも、俺たちも仕組みを分かってるわけじゃないからな。お前らだって、目の仕組みとか分かんねえだろ。ともかく、俺たちならあいつらとやり取りできるんだよ。入用なときはちゃんと通訳してやるから」
そういうと、ダウフィエは蕾社の使者と向き合いました。アリューテには無言で見つめあっているようにしか見えませんが、きっとその目に見えない光とやらで会話をしているのでしょう。角が光って絵でも描けるのかしら、などとアリューテが考えていると、不意にダウフィエが振り返り、蕾社の使者もついっとこちらに目を向けました。
「本社の建物近くに、仮宿を用意してあるそうだ。少し手狭だが、この人数なら入れるだろうってさ」
森の中は、草地からは薄暗いように見えましたが、実際は、木々の枝葉の隙間から青天が透けて見え、霧の城の廊下などよりも遥かに明るく、眩しいほどでした。足元には薄く下草が広がっていて、左右の木の根元には、もうひとこえ背丈のある、多種多様な草花が茂っています。ここはどうやら、蕾社の人々が通るための、小道のようになっているようです。よく見ると、夜間に使うことがあるのでしょうか、そこここの木の枝に古びたランタンのようなものも吊るされています。
蕾の使者を先頭に一列になって、その小道をしばらく行くと、ふと木々がまばらになり、視界が開けました。
その四方を木々の壁に囲まれた空間には、建物がいくつも建っていましたが、それらは城の周辺で見たものとも、竜の土地にあったものとも随分様相が異なっていました。建物はどれも、随所に佇む大木の陰に身を寄せるように、無秩序に広がっています。形も規則的とは言い難く、ぐるりと曲面になった外壁の建物があるかと思えば、木の幹に食いこむような背の高い塔もあり、場所によっては空中を渡り廊下のようなものが走って、ちぐはぐな建物たちを繋いでいる、といった様相でした。ただ、壁があちこち朽ちて、崩れそうになっているのだけは、今まで見てきた建物と同じです。
このぽっかりと空いたような空間は、地面もそれまでとは違って、草の間から土が見えていました。建物の周囲になると、かつてはさぞ立派だっただろうと思われる、様々な色の石畳で舗装された場所もありました。
使者は、大木と建物の隙間に網目のように広がった道を、あちらこちらへと曲がりながら、とうとうその空間の真ん中にある、一番大きな木の下まで、アリューテたちを導きました。城でいえば十階分にも相当しようかという、その背の高い巨木を抱え込むように、幾層にも箱が折り重なったような複雑な建物が、不思議な静謐さをたたえてそびえたっています。これが、ダウフィエが――正確には使者が――言っていた、蕾の本社とやらなのでしょう。
使者は本社の入り口は素通りし、その建物に寄り添っている、三角屋根の小さな建物の前で立ち止まりました。二階建てらしいその石造りの建物は、小さな窓があちこちについていて、控えめな入り口扉がひとつ、真ん中にありました。その扉の横に、アリューテの胸下あたりまでしか背丈がない、ひどく小柄な人が、陽炎か何かのように頼りなく立っています。
その人は小さな体を折り曲げて深々とお辞儀をすると、身にまとうたっぷりした衣服の下から、何やら板状のものと、木を丸く削りだした容器を取り出しました。そして、指先を木の入れ物の中に差し入れ、細長い石のようなものをひとつ手に取ると、それを使って、手元の板に文字を書きつけ、こちらに見せました。
『初めまして。通訳を務めます、リュリーと申します。私は耳が聞こえます。御用の際は私にお申し付けください』
と、蕾の使者が、リュリーと名乗ったその人の隣に立ち、アリューテたちを見つめました。リュリーがその全身をこんもりと包む布地の端で、板を綺麗に拭い、新しく文字を書き始めます。
『私はウィマーニーという。ここがあなた方の仮宿だ。リュリーに中を案内させよう』
リュリーはそう書いた板を、使者の胸元に持ち上げて掲げました。どうやら、使者――おそらくウィマーニーというのが名なのでしょう――の言葉を、代わりに文字に起こしているようです。
ウィマーニーは、アリューテたちを一通り見渡した後、ダウフィエに目をとめました。リュリーがちょこちょこと文字を書きます。
『ダウフィエ殿はこちらへ。会談の場を用意して』
そこまで書いて、リュリーはぴょこんと飛び上がり、慌てて文字を消しました。ダウフィエとは直接言葉を交わせるということが、伝わっていなかったのでしょうか。ダウフィエがウィマーニーに肩をすくめてみせましたが、ウィマーニーは、特に反応を示しません。ダウフィエは気にした様子もなく、アリューテに顔を向けました。
「俺はちょっと話し合いに行ってくる。あんたらはここで待っててくれ。そのうち戻るだろうから」
アリューテが小さくうなずくと、ダウフィエとウィマーニーは連れ立って、たった今歩いてきた道を引き返していきました。アリューテがその背中から視線を戻すと、リュリーは既に、文字を書き終えた板を顔の前に構えていました。
『皆さまは、こちらへ。中をご案内します』
建物の内部は、見た目の通り、小ぢんまりとしたものでした。一階は入ってすぐ、仕切りの一切ない、正方形の部屋になっていましたが、広々とした印象ではなく、もとはあちこちに置かれていたのであろう机や椅子、棚などが壁際に寄せられて、どこか雑然とした雰囲気です。リュリーはここで、『お眠りにならない方は、こちらでお過ごしください』と書いてみせました。
部屋の右端には外階段の上り口がありました。上の階に行くには、一旦建物の外に出る必要があるようです。一段一段、せっせと上るリュリーの後を、数十人でぞろぞろとついていくと、二階は外廊下からいくつかの部屋にそれぞれ入れるようになっていました。どうやら、そこがアリューテたちの寝室代わりのようです。
『お疲れでしょう。合成機を用意してありますから、お休みになってください』
「合成機?」
アリューテが呟くと、リュリーはちょっと手を迷わせながら、こう書きました。
『体を動かすための、栄養を補給する』
「ああ、父のことですね」
リュリーは先ほどの文字の下に、小さく文字を書き加えます。
『揺籠では、そういった呼び方をするのですね』
「ところで、蕾の父――その、合成機というのは、管の先端はどうなっているのです? 竜社では、背中の穴と形が合わずに、少し苦労したのですが」
リュリーは不意に、アリューテの背後へ、意外な素早さで回り込むと、せっせと文字を書きました。
『私が見る限り、あなた方の端子口は、私たちのものと形が近いように思います。きっと大丈夫ではないでしょうか。今ご案内しますので、試してみて、問題がありそうなら、すぐに方策を考えます』
果たして、蕾の点滴は、アリューテたちの体にぴたりと合いました。城で使っていたものとあまりに似ているので、びっくりしたほどです。それで、アリューテたちは、特に疲れている者から順番に、点滴を受けさせてもらうことにしました。
一方で、オウヴァムら、ここに残った竜たちにとっては、蕾の点滴はひどく相性が悪そうでした。というよりも、竜たちの背中の穴は、一人ひとり、形がずいぶん違うのです。それで竜社の点滴は、一番穴が狭い人に合わせて、あの針のような形にしてあったのでしょう。蕾の点滴のことは、竜たちもあらかじめ知っていたようで、荷物持ちらしい大柄な竜が、背中の袋の中から、変わった漏斗のようなものをごろごろと取り出したかと思うと、点滴の先端に固定しています。あんなものを挟んで、ちゃんと点滴が機能するのかとも思ったのですが、どうやら問題ないらしく、幾人かの竜は早速休息を取りはじめました。
アリューテも体が重たい感じはあったのですが、点滴管の本数には限りがあり、一度に全員は使えそうもありません。アリューテは、最初の点滴は仲間たちに譲って、自分はリュリーに色々質問をしてみることにしました。アリューテが一階に行くと言うと、ウルファもおぼつかない足取りで、一緒に下りてきます。
一階には、点滴からあぶれた十数人がたむろしていました。水運びはアリューテとウルファの他は三人だけで、あとは風送りと竜ばかりです。見張りはもともと人数が多くないのもあって、全員が一つの父の点滴枠に収まったのでしょう。ルーヤは二階で寝ているとして、風送りの中に話したことのあるアークェがいないかと探したのですが、一階で見つかった知った顔がオウヴァムだけだったので、アリューテはできるだけ目をつけられないように足音をひそめて、部屋の隅にちょこんと座ったリュリーのもとに近寄りました。
リュリーは、あのウィマーニーとかいう使者よりは、視線や気配に敏感なようで、アリューテが歩いていくとすぐに気付いて、文字を書いて掲げてみせました。
『どうかなさいましたか? もう一台、合成機を借りてきましょうか? すぐに動かせるものがあるか、分からないのですが』
「いえ、そうまでしていただかなくて結構です。すぐに交代できると思いますから。私はただ、ここについていくらかお聞きしようと思って」
リュリーはしたり顔で――といって、その所作がアリューテにそういう印象を与えただけですが――文字をすらすらと書きつけます。
『ここの様子は、他所の方には珍しいでしょう』
「ええ。空といい、森といい……」
『ここはいつも、西から風が吹いているんです。この森の西には、高い山があったでしょう。神代の灰があの山脈に遮られて、澄んだ風だけがここを通るので、青空が見えるんです』
「神代の……?」
『揺籠では、そういった呼び方はしませんか? 蕾の言い伝えでは、空を覆うあの灰は、神様のいた時代の名残なんだそうですよ』
リュリーは文字を見せてしまうと、すぐにそれを消して、また別の文章を書きつけます。
『弱くはありますが、日差しが当たるので、草木も育つんです。森の中央には、川も流れているんですよ。植物は水がないと生きていけませんからね』
「川が? 危なくはないのですか?」
『危ないですよ。でも、森には必要ですし、街を守ってもくれますから、あちこちに水路が引いてあるんです。それに、使い方を間違えなければ、便利なものでもあるんですよ』
リュリーはふと手を止めると、懐をまさぐって、何か小さなものを取り出しました。端がけば立った紙片です。中央に、深紫色の丸い記号のようなものが描かれています。リュリーはその紙片をアリューテに押し付けると、せっせと文字を書きました。
『紙を作る技術は、蕾にしかないんです。水と植物、どちらもないと作れませんから。ほかの企業では、紙がないので、石の板に文字を書きつけることもあるそうですね』
「あなたのそれも、石の板なのでは?」
アリューテが紙片を返しながら、リュリーがまさに字を書いている板を指すと、リュリーは平然と答えます。
『ここでも、紙が貴重なのは変わりありません。紙は文字を書いてしまうと消せませんから。この黒板は、ウィマーニーさんに言われて、蔵から引っぱりだしてきたんです』
「その、ウィマーニーという人と、あなたとは、どのようなご関係なのです? 蕾社では、どういったご身分の方なのですか」
『ウィマーニーさんは、ユーティーシュカーの代理人です。私はただの下仕えのようなものです。普段はインク作りなどをしています。ご覧になりますか?』
リュリーがまた懐をごそごそし始めるのを遮るように、アリューテは訊ねました。
「その、ユーティーシュカーというのは?」
リュリーはどことなく不服そうに、布地の間から手を引っ張りだして、また文字を書くための白い石のようなものを握りました。
『ユーティーシュカーは、花園の主です。私たちは皆』
リュリーがそこで手を止めて顔を上げたので、何かしら、とアリューテが考えた直後、あのがさついた声が背後から投げかけられました。
「おい」
アリューテはうんざりと振り向きました。オウヴァムです。ウルファがびくりと、アリューテの陰に回り込みます。
「何ですか。わざわざいらっしゃるなんて、相応の御用なのでしょうね」
「ああ」
オウヴァムは臆面もなくうなずきました。
「たった今、正式な報せが入った。ひとまずお前に言うのがいいだろうと思ってな」
「もったいぶって、どうしたのです」
「竜社が、陥落した」
アリューテだけでなく、その後ろにいるウルファも、言葉を失いました。ですが、いつもは得体が知れない、オウヴァムの三つ目は、真剣な色を帯びているのでした。
◇ ◇ ◇
トルァークシャは、しばらくためらっていたのを、ようやく勇気を出して、天幕に入りました。
「失礼いたします、シャルカマーリア様」
天幕の奥で、むっつりと椅子に座っていたシャルカマーリアは、不機嫌そうな目でトルァークシャを睨みました。トルァークシャは心の中で、あれは私に怒っているのではない、落ち着け、と自分に言い聞かせ、報告します。
「竜の軍事本部にあった、破壊された資料の復元が完了しました。それと、飛竜の格納庫内で発見された、複数の資材に関しても、出自の推察がなされたとのことです」
「それで」
「結論から申しますと、竜は蕾と同盟を結んでいたようです」
シャルカマーリアが、翼の先の辺りで額を押さえました。
「記録としても残されていましたし、運び込まれたばかりと見えるあの資材にも、この辺りで採集できない石材が含まれていました。あれは、おそらく山脈のものです。そして、山脈の資材を入手できるのは、現状蕾だけですから――」
「もうよい。水運びはそこへ連れ去られたのか」
「確実なことは言えませんが、竜の他の拠点のことを考えると、その可能性が高いかと」
「であれば、やるべきことは一つだ」
シャルカマーリアはその長身を、のったりと立たせました。
「蕾に向かう。進言の用意をせよ」
「はっ、そ、そう仰いましても」
「何だ」
これは明確に、トルァークシャに対する苛立ちでした。トルァークシャは身を縮めながら、それでも諫言します。
「もともと今回の進軍は、城を襲撃した竜への報復が主目的ではありませんか。それも、ここまでうまく事が運んだのは、奇襲をしたうえに、竜たちがもともと逃げてしまっていたためです。竜たちが同盟を結んだ蕾に逃げ込んだとすれば、その戦力は相応のものとなるでしょう。こちらもただではすみません」
「竜が我らに楯突くのなら、同盟相手の蕾も同罪だ」
シャルカマーリアは冷ややかに返しました。
「それに、戦に関しては私は専門外だ。実際の戦をどのように運ぶかは、ホーマレイティエ様が決めること。私の仕事は、奪われた城の者たちを取り返すことであり、戦況に関わらず、その任のために可能な手を打たねばならない」
「戦況に関わらず、と仰いますが、シャルカマーリア様」
トルァークシャはなおも食い下がります。
「間違いなく過酷な戦いになります。その中に我々が足を踏み入れたとして、できることなどありますまい。どうか、ご英断を、シャルカマーリア様。ここはホーマレイティエ様にお任せし、我々は一旦帰還して、さらなる支援を求めるべきです」
「くどい。私は役目を果たさねばならぬ。さあ、行け。ホーマレイティエ様に、蕾への進軍を提言し、それに我々も随行すると伝えよ」
トルァークシャは、仕方なく、頭を下げました。トルァークシャは、シャルカマーリアに向かってはああ言ったものの、仮にシャルカマーリアの上申がなくとも、軍を率いるホーマレイティエが蕾への進攻を決定するであろうということは、薄々勘づいていました。そして、ひとたび十六たるホーマレイティエの命令があれば、トルァークシャなど、何の力も持たないのでした。
◇ ◇ ◇
ダウフィエは、ウィマーニーの後ろをついて、別の建物まで歩いていきました。ダウフィエは道すがら、改めて、建物の隙間を縫う小道のあちこちで、種類も分からない様々な花が、木々の隙間からこぼれる弱い夕日に照らされているのを眺めました。最初に訪れたときも感じたことですが、ここは人間以外の生命があまりに多く、雑然として、しかしそれが、奇妙なまでの感動をもって迫ってくる、落ち着かない場所です。
ウィマーニーは寡黙なたちらしく、以前もあまり世間話をするようなことはなかったのですが、今回も、建物に入り、部屋に入り、円卓の周囲に並べられた席を勧めてくるそのときまで、ほとんど会話はありませんでした。
『かけてくれ』
ダウフィエは手近な椅子に座りながら、口火を切ります。
『さっきも言ったが、今日は頼みがあって来た。早速、言わせてくれ』
『ああ。うかがおう』
ウィマーニーに促されて、ダウフィエは、小さく身を乗り出しました。
『俺たちの本社拠点は、揺籠の侵攻によって、危険にさらされている。同盟成立時に交わした約定に基づいて、支援を頼みたい』
ウィマーニーは、ただ沈黙しています。ダウフィエは、言葉を足しました。
『もちろん、これまでの支援にも感謝している。だが、今や、揺籠社は竜と蕾の共通の脅威だ。蕾社だって、何度も揺籠と小競り合いになって、負けを繰り返しているだろう』
ウィマーニーの不快そうな感情が手に取るように伝わってきましたが、ダウフィエは手を緩めません。
『確かにこれは、前例のないことだ。それでも、竜と蕾が手を結べば、揺籠と拮抗する、いや、奴らを上回る勢力になれる。蕾にも十分な利益があるはずだ。だから、ぜひとも、兵を貸してほしい』
『あなたの言い分は、分かった』
ウィマーニーのその含みのある言い方に、ダウフィエは小さく身を引きました。
『認めるのは不快だが、実際、近年の揺籠はますます増長し、我らの土地や資源を脅かしている。竜と私たちで利害が一致するのも、そうだろう。だが、竜の地まで私たちの兵士を向かわせることはできない』
ダウフィエはぐっと目を細め、それから、低い声で問いました。
『理由を聞かせてもらえるか』
『それが私たちの、古くからの生き方に反する、というのがひとつ』
ダウフィエの表情を見たのか、ウィマーニーは付け加えます。
『あなたがたはこういった考え方を好まないだろうが、私たちにとっては、先祖から受け継がれてきた生き方をそのままに継ぐことが、何よりも大切なのだ。それに、理由はそれだけではない』
『なら、そっちも聞こう』
『竜の地は既に手遅れだ』
無言になるダウフィエの前で、ウィマーニーは淡々と続けます。
『既に揺籠が竜の地を制圧しているなら、そこに兵を向かわせることは、敵陣へ突進するのと同じことだ。勝ちの目は薄いし、それは救援とは言わない。あなたがたと協力するのはやぶさかではないが、竜の地に兵を送ることは承諾しかねる』
ダウフィエは沈黙し、しかし頭の中で、何とかウィマーニーを説得する手立てがないかと、必死で考えていました。
ダウフィエも無論、エドゥムハジアが竜の本拠を放棄し、社員を領外に逃がすことを選んだのだということは、察しています。おそらくですが、ダウフィエたち以外の社員も、何かと理由をつけて、あちこちに隠れさせているのでしょう。それは、本社に一切の防衛手段を置かないのと同じです。揺籠軍があの町に到着した瞬間が、竜社が陥落する瞬間でした。
それでも、まだ、竜が滅びたわけではありません。
土地を捨てて逃げたために、多くの竜が、戦いによって死ぬことなく、生き延びています。蕾社の協力を得られさえすれば、本社を奪還することも可能です。
そのとき、ダウフィエの思考を中断するように、部屋の扉が開きました。蕾の社員と思われる人物が入ってきて、ちらりとダウフィエを気にする仕草をした後、ウィマーニーに告げました。
『領地東辺縁の警戒に当たっていた兵士たちが、揺籠軍の接近を確認しました。揺籠は、私たちの領地に――蕾に攻め込むつもりです』
「なっ――!」
ダウフィエが思わず声を上げて立ち上がると、ウィマーニーは哀しそうな目でそれを見て、言いました。
『これで、私たちの拠点も、危険にさらされることになってしまった。約定に基づき、君たちの力を借りたいと考えるのだが、どうだ』
ダウフィエはその冷静な言葉に、がり、と角の根元を触って、再び椅子に腰を下ろしました。
『いやに平気そうだな。もっと驚くとかないのか』
『あなたの言うとおり、揺籠との小競り合いは昔からあった。それに、同盟のことが向こうに露見したなら、こちらに矛先が向くのも自然だ。もちろんその場合、これまでの比にならない、苛烈な攻撃があることは間違いない。私たちの現状の軍で対抗できるとは思えない』
『それで、この場にいる俺らに協力しろって?』
『それが一番確実だ。ユーティーシュカーも、おそらくそう判断する』
『よし。交換条件だ』
ダウフィエは机を手の平で叩きました。
『俺たちには匿ってもらった恩がある。力の限り、あんたらを助けよう。だが、揺籠を退けることができたら、あんたらも俺たちの拠点の奪還に協力してくれ』
ウィマーニーは、短い静寂の後、こう答えました。
『致し方ない。それが、あなた方の助力を得るためならば』
ダウフィエは思わず拳を握りしめました。しかし、ふと我に返ります。
『なあ、蕾の防衛線ってのは、どんなもんなんだ。主戦場になるとしたら、どこだ』
『ここだろう』
あっさりとした返答に、ダウフィエはぎょっとしました。
『普段はもっと東方で戦いになるし、そこで駐屯している兵のみで対処できる。普段、揺籠の目的は、紙や布などの資源だから、川の下流、森の東端辺りの町が襲われて、それで終わりだ。だが今回は、それで済むとは思えない』
『じゃあ――ああ、くそっ、なるほどな。普通にやばいわけだ、あんたら』
『最初からそう言っている』
ウィマーニーはあくまで淡々としています。ダウフィエはしばらく考えて、再び口を開きました。
『もう一つ、頼みがあるんだが、聞いてくれるか』
◇ ◇ ◇
外階段から差してくる、柔らかな日の光は、いつの間にか、橙色に変化しています。
ひとときの間、反応すら忘れていたアリューテでしたが、オウヴァムの言葉の意味を吞み込むにつれて、まず、疑問がわいてきました。
「それは、一体誰から聞いた話なのです。竜の地は、あれほど遠いのに」
「ダウフィエの言うところの、目に見えない光というのは、かなりの距離を伝わる」
オウヴァムは自分の角を指してみせます。
「本社から逃げ延びた仲間の幾人かは、まだ竜領端辺りの遺跡に潜伏しているらしい。そいつらを中継して飛ばされた連絡だ」
ちょん、とアリューテの小指に触れるものがありました。アリューテはウルファかと思って斜め後ろを振り向いたのですが、それは文字の書かれた黒板を掲げたリュリーでした。
『信頼のおける情報だと思います。ユーティーシュカーも、竜の本社はまず間違いなく落ちると予想していました』
思いもかけぬ、竜社陥落の報せを補強する言葉に、アリューテは二の腕を手の平でさすり、オウヴァムを見上げました。
「やはり、私たちを他所へ連れ去る余裕など、あなた方にはなかったのではありませんか。判断を誤りましたね」
「そう見えるか?」
アリューテは、自分の腕をぎゅっと掴みます。
「これがあなた方の失敗でないなら、何なのです。寄る辺がなくなったのでしょう?」
「お前たちが、本社よりも重要なものだと、判断したということだろう」
「ですが、私たちを満足に調べることもできず、知見を活かすための拠点も失っているではありませんか。私たちにどれほどの魅力があったのかは知りませんが、あなた方の主人は優先順位を間違えたと言わざるをえないでしょう」
「作戦の変更を提案したのはダウフィエだ」
アリューテは、やや唐突にも思える言葉の意図をはかりかね、口をつぐみます。それを横目に、オウヴァムはむっつりと続けました。
「もともとエドゥムハジア様は、余計な人間を殺しつくすつもりでいた。情報を抜くなら上位の有翼を尋問するか、残されている記録を調べるので十分だ。お前たちのような雑魚を生かしておいたところで、何の得にもならない。それを、ダウフィエが説得してやめさせた」
「……どういうことです」
「下位の労働者は、有翼の下で強制労働に従事する被害者だ。上手くやれば味方に引き入れられるかもしれないし、有翼たちと同じ理念で動いているわけではないから、ひとまとめに殺すのは酷だ、と」
アリューテはいらいらと問い直しました。
「ですから、なぜダウフィエがそのようなことをしたのかと訊いているのです」
「なぜ? 本気で言っているのか?」
オウヴァムは三つの目でアリューテを睨みつけます。
「まさか未だに、ダウフィエがお前らを傷つけようと思って、わざわざ物分かりの悪いお前らを懸命に説得したとでも信じているのか」
「でなければ、何だというのです。私たちを故郷から連れ去り、口八丁でこんな遠く離れた土地にまで――」
「もう一度言うぞ。お前らには、何の利用価値もない。そんなお前らをわざわざここまで引きずってきたのも、お前は、悪意のゆえだというのか。故郷の危機を見捨ててまで、お前らを虐めるために連れてきたとでも」
アリューテがぐっと言葉に詰まると、オウヴァムは竜に特有の、がさついたため息を吐いて、こちらに背を向けました。
「馬鹿馬鹿しい。ダウフィエも何だって、こんな愚かな奴隷どもに構っているんだか」
アリューテは咄嗟にオウヴァムを引き留めます。
「待ってください。まだ私の質問に答えてもらっていません」
振り返ったオウヴァムの目は、外から差しこむ真っ赤な夕日の光を反射して、思わず身のすくむような鋭い眼光を放っていました。
「今まで分からなかったのなら、俺が何を言おうと意味はない」
低く抑えた声でそう言い捨てて、オウヴァムは建物を出て行ってしまいました。
アリューテは、苛立ちと戸惑いとを半々ずつに、追いかけようかと迷って、咄嗟にウルファたちの方を振り向きます。そこで初めてアリューテは、ウルファが壁際にうずくまっているのに気付きました。リュリーが小さい手で、丸まったウルファの肩をそっと触っています。
「ウルファ、どうしたのです!」
アリューテが駆け寄ると、ウルファは気だるげに顔を上げました。隣でリュリーが、慌てたように文字を書いています。
『きっと体力がなくなりそうなんです。早く点滴をしないと』
ウルファはたった今オウヴァムが出て行った扉に視線を走らせて、首を振り、ウルファの脇の下に体を滑り込ませて、肩で彼女を担ぐようにしました。アリューテにしても、ほとんど気力は残っていないのです。まずは休息を取らないことには、どうにもなりません。オウヴァムにしても、長旅で消耗しているのはさほど変わりないはずですから、二階にいれば、そのうち戻ってくるでしょう。
「すみません」
消え入りそうなウルファの声を、アリューテは叱り声で返しました。
「倒れる前に休息を取るのは、城に生きる者ならば当然するべき心がけです。限界が近いようなら早く言いなさい」
ウルファはごく小さく、首を縦に振っただけでした。アリューテは、所在なさげに佇むリュリーに目礼してから、ウルファを連れて、二階へ戻りました。
アリューテが目を覚ましたとき、部屋は真っ暗でした。身を起こそうとしたとき、隣に寝ていたウルファの体に手が当たってしまったのですが、ウルファはぐっすりと寝入っていて、起きる気配はありません。
窓の外を見ると、日はもうとっぷりと暮れ落ちていて、無秩序な建物や巨木のあちこちに、ちらちらと明かりが灯されていました。
何の気なしにそれを眺めていたアリューテですが、突然窓の外で黒い影が揺れ、ぎょっとしました。
「アリューテ」
かすれた声がして、アリューテは、そこにいるのがダウフィエらしいと気付きます。アリューテは、点滴を背中から抜き、立ち上がって、横たわる水運びたちの合間を縫って、外廊下へと出ました。外に出てみると、ダウフィエは、半身が闇に溶け込んでいましたが、もう半分は他の建物の明かりに照らされて、微かに輪郭が見えました。
「どうしたのです。何か、予想外のことでも? 他の者も起こした方が良いですか」
「いや、いい。あんただけで」
「では、何の御用ですか」
「ちょっと来い」
アリューテは、相変わらずの態度に少しむっとしながらも、黙ってダウフィエの後をついていきました。
外廊下から階段を下りてみると、一階は、竜が幾人かいるだけで、がらんとしています。ダウフィエはひらりと手を振って竜たちを制すると、外に出て、建物の入り口前に造られた階段に腰を下ろしました。こちらを見上げてくるので、アリューテは仕方なく、その隣に座ります。
「それで、一体何ですか。わざわざ皆に聞こえないところに来て」
「ちょっと話しておいた方がいいだろうと思ってな」
アリューテは、ふいと顔をそむけました。
「率直に言って、あなたの話すことは、信用がなりません。また何か私を言いくるめるおつもりなら、戻らせていただきます」
「そういうんじゃねえよ」
「今回は、ですか?」
「いや、だから」
ダウフィエが不機嫌そうに言いさすのに、アリューテは被せました。
「あなたが、私たちを城の外に連れ出すことを、あの竜に提案したそうですね。どういうつもりだったのです」
「あぁ?」
ダウフィエが情けない声を上げました。
「オウヴァムだな、あんにゃろう……」
「答えてください。何のつもりで、そんなことをしたのですか」
「何のつもりって……」
ダウフィエは、いつになく煮え切らない態度です。
「俺は、ただ……ただ、あの状況が気に食わなかったんだ」
「どの状況ですか」
「あんたらが、何の自由もなしに働かされてたことだ」
「またその話ですか。そのような言い草で私たちを丸め込めると思っているなら、考えを改めた方がいいと思いますが」
「何だよ、自分で訊いといて、人の話を聞く気がねえのか」
ダウフィエは逆上気味に言い返しました。
「そもそも、丸め込まれてんじゃねえか。あんた以外の奴らは」
「それは――!」
ダウフィエがはっとしたように、身じろぎをしました。
「悪い。……言い過ぎた」
アリューテはまた、気勢を削がれて、口ごもります。
「いえ。どうやら、事実のようですから」
ダウフィエは、アリューテの方を見透かしましたが、何も言いません。
「……あなたは、随分と弁が立つようですが」
アリューテは弱く手を握りこみました。
「私に言わせれば、あなたの言い分にそこまで説得力があるとは思えません。どうやって彼女たちをたぶらかしたのです」
ダウフィエは、ふてくされたようにそっぽを向きます。
「別に。あいつらが信じ込みやすいだけだ」
「何ですか、それは。皆が馬鹿だと言いたいのですか」
「そうじゃない。けど、考えてみろよ。あいつらが生まれてこのかた、言葉ってのは、ただ聞いた通りに動くためのものでしかなかったんだ。しかも、仲間との会話すら滅多にないときた。嘘を見抜く練習が足りなさすぎるんだよ」
ダウフィエは膝の上で頬杖をついて、黙り込むアリューテを眺めました。
「むしろ、あんたは大したもんだ。ちゃんと物事の意味を理解してる。言っただろ、多少はものを考えられる奴だと思った、って。頑固で話が進まないのは困りものだが、他の奴は俺の言葉に呑まれるばかりで、そもそも会話にならねえんだ」
そこまで言うと、ダウフィエはふと言葉を切り、考えを巡らせながらそれを口に出しているような調子で、ゆっくりと続けました。
「今になってみれば、俺にとっては、それが一番怖いんだろうな。そりゃあ、俺は竜社の人間だから、揺籠の奴らは敵だし、あんたらだって、当然、必要になれば殺すもんだと思ってた。けど、言われたことをそのまんま信じてしまうような奴らが、俺が殺すべき敵だとは思えないんだ、と思う。あいつらはたまたま揺籠社で生まれただけで、もっと別な場所にいさえすれば、そこの価値観を信じてたんじゃないか、って、考えちまう。つまり、あんたらが城で信じていたことは、自分で信じようと思って信じたことじゃなくて……俺はそれが、恐ろしいことだと思うんだ」
アリューテが口を挟もうとするのに勘づいて、ダウフィエは片手を挙げました。
「まあ、待ってくれよ。俺があんたらを外に連れ出すことを決めたとき、そこまで考えてなかったのは確かだ。俺は単に、あんたらがこき使われてるのが気に食わなかった。今言ったのは、俺があんたらを何とか味方に引き入れようとして、あれこれ試してる間に考えたことだ」
「……あなたは随分と、自分で決める、ということにこだわりがあるようですね」
アリューテが言うと、ダウフィエは突然、大きく頷きました。
「そう、要はそこだ、俺が気に食わないのは。なんだ、分かるんじゃないか」
「分かりませんよ」
アリューテはこぼしました。
「あまりあなたがしつこく言うので、何か思うところでもあるのかと、推理しただけです。理解はできません。あなたの言う、自由というものには、一体どれほどの価値があるのです?」
ダウフィエは一瞬、今にも噛みつきそうに身じろぎをしましたが、思い直したように、静かな口調で返しました。
「俺がウルファの体を使ってたときに、言ったことあるだろ。水を運ぶだけでいいなら、何で俺たちは、ものを考えることができるのかって」
「……ええ」
「あんたはあのとき、仕事のことを考えるために、それができるんだって答えた。けど、それにしちゃ、俺らは賢すぎる。少なくとも俺には、好きなことや楽しいことがあって、やりたくない嫌なこともある。それを無理に我慢すると、苦しい。やたらめったら苦しい目に遭うのは、俺も嫌だし、誰かが遭ってるのを見るのも嫌だ」
「ですが私たちは、城で働くことを苦痛に感じたことはありません」
「そうなのかもな」
ダウフィエは素直に認めました。
「だから言ったろ、最初は俺も、あんまり深く考えてたわけじゃない。俺だったら、あんなふうに休みなく働くのが嫌だから、あんたらも嫌なんじゃないかって、勝手に考えただけだ。今の俺は、あんたらがあれを嫌がってたわけじゃないのは知ってる。けど、それでも、あれは良くないと思う」
「なぜ?」
「あんたらが信じ込みやすいからだ。あんたらは生まれたときからあの場所にいて、他の生き方なんて考えたことがないから、苦痛に思ってないだけかもしれない。あんたらが苦痛に思ってなくても、傍から見たら、あれを嫌でない方がずっとどうかしてる。だから俺は、あんたらを連れ出したのは、正しかったと思ってる」
アリューテは少しの間、ダウフィエの言葉を頭の中で咀嚼して、それから、問いました。
「ですがあなたも、竜社という環境で与えられた価値観を信じているのでは? 生まれ育った場所の習慣に則ることは、いけないことなのですか?」
「あんた、つくづく理解が早いな。惜しいもんだ」
ダウフィエはため息をつきました。
「けど俺は、別に竜の社会が、完全に正しいものだとは思ってない。俺だって、選択肢が多かったわけじゃない」
ダウフィエの大きな目は、珍しく足元に落とされています。
「他の誰かの体を乗っ取る力は、今の竜社じゃ貴重だ。それを生まれ持った時点で、生き方は大体決まってた」
「それが嫌だったとでも?」
こればかりは堪えきれず、アリューテはつっけんどんに返しました。
「ですが実際あなたは、求められた役割を果たしているではありませんか。役割どおり、城に侵入し、ウルファを操ったのでしょう」
「俺は最後は自分で決めた。やるかやらないか訊かれて、やると答えた」
ダウフィエの目がアリューテの方を向きました。
「あんたらには、はなっから選ぶ権利が与えられてない。どのみち選びようなんてないにしても、それに向き合う覚悟を持つ、そんな機会すら与えられないんだ。俺はそれが腹立たしかった。そんなのは道具と変わらない」
ダウフィエはおもむろに立ち上がり、空を見上げました。神代の灰の影響を受けないこの地では、夜空には星がきらめいています。
「人間は自由であるべきだ。それが本来のあり方なんだ。あんたらも、まっとうな環境で過ごしたら、そのうち分かる。会社が違ったって、おんなじ人間なんだから」
アリューテは、膝の上で握っていた手に、ぎゅっと力をこめました。アリューテは、ダウフィエの信条が自分にそぐわないことをひしひしと感じ、何とかダウフィエを説き伏せようとして、しかし、考えあぐねているのでした。
アリューテが口を開いたのは、かなり経ってからのことでした。
「私には、やはり、納得ができません」
ダウフィエは、すぐには言い返さず、アリューテが続けるのを待っています。アリューテは、自分でもどうしてそんなつもりになったのか把握できないまま、苦々しい胸中を打ち明けました。
「ですが、これ以上、あなたを説得できる理屈を思いつきません。私はあなたの言葉を間違いだと思っていますが、その根拠を示せない……あなたの言い分にも、一抹の真理はあるのでしょう。私は確かに、自分で信じていることを、なぜ信じているのか、説明できないのです。……少なくともあなたが、悪意からではなく、善と信じることをしたらしいということは、理解したつもりです。それでも――」
「それだけ分かってくれたなら、いいさ」
ダウフィエは、最後まで聞かずに、そう返しました。
「あんたが現状に疑問を持って、少し時間を置く気になってくれたなら、十分だ。揺籠に戻ったら、多分二度と、考える時間なんてなくなる。殺されなかったとしてもだ。だから、猶予を作って欲しかった。色んなものを見て、考えて、それでも揺籠に戻るっていうんなら――」
ダウフィエはここまで言いさして、ふいにぐっと、目を細めました。
「いや、まあ、そんなことになるはずねえか。あんたは馬鹿じゃないもんな。時間さえあれば、きっと気付く」
アリューテは、思考が頭の中につかえているような気分に吞まれて、ダウフィエの言葉に反論することも、そのほかのどのような類の反応をすることも、できずにいました。アリューテが、何か言わなくてはと思いながらぐずぐずしていると、ダウフィエは不意に両手を打ちました。
「そういうわけだから、あんたらには、二日後にここから逃げてもらう」
「はい?」
アリューテが素っ頓狂な声を上げると、ダウフィエは真剣な口調で言いました。
「近いうちに、ここは戦場になる。揺籠の軍勢が攻めてくるんだ。あんたらを巻き込むわけにはいかないから、ウィマーニーに頼んで、手を用意してもらってる」
アリューテはやっとこの会話が、再び揺籠の軍隊に背を向けて遠くへ行くことを、アリューテに承知させるためのものだったのだと、気付きました。
竜のみによる判断ではなく、蕾にも協力を仰いでいるというのなら、このために何かと用意もしたのでしょう。それに、そういった運びになって一番ごねるであろうアリューテに、真っ先に話をつけに来たのです。アリューテは今や、ダウフィエに何か、利害以上の熱意があるのを、感じ取っていました。
アリューテはわざと、顔をそむけて答えました。
「私が何と言おうと、どうせあなたは力ずくででも連れていくのでしょう。わざわざ話しにくるなんて、あなたも暇なのですね」
「いや。俺たちはここに残る」
「えっ?」
ダウフィエは、ばつが悪そうに角の根元を触っています。
「ウィマーニーとの約束だ。俺たちはここで、蕾の連中と一緒に戦う」
「では、私たちは――」
「あんたらだけで行動することになる」
ダウフィエはいつにも増してかすれた声でそういうと、不意に、頭を下げました。
「頼む、あいつらを連れて逃げてくれ。揺籠の奴らの、手の届かない場所まで」
翌朝、アリューテは、ウィマーニーとダウフィエ、そして通訳のリュリーと共に、円卓を囲んでいました。アリューテには今もまだ、自分が一行の代表として扱われるのが居心地悪く思えたのですが、現実的に、全員で対話の場に立つことは難しいでしょう。それでこの場でも、ともかくアリューテだけが出て、後から皆に内容を持ち帰ることにしたのです。
『あなた方には、この地を離れた後、〈山脈の鋭き尾根〉社まで向かってもらう』
文体から察するに、ウィマーニーが目に見えない光とやらで語っているのでしょうが、アリューテはもっぱら、リュリーの書く文字を読むしかありません。
『山脈社は、我々を含む、ほかの三つの企業とは違って、争いということをしない。険しい山地に閉じこもっていて、山脈の人間も外に出てこないし、外から攻め込むのも容易ではないのだ。揺籠や竜にとっては、ほとんど接点がないだろう。だが蕾と山は、古くから友好的な関係を築いていて、年に数度、交易をしている』
「交易?」
『お互い、故郷の素材を交換する。蕾からは糸や布、紙を持っていく。一方の山脈には、珍しい石があるし、鉱山もまだ動いている。この辺りでは金属がとれないので、安定して調達できるのはありがたい。
あなた方には、その交易路を使ってここから逃れてもらう』
ウィマーニーが、つい、とアリューテに目を向けました。アリューテの相槌か、あるいは質問の類を待っているようです。
「なぜ、私たちを、そこに?」
『ここもじき戦火に沈む。山の地まで行けば、いくら何でも追手はかかるまい』
「山脈社が安全なら、あなたがたもそこまで逃げればいいではありませんか」
ウィマーニーは、その独特の焦点の定まらない目で、それでもアリューテをまっすぐに見つめています。リュリーが前の文字を消し、新しい文を書きました。
『我らの花園が侵されるときは、武器を取って戦う。神代から続くしきたりだ。これまで先祖が継いできた生き方を、捨てることはできない。この竜たちならともかく、あなたがたは理解してくれるはずだ』
ダウフィエが目に見えない光とやらで文句をいうか何かしたのでしょう、ウィマーニーは一瞬だけそちらに視線を向け、ダウフィエが肩をそびやかして応じています。アリューテは、ごく小さく頷きながら、呟くように言いました。
「少し、分かります。私たちと、あなたがたとでは、目的とするものが違うかもしれませんが、それに向かう姿勢は似ているのですね」
アリューテが、いつか似たような言葉を吐いた主の方をうかがうと、ダウフィエは両手を頭の後ろで組んでそっぽを向いていました。アリューテにしてみればどこか悔しさがあるのですが、今、ウィマーニーの主張に対して抱いた感覚を説明するには、その論理が一番しっくりくるのでした。
『理解してくれたなら、よかった。では、具体的な話に移ろう』
リュリーはそこまで書きつけると、ぴょこんと椅子から飛び降りて、部屋の外に駆けていったかと思うや、その小さな体をめいっぱい使って、一番下に車輪のついた、大きな石板のようなものを押して戻ってきました。アリューテが腰を浮かせて、部屋の端に据えられた石板を見ると、地図らしきものが描かれています。あちこちに文字や記号が書き込まれたそれは、どうやら、ここから山脈社までの道筋を示したものであるようでした。
『背後に山地を持つ、この蕾の地も、天然の要塞のようなものだが、山脈への道のりは遥かに過酷なものだ。あの地へは、飛竜で飛んでいくことはできない』
リュリーの筆記を読み終えたアリューテは、訊ねました。
「なぜです?」
『かなりの距離があるから、途中で補給ができない飛竜は、到達までもたない。その上、気流が乱れた場所があるので、思うように進まないし、体が揺れて、消耗も早い。仮に燃料の問題を解決できたとして、この人数を乗せて飛ぶのは現実的ではない』
「栄養の補給ができないのは、私たちも同じではありませんか」
『蕾の合成機を貸す。宙に浮くから、縄か何かで引いていくだけでいい。極端に天気が悪くなければ機能する』
アリューテは、頭を下げました。
「なるほど。助かります」
ウィマーニーは、しかし、特に気にしたふうもなく続けます。
『出発は明日の夕方頃がいいだろう。これまでの経験上、揺籠軍が蕾の東端の物見台で確認されてから、森の東端に達するまでは、三日ほどかかる。森を抜けてここまで来るのにはもう少しかかるだろう。報が入って既に半日が経っているが、それでも余裕をもって脱出できるはずだ』
「では、直ちに用意をするわけではないのですね」
『あなた方は、そうだ。私たちの用意に時間がかかると思ってほしい。先ほども言ったように、山脈への道は過酷だから、装備は入念に用立てなくてはいけない。丸一日はいただくことになる』
アリューテはその文字を読んで、恐縮しました。
「何から何まで、わざわざ、申し訳ありません。あなた方にとっても、緊急の事態なのに」
『気にすることはない。花園は常に外敵に備えているし、敵意のない客人は丁重にもてなす。それに、あなた方を揺籠の軍に戻さないことは、私たちの利益にもなる』
ウィマーニーは、また、アリューテの顔を見つめました。
『あなた方が逃げるというなら、私たちはできるだけの力添えをしよう。だが、私にとっては、あなた方が逃げるつもりでいることのほうが、不思議に思える。私ならば、故郷に戻れる機会は逃さないだろう』
質問の内容のためか、ダウフィエも、アリューテに視線を向けています。アリューテは少しためらった後、こう答えました。
「仲間の中には、戻ると罰せられる可能性のある者がいます。私は彼女が無実であることを知っていますから、不用意に戻れないのです」
『だが、それは』
リュリーが書きかけた文字を慌てたように消して、書き直しました。
『いや、何か込み入った事情があるのだろう。あなたは誠実で、賢い人間であるように見えるから。あなたが決めたことなら、詮索はしまい』
「ええ……」
アリューテは曖昧に相槌を打ちましたが、その機微はリュリーから伝えられなかったと見えて、ウィマーニーはすっくと立ち上がりました。
『私は失礼する。明日の夕方まで、ゆっくり過ごされるといい』
それに合わせて、ダウフィエも席を立ちます。アリューテの視線に気づいて、ダウフィエはこう言い残しました。
「俺も、あいつらと何かと打ち合わせがある。また後でな」
二人が部屋を出てしまった後、リュリーがさらさらと文字を書いて、こちらに見せました。
『皆さんのところに戻りましょう。ご心配なさらないでください。蕾の者が全て、いいように整えます』
ちょこんと椅子から飛び降りるリュリーに、アリューテも小さくうなずいて、一緒に部屋を離れました。
さらに翌日、昼頃のことでした。
アリューテの仲間の多くは、夕方の出発に備えて、点滴を受けていました。
今回はアリューテが事情を話しただけにも関わらず、仲間たちは皆、精々お互いに顔を見合わせる程度で、あっさりと逃亡の計画を受け入れました。その様子から、アリューテは、ダウフィエの言葉の意味を理解しつつありました。彼女たちは――水運びに限らないことですが――投げかけられた言葉に反対するということを知らないのだと、改めて認識させられたのです。アリューテがこれまでにしてきた決断も、思った以上の影響を、仲間たちに与えていたのではないでしょうか。アリューテはここにきて、無自覚なうちに自分の背負う責任が重たくなっていることに、どこかうすら寒い気持ちを抱えていました。
何にしても、城から連れ去られた仲間たちは、予定通り蕾の地を発つつもりでいました。そんな折、リュリーがアリューテたちのいる建物に飛び込んできたのです。
「どうしたのです?」
リュリーはあらかじめ書いておいたらしい文章を、掲げてみせます。
『山脈に向かう交易路の近くで、揺籠の斥候が目撃されました。直前ではありますが、経路を変更して、出発も前倒しにした方がいいと、ウィマーニーさんが言っています』
それで、アリューテは、眠っていた仲間たちを慌てて起こし、状況を説明して、ほんの数分後には、全員でぞろぞろと建物を出ることになったのでした。
リュリーはアリューテたちを、森の外れ、それも一昨日飛竜の降りた場所とは反対側へ案内しました。眼前は緩やかな草地の斜面になっていて、左手にかけてはずっと下へと下り続けている一方、右手はほぼ水平でした。そこには既に、五つほどの父――蕾でいうところの合成機――と思われる、上側が平らになった風船のようなものが、地面に突き刺された杭に結ばれて、ゆらゆらと空中を漂っていました。
『もともと皆さんが行く予定だったのは、こちらの道です』
リュリーは、片手で黒板を持ったまま、もう片方の手で、左の斜面の先を指さしました。草地の、あるいはずっと先の荒野の所々に、目印のような古い旗が立ち、その近くを、ごく微かな線が伸びているように見えます。おそらく、人が定期的に通るために、草や土が踏まれて、自然と道のようになっているのでしょう。
『この道は山脈へと向かう最も楽な道ですが、岩山や砂漠を避けるために大回りになっていて、一部が竜たちの拠点の近くを通っています。それで、揺籠の手が伸びたんだと思います』
リュリーはまた、指で遠くを示しました。
『ですから皆さんは、あちらに進んでください』
今度はアリューテたちから見て右手側です。最初はただ、草地が森から平らに続いていると見えた景色ですが、よく見ると、それはあるところで不自然に途絶えています。どうやら急斜面か崖かがあって、あの辺りで地面が一気に落ち込んでいるようです。その向こうには、灰色に沈んだ、乱雑な大地が広がっていました。あちらには、道があるようには見えません。というより、遠目にもひどく足場が悪そうで、単に歩いて通ることすら、容易ではなさそうです。
『こちらはほとんどまっすぐ、山脈へと続いています。長いこと人は絶えていますが、古くはこちらの道も、交易に使われていたということです』
そう書かれた黒板を見せてから、リュリーは三枚の折りたたまれた紙を手渡してきました。アリューテが開いてみると、ここから山脈の地に至るまでの道筋を示した、簡単な地図のようです。残る二枚も、一枚目と同じ内容でした。おそらく、もととなる地図を紙に写し取ってくれたのでしょう。
「紙は貴重だという話だったではありませんか。どうして、三枚も」
リュリーは袖口で黒板をぬぐうと、小さい字でびっしりと、こう書きつけました。
『揺籠社に狙われるより安全なのは確かですが、この先の道はもともと過酷なのです。水運び、風送り、見張りの、それぞれの代表の方が持っておいて、どれかをなくしたり、お互いにはぐれたりしても、先に進めるようにしておいた方がいいです』
アリューテは、やにわに緊張しながら、頷き返しました。
続いてリュリーは、杭に繋がれている父を指しました、
『お貸しする合成機です。使い方は据え置きのものと同じですが、固定しておかないと風でどこかへ行ってしまうので、気をつけて下さい。これも、あまり丈夫なものではないので、皆で分けて持っておいて下さい』
「分かりました」
これで、説明は終わりのようです。動きを止めたリュリーに、アリューテはお礼を言いました。
「ありがとうございます、リュリー。三日間、お世話になりました」
リュリーはびっくりしたようにアリューテを見上げ、それからぎこちなく文字を書きました。
『いえ、これが仕事ですから。皆さんの幸運を祈ります』
そのとき、後ろでいくつかの足音がしました。その人物を見るや、アリューテとリュリーの会話を見守っていたウルファが、それとなくアリューテの後ろに隠れます。ダウフィエとウィマーニーです。アリューテの背後にいた仲間たちは、二人がアリューテに話しに来たのだと思ったのか、左右に分かれて、アリューテを通してくれました。
ウィマーニーは、これまでとは少し違った格好をしていました。ゆったりとした布をまとっているのは同じですが、腰に棍棒のようなものを携え、鈍く光る金属の兜を被っています。
リュリーがふと気付いたといった様子でぴょこんと飛び上がり、文字を書きました。
『このような格好で失礼する。思ったよりも揺籠の進軍が速いので、今日の夜には戦端が開かれそうなのだ』
アリューテは、目を伏せました。
「このような状況で、ご迷惑をおかけしました。私たちは、あなた方にとっては、敵の仲間なのに」
『昨日も言ったが、気にすることはない。私たちにしてみれば、敵の仲間だからこそ、合流させたくないのだ』
ウィマーニーは、棍棒の柄に手を置いてみせました。
『あなたこそ、本当に嫌ではないのか。私たちは、侵入者には容赦しない。あなた方の仲間を大勢殺すことになる』
アリューテはその言葉の鋭さに、思わず身じろぎをしました。
「……ですが、私たちに、それを止める手立てはありません。賢者の方々が決めたことであれば、私は反対することはありません。ですが、それにあなた方が抵抗しようと思うのも、自然なことだと思います」
リュリーの手はしばらく止まっていましたが、そのうちに、こういった文字が書かれました。
『あなたの言葉は、私には時々難しく思える』
アリューテがぎくりとしたのが通じたのかは分かりませんが、リュリーはさらに、こう書き加えます。
『あなたは、竜たちよりは私たちの感性に近く、故郷を思う気持ちが強いのだと考えていた。だが、時として、それと矛盾した言動がある気がする』
アリューテが黙っていると、リュリーはそれまでの文字を消して、新しく、ウィマーニーの言葉を書きました。
『気分を害したのなら、申し訳ない。私たちは、あまり新しいことを学ぶようにはできていないのだ。だが、あなたがそういった、揺籠軍から一歩引いた態度だからこそ、私たちはあなた方を客人として迎えることができた。それは悪いことではないと、私は思う』
アリューテは文字を読み終えてから、こう答えました。
「私には、あなたのほうがずっと、賢い方のように思えます。私はただ……」
アリューテはその先を言うのがためらわれて、言葉を切りました。
ウィマーニーはしばらく、アリューテが再び口を開くのを待っていたようですが、そのうちに、こう言って出発を促しました。
『私たちの敵とならない限り、私はあなた方の幸福と、願いの成就を祈っている。さあ、急ぎなさい。あなた方が揺籠軍から離れることを望むなら、少しでも早く、ここを発ったほうがいい』
アリューテは頷いて、踵を返そうとし、ふと思いとどまって、ウィマーニーの隣のダウフィエを見ました。ダウフィエは、会話に口を挟むでもなく、静かにしていましたが、アリューテの視線を受けて初めて、こう言いました。
「あんたが迷うことは、間違いじゃない。……俺は、あんたのことを信じてる」
アリューテは少しの間、ただダウフィエの単眼を見つめ、それから、浅く頷き返しました。今度こそ二人に背を向け、すぐ後ろにいたウルファの背にそっと触って、森から離れる方へ歩き出します。他の仲間たちも、アリューテに従いました。水運び、風送り、見張りのそれぞれが、杭に繋がれた父の縄をほどき、代わりに手に握ります。ずっと近くにいたリュリーは反対へと向かい、今はウィマーニーの隣に立っています。
アリューテは先ほどリュリーにもらった地図を、ルーヤとアークェに一枚ずつ渡し、最後の一枚は自分で持っておくことにしました。改めて地図を見てみると、最初はどうやら、すぐそこにある崖を下りることになっているようです。おそらく、階段か何かが造ってあるのでしょう。アリューテは二言、三言、ルーヤとアークェと話し合ってから、最後に一度、ちらりと森の方を見て、ウィマーニーに頭を下げ、歩き始めました。
「アリューテ!」
後ろのほうで、ダウフィエの声がしました。
「ありがとう! ごめんな!」
隣を歩くウルファが、背後を気にする素振りを見せましたが、アリューテは振り返りませんでした。
草原の途絶える場所は、ほぼ垂直にそびえる崖になっていて、ずっと下まで下るための坂が、折り返しながら切り出してありました。アリューテたちは、片方に空高くそびえる崖の壁を、もう片方に遥か下まで広がる心もとない無の空間を感じながら、一列になって、ひとまず崖を下りました。
崖の下は見渡す限り、ごつごつとした岩が地面を埋め尽くしていました。というよりも、もとは一つの岩の板だったものが、あるところで帯状に、あるところですり鉢状に削り取られて、結果として巨大な岩が乱立しているように見える、といった格好でした。山谷というほどの高低差はないものの、アリューテたちの背丈より遥かに大きい岩の塊が、あちこちに展開しています。できるだけ平らな場所を選んで行くしかなさそうです。
アリューテたちはまず、両側を岩の不規則な壁に挟まれた谷状の場所を、北東に向かって歩き始めました。先頭にアリューテを含めた水運び、その次に見張り、一番後ろが風送りといった具合に、列になって進んでいきます。
「アリューテさん」
アリューテのもとに、ルーヤが必死に足を引きずりながら、追いついてきました。アリューテが歩調を緩めようとすると、ルーヤは慌てて制します。
「あっ、大丈夫です、お気遣いなく。不格好かもしれませんが、ちゃんと歩けますから」
「そうですか?」
とはいえ、アリューテは気が急いていたために、かなり早足で歩いており、後ろの水運びたちとは距離が開きつつありました。アリューテはルーヤの気に障らないであろう範囲で、足を前に出す速度を落とします。
「それで、どうしたのです、ルーヤ」
「いえ、今後の進み方のことなんですけど。この地図、ちょっと分かりづらくないですか。道みたいな線はありますけど、かなり大雑把な感じがするし、目印みたいなものもほとんどないし」
「最近は使われていないとの話ですから、古い記録しかなかったのかもしれませんね」
「でも困りますよ。こんな見通しの悪いところで、方向を間違ったら、あっという間に迷ってしまいます。アリューテさん、どうするつもりなんですか?」
「蕾の方々もあまり険しい辺りは通らなかったのでしょうし、迷っても引き返すことはできるのですから、そこまで心配することもないでしょうが……もう少し進んで、両側の壁が低くなったら、高いところから様子を確認したほうがいいかもしれませんね」
「私、ちょっと上がってみましょうか」
隣を歩いていたウルファがそう提案し、つい先ほど通り過ぎたあたりの壁を指さしました。
「あの辺り、登れそうですよ。上から見てみます」
「ウルファ、待ちなさい、危ないでしょう――」
アリューテが制止するのも聞かず、ウルファは小走りに引き返すと、ちょうどでこぼことした坂のようになっている場所に、両手をかけ、次に、片足をかけようとしました。ごっ、と響いた鈍い音が、一瞬にしてアリューテの恐怖を煽ります。
「逃げて!」
叫んだアリューテを振り返ったウルファの手元が、ぐらりと揺れました。咄嗟に飛びすさったウルファの頭上で、ぼろぼろに脆くなった岩が斜面を滑り、宙へ躍り出たかと思うと、アリューテたちの後ろをついてきていた水運びたちの横っ腹になだれ込みました。複数の悲鳴が響き、土煙が弾けたように広がります。それが晴れた後に見えたのは、大量の岩石を目前に呆然とへたりこむウルファと、土砂の下から伸びる、水運びのねじ曲がった腕でした。
言葉を失うアリューテの耳に、遠くからアークェの声がしました。
「アリューテ、ルーヤ! 無事か、どうなった!」
隣にいるルーヤが叫び返します。
「僕と、アリューテさんは無事です! あとウルファさんも! でも、水運びの人が……ひょっとしたら、他にも、岩の下敷きに……」
「こっちも何人かやられた」
アークェの声は予想外に平静でした。
「お前たちも無理に戻ろうとしない方がいい。この辺りを登ると、また崩れるかもしれない」
「そんなこと言ったって……離れ離れのままだと、どうにもなりませんよ」
アークェは一拍遅れて、こう訊いてきました。
「地図はあるな? 父も無事か?」
「はい、地図は二枚とも無事で、父も一体はここに……縄だけ岩に踏まれてますけど、切ったら大丈夫だと思います」
「その先の道はどうなってる?」
ルーヤが首をねじって、背後を見ます。
「……特に何も起こっていません、通れそうです」
「なら、お前たちは進め」
「えっ!」
「私たちは私たちで、何とか道を探す。こういうときのために、わざわざ地図も父も、余計に用意してもらったんだ」
「でも――」
「目的地は同じなんだ、そのうち合流できるはずだ。アリューテがいてくれないのは正直辛いが……こっちは人数も多いから、お前たちが心配することはない、何とかする。お前たちが無事でいられるような方法を探してくれ」
アリューテはアークェのその言葉にびっくりして、やっと我に返りました。アークェが当然のように自分のことに言及したのが、あまりに意外だったのです。
「でも、アークェさ――」
「アークェ、分かりました」
アリューテは努めて冷静な声で、崩れた岩の向こうに返しました。
「そちらはあなたの判断に任せます。私たちは先に進みます」
アークェの返答には、少し時間がかかりました。
「分かった、やってみる」
そこで、アークェの声は、こちらに投げかけられるものではなくなり、ただ岩の向こうでくぐもった、話し合っているらしい声が聞こえるだけになりました。
アリューテは何とか立ち上がりましたが、ウルファは最後までへたり込んでいました。アリューテは彼女にそっと近寄り、肩に手を乗せました。
「ウルファ、行きましょう」
「でも、セリィが――」
ウルファの言わんとするところは、アリューテにも分かりました。そしてウルファは、アリューテが考えていた通りのことを訴えかけました。
「私のせいで――こんなところに置いていくなんてできません。せめて――せめて、神殿に」
アリューテは、重たい首を振りました。
「それは、無理です。分かるでしょう。彼女を岩の下から出すことも難しいのに、この先ずっと、城に安全に戻る目処が立つまで、運んでいくとでもいうのですか」
「でも、こんなの……だって、私が……」
「あなたのせいではありません。少し触っただけで、これほど大規模に崩れるなんて、誰にも予想はできません。そして、起こってしまった以上は、もはやどうしようもないのです。分かってください、ウルファ」
ウルファはのろのろと立ち上がり、岩の下から伸びるねじれた腕を見つめて、つぶやきました。
「アリューテさん、私たちは……本当に、いつか、城に戻れるんでしょうか」
アリューテは、答えられませんでした。
極端なことを言えば、アリューテが山脈へ逃れるのを決めたのは、自分の迷いを晴らすためであって、心の底から仲間たちのことを思っての決断ではないのです。もちろん、できる限りのことはしたいと思っていますが、三つの企業を巻き込む戦乱の中、ウルファたちの安全を勝ち得るための方法など、全く思い浮かびません。
アリューテは、せめて身の危険のない場所で、状況が落ち着くまでの間時間をとり、そこで考えをまとめよう、というつもりでいたのです。ですがこの岩地は、たった今経験した通り、到底身の危険がないとは言い難い場所でした。
「ウルファ、まずはこの場を離れましょう。私たちまで岩に押しつぶされては、余計に状況が悪くなるばかりです。私たちが無事なら、また仲間を連れて戻ってきて、セリィたちを助け出すこともできます」
ウルファは苦しそうに、一回だけ、うなずきました。
アリューテ、ウルファ、ルーヤの三人は、辺りが暗くなっても休まず進み続け、半日近くかかって、ようやく岩地を抜けました。抜けた、といっても、その先に広がる荒野――というより、砂漠――が、今までよりも楽な道かというと、怪しいものです。ともかく三人は、砂漠に入る前に一旦休憩し、また明るくなってから進もうと話し合って、その日はそこで、点滴を受けて眠ることにしました。全員が眠ってしまうと、父がどこかへ漂っていってしまうかもしれないため、二人が眠り、一人が縄の端を握っておく、というふうに、交代で休みました。
アリューテは、この休憩の間にアークェたちが追いついてはこないかと期待したのですが、結局朝になっても、後ろから誰かが来る様子はありませんでした。それで三人は、また同じように父を引いて、砂漠を進み始めました。
乾いた砂は、足に体重をかけただけでも沈み込み、歩きにくいことといったらありませんでしたが、少なくともいつ岩が崩れるか心配する必要はなく、安全なように思えました。ですが、それも風が出てくるまでのことでした。
所々に岩地の名残のような岩が頭をのぞかせている他は、この砂漠に強風を遮るものはなく、さらに巻き上げられた砂は、アリューテたちの体をひっきりなしに打ちました。アリューテたちは、急に吹きだした風なので、そのうち止むだろう、と高をくくって進み続けたのですが、風は吹き続け、むしろどんどん強くなる一方でした。
アリューテが、引き返した方がいい、と悟ったときには、既に四方が砂嵐に塞がれて方角すら分からず、強い風が体をなぶって立っているのもやっとになっていました。そのとき、父の縄を握っているのはウルファだったのですが、今にも縄を引きちぎって飛んで行ってしまいそうな父を、必死に引きずっているような状態でした。
「アリューテさん!」
すぐ近くにいるはずのルーヤの声も、砂交じりの風の音にかき消されています。
「止まりましょう、先に進むのは無理です!」
「ええ、分かっています!」
アリューテはルーヤに声が届くよう、怒鳴り返しました。
「集まって姿勢を低くして、風が止むまで耐えましょう。ウルファ、こっちに来られますか!」
「アリューテさん――きゃっ!」
砂に霞むウルファの体が、ぐわっと浮き上がり、直後に地面に叩きつけられました。
「ウルファ!」
アリューテは沈み込む砂に両手をつき、ウルファのもとににじり寄りました。ウルファは咄嗟に縄をたぐり寄せたのか、父を半ば抱え込むようにうずくまっています。
「ウルファ、大丈夫ですか」
「私――はい。父が飛ばされたら、終わりだと思って」
「ウルファ、よく手を放さずにいてくれました。さあ、こっちへ」
ウルファは、片腕で父を抱いたまま、こちらへ這うように近づいてきました。ウルファの体は砂まみれで、特に右半身は、ほとんど真っ白になっていました。右肩から砂の中に突っ込んでしまったのでしょう。
アリューテは、父にしがみつくウルファの肩を、さらに抱きかかえるようにして、できる限り砂からかばってやろうとしました。後ろからやっとたどり着いたルーヤも、ウルファの隣に身を寄せました。三人は長いこと、その格好のまま地面につくばって、風がおさまるのを待ち続けました。
どれくらい時間が経ったかは分かりませんが、砂嵐があらかたおさまったときも、まだ辺りは明るく、夕暮れまでは時間がありそうでした。
アリューテは、自分の選択がウルファとルーヤをこんな目に追い込んだのだと、暗澹たる気持ちで、それでも身を休める場所を探すために、一番最初に立ち上がりました。今はまだ、風の気配があります。再び悪化する可能性を考えれば、すっかり落ち着いてしまうまで、待った方がよさそうです。幸い、さほど遠くないところに、岩が斜めに突き出して、ひさし状になった場所がありました。あの辺りなら、また砂嵐がひどくなっても、吹きさらしでいるよりましでしょう。
戻ってきたアリューテは、ウルファの体を支えてやろうとしましたが、ウルファは意外にも、気丈に立ち上がりました。アリューテは少しだけ安心して、ルーヤと目を見合わせ、頷きあいます。
三人は、まだ微かにくるくると砂の舞う空気の中を、岩陰まで歩いていきました。
薄暗い、岩の屋根の下に腰を下ろすと、アリューテはどっと疲れが出て、思わず額を片手で押さえました。
「ひどいめに遭いましたね。道が使われなくなるわけだ」
ルーヤのぼやきに、アリューテは苦々しく返します。
「こうなると、ここが正しい道なのかすら、分かったものではありませんけれど」
「でも、地図はあるんでしょう? 父も無事みたいですし、時間がかかっても、先には進めるんじゃないですか?」
明るい声に振り返ってみると、ウルファは、砂を巻き込んでざらざらになった縄の端を握り、父がふわりと浮かび上がるのを確認しています。アリューテは立ち上がって、ウルファに近寄ると、その肩を払ってやりました。
「心配なのは、あなたもですよ。ひっくり返っていたではありませんか。本当に、怪我などしていないのでしょうね」
「大丈夫だと思います、どこも動きにくいことはありませんし」
ウルファは遠慮するようにそう言いましたが、アリューテは無理やり彼女の手を取ると、体の砂をざっくり払いながら、あちこち順に調べました。
ウルファの背中を見ると、点滴のための穴に、砂がたくさん詰まっています。アリューテは指先で、そっと表面の砂を取ってやりました。ですが、ある程度綺麗にしたところで、アリューテは思わず、それをじっと見つめてしまいました。点滴穴はふつう、真円形をしているはずです。ウルファのそれは、斜めにひしゃげたような形をしています。
アリューテは、ウルファの手に繋ぎとめられた父から、点滴の管を引っ張ってくると、ウルファの点滴穴にあてがおうとしました。うまく刺さりません。
「あの、アリューテさん、どうかしたんですか?」
アリューテは無言のまま、悪い予感に苛まれて、地図の端を細く捩り、点滴穴内の砂を丁寧に取り除きました。再び、点滴を刺そうと試みます。駄目です。点滴が刺さらなかったのは、砂が詰まっていたためではなく、穴自体がゆがんでしまったせいなのです。
ルーヤが隣に来て、アリューテの手元を覗き込み、動きを止めました。ウルファがじれったそうに身じろぎをします。
「どうしたんですか? どこか、おかしいところがあるんですか?」
アリューテは、答えられません。代わりにルーヤが、こう言いました。
「ウルファさん、点滴のための背中の穴が、ゆがんでしまったみたいです。点滴が刺さりません。このままだと……」
ウルファがぎょっとしたように振り向きました。
「それは――ひどいんですか?」
「直せないか、やってみます」
アリューテは反射的にそう答えました。ウルファは硬い動きで頷き、アリューテに背中を向けました。
アリューテはそれから、辺りがすっかり暗くなるまで点滴穴と格闘しましたが、アリューテの指の力では、ひしゃげた穴は戻りそうにありませんでした。アリューテは途中でルーヤを呼んで、穴を広げられないか試してもらったのですが、やはり、駄目でした。かといって、手元には使える道具もありません。点滴の先をてこのようにして、穴にねじ込めないかも試したものの、点滴の方が脆く、ぺきっと折れてしまいました。竜の父のように、点滴の先を尖らせたら何とかならないかと考え、もう一つ管を使って先端を分解しようとしてみても、こちらも繊細な操作に耐えられず、壊れるだけに終わりました。管はもともとたくさんついているとはいえ、同じようなことを無暗に試すと、使えるものがなくなりかねません。
とどのつまり、アリューテたちには、ウルファの点滴穴を直す手立ても、この状態のまま点滴を受けさせる手立てもないのです。
ウルファも最初こそ、特に気負った様子もなく、落ち着いて座っていましたが、背後のアリューテたちが幾度も失敗し、その手が止まる時間が長くなり、やがてはすっかり諦めてしまうまでの間に、自分の置かれた状況を察したようでした。
「アリューテさん、ルーヤ、ごめんなさい。もう、大丈夫です」
ウルファが二人から身を引いて、岩陰の一番奥に後じさりしました。
「もう、私は助からないんでしょう? お二人まで、余計に疲れることはありません」
「ですが、ウルファ――」
アリューテは口から出かけた言葉を噛み殺し、代わりに、こう言いました。
「……謝るのは、私のほうです。あなたを、助けられそうに、ありません」
ウルファはただ、うつむいています。
「最後の点滴が、今朝だったでしょう。点滴ができない状態になってしまったということは、あなたは――」
「もうじき動けなくなってもおかしくない、明日の朝までもてば奇跡、といったところですね」
ウルファの感情を殺したような声に、アリューテは思わず彼女の側に寄って、ウルファを抱き寄せました。
「ウルファ、ごめんなさい。私が、逃げるなんて言わなければ」
ウルファは力なくアリューテを押し返しました。
「それは、違います。言ったじゃないですか、私はアリューテさんの選択なら信じられるって。今でもそうです。これがアリューテさんのせいだなんて、思っていません」
アリューテは、ウルファの両肩を、そっと地面へと押し倒しました。
「せめて、動かずにいてください。体力を使わないようにすれば、少しでも長く……」
ウルファはなされるがままに、仰向けに横たわりました。
長い夜でした。しばらくの間、ウルファには――ひどく塞ぎこんでいる以外――不具合はなさそうでしたが、時間が経つにつれて、彼女の気力は目に見えてすり減っていきました。そのうちにウルファは、横になっている、というよりも、横になっていることしかできない、といった様子になりました。アリューテはずっとその傍に座っていましたが、ウルファは長いこと何も言わず、アリューテも自分から声をかけることができずに、ただ明かりも何もない闇の中に、沈黙だけが下りていました。ルーヤもいたたまれなくなったのか、岩陰からでも外の様子ぐらい分かるのに、風の具合を見てくる、などともごもごいって、その場を離れてしまいました。
「アリューテさん」
ウルファの声がして、アリューテは、抱える膝に埋めていた顔を上げました。
「アリューテさん、私はあなたが、うらやましくてたまりません」
ウルファはわずかに首を傾けて、弱々しい、緩慢な視線をアリューテに向けました。
「どうしてあなたは、水にも砂にも、体を侵されないんでしょう」
アリューテは、何も答えられませんでした。それを見たウルファは、ひどく悲しげに目を伏せます。
「ごめんなさい、アリューテさん。ああ、私、分かっているんです。生まれ持ったものはどうしようもないんです。アリューテさんは丈夫な体を生まれ持って、私はそうでなかったというだけの話です。だから、こんな考えは、醜いだけだと分かっているのに……」
ウルファはアリューテから目をそらし、片手で顔を覆いました。
「私、死にたくない……どうしてアリューテさんは死なずにすむんです? そんなの、ずるい、ずるいじゃないですか……」
アリューテはやはり、何も言えませんでした。いつの間にか、風の音もしなくなっています。また、長いこと、沈黙が辺りを満たしました。
膝を抱えたまま、彫像のように固まっているアリューテを、ウルファは手の陰から、哀しそうな目で、じっと見ていました。そしてまた、アリューテを気遣うように、口を開きました。
「死ぬのは、いいんです。ほんとうは」
ウルファは訥々と続けます。
「ただ、私は結局、賢者の方々のお役に立つことなく、それどころか、災いだけをもたらして、そのままに死ぬというのが、嫌なんです。私、何のために生まれてきたんだろう」
アリューテはウルファの手を、はっしと取りました。ウルファがまた、けだるげにアリューテの顔を見上げます。
「あなたは――あなたの人生に、意味がないなんてはずはありません」
「じゃあ、何の意味があったっていうんです?」
「あなたは、私の心の支えです。城を離れてからの日々にあなたがいないのは、とても想像がつきません」
ウルファは、ふふっと笑い声を漏らしました。
「アリューテさんらしくないですね」
アリューテは戸惑うのとむっとするのと、半々ずつで言い返しました。
「何ですか。気恥ずかしいのを堪えて、本心をいったのに……」
「だって、それ、ダウフィエみたいですよ」
アリューテは思ってもみない言葉に、素っ頓狂な声を上げました。
「どこが?」
ウルファはゆっくりと顔の向きを戻します。
「私たちは、賢者の方々に尽くすのが全てで、そのために生まれてきたのでしょう? だったら、他のことをどれほどしても、何の意味もないはずです」
アリューテは、突然体の深いところを突かれたように感じて、黙り込みました。それを見たウルファがまた、ふっ、と笑います。
「冗談です。私を慰めようとしてくれたんですよね。ああ、でも、不思議。そう言っていただけるだけで、私のためにアリューテさんが、嘘をついてまで、慰めを言おうとしてくれるだけで、気が楽になるんですから……」
アリューテはなおもしばらく黙っていましたが、やがて、ウルファの手をぎゅっと強く握って、言いました。
「嘘ではありません。本心です。シャルカマーリア様に尽くすのが一番だというのは、揺るぎない事実ですが、あなたの生に価値がないと思いたくないのも、その理由を考えてみたときに、ずっと私を信じて側にいてくれていたからだと思うのも、本当です」
ウルファはただ静かな目で、アリューテを見つめています。アリューテは少し迷ってから、こう続けました。
「いつか、私はきっと、霧の城に戻ります。あなたがいなくては、私はこのように気を強く持っていることはできなかったでしょう。あなたは、私が城に戻って働くのを助け、もってシャルカマーリア様に貢献したのです」
アリューテは言い終えてしまってから、苦しくなりました。ですが、状況は過酷で、ウルファはもうほとんど動けず、それを直すこともできません。ウルファとともに城に戻ることは、どれだけ願ってみても、叶わないことでした。
ウルファは噛みしめるように、ゆっくりと答えました。
「アリューテさんなら、きっとできます。どんな厳しい状況になっても、きっと」
と、突然、ウルファが顔を微かに上向かせました。
「でも、ルーヤは――だめかもしれませんね」
アリューテはその平坦な口調に、身をこわばらせます。
「気付きましたか、アリューテさん。ルーヤの足、もともと錆びていたところに、砂がすっかりまとわりついて、足首の隙間に入り込んで、もうほとんど動かなくなっているんです。かわいそうに、もし上半身は平気なままでも、足がすっかり駄目になったら……」
ウルファは目だけを微かに揺らして、つぶやきました。
「どうせここで死ぬのなら、私の足をあげられたらいいのに。そうしたら、アリューテさんと一緒に、ルーヤも城へ戻れるかもしれない」
ウルファの声は、億劫そうに、その前の一言よりも少しずつ、弱くなっていきます。
「ままならないことばかりですね。私たちは、そんなに難しいことを、望んでいるわけではないはずなのに」
アリューテはうつむいて、ウルファの手を握る手に、力を入れます。
「ウルファ、あなたは私を責めていないと言ってくれましたが――」
「責めませんよ」
「ウルファ……」
ウルファの返事は、ありませんでした。それでもまだ、彼女の目はアリューテの目を見上げて、ゆっくりと動いていました。その動きすらもひどく緩慢になり、揺らぎすらもまばらになって、すっかり止まってしまった後も、アリューテはウルファの瞳を食い入るように見つめ、手を握り続けました。
濃密な闇が薄れる気配がありました。夜明けが近付いてきたのです。
アリューテは、ウルファの手を放すと、そっと地面に置き、横たわるウルファの脚に、そっと手を触れました。
もとは滑らかで光沢があった彼女の脚は、まだ、細かい砂埃に汚れていました。アリューテはまず、それをできる限り、指先で払い落としました。砂を落とすと、肌の表面に、無数の細かい傷がついているのが分かります。アリューテは、ウルファの脚を数度撫でてから、腿にある線状の筋に目を移しました。
ちょうど膝と股関節の中間あたりに、ぐるりと腿を取り囲んでいる線があります。線は水平ではなく、正面から左右に回り込むにつれて下側へ向かい、腿裏にかけてまた上向きに転じる、といった具合に曲がっていて、さらに、その変曲点から股関節に向かっても、すうっと同じような線が伸びあがっていました。似た線が、膝の周囲や足首にもあります。脚の大半が、ひんやりと硬質な金属でできている一方、この線は触ると少し柔らかく、指が張り付くような、独特の摩擦感がある素材でできていました。
アリューテは、指先を立てて、その素材をかりかりと引っかきました。素材にはところどころに、肌と密着せず、浮き上がったような箇所があり、そこから外れそうに思えたのです。しばらくすると、思った通り、線を構成する柔らかい素材はぺりっとめくれ、下側に太腿の上部と下部の部品の継ぎ目が現れました。これは、肌と肌の隙間を埋めるためのものだったのです。
アリューテは長いことかかって、両腿から柔らかい素材を引き剝がしました。肌同士の隙間は、ごく小さなものでしたが、よく見ると、奥に配線や骨格があるのが分かります。
アリューテは、指先をその隙間にねじ込みました。強く力を込めると、少し腿の上側の肌がゆがんだものの、案外と簡単に、隙間は広がりました。アリューテは、まず片手の指を使って隙間を広げてから、今度はもう片方の手も使って、脚の下半分の肌を、ぐいっと押し下げました。歪んだ筒のような上下の二つの部品は、アリューテの手首がぎりぎり入らないくらいの隙間までを空けて、がちん、とそこで止まりました。どうやら、内部の骨格と繋がっていて、そちらを解体しなければうまく取り外せないようです。
アリューテは、太腿の内側の構造を、目を凝らして観察しました。無数のケーブルが絡まりあっていますが、そのほとんどは、ブロック状にまとまっていて、塊のまま動かせそうに見えました。束になったケーブル群の内側にある金属の棒が、おそらく腿部分の骨格なのでしょう。一番表層には、また別の種類らしい、様々に色分けされた細いケーブルが、股関節から膝先へと向かって整然と這っています。アリューテは、そのケーブルに、ところどころ結び目のような、小さな覆いがついた部分があるのに気付きました。指を差し入れてそのうちの一つをつまんでみると、覆いの裏側には突起があります。それを押してみたり、ひねってみたりしているうちに、ぱちん、と覆いが取れて、ケーブルが股関節側と膝側に分かれました。どうやら、股関節側のケーブルに、この覆いと見えた部品が固定されていて、それが膝側のケーブルを噛むようにして、互いに繋がっていたようです。アリューテは同様にして、全てのケーブルの接続を外しました。
さらにアリューテは、表皮部品の隙間に顔を寄せて中を覗き込み、膝に近い側に、塊になったケーブルと骨格が結びついている部分を認めました。ただ、このままだと手が届きそうにありません。アリューテは少し考えて、その脚を大きく曲げました。すると、お互いをぴっちりと繋いでいた素材が外れているために、正面側の肌がわずかに浮き上がり、指を差し入れられるほどの隙間ができました。
アリューテは、まず腿の一番正面にある塊と、膝の骨格部分との接続部分を、取り外しにかかりました。先ほどの細いケーブルのように簡単にはいきませんでしたが、指先の感覚から、複数のねじが組み合わさっているのだと分かったので、強く頭をつまんで、少しずつ、辛抱強くゆるめると、それで、外れました。
その最初の塊が外れると、途端に残りは楽になりました。やはり、肌の部品は骨格とどこかで繋がっているようで、このケーブルの束による、腿と膝の固定が取り払われたために、骨格の可動域が広がり、手を入れられる隙間も広がったのです。
アリューテはとうとう、全てのケーブルの束を膝部分の骨格から外し終えました。その中には、膝の下から伸びているものが、腿側の骨格にねじ付けされたものもありましたが、それも全て、ねじを外しておきました。膝上の肌の内側は、今やがらんどうで、ただ太腿の骨格が、膝まで伸びているだけでした。
この骨格も、思ったよりも容易に取り外せました。実際のところ、たった今外したケーブル群こそが、腿のものと、膝下の二本の金属骨格とを、互いに繋ぎ合わせていたようで、骨格同士は、かみあいやすいように形が整えられ、緩衝材のような部品を挟み込んでいるだけでした。
さて、とうとう、腿の中央から下と、それより上とが、完全に分離しました。
アリューテは両の脚を抱えて地面に置き、ふと、目を上げました。
ウルファが透き通った目で天井を見つめて横たわっています。そして、彼女には、脚がありませんでした。
「アリューテさん――?」
岩のひさしの外から声がして、アリューテはゆっくりと顔を向けました。灰空はもうすっかり明るくなっています。そしてルーヤが、アリューテの背後に視線を縫いとめられたように、立ち尽くしています。
「ルーヤ、こちらへ来て」
アリューテは穏やかに言いました。
「来て、って、アリューテさん、それ――」
「ウルファのことなら、さっき息を引き取りました」
ルーヤは凍り付いたような目のまま、首だけを弱く振っています。
「そうじゃなくて……どうして、脚が」
アリューテは、首をかしげて答えます。
「私が外したからでしょう」
「だから――アリューテさん、どうして、そんなことをしたんです」
「どうして?」
アリューテは繰り返し、次の瞬間、びくっと身を震わせ、両手で頭を抱えました。
「――どうして? 私、どうして……だって、ウルファが――」
「アリューテさん――」
「そうだわ」
ルーヤの言葉に、アリューテはぱっと顔を上げました。
「そう、私が思ったんです。ウルファが死んで、ルーヤが生きているなら、ウルファの脚をルーヤにあげたらいいって」
ルーヤは何も言いません。アリューテは重ねて、ルーヤを呼びました。
「来てください、ルーヤ。きっとうまくいきます」
ウルファの隣に横たわり、顔をそむけるようにしているルーヤが、ぽつりとつぶやきました。
「僕の足、どうして駄目になったか、お話していませんでしたね」
ルーヤの脚の構造は、ウルファのものと全く同じでした。アリューテはちょうど、ルーヤの左脚を取り外し終えたところでした。
「見張りには、二種類いるんです。生まれつきの見張りと、本来の職務を全うできないと判断されて、見張りに回されるのと。僕は、後者でした」
ルーヤの言葉はいつになく静かで、風のない淀んだような日陰に、染みこんでいくようでした。
「僕はもともと、水運びとして生まれたんです。でも、仕事に就いて三日したときに、手を滑らせて水をかぶって、体が動かなくなった人を見て、恐ろしくなってしまって、逃げ出しました」
アリューテは、ルーヤの右脚も外してしまい、ウルファの脚と、地面に転がったままのねじをいくつか、手繰り寄せました。
「信じてください、僕は何も、シャルカマーリア様に仕えることが嫌になったわけではないんです。むしろ、できる限りお力になりたいと願っていました。だから、僕と同時に仕事に就いた子が、たったの三日で神殿に還されたのが……僕も、うっかりしたことで、あっという間に仕事ができなくなるんじゃないかと、それが、怖かった。でも、もちろん、分かっています。それでも、その日の仕事を放棄すべきではなかったんです。……アリューテさん、あなた、僕が生まれたときにはもう働いていましたよね。覚えているんじゃありませんか」
「そんなことも、あったかもしれませんね」
アリューテは、そう答えました。アリューテは生まれてからこれまでのことを全て克明に覚えていましたが、新しい水運びが入ってくるのも、動けなくなった水運びが神殿に還されるのも、幾度も繰り返されたことにすぎず、ルーヤがさしているのがいつのことだったのか、アリューテには分かりませんでした。それに、ルーヤの語る場面を直接見たわけでもありません。日に数時間は眠っていたわけですし、水を運んでいる間に他の水運びを見るのは、階段ですれ違うときぐらいのものでした。
アリューテが、ルーヤの腿側の骨格を、ウルファの膝にはめ込むと、ルーヤは、うめき声のようなものを上げました。ルーヤの腿からだらりと垂れるケーブルの束を、新しい脚の膝に、もとと同じように、ねじで留めていきます。
「僕は、水運びとしては不適格だということにされて、見張りに回されました。逃げないように足枷をされたのも、それがあったからです。僕もあの頃は、意味がよく分かっていなかったんですが、きっとあれは、霧の中に人間を放置してどれだけもつかという、研究を兼ねていたんでしょうね。もしかしたら、見張りという職業そのものが、そのために作られていたのかも……いや、どうなんでしょう。竜が攻めてきたことを考えると、誰かが外を見張っている必要はあったはずですし」
ルーヤは、ここで初めて、首を浅く起こして、足元を見ました。
「ともかく、僕が足を駄目にしたのは、ほとんど自分のせいなんです。水運びとしてふさわしくない行動をした結果なんです。これは自業自得で、だから――ウルファさんの脚をもらってまで生き延びる価値なんて、僕にはない」
アリューテは、三つ目のケーブルの束をねじ止めしながら、言いました。
「ここまで来て、価値も何も、ないでしょう。ウルファだって、城に戻れたとしても、生きてはいられなかったはずです。彼女もまた、城に害をなしたのですから」
「でもウルファさんは、自分ではそんなつもりはなかった!」
ルーヤが弾かれたように身を起こしたので、アリューテは初めて、作業の手を止めました。
「アリューテさん、どうしてしまったんですか。ウルファさんにそんなつもりがなかったことも、ウルファさんがずっと城に忠誠心を持ち続けていたことも、アリューテさんが一番分かっているはずでしょう!」
アリューテは、起き上がったルーヤの上体を片手で押し戻し、再び寝かせました。そしてまた、ねじ止めの作業に戻ります。
「望んだか否かに関わらず、城を離れた私たちは、とうにシャルカマーリア様を裏切っているのです。皆、同じです。ですから、城での価値を語るのは、とうに無意味です」
「……それでも」
ルーヤは苦しそうに声を絞り出しました。
「それでも、アリューテさんは、こんなことをするべきではなかった。これでは、僕のような人間を救うためだけに、ウルファさんを冒涜しているようなものです。こんな、聞いたこともないようなことを試すために……成功しなければ、アリューテさんはただ、ウルファさんの亡骸を壊しただけになるんですよ!」
「ええ」
アリューテがそう答えると、ルーヤはとうとう、黙り込みました。その後しばらく、アリューテは黙々と、ケーブルの束を取りつけ続けました。
一通りその作業が済むと、アリューテは最後に、色とりどりの細いケーブルを繋ぎ合わせはじめました。ルーヤ側のケーブルの先端についた部品を使って、同じ色の、ウルファの脚から伸びるケーブルを噛ませ、固定します。五本ほど繋ぎ終えたところで、不意に、ぴくん、と、爪先が動きました。
ルーヤが動揺したように身じろぎしますが、アリューテは手を止めませんでした。とうとう、ルーヤの左腿は、すっかりウルファの左脚と繋がりました。その膝が、足首が、滑らかに動きます。
「信じられない……」
ルーヤの声が震えています。
「アリューテさん、どうなっているんですか。こんなのまるで、そう、魔法のような……」
「分かりません。はじめそうだったように、繋いだだけです」
ルーヤは、アリューテをおずおずと見上げました。
「もう片方の脚も、動くようになるんですか」
「さあ」
アリューテは何の感情もなく答えましたが、それからさほど経たないうちに、右脚の全てのケーブルを繋ぎ終えると、そちらも問題なく、動くようでした。
アリューテはその場に膝をついたまま、ルーヤに言いました。
「立ってみてください。それから、歩いてみましょう」
ルーヤは立ち上がり、その場でおそるおそる足踏みをし、それからゆっくりと、日陰の縁をぐるりと歩きました。そのいずれの動作にも、かつてあったような、ぎこちない、足をひきずる様子はなく、いかなる水運びもこう動くだろうと思えるような、平凡な印象だけがありました。
「ルーヤ。また横になってくれますか」
ルーヤが、まだ自分の身に起こったことを理解できていないような、浮ついた仕草で、アリューテの目の前に腰を下ろし、横たわりました。
アリューテは、地面に放ってあった、肌と肌の間を埋めていた柔らかな素材を手に取ると、隙間を以前と同じように塞ぎ直せないか、試みました。どうやら、一度剥がれてしまうと貼りつけ直すことは難しいようで、何とか詰め込んではみたものの、いつ外れてもおかしくないように見えました。もともと、ウルファの脚もルーヤの脚も、この素材は全周にわたってぴったり肌に貼りついていたわけではありませんでしたし、今のところは、これで諦めるしかなさそうです。
アリューテはやっと立ち上がり、岩のひさしの外を見て、こう言いました。
「そのうち、日が暮れそうですね。明るいうちに少しでも点滴をとって、夜になったらここをたちましょう」
身をゆっくりと起こしていたルーヤが、動きを止めました。
「もう、出発するんですか。……あの、ウルファさんは、どうするんです」
「この道なき道では、担いでいくことも無理です。置いていきます」
ルーヤはうつむいて、それでも、これまで同じような選択をしてきたことも、状況によっては自分が置いていかれる可能性があったことも理解しているのでしょう、反論はしませんでした。
「ウルファさんは、死んで……でも、神殿に還ることすら、できないんですね。城で、城のやり方で生きて死にたいと、望んでいたはずなのに」
アリューテは、何も答えませんでした。
アリューテとルーヤはそれから三日、砂漠を歩き続けました。ルーヤの脚の継ぎ目が気にかかったので、アリューテは、余っていたあの柔らかな線状の素材と、ルーヤが持っていた二枚目の地図を使い、砂から守るために覆いを作ってやりました。
二日目の朝、ずっと一面の砂が広がっているだけだった地表に、ぽつぽつと、岩の頭のようなものが見え始めました。三日目にさしかかると、辺りは砂漠というより岩の多い土けた地面になり、そして同じ日の昼方になって、アリューテたちは、ほど近いところに山脈が霞んで見えることに気が付きました。
さらに半日ほど歩くと、アリューテたちは、その山並みの麓まで来ていました。乾いた土の上で足を止め、アリューテは、この山を越えるとなると、この辺りで休んでおいた方がいいだろうと思い、ずっと宙に漂っていた父を、ロープで引き寄せ始めました。
ここ数日、休憩となるといつも同じように過ごしていたので、ルーヤもすぐに手伝い始めるはずでした。それが、ルーヤがその場に立ち尽くしているので、アリューテはふと怪訝に思って、声をかけました。
「ルーヤ?」
ルーヤの目は、山並みに吸い寄せられたようになっていました。
「アリューテさん、あれ……」
ルーヤが指さしたのは、天高くそびえたつ山脈の中腹でした。ただの灰色の岩山と見えたもののなかに、しかし、明らかに人工物らしい形があることに、アリューテは気が付きました。それは山に半分埋もれ、半分が山肌から突き出したような格好の四角い塔が、いくつも連なっているような建物でした。
アリューテの胸中に、微かな安堵を押しつぶすほどのうすら寒い失望感が溢れかえりました。たまらなくなって、アリューテはその場に膝をつき、うずくまります。自分でも何故そんなことをしたのかは分かりませんでしたが、今は両の足で立って前を見据える気には、到底なれないのでした。
たどりついてみれば、何と呆気のないものでしょう。アリューテはいっそ、山脈社などというものが幻で、一生見つからなければいいとすら思っていたのです。こんなにも呆気なく、それは目の前に佇んでいるというのに、なぜ仲間たちは、ウルファは、一緒にこの景色を眺めることが叶わなかったのでしょう。
「アリューテさん」
ルーヤの手が肩に触れて、アリューテはほんの少しだけ目線を上げました。建物から、辛うじて人らしいと分かる小さな影が、道でもあるのでしょうか、こちらへと下りてくるのが見えました。