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第二章  竜は殺された ~The Black Liberator

 アリューテとウルファは、小さく縮こまって、並んで座っていました。

 黒い大きな生き物――おそらく竜と呼ぶべきなのでしょう――は、もう随分長いこと、空を飛び続けています。ごつごつとこぶのある広い背中には、アリューテ、ウルファのほか、水運びを城から抱え出した、黒い姿の人たち――こちらも人というより、『竜』と呼んだ方がよいのでしょうか――、あの部屋にいた水運びたち、そして風送りが一人、乗っていました。

 あのダウフィエと名乗った竜は、今はこの生き物の最後尾の辺りに、吹きさらす風を気にした様子もなく突っ立って、ほかの竜たちと顔を突き合わせています。結局、あの意味の分からない発言を、ろくに解説もしないのです。

 ですがアリューテにも、いくらか察せられたことはありました。

 ダウフィエの言う、企業なるものが、実際どのような質のものなのかは分かりません。ですが、それが人々の集まりの単位だというなら、別の企業というのは、城――あの口ぶりだと、城もまたどこかの集団の一部のようでしたが――とはまったく別個の、関わりのない存在だということを意味するのではないでしょうか。

 あの竜たちは、シャルカマーリアの、あるいは、あの広間でシャルカマーリアと一緒にいた賢者たちの、支配の及ばない存在なのです。

 アリューテには、そのような人々がこの世にあることすら、考えもしませんでした。

 アリューテの考えが正しいなら、城から連れ出された水運びたちの運命も、到底予想できたものではありません。アリューテは少なくとも、竜たちがシャルカマーリアと同じようにものを考え、行動するだろうと期待するほど、楽観的ではありませんでした。

 アリューテは、視線を横に動かしました。城の外に群をなして現れた、この空を飛ぶ竜は、今、間隔を空けながら十体ぐらいが並んで飛んでいて、そのそれぞれに仲間が乗せられています。あのとき、城がどのような状況に置かれていたのかは分かりませんが、その人数を見れば、捕まったのが広間にいた者だけとは思われません。

「この分だと、城中の水運びがそっくり連れ去られているのかもしれませんね。他の役職の様子はよく知らないから、分かりませんが」

 アリューテの呟きは、諦念交じりではありつつも何気ないものでしたが、ウルファは突然、抱えた両膝へ顔を埋めてしまいました。

「私のせいです」

 アリューテは空を眺めていた目を、隣のウルファに向けました。

「どうしてです。あなたは操られていたのでしょう?」

「だからです」

 ウルファは涙声です。

「私、ずっと分かっていたんです。自分を操っている人が、いい人ではないって。だから誰かに伝えなければと思っていたのに、それができなかったんです。意識ははっきりしているのに、体も声も、全部勝手に……でも、ひょっとして、私の意志がもっと強ければ、操られるのなんて、はねのけられたんじゃないかって」

「本当に、ずっと操られていたということ?」

「はい。ずっとずっと」

「私がこれまで、ウルファと話していると思っていたときも」

「そうです。全部、私ではなかったんです。だから、さっきようやく体が動くようになって、本当に安心して……でも、こんなの、私がこの状況を招いたようなものです」

「私も戸惑っているのだけれど」

 アリューテはそう前置きしてから、ききました。

「あなたが城の外に出たいと言っていたのも、あなたの本心ではないのですね?」

「もちろんです」

 ウルファは憤慨したように顔を上げました。

「全部、あの化け物たちが皆をたぶらかそうとして、私に言わせていたことです。だって、外に出る必要がどこにあるんですか? アリューテさんだって、仰ってたじゃないですか。私たちはシャルカマーリア様に尽くすために生まれてきたんだって」

 では、アリューテがウルファの夢を密かに応援していたのも、全くの無意味だったどころか、むしろ竜たちの思うつぼだったのです。アリューテはウルファの――ウルファだと考えていた人のことを、霧の城にいる者たちとはどこか違う、異質なもののように感じていましたが、正にダウフィエは城の外の人間だったのですから。

 アリューテがウルファの言動を不審に思ったとき、すぐに誰かに報告していれば、このような大事になる前に、手を打てたかもしれません。

 それに、ウルファがシャルカマーリアに仕えるつもりでいたなら、水に手を入れようとするウルファを止める必要もなかったのです。アリューテが何もしなければ、シャルカマーリアが水を被ることも、当然なかったでしょう。

 アリューテは、もともと塞ぎ切っていた心が余計に重苦しくなって、両肩にかかる大きな布をぎゅっと抱え寄せました。アリューテは、そして連れ出された全ての人々は、それまで幾度となく霧の城で繰り返されてきた生のありかたから、外れてしまったのです。そしてそれは、城の外から乱暴に押し入ってきた怪物たちによってのみではなく、アリューテたち自身にも、あるいは、責があるのでしょう。少なくともアリューテの心持ちとしては、ただ城から引き離されたというだけでなく、その寸前に、シャルカマーリアという最も尊重すべきものを傷つけてしまったことが、何よりも覆しがたい、決定的な、霧の城という世界から自分が追放された理由に思われるのでした。

「私たち、どうなるんでしょうか」

 ウルファの沈んだ声が、風切り音にか細く交じりました。



 そのときのアリューテには、景色を見る余裕などありませんでしたから、ウルファとの会話が途切れた後は、ただ何となく、灰色に蓋をしたような空が流れていくのを、視界の端に感じていました。しかし不意に、ぐらりと体の傾ぐ感覚があって、アリューテはとっさに両手をつきながら、弾かれたように顔を上げます。

 気がついてみると、そこはもう、城の中から見たときとは明らかに異なる土地でした。

 眼下に広がっているのは、茫洋とした平らな土地でした。この土地も、一面に建物が立ち並んでいましたが、その様子はずいぶん、霧の城の周辺と違っています。城の周囲は地面が見えないほど建物が立ち並び、しかもどれも背が高そうでしたが、ここの建物は地面に張り付くように平たく、間隔を空けて無秩序に散らばっています。建物が密集しているのは、平地の中心あたりだけでした。

 この空飛ぶ竜の隊列は、どうやらそこを目指しているようです。

 だんだんと、その目的地らしき場所が近付いてくるにつれ、そこにだけ高さのある建物が身を寄せ合っている様子が見えてきました。建物が塊になって、いびつな円形を作っているようです。その塊の、中央から少しだけ外れたあたりに、ぽっかりと空間がありました。

 黒い大きな竜は、とうとうその街のような場所の上空へとさしかかりました。アリューテたちの乗る竜は、建物の先端をかすめるほどの高度を飛んでいます。そして、あの建物のない空間が近付いてくるや、すうっと体を傾けたかと思うと、吸い込まれるように下りていき、最後は衝撃もなく、ふわりとそこに着地しました。

 そこは、上空から見えていたとおり、建物に囲まれた広場のような場所でした。建物はどれも、まっすぐに天を衝いています。しかし随分と古いようで、あちこちが煤け、ひび割れ、崩れかけているのを、何とか使っているようでした。少し視線を動かすと、どうやらとっくに崩れた建物も、いくつかありました。

「おい、ここから降りろ」

 ダウフィエが竜の背中の端辺りに立って、こちらに呼びかけてきます。アリューテはウルファと顔を見合わせ、次に竜の背中でうずくまっている他の仲間たちを見まわして、おずおずと立ち上がり、ダウフィエのもとへ向かいました。

 よく見ると、大きな竜のごつごつした体側は、ところどころが階段のようになっていて、そこから昇り降りできるようでした。アリューテが半分ほど降りてしまうと、ダウフィエは階段の真下の地面を指さして言いました。

「とりあえず、そこで待ってろ。――次、お前も」

 呼ばれたらしいウルファは、及び腰で階段のところへやってくると、ダウフィエを遠巻きに回り込んで階段を駆け下り、アリューテにひっついてきました。残る水運びや風送りも、順にダウフィエに指名されて降りてきます。最後にダウフィエと、そのほか、水運びたちを城から抱え出した竜たちがひょいっと飛び降りて、軽やかに地面に着地しました。

 アリューテが再び辺りを見回すと、広場に着地した他の竜からも、次々に仲間が降ろされているようでした。その面々の中に、見覚えのある姿があります。

「ルーヤがいる」

「え? 誰ですか?」

 きょとんとするウルファに、アリューテは、あの日のことを伝えそびれていたことを思い出しました。

「見張りの子です。前に話したことがあるのだけれど……ということは、見張りたちも連れてこられたのね」

「城中の人が連れ去られたということでしょうか」

「いえ、見たところ、賢者の方々は一人もいません。書記も侍女も、伝令もいないようです。つまり――」

「ああ。連れてきたのは、ド底辺の労働者たちだけってわけだ」

 びっくりして振り向くと、いつの間にかダウフィエが隣にいます。

「正直、あんたらを労働者だなんて呼びたかないけどな。奴隷だ、あんなのは」

 相変わらずダウフィエの言葉は、アリューテにとって意味をはかりかねるものでした。アリューテは発言の意図についてきくのはよして、ひとまずたずねました。

「私たちはこれからどうなるのですか?」

「そこなんだがな」

 ダウフィエは骨ばった指で、頭の角を撫でました。

「今後の詳しい待遇については、俺たちの上司と話をつけてもらうほかない」

「話をつける、ですか」

 アリューテが繰り返すと、ダウフィエは曖昧に頷き返します。

「ああ。俺にはその辺の権限がないし、そもそも竜社は、あんたらの扱いをはっきり決めてない。こちらとしては、行動を過剰に制限するつもりもないから、ある程度要望を聞いてから決める気でいる」

 アリューテは戸惑いながら言いました。

「ですが、こちら側には十分な身分の者がおりません」

「何で身分の話になるんだよ」

「私たちだけでは、判断が下せません」

「いや、だから」

 ダウフィエはなぜだか苛立っているようです。

「言い方が悪かったのかもしれねえけど、別に判断とかいう高尚なもんは求めてないんだ。あるだろ、ゆっくり寝たいとか、危険な目に遭いたくないとか」

「ですから、それを決めるのは賢者の方々で」

「くそっ」

 ダウフィエは空を仰ぎました。

「こいつら、何だってこんなに話が通じねえんだ。……あのな、アリューテ。城にいたうちは、鳥どもの決めたままに動くしかなかったってのは俺でも分かる。だが、見てみろ。どうだ? お前らは会社から遠く離れた、敵地のど真ん中に放り出されてるんだ。放っておいたらお前の仲間はどうなる? ぐだぐだ理由をつけて、あんたが責任を逃れたとして、あいつらはこのまま野ざらしか?」

 アリューテも少し苛立ち気味に返しました。

「あなたの言わんとすることは、分かります。この状況を作った当の本人に言われるのは癪ですが、実際私たちは、不可解で困難な状況に置かれているのですから。誰かが代表となって、解決しなければならないのもそうでしょう。ですが、何故それが私なのです? 私は皆と同じ、ただの水運びです」

「この中だと、あんたが一番年上だろ」

 アリューテは面食らいました。しかし確かに、水運びも、風送りも、おそらくは見張りも、大半は千日もしないうちに動けなくなってしまうのですから、アリューテが最も年長である可能性は高いでしょう。

「それに、俺はあんたと話してて、多少はものを考えられる奴だと思った。正直不満は山ほどあるが、他の奴よりいくらかましだ。今だって、あんたが一番落ち着いてる」

 これまで動揺しきりだったアリューテは、憤慨して言い返そうとしました。

「私は全く落ち着いてなんか――」

 無言でダウフィエが顎をしゃくって、アリューテははっと振り返りました。ウルファはアリューテの陰に隠れて、怯えたようにダウフィエを見つめています。近くの水運びたちも似たようなもので、戦々恐々と竜たちに視線を向けているか、あるいは呆然と地面や宙を眺めているのでした。

 アリューテはようやく、この場にダウフィエと――あるいはその上司とやらと、まっとうに会話できる状態にあるのが、自分だけらしいと気付きました。アリューテは、薄々あまり意味がないことを察しながら、なおももごもごと抗議します。

「ですが……ですが、私は皆の代表としてふさわしくありません。私はシャルカマーリア様に、水を……」

「知らねえよ」

 ダウフィエは一言で切って捨てました。

「今更どうしようもないことをうだうだ言って、仲間を見捨てるってのか?」

 アリューテはその、やたらと責め立てるような言葉を不快に思いながらも、一方ではこれ以上何を言っても無駄な気がして、とうとう、観念しました。

「……分かりました。ひとまずこの場は、私があなた方のお話を伺うことにしましょう」

「やっと腹が決まったか。よし、そんなら早速、エドゥムハジア様のところまで案内する」

「エドゥム……?」

「さっき言ったろ、俺の上司だよ。今回の作戦の責任者でもある」

 アリューテは浅く頷きました。

「その方はどちらに?」

「本部の建物だ。来い」

 歩き出すダウフィエに、アリューテがついていこうとすると、後ろからウルファに腕を掴まれました。

「待ってください!」

「ウルファ、どうしたの」

 びっくりして振り向いたアリューテに、ウルファは泣きつきます。

「置いていかないでください、私を一人にしないでください」

 アリューテは戸惑い気味にウルファをなだめようとしました。

「一人にはなりません、この場を離れるのは私だけです。他の水運びたちはあなたと一緒です」

「アリューテさんがいなくなるのが嫌なんです!」

「なら、あんたも一緒に来るか? 俺たちは構わないぜ」

 ダウフィエの単眼がぎょろりとこちらを向いて、ウルファはびくっと身を引き、声もなくふるふると首を振りました。ダウフィエが直後に発したガサガサした雑音は、どうやらため息の類のようです。

「安心しろ、こいつが戻るまであんたらはどうにもならない。あんたらをどうするか決めるために、こいつを連れてくんだからな。ほら、行くぞ、アリューテ」

 ダウフィエはこちらを見もせずに、またさっさと歩き出しました。アリューテは仕方なく、ウルファに重ねて言い聞かせました。

「私は行かなければなりません。ごめんなさい、ウルファ。きっとすぐ戻りますから」

「きっと、きっとですよ」

 ウルファの手が力なく離されて、アリューテは何だか気がかりなまま、ウルファたちを背に、ダウフィエの後を追いかけました。

「あの」

 追いつき頭に、アリューテはききました。

「ここ何日もの間、城で私と話していたのは、本当はあなたなのですよね?」

「ああ」

「つまり、私がウルファと話したのは、今日が初めてのはずですね」

「さあな。俺が知ってるのは、シャルカマーリアに会った日から後だけだ。あいつを乗っ取ったのはあの日だった」

「だとしたら、少し妙です。ウルファはどうして、私を他の水運びと違ったように見ているのでしょう。そんなに私と親しくなる暇はなかったはずなのに」

「知らねえよ。後であいつに直接訊け」

 ダウフィエはうんざりと言い返しながら、広場から建物の間の道へと進んでいきます。アリューテはその数歩後ろから、なおも問いかけました。

「操るというのは、どういうものなのですか」

「どういうってのは、何だ」

「ですから、操られている間、ウルファはどうなっていたのです?」

 ダウフィエは歩みを止めず、しかしちらりと振り向いて、アリューテに一瞥を寄越しました。

「操り人形みたいなもんだ。歩くのでも物を持つのでも、俺が離れたところから命令を出してて、あいつはそれに逆らえない。意識はちゃんとあって、目に映ったものはそのまま見えるし、耳も聞こえるんだが、身体を動かす主導権を握っているのは俺だから、あいつの意志で体を動かしたり、声を出したりはできない」

 それを聞いて、アリューテは先ほどのウルファの振る舞いが、何となく腑に落ちました。自分の意志で会話しているわけでなくとも、何度もアリューテの姿や声を感じ取っていたのなら、親近感の湧く間もあったというものでしょう。それにしても、それは他の水運びも同じことですから、やはり後でウルファには色々と訊ねてみようと、アリューテは思いました。

 もう一つ、アリューテはたずねます。

「あなた方――竜、というのは、皆人間を操れるのですか?」

「いや」

 ダウフィエの答えは端的でした。

「もうほとんどいない。これでも高給取りなんだぜ」

「何ですか、それ」

「気にするな。こっちの話だ」

 ダウフィエは説明を諦めたらしく、面倒くさそうにそう言いました。

 二人が歩いている道は、広く、ずっとまっすぐに伸びていて、両側には建物がずらりと並んでいます。その中に、ひときわ背の高いものがありました。崩れかけた窓のいくつかから、竜たちがこちらの様子を窺っているのが分かります。ダウフィエがその建物に入っていくので、アリューテもそれに続きました。

 入ってすぐは、薄暗い、天井の高い広間でした。思わず上を見上げると、中途半端な大きさの天井が奥からせり出して、そのさらに上側、縁の柵の向こうには、幾人かの竜が立っています。アリューテは一瞬混乱しましたが、どうやらあれは二階の床にもなっているらしいと気付きました。この吹き抜けを介して一階と二階が繋がっているようです。左手に、ぐるりと弧を描いて伸びる階段があるものの、高い天井から吊るされている板はあちこち抜け落ちていて、すぐ近くに廃材で作ったらしい梯子が立てかけられていました。ダウフィエはそのどちらも無視して、奥の方へとまっすぐ進んでいきます。

 吹き抜けから先にある廊下はひどく暗く、背後から差し込んでくる光のほかに光源はありません。ひとつ角を曲がると、ほとんど真っ暗でした。ダウフィエの黒い姿は闇にとけこみ、その肌がごく弱く光を弾いているだけです。ですが、しばらくまっすぐ行くと、今度は前方から薄明りが差し始めました。どうやら廊下の突き当たりに窓が設けられているようです。

 その窓のところまで辿りつくと、右手に石造りらしい階段があるのが分かりました。霧の城で水運びたちが使っていた階段に勝るとも劣らない、ひどく年月が経っていそうな風格でしたが、ともかくここは、先ほど目にした階段と違って使えそうです。ダウフィエは、その階段をのぼっていきます。

 二人は五階まで上がると、まだ上があるらしい階段をのぼるのをやめて、廊下へと入りました。ここは一階の廊下とは違って随分と明るい雰囲気ですが、その原因はどうやら、窓の縁辺りが崩れていることのようでした。アリューテは、建物の中から外の景色が見えることに、何となく不安を感じました。視界に入る地面が床より遠いので、足元がふわつきます。

 とうとうダウフィエは、ある扉の前で足を止めました。どうやら、建物の角にある部屋の入り口のようです。ダウフィエは、気取ったように丸めた手の甲で、その扉を叩きました。

「入りたまえ」

 扉の向こうからくぐもった声があって、ダウフィエが取っ手を回しました。

 さして広くないものの、外の光に満たされた、暖かな部屋です。正面と右手に大きな窓があって、その窓を背に置かれた大きな机に、誰かが座っていました。

 その人も例にもれず、竜らしい、黒く硬そうな肌をしています。ですが、例えば今隣にいるダウフィエとも、あるいはこれまで見てきた仲間の竜たちとも、雰囲気が全く違いました。滑らかな顔には大小四つの目が、不規則に、それでいて奇妙な優美さをたたえて輝いています。頭には五本の角があって、特に、アリューテたちであれば耳のある辺りから生えたものは大きく、ぐるりと丸くうねりながら顎下の辺りまで伸びていてます。その先端からは、きらきらと光を弾く飾りが吊り下げられていました。

 背が高いのでしょう、座って椅子に体をゆるりとあずけていても、立っているアリューテと、視線の高さがさほど違いません。最初は陰になっていて分かりませんでしたが、この人の背中にも、ダウフィエと似たような骨ばった翼があります。ただ、その左側は、半分から先が引きちぎれたように存在しませんでした。

 その人の姿は、これまで見てきた竜の中では、もっとも異形という言葉が似合うものでした。それでいてその眼差しにはどこか優しい光があり、てらいのないその所作も、穏やかな知性を感じさせます。

「エドゥムハジア様だ」

 ダウフィエの抑えたような声に、アリューテは思わずその顔を見つめました。どうやらダウフィエも、この竜を前にしては、普段の横柄な態度ではいられないと見えます。

「おい、何ぼーっとしてんだ。挨拶の一つもできねえのか」

 かと思ったら、隣にいるアリューテにしか聞こえないような、ごく小さい声で文句を言ってくるので、アリューテはむっとして、ただ小さく会釈し、部屋の中央へと進み出ました。

「初めまして。君がアリューテだね」

 エドゥムハジアは、そのひょろりと長い指先で顎を触りながら、アリューテに柔らかな声をかけました。アリューテが小さくうなずくと、エドゥムハジアはちらりと隣のダウフィエに目線を向けます。その拍子に、頭部の角のちょうど後ろ辺りにも、ひとつ、小さな目があるのが見えました。

「ご苦労様。もう戻って、今日ぐらいはゆっくり休むといい」

「はい。ありがとうございます」

 ダウフィエははきはきと答えると、頭を下げて、部屋を出て行きました。アリューテはダウフィエの背中を何となく目で追いましたが、その間ずっと、エドゥムハジアがこちらを観察している気配がありました。

 ダウフィエが部屋の扉を閉めてしまって、アリューテがまた正面を向くと、エドゥムハジアがゆったりとした口調で言いました。

「ダウフィエから話は聞いている。君たちにしてみれば、聞きたいことも多いだろう。私が知りうる範囲のことは答えよう」

 アリューテは片手でもう片方の手首を握りしめ、頭の中を慎重に整理してから、まず、こう訊ねました。

「あなたたち、竜、というのは、一体何なのです」

「何、か」

 エドゥムハジアはくつくつと奇妙な音をたてました。笑っているようです。

「ダウフィエもいくらか話しているはずだが、君たちとは違う企業の人間だ。君たちが賢者と呼ぶ者たちに仕え、あの城での生活を維持していたように、我々もまた、いくらかの代表を立て、皆で社会を回している。まあ、そのやり方は、揺籠社からはいささか奇異なものに見えるかもしれないがね」

 アリューテは、『揺籠社』という言葉を、さも当然のごとく使われたことからして、やや不満でした。

「その、揺籠社というのも、私はよく分かっていないのです」

「そのようだな。我々とて、揺籠の内情を全て把握しているわけではないが、いくらか説明しておこうか」

 エドゥムハジアは、顔の横で指をくるりと回してみせます。

「灰空に翳す揺籠、という企業は、賢者たちによって統括されている。君たちのような低位の労働者も含めると、総勢で二千人に迫るだろう。霧の城には四百名弱がいたようだから、全体でその五倍はいるということだな。構成員は一から十七までの数字で階級が分けられており、数の大きい者がより高次の命令権を持っているようだ。例えば、あの霧の城を任されていたシャルカマーリアは十四だ」

 アリューテは微かに両肩を下ろしました。先ほどの様子で薄々察してはいましたが、もっとも偉い者が十七で、シャルカマーリアが十四となると、賢者の中にシャルカマーリアよりも位の高い者がいることは間違いないのです。

「企業という枠組み自体が初めて知るものだろうが、揺籠社は現存する四つの企業の中では最大の規模を持つ。我が竜社の人口は、先日千を割った。しかし何より恐るべきは、その技術と知識だ。霧の城が巨大な実験施設だという話は聞いたか?」

 アリューテは、ダウフィエがそのようなことを口走っていたような気がしましたが、詳細は聞きそびれていたので、ただ首を振りました。

「要は、君たちはより優れた人間を――正確には、神代により近い、劣化の少ない人間を造りだすため、賢者たちによって造られ、労働の過程で、その機能を調べられていたということだ」

 エドゥムハジアの言葉に、アリューテはシャルカマーリアとあの高位の賢者――ワシュエランカと呼ばれていたでしょうか――の会話を思い出しました。確かにシャルカマーリアは、アリューテのことをさして神代に近いと言っていましたし、アリューテの記録をもとにして他の水運びの寿命が延ばせたとも話していたはずです。それに、水に手を差し入れさせられたこと――シャルカマーリアの片翼が水に濡れた、あの姿を思い出して、アリューテの頭の中は一瞬、ぱちんとその恐怖だけで埋め尽くされました。

「どうした? もう聞きたくないか」

 エドゥムハジアの、風のような柔らかく乾いた声に、アリューテは我に返って、首を振りました。成り行きとはいえ、ウルファたちのためにも、今は対話に集中するべきでしょう。

「まあ、細かいことはいいだろう。何にしても揺籠は、この滅びの時代にあって、よく踏みとどまっている。企業同士の争いの中でも、常に優勢だ」

 アリューテが小さく首を傾けたのに気付いたのか、エドゥムハジアは言葉を継ぎます。

「異なる企業同士は、基本的に敵対している。どの会社も、資源や技術に飢えている――霧の城の襲撃も、我が竜社と揺籠社との戦の一環として行われた。あの城は、揺籠社の最先端の研究が集められた場所だ。叩けば一気に戦況が傾く」

 エドゥムハジアは何でもないことのように、ゆったりとした口調で言いました。しかしその言葉の恐ろしさに、アリューテは、思わず身をすくめてしまいました。この人は――あるいは竜社という集団は、明確な敵意を持って、あの城を襲ったのです。それまで、ただ素性の分からない相手だったのが、たった今、アリューテたちの敵であると明言したも同然でした。

「……ウルファを操ったのも、そのためですか?」

「ウルファ――ダウフィエの使った水運びだな。ああ、そうだ。最初は諜報役として遣わしたのだが」

 エドゥムハジアは椅子の背もたれに体を預け、指先でこつこつと机を叩きました。

「こちらにしてみれば、霧の城で扱われている技術を盗み出すだけでも価値があるからな。だが、賢者やそのほか上位の者たちは守りが堅く、乗っ取ることができなかったらしい」

 アリューテが抱く、得体の知れないものを前にしたようなもどかしい感覚を、敏く感じ取ったようで、エドゥムハジアは付け加えます。

「あれらも万能ではないのだ。何故か能力が通用しない相手もいるし、ある程度近寄らなくては力を発揮できない。それでダウフィエたちは、長いこと城に潜伏するはめになったのだからな。当人らが言うには、制御も難しいようだ。一言に乗っ取るといっても、あれらが持つのは、あくまで他者の脳の一部分に干渉する能力であって、完全に体を制圧するためには、各人の特性に合わせた複雑な操作が必要らしい。実際、前線に出せるほど能力を使いこなせる者は一握りだ」

「……ダウフィエは、乗っ取りの能力を持つ竜は少ないと話していましたが」

「昔はもっと多かったらしいがね。今は、未熟な者を勘定に入れても、社内に十人もいない。他者の体を思いのままに操るというのはこの上なく強力な力だが、君が思っているほど、竜社の勢力が圧倒的というわけではない」

 エドゥムハジアはそこまで言うと、気持ちを切り替えるように、軽く身を揺らしました。

「話がそれたね。――ダウフィエらが揺籠の上位たちを諦めて、やっと乗っ取った下級労働者たちは、毎日単純な作業を繰り返すばかりで、ろくな自由がなかった。城をうろついて機密情報を集めるようなこともできそうにない。そこで、作戦を変えたのだ。ある程度の武力を使うのもやむなしとして、まずは城への侵入を阻む、あの厚い霧を何とかできないものか、と」

 アリューテの脳裏に、初めて目にした、城の外の景色がひらめきました。確かにあのとき、城全体を包んでいるはずの霧は薄れ、景色が遠くまで見通せたのでした。

「水運びの乗っ取りに当たったダウフィエと、風送りを担当したオウヴァムが、作戦の軸になった。ダウフィエはウルファの体を使い、運ぶ水の中に泥を混ぜ、水路の機能を少しずつ削いでいったのだ。三十日もすれば、霧は強行突破が可能なまでに薄れた。実のところ、城へ飛竜部隊を向かわせる日に十六が視察に来るとは、予想していなかったのだが……もっと軍勢をつぎ込むこともできたのに、惜しいことをした」

 エドゥムハジアが机を叩く指を止め、緩慢な動きで額を押さえます。アリューテは硬い声で、問いました。

「あなたがたは、城をすっかり占領するつもりで、襲ってきたのですか?」

「まあ、そういうことだ。君たちと入れ替わりに、こちらの攻撃部隊が、城の制圧へと投入されている。残念ながら勝利宣言はまだだがね。その気になった賢者は手強いから」

 アリューテはまた、ぎゅっと手首を握って、自分を落ち着かせました。いくら突然のこととはいえ、シャルカマーリアが、賢者たちが、竜たちにおめおめとやられるはずはありません。シャルカマーリアはアリューテたちよりも、ずっと賢く、力があって、気高い存在なのですから。仮に片翼を失っていたとしても――いえ、今はこのことを考えてはいけません。アリューテは辛うじて、頭をこの場に引き戻します。

「……あなたたちは、霧の城を、揺籠社を攻撃して、一体何がしたいのです? その、技術とか知識とかいうのは、そんなにもあなた方にとって魅力的なのですか」

「ああ、魅力的だとも」

「なぜ」

 エドゥムハジアは、机の上に肘を乗せ、軽く両指を組みました。

「我らが滅びの淵にあるからだ。まあ、もとをたどれば、神々が我々を滅ぶべきものとして造りたもうたのが、全ての元凶のようなものか」

「神様、ですか」

「そうだ。自律工場を造り、もって我々人間を生み出した神たちだ」

「自律工場?」

「揺籠社で『神殿に(いま)す母』と呼ばれていたのと同じものだ。それなら分かるだろう?」

「ええ……神殿で働いていたわけではないので、詳しいことは存じませんが。神代に生み出された者たちの子孫であるとは聞かされています」

「おおよその機能は知っているな?」

 アリューテが浅く頷くと、エドゥムハジアは少し姿勢を正して、続けました。

「おそらく、どの企業でも仕組みは変わらないはずだが……自律工場は、適当な素材を食わせると、それを使って体内で人間を造る。中で何が起こっているか、我々が知ることはできない。我々がどのような姿かたちになるかは、全て自律工場の裁量ということだ。現在の企業戦争の原因は、これが全てと言っていい」

「――どういうことですか?」

「自律工場は寿命が来ると、人間を造るのをやめて、自分を複製し始める。それ自体はいいとして、問題はそのコピーの性能がオリジナルと異なる場合だ。自律工場は、人間を造るための設計図のようなものをもコピーに引き継いでいるのだが、それが代を重ねるごとに少しずつ書き換わっていくらしいのだ」

 アリューテはここで、とんでもないことに気が付きました。目の前に座っているエドゥムハジアの、黒くひび割れたような肌、異様に細い手足、先のほうがない片翼、そして歪な大小四つの目は、本当に神様がそう予定して作った姿なのでしょうか。

「我が社の自律工場は、どれも変性が深刻でね」

 エドゥムハジアは気だるげに言いました。

「我々の祖先が残した記録を辿るに、我が企業の人間たちは、もともと君たちとさほど変わらぬ見た目だったらしい。それが長い時を経て、ここまで設計図が狂ってしまった。外見が違う程度ならまだいいが、最近は全くの出来損ないを吐き出す自律工場も増えてきてね」

「出来損ない、というのは――」

「動けないのだ。そもそも、な。死んで生まれてくるようなものだ」

 エドゥムハジアのかすれた声は、それまでよりもやや、息を多く含んでいるように聞こえました。

「そうなると、造られた人間も、自律工場も、処分するほかはない。今の世に直す術はないのだ。おそらくこの先も自律工場は壊れ続け、いずれは残らず動かなくなってしまうのだろう。そのとき、我が社は滅ぶ。だが、思わないか? やがて滅ぶしかないとして、それを少しでも先に延ばすことはできないだろうかと、足掻きたくはならないか」

 エドゥムハジアはその四つの瞳を、ゆらりともさせずアリューテに据えています。

「揺籠社の自律工場は、他のどの企業よりも変性が少ない。君たちの姿を見れば明らかなことだ。城を手中に収め、奴らが抱え込んでいる技術を我らのものとする。そのためにこそ、私たち竜社は滅多に成されない他企業との同盟を結び、兵を出したのだ」

 アリューテが何も言えずにいると、エドゥムハジアはふと、優しい声で言いました。

「私たちは君たちを故郷から連れ去ったが、それは、この戦に巻き込まぬためだ。君たちは、自分の属する集団に揺籠社という名がついていることすら、知らなかった。我々も必死だから、抵抗されれば戦って倒すしかないが、そうでない者まで皆殺しにするつもりはない。まずは戦が終わるまで、この地で穏やかに暮らすといい」

 アリューテは、震える声で言いました。

「霧の城は実験施設で、私たちは賢者の方々の研究の産物だと、おっしゃいましたね。揺籠社の技術が欲しいなら、あなた方は、私たちのことを知りたくてたまらないのではありませんか?」

「おや」

 エドゥムハジアの目がおかしそうに揺れました。

「なるほど、ダウフィエが君を選んだわけだ。多少は頭が回るようだね。だが、今は君たちをどうこうする予定はないし、余裕もない。今も城での戦闘は続いているし、仮に制圧できたとして、揺籠側も軍隊を送って、その奪還を試みてくるだろう。まずは全力を挙げて、それに対処するほかはない」

「その後は」

「殺して解剖するようなことはないさ」

 アリューテは何も言いませんでしたが、少なくとも、自分たちはそうそう解放されないのだと悟って、静かな失望が心の中に満ちました。

 エドゥムハジアは、両手の指をゆっくりと絡めたり、ほどいたりしながら、おもむろに思い出した、といった調子で言いました。

「そうそう、君たちがしばらく過ごすための宿を用意してある。飛竜の長旅で疲れているだろう。食事も――ああ、君たちは点滴と呼ぶのか、それもいくつか手配した。竜社のものが君たちの体質に合うかは分からんが、足しにはなるはずだ」

「その宿というのは、どこに?」

「この建物の二つ隣だ」

「私たちが逃げないよう、監視するおつもりですか」

 エドゥムハジアは目に微笑をたたえています。

「折角近くにいるのだ、何かあったらまた、気軽に訪ねてきたまえよ」

 と、アリューテの背後で扉が開きました。ダウフィエかと思って振り返ったアリューテでしたが、そこにいたのは、城からアリューテを抱え出した、ダウフィエの仲間と思しき三つ目の竜でした。

「見たことはあるだろう? ダウフィエの部隊の隊員だ。オウヴァム、彼女をほかの客人たちのもとへ案内してやりなさい」

 エドゥムハジアの言葉に、オウヴァムと呼ばれたその竜は、ただ頭を下げました。


 オウヴァムに連れられて建物の外に出たアリューテは、大通りをほんの少し歩いたところにある、もう少し背の低い別の建物に案内されました。その間、オウヴァムはむっつりと黙り込んでいて、一言も会話はありませんでした。

 アリューテは、先のエドゥムハジアとの会話で、オウヴァムもまた城の襲撃に加わっていたと聞いていたため、落ち着きませんでしたが、ダウフィエのように神経を逆なですることを言わないぶん、こちらの方がましだとも思いました。

 さて、その建物は通りの他の建物と同様、ひどく古めかしいもので、おまけに向かって右半分が崩れかかっていました。オウヴァムはそれについても無言を貫き――というより、こちらを振り返りもしないので、アリューテが建物の具合を気にしている様子も、見てすらいなかったのでしょうが――、ともかく壁が存在している建物左側に、半開きの扉から入っていきます。

 中は案外と小綺麗でした。ただ、扉からすぐの辺りには、つい先ほど運び込まれたといった風情の、乱雑に積まれた毛布があります。広めの玄関にあたるらしいこの部屋からは、いくつもの廊下が繋がっていて、オウヴァムはそのうちの一つに進みました。

 廊下の先のほうにある扉の前には、また別な見知らぬ竜が立っていました。その竜はアリューテたちに気付いたようで、声をかけてきます。

「君が、アリューテとやらか。散々待たされたよ。ここが君らの部屋だ」

 アリューテは、その竜の役割を察しました。おそらく監視役として、この建物についているのでしょう。

 オウヴァムはその竜に目配せをすると、結局最後まで何一つ言葉を発さず、ふらりと今来た廊下を戻っていってしまいました。まごつくアリューテに、監視役の竜は肩をすくめてみせ、すぐ隣の扉を押し開けました。

 部屋の中でてんでに過ごしていたのは、城で見慣れた水運びたちでした。アリューテはここにいるのが、今日の時点で働いていた水運び全員であることに気付いて、やはり城中の水運びが連れ去られたのだと、暗澹たる思いに襲われます。ですがそれも、部屋の隅の方から上がった声に、意識から引いていきました。

「アリューテさん!」

 部屋の一番奥の辺りから、ウルファが駆け寄ってきます。ウルファはアリューテに縋りついたかと思うと、堰を切ったように話し始めました。

「ああ、よかった、アリューテさん……私、とっても恐ろしかったんです。アリューテさんが戻るまでどうもしないと言っていたくせに、あの竜たち、突然私たちを別の場所へ移動させはじめて、アリューテさんに何かあったんじゃないかって……」

 アリューテは、ウルファを慰めようと思いましたが、何を言えばいいか分かりませんでした。アリューテたちが置かれている状態は、到底安全とはいえませんし、今後何があるともしれません。竜たちが賢者たちと争う、そのつかの間の猶予を、口約束されたにすぎないのです。

 ウルファも、アリューテが黙りこくっているので、おかしいと感じたようです。ひどく不安そうな声できいてきます。

「アリューテさん、いったい、何があったんですか? 話をするんだとかなんとか言っていましたけど、何か恐ろしいことをされたんですか?」

 アリューテは、首を振りました。

「いいえ。ただ、これからされるかもしれません」

 ウルファがぴたりと動きを止めました。アリューテは、部屋中の水運びたちも、息をひそめてアリューテの言葉を待っていることに気付きます。

 エドゥムハジアとのやりとりで言われたことや、そこから考えられることを説明しようと、アリューテが頭を整理しはじめたとき、背後からいくつか足音がありました。

 監視役の竜が、特に咎めるでもなく部屋の中に通したのは、風送りが一人と、その陰にもう一人の、二人人組でした。風送りのほうも、城だとか竜の背中の上で見たことがある顔でしたが、後ろの一人を見て、アリューテは思わず声を上げました。

「ルーヤではありませんか」

 風送りが、ちょっと怪訝そうな所作ではありましたが、アリューテが背後にいたルーヤと話しやすいように、横によけてくれました。霧のない場所で見ると、ルーヤはやはり、水運びとかなり似た姿かたちをしています。

 ルーヤはアリューテの視線を気にしたふうもなく、いつかのようにちょっと小首を傾げてみせてから、こう言いました。

「僕らも、ただ待てとだけ言われてここに連れてこられたんです。竜と話に行ったアリューテさんが戻ってきたというので、状況を聞かせてもらおうと思って、風送りと見張りから、それぞれ僕らが遣わされたんですよ」

 アリューテが風送りに目をやると、ルーヤが紹介してくれました。

「アークェさんです。僕は、アリューテさんに会ったことがあるので選ばれたんですが、アークェさんは風送りの中でも古株で……あと、ご本人がいうには、自分はここしばらく、得体の知れない存在に体を乗っ取られていたんだそうで」

 アリューテの後ろに縮こまっていたウルファが、飛び上がりました。

「私とおんなじ……!」

 アークェという風送りは、ふとウルファを見やると、ぼそぼそと平坦な聞き取りづらい声で言いました。

「私は、自分の身に何が起こったのか、理解できていない。知っていることがあるのなら、教えてほしい」

 ウルファは不安そうに、首を振りました。

「私も、まだ詳しいところは聞いていないんです。アリューテさん――」

「ええ、私がお話しします」

 ウルファの視線を受けて、アリューテは続きを引き受けました。

「私に与えられたのも限られた情報にすぎませんが、皆に共有しておくべきでしょう。私にも、どうすればいいやら、分からないのですから」

 アリューテは、自分たちの城が揺籠社という組織の一部であるらしいこと、竜たちは賢者たちの支配が及ばないばかりか、揺籠社と敵対していること、竜社の目的はアリューテたち自身を含めた、揺籠社の技術と知識であるらしいこと、そういったことを極力整理して伝えました。話が終わるまでの間、その場にいた誰もが、呆気に取られたように黙りこくっていました。

「何というか、思ったよりも深刻ですね」

 ルーヤが、わざと茶化すような口調で評しました。

「つまり、僕らは攫われてきたわけですが、これは序の口にすぎないかもしれないってことでしょう? 城に戻るどころか、竜たちのいいように使われる可能性もあるし、そもそも今後の状況によっては、城が竜たちの手に落ちて、戻る先すらなくなるかもしれないわけですから」

「いや、だが……そのエドゥムハジアとかいう竜は、私たちを殺すことはないと言ったんだろう」

 風送りのアークェが口を挟みましたが、自信のなさそうな声でした。

「それに全体で言えば、賢者の方々のほうが竜たちよりも優勢だということじゃないか。話を聞くに、その――揺籠社? には、城にいるよりずっと多くの賢者の方々がいるんだろう。そんなことは起こらないに決まっている」

「気持ちは分かりますけど……」

「そもそも、私たちが考えたところで何になるんだ。私たちには、賢者の方々のような知恵はないのに。竜との戦いは、きっと賢者の方々がうまくやってくださる」

 語調を荒げるアークェに、ルーヤは肩をすくめました。

「僕らが考えてもしょうがないっていうのは、そうですね。この分だと建物から気付かれずに出ることすら難しそうですし、もし、監視をかいくぐって逃げ出せたとしても、あの空飛ぶ怪物のせいで、城からかなりの距離を運ばれているはずですし。できるだけ悪い状況にならないように、祈ることぐらいしかできません。……うん、きっとアークェさんの言う通りです。そんなにひどいことにはなりませんよ」

 ルーヤにそう返されて、アークェはまた、黙り込んでしまいました。

 アリューテは部屋に集まった面々を見回して、提案しました。

「とはいえ、何もできないことはないはずです。できるだけうまく立ち回って、賢者の方々の不利益にならないようにしましょう。例えば、私たちの体を調べられてしまったら、竜たちがその知識をもとに今より力をつけて、賢者の方々を苦しめるかもしれません」

「でも、どうやって?」

 ルーヤの至極当然の問いに、アリューテは頭を振りました。

「アークェの言うとおり、私たちに知恵はありません。ですが、エドゥムハジアの言葉が本当なら、竜たちが私たちをどうにかしようとするまで、まだ日にちがあります。それまで一緒に、方策を考えましょう。これだけ人数がいれば、多少は考えつくでしょう。――今日はここで解散にして、明日の早朝、また集まりましょう。今度は見張りと風送りの皆さんも、できるだけ連れてきてください」

 ルーヤが素直に、アークェが曖昧に、それぞれ頷きました。

「それじゃあ、僕たちは一旦、与えられた部屋に戻ります。今日はあんまりたくさんのことが起きましたからね。頭が破裂しそうです」

「ええ。ともかく、今は休んで、また明日からに備えましょう」

 アークェが出て行くのに続いて、ルーヤもぺこりと頭を下げ、廊下に戻ろうとしました。ですがアリューテは、ルーヤが足を微かに引きずっているのに気付き、思わず呼び止めます。

「ルーヤ、あなた……」

 ルーヤは振り向き、視線に気づいたのか、片足の先を出してみせました。

「これですか」

 ルーヤの肌は、足首から足の甲にかけて、ところどころが茶色く変色していました。

「足枷から錆をもらったんです。動けないことはないですが、少し不自由になってしまいました」

 アリューテは、色々と迷った末、こうききました。

「見張りというのは、皆、枷をされるものなのですか?」

 ルーヤは困ったように口ごもり、言葉を濁しました。

「それは、それぞれというか……また機会があれば、お話しします。今日は、ここで」

 ルーヤの目は、他の水運びたちを気にしているようでした。アリューテはそれ以上引き留めることができず、ルーヤは改めて一礼して、部屋を立ち去りました。


        ◇     ◇     ◇


 ダウフィエは扉を開けるやいなや、ぶつくさと文句を言いました。

『エドゥムハジア様、今日は休めって言ってたじゃないですか。俺、さっきヴァンダアの新作のチケット買ったばっかりなんですけど』

『何だ、元気そうじゃないか』

 エドゥムハジアはくすくすと笑っています。

『だって皆が話題にしてて、ずっと城に潜入してた俺らだけ知らないんですよ。夜の上映には行けると思ったのに』

『それは申し訳ないことをした。だがまあ、分かってくれ。緊急事態だ』

 エドゥムハジアの口調はあくまでも気楽なもので、その単語はどうにも不似合いに思われました。ダウフィエは深々とため息をついて、続きを待ちます。

『ナトゥウルジュエが殺された』

 その一言を聞いた瞬間、ダウフィエは固まりました。

『社長が――?』

『そうだ』

『いや、そんな……待って下さい』

『伝達系統は多少混乱しているが、ほぼ間違いない』

 エドゥムハジアは静かに続けます。

『北の前線拠点が揺籠社の反撃を受けた。我らの意識が霧の城に割かれたところを突く、完全な奇襲だ。どの報も、我が軍がなすすべなく壊滅したと言っている』

 ダウフィエは、一時真っ白になった頭の中に、じわじわと緊張と恐怖が満ちてくるのを感じました。

『何で、そんなことに。早すぎるじゃないですか。まだ城への攻撃は続いているはずなのに……奴ら、城を放棄したってことですか』

『こちらの部隊はとっくに返り討ちにして、悠々と攻勢に転じたのかもしれんぞ』

 考えたくない状況でした。ですが、夜になるまで全く報せがないということは、それ自体が最悪の可能性を暗示しています。

『じゃあ、奴らは――』

『砦を突破したなら、あとはさしたる障害もない。ここまで来るのもすぐだろうな』

 エドゥムハジアは、天気の話でもするような調子で言いました。

『今日の時点で北の拠点に置いていたのは百五十人程だ。いくら不意を突かれたとはいえ、我が社で一番の砦が壊滅したとなると、向こうの手勢はその倍ではきかないだろう。ここにいる者で戦えるのは、かき集めても五百に届かないだろうから、正面からぶつかるとかなり厳しい。おまけに、大規模な軍のまともな指揮ができる唯一の人間は、その砦で殺されたときている』

『では……では、俺たちはどうすれば』

 ダウフィエは柄にもなく、打ちひしがれていました。

『だって、社長が殺されたって――それじゃ、まともな戦いができるわけないじゃないですか。そんなの、攻撃された瞬間に、竜社が滅ぶも同然で――』

『そうだな。このままだとそうなる』

 エドゥムハジアはその、顔の正面についた四つの目に、ふと真剣な光を宿らせました。

『だが、揺籠と正面から戦って勝てるとは、こちらもはなから考えていない。このようなときのために、蕾と密かに協議を続けていたのだ。約定に基づいて、救援を呼ぶ』

 ダウフィエは、ぐっと顎を引いて、独り言のように言いました。

『動くでしょうか、あいつらが』

『その辺りは、おまえの交渉次第だな』

 ダウフィエは面食らいました。

『まさか俺が行くんですか。俺はここにいた方がいいんじゃ――』

『ははは、おまえなんぞ大した戦力にはならんよ。まともな戦闘訓練も受けていないだろうに』

 エドゥムハジアは笑ってみせましたが、ダウフィエは叫ぶようにそれを遮りました。

『ですが実際問題、ゲリラ戦を狙うしかないでしょう! それなら俺は一番役に立てます。俺たちは竜社が唯一、奴らに対抗しうる武器のはずです。俺が行ったら、蕾の援軍が向かったとして、到着まで時間を稼げるかどうかすら怪しいのに!』

『威勢がいいな。そうも心配せずとも、何とかするさ』

 ダウフィエがなおも言いつのろうとすると、エドゥムハジアはそれを片手で制しました。

『おまえには、あの客人たちも連れて行ってもらう。揺籠軍がここに辿りつく前に、飛竜に乗せて蕾社へ向かえ。補助のための部隊もいくつかつける』

 ダウフィエはその言葉への違和感から、一拍遅れてエドゥムハジアの意図を察し、全身をこわばらせました。

『……俺たちを、ここから逃がすつもりですか』

『私は援軍を呼べと指示したはずだが?』

 エドゥムハジアは優しく返しました。

『まあ、揺籠の客人に関しては、おまえが責任を取るのが妥当だろうとは思っているよ。彼女らを城に戻したくはないんだろう?』

 ダウフィエが黙っていると、エドゥムハジアは念を押すように訊ねてきました。

『やってくれるね』

 ダウフィエはしばらくためらった後、頷きました。


        ◇     ◇     ◇


 部屋に一つだけの小さな窓の外は、もうかなり前から真っ暗になっています。

 水運びのうち、特に最後の休憩から時間が経っている者たちは今、用意されていた点滴をめいめい受けながら、浅い眠りについています。数が足りないので、アリューテを含め、まだ余力がある者は、部屋のそこここでまんじりともせず待っていました。

 城では、点滴を作り出す『父』は休憩室から遠く離れた場所にいて、遠くから管を引いてきていたのですが、この部屋の隅には父本体らしきものが陣取っています。らしき、というのは、アリューテは城で直接父を見たことがないからで、しかしともかく、あの大きな円筒のようなものからいくつも管の束が伸びているのですから、父よりほかには考えられません。

 ここの点滴は、城の休憩室で見慣れたものと先端の形状がずいぶん異なっていて、細長い針のようだったので、皆して右往左往したのですが、無理やり背中の穴に差しこんでみると、一応機能するようでした。ぐらぐらしてすぐに抜け落ちそうなので、点滴中の水運びはうつぶせになって、穴の内壁に針を立てかけるようにしています。

 アリューテは壁に据えられた照明がちかちかと明滅するのを眺めながら、今後のことを考えようとしていました。ですが、とても考えがまとまりそうにありません。ルーヤやアークェたちの前ではああ言ったものの、アリューテにも、この状況を多少なりと改善する手段を、自分たちで編み出せるとは思われませんでした。ウルファは相変わらずアリューテのすぐ隣にいますが、少し前まではあれこれと不安を述べ立てていたのが、今はただ自分の体を抱くようにして立っているだけです。

 と、廊下の方からかすかな足音が聞こえました。監視役が交代に来たのだろうか、とアリューテは考えましたが、どうもそういうわけではなさそうです。足音が部屋のすぐ前で止まった後、しばらくは沈黙が続き、そして突然扉が、ばん、と大音を立てて開けられました。点滴を受けてまどろんでいた水運びたちが、びっくりして一斉に起き上がったほどです。

 扉を開けたのがダウフィエだったので、アリューテは思わず身構えました。

 ダウフィエはつかつかと部屋に入ってくると、無言でじろりとアリューテたちをねめつけました。ウルファが不安げにアリューテの陰に隠れます。

「何の御用でしょうか」

 アリューテが問うと、ダウフィエはしばらくの沈黙の後、言いました。

「揺籠社が攻めてくる」

 アリューテは一瞬言葉を失いました。

「揺籠社、というのは――つまり、賢者の方々が?」

「そうだ。主力はあいつらでなく、兵隊どもだろうけどな」

「私たちのもとまで来ると?」

「このままだと、いずれそうなる」

 アリューテは、安堵と喜びがじわりと湧いてくるのを感じました。きっと、城は竜の攻撃を耐えきったのです。そのうえ、ここまで賢者たちの仲間が来てくれるというのですから……。

「では私たちは、シャルカマーリア様のもとに戻れるのですね」

「んなわけあるか」

 ダウフィエが吐き捨てて、アリューテは微かに身を引きました。

「お前らは俺が蕾社まで連れていく」

「蕾社――」

「うちの同盟相手だ。話はもうついてる」

 どうやらアリューテたちを、揺籠社の人々に会わせないよう、さらに遠くへ移動させるつもりのようです。アリューテはまだ身を引き気味にしたまま、反論しました。

「どういうことですか。あなたがたの事情はよく分かりませんが、揺籠社の攻撃は大きな危機なのでしょう? 私たちのことなど放っておいて、あなたがただけ戦うなり逃げるなりすればいいではありませんか」

「そうはいかない」

「なぜです。このような状況では、私たちのことを調べる余裕などなくなったでしょう」

 アリューテの言葉が意外だったのか、ダウフィエがほんのわずかに目を細めます。アリューテは、慣れないはったりでしかありませんでしたが、あえて強気で続けました。

「あなたがたにとっても、まずはこの場をしのがなければ、その先の未来などないはずです。私たちを手元にとどめようと人手を割いて、竜社が大敗したらどうするのですか」

「馬鹿言うな。あんなもん見て、お前らを帰せるわけがないだろうが」

 ダウフィエは突然激しく吐き捨て、アリューテに詰め寄りました。

「城に戻ってみろ、また死ぬまでこき使われるんだぞ。あんなのは人間の扱いじゃない」

 アリューテはその、ひどく苛烈ながらも聞き覚えのある論調に、かえって冷静になりました。ダウフィエはあくまでも、城での暮らしを否定しようとしているのです。アリューテは、理解は期待せずに、それでもいつかと同じように言いました。

「シャルカマーリア様のために働くことが私たちの望みです」

「だからそれは、そう思い込まされてるんだよ。別に誰のために働こうが知ったこっちゃないが、だからってあんな扱いを受けていいわけがない。騙されてんだよ」

 アリューテは今度、かっとなるのを極力抑え込んで返しました。

「水運びたちを騙そうとしたあなたが、よくそんなことを言えますね」

「馬鹿、あれは――」

 ダウフィエは何かを言いかけて、しかし結局その先を口にはせずに、不機嫌そうに短い雑音を発してそっぽを向きました。アリューテはその隙に背筋を伸ばし、続けます。

「私たちは、ただ主人のもとに戻りたいだけです。このまま解放してくださるだけで構わないのです。あなたがたにとっても、その方が楽でしょう」

「何と言われようと、あんたらは全員蕾社に連れていく」

 ダウフィエが自分に言い聞かせるように言いました。

「悪く思うな。今のあんたらはまともな判断ができないんだ」

「あなたこそ、私たちの話を聞こうともしないではありませんか。これは私の、私たちの本心で――」

「あっ、あの、アリューテさん」

 背後から消え入りそうな声がして、アリューテは弾かれたように振り向きました。ウルファが縮こまって、アリューテの指先をつまんでいます。

「あの、私、私は……ここから離れた方が、いいと思います」

 アリューテは唖然としてしまって、しばらくの間、何一つ反応を返すことができませんでした。ウルファはアリューテと同じように、シャルカマーリアに仕えることを望んでいたはずではなかったでしょうか。ウルファが城でたびたび過激なことを発言したのも、全てはダウフィエに言わされていたことで、ウルファの本心ではなかったはずです。アリューテはまさか、身内から、というよりもウルファから、そのような発言が出るとは思いもしていなかったのです。

「アリューテさん、考えてみてください」

 ウルファは消え入りそうな声で、それでも必死に訴えようとしているようです。

「アリューテさんは、シャルカマーリア様に、水をかけてしまいました」

 その一言が出た瞬間、アリューテはすっと腹の底にわだかまっていた後悔と罪悪感がせりあがってくるのを感じました。

「もちろん、わざとでないのは分かっています。あのときアリューテさんは、私を助けようとして――それはその、私ではなかったのかもしれませんけど、とにかく、シャルカマーリア様を傷つけようなんて、アリューテさんが考えていたはずがなくて……でも、でも――ただ私、心配なんです。城に戻ったら、アリューテさんがそのことで罰せられるんじゃないかって」

 ウルファの訴えを聞いた瞬間、浅い声がアリューテからこぼれました。

「ですが、私は――」

 ――罰せられるべきなのです。

 そこまで突いて出そうになって、しかしアリューテは、すんでのところで声を詰めました。

 アリューテは自分の身がどうなろうと構いませんでした。いえ、むしろあれほどの罪を抱えて、自分がこれから生きていくことなど、到底無理だとすら思っていました。罰してもらわなければシャルカマーリアに申し訳が立たないだけでなく、自分でも後悔に苛まれて仕様がありません。シャルカマーリアの片翼を奪った罪は、アリューテのような水運びには余りにも重く、できるだけ苦しめて、苦しめて、最後は身を粉々に砕かれたとしても、なお償いが足りないように思うのでした。

 ですがそれは、全てアリューテの心のうちのことです。あの今にも儚く消えてしまいそうなウルファの声はなんでしょう。彼女はとても、独りにさせておくことができるとは思われません。

 罰を受ければ、アリューテは楽になるでしょう。しかし自分が楽になるために、これほど不安がっているウルファを放っておくのは、正しいことなのでしょうか。事情はよく分かりませんが、ともかくウルファは、アリューテを唯一の縋る糸のようにしている節があるのですから。

 アリューテはそこまで考えて、小さく首を振りました。

 本当に城に戻れるのなら、何もアリューテがウルファの面倒を見ずとも、これまで通りシャルカマーリアが正しい判断を下してくれるはずです。その方がきっと、ウルファのためでもあるのです。

「いいですか、ウルファ」

 アリューテは努めて自分を落ち着かせ、諭すように言いました。

「あなたが不安になることは何もありません。城に戻ればシャルカマーリア様が全てよいようにしてくださいます。私が罰を受けて神殿に還されたとして、あなたはこれまで通り仕事をすればいいだけ――」

「おいおいおい、こいつ、バカなんじゃないのか」

 ダウフィエの厭味ったらしい声がして、アリューテはきっと目を向けました。

「どこがですか。シャルカマーリア様にお仕えすること自体に文句があるようでしたら――」

「いや、だから、それでいくとこいつも十分危ないだろ」

 戸惑うアリューテに、ダウフィエは偉そうに言いました。

「こいつは城で、竜を先導してるのを鳥どもに見られてるんだぞ。裏切り者だ。罰を受けないはずがないだろうが」

 アリューテは、自分がその可能性を思い至らなかった事実にひどく動揺しました。しかしそれとないまぜになった、ダウフィエのあまりの言い草に対する怒りの方が表に強く立ちのぼってきて、アリューテは激しく言い返します。

「あっ――あなたがウルファを操らなければ起こらなかった問題なのに、よくもそんな言い方ができますね!」

「このまま戻らずに逃げりゃこんな問題起きねえんだよ!」

 もっと大きな声を叩きつけられて、アリューテはびくりと身を引きました。

「他の奴は知らねえが、あんたら二人は戻れば殺される。こちとらそれを黙って見逃すわけにはいかねえんだ。それとも何か、二人とも揃って戻って殺されるのがお望みってわけか!」

 アリューテは全身をこわばらせたまま、ウルファと目を見かわしました。ウルファを独り、この竜たちと一緒に残していくことは不可能でしょう。アリューテがどうしても戻るといえば、ウルファもついてくるでしょう。ですがそうすれば、何の罪もないウルファも、アリューテと並べて罰せられるかもしれないのです。

「説明すれば……」

 アリューテの声が、変に上滑りします。

「ちゃんと説明すれば、シャルカマーリア様はきっと、分かって――」

「そう思いたいなら思えばいいけどな、あの城にはシャルカマーリア以外の賢者もいたこと、忘れてんじゃねえか」

 これがとどめでした。

 アリューテは力なく振り向いて、水運びたちを見回しました。

「本当に、ごめんなさい」

 アリューテの口から出る声は、ひどく疲れたようなものでした。

「私は、ウルファが無実の罪で罰せられることが、恐ろしいと感じてしまいました。ウルファを独りで行かせるわけにはいきません。私はウルファと、ダウフィエと共に、この場を離れます」

 ウルファがうつむいたまま、弱々しく首を振っています。アリューテの思い違いでなければ、自分のためにアリューテが判断を翻したことに、うろたえているのでしょう。きっとウルファも、自分が罰せられること自体は嫌ではなくて、純粋にアリューテの身を案じて先の発言をしたのでしょう。アリューテはそこまで何となく感じとっていながら、しかし、ウルファが神殿へ還されるところを想像するだけで、我慢がならないのでした。

 水運びたちからは答えが返ってきませんでした。アリューテはまた、ダウフィエに目を戻しました。

「私たちはあなたに同行します。彼女たちは解放してください」

「いや、何でだよ」

 ダウフィエは心底うんざりした調子で言いました。

「こいつらと話してるとどうにかなりそうだ。ようやく二人説得したと思ったら、まさかこれ全員にやるのか」

 アリューテはダウフィエに食ってかかりました。

「あなた、さっき他の奴は知らないと言っていたではありませんか」

「あれはあんたを説得するための理屈だろ。言葉の綾だ」

「そういうのは屁理屈というんです」

「こっちにも事情があんだよ。なあ、あんたら」

 ダウフィエは面倒そうに、水運びたちに声を投げました。

「俺の知る限りじゃ、ここにいる大半の奴は、俺の言葉に魅力を感じていたはずだ」

 アリューテはぎょっとしました。水運びたちは言い返すでもなく、幾人かは後ろめたそうに目を伏せています。まさか、この場にいる数十人の水運びのほとんどが、ダウフィエの口車に乗せられかけていたとでもいうのでしょうか。ただ一人ウルファは、少し身を縮めたままではありましたが、まっすぐにダウフィエを見つめていました。

「あんたら労働者の間で広まっていた悪い噂は、おそらく賢者たちの耳にも入ってる。あいつらも馬鹿じゃない。噂と俺たちの襲撃を結び付けて、お前らまで共犯だってことにされることも十分あり得るんだ。それでも構わず主君のもとに戻るっていうなら止めないが……まあ考えてみろよ」

 ダウフィエは両手を広げ、くるりとその場で回ってみせます。次に放たれたダウフィエの声は高らかに張って、何か皆の意識を引き付けるものがありました。

「城の外ってのは広いんだぜ。しかもそれは、あのとき聞いたような、妄想みたいな話じゃない。現に今、あんたらの目の前に広がってる世界なんだ。これは絶好の機会だと思わないか? まだ見ぬ景色を見たくはないか?」

 アリューテは思わず口を挟みました。

「私たちはシャルカマーリア様にお仕えするために生まれてきたのです。それ以上に望むことなどありません」

「別にあんたらに、主君への忠誠心と外への憧れを、天秤にかけろって言ってるわけじゃないんだぜ」

 今度、ダウフィエは急に、かすれた中にも柔らかい、猫撫で声を出しました。

「水運びたちは横暴な竜に無理やり捕らえられて、意に反して連れていかれたんだ。なあ、そうだろ?」

「一体何を言い出すのです! そんなものは詭弁です。皆――」

 アリューテは水運びたちの方を見て、思わず言葉を引っ込めました。皆はダウフィエの目を見ようとしませんでしたが、それと同様に、アリューテの視線も明らかに避けていました。ダウフィエが満足げに両手を打ちます。

「決まりだな」

 アリューテが仲間たちに感じた失望は、即座に怒りへ変わりました。

「卑怯者。私たちの心の弱みにつけこんで」

 ダウフィエは何でもないように、細長い片手を振りました。

「何とでも言えよ。出発は明日の朝だ、今夜はしっかり休んでおけ」



 アリューテたちは翌朝早くに広場に集められ、再びあの巨大な竜に乗せられました。

 ダウフィエはずっと、かりかりした様子であちこちを歩き回っていましたが、とうとう竜が飛び立つという段になると、アリューテたちがいるのとは別の竜に乗り込みました。

 城から連れ去られるときは、飛んでいる竜の背中に飛び降りるような格好でしたから、地面から飛び上がるのを体験するのは初めてです。巨大な竜は、左右に広げたつるりと長細い翼を小さく動かしたかと思うと、広場をゆっくりと走り始め、その速度が徐々に上がっていく、と思った瞬間、ぐいっと全身を持ち上げて、宙に浮きあがりました。ぐんぐん高度を上げていく間、アリューテたちの体は竜の背中に押し付けられ、風にもめちゃくちゃになぶられましたが、上昇が落ち着いてしまうとすっかり楽になり、風は秩序だって左右に流れていきます。

 アリューテは最初に乗せられたときよりも冷静に、体を少し起こして、あちこちを観察しました。竜の背中はごつごつしていますが、全体を見渡すと、微かに端が曲がっているだけで、おおむね平らです。初めは無秩序にみえた無数のでっぱりも、よく見ると所々が削って形を整えてあり、背中を預けるのにちょうどよくなっています。竜の頭の方を見れば、首から翼のつけ根辺りまでが盛り上がっていて、それが多少の風よけになっているようでした。

 今乗っているのは、オウヴァムのほか、何となく見覚えのある竜が二人と、アリューテやウルファら水運びが十人ほどです。彼女たちの目線につられて横手を見てみれば、もう使われていないとみえる廃墟が、いくつも平地に並んでいるのが、前よりはっきりと見えました。

 水運びたちの目が、興味深そうに眼下の景色を追っているので、アリューテはなんだか気が塞いで、顔を正面に戻しました。その様子に気付いたのでしょう、隣に並んで座り込んでいたウルファが、沈んだ声で言いました。

「あいつ、本当に口がうまいんです」

 アリューテが視線を向けると、ウルファは膝を抱えた両腕に、顔を浅く埋めています。

「みんなどんどん騙されて、そのうち水運びのほとんどが、あいつの口車に乗せられてしまったんです。もちろん、すっかり信じ込んで城を出る気になってしまった人と、少し魅力に思うだけの人と、色々でしたけど、でも、皆、嘘だとは思いもしないんです。最後まで毅然としていたのは、アリューテさんだけでした」

 ウルファがアリューテを見つめる目が、きらっと光りました。

「私、アリューテさんを尊敬しているんです。とても聡明で、意志が固い人なんだって」

「そんな、私……」

 アリューテは緩く首を振りました。

「私もすっかり騙されていました。もっと注意していれば、すぐにどなたかに報告できたのに」

「でも、城を離れようとは思わなかったでしょう?」

「それは、もちろん……」

「あのとき、私、誰も信じられませんでした。ずっと、ただ体の中から、皆が騙されていくのを見ていることしかできずに、何度心が折れそうになったか……でも、アリューテさんが、役目の大事さを語り続けてくれて、心が支えられたんです。どんな状況におかれても、私の信じているものだけは、間違っていないんだって」

 ウルファは物思いにふけるように顔を伏せていましたが、そのうちまた、アリューテに目を向けました。

「だから私、アリューテさんのことも、信じていたいと思うんです。これからどうなるか、全く分かりませんけれど、私は、アリューテさんが正しい選択だと信じることなら、信じていられると思います」

 アリューテは、居心地悪くその場で座り直しました。

「よしてください。私はそんな、賢い人間ではありません。昨日一日だって、何度も――」

「それも、分かっているつもりです。こんな状況で、ずっと正解を選び続けられる人なんて、きっといません。私がアリューテさんを信じるっていうのは、アリューテさんが間違わないと思っているからではなくて……つまり、アリューテさんの人格を信頼しているんです。アリューテさんが判断したことなら、たとえ最善の道でなくても、私はきっと、その道を一緒に選べます」

 アリューテは、なおも、首を振りました。

「そういった態度は、とても褒められたものとは言えません。あなたがここ長いこと、精神的に苦労して、心が参っているのは理解も同情もできますが、だからといって、軽率に縋る相手を作ることはやめなさい。あなたの信じる方がいるとすれば、それは主人たるシャルカマーリア様であるべきです」

 アリューテはできるだけ厳しい言い方をしたつもりだったのですが、ウルファはぱっと明るい声を上げました。

「さすが、アリューテさん。そう言ってくださるからこそ、私はアリューテさんを信じられるんです」

「……あなた、私の言葉を理解していないのでは? いいですか――」

 アリューテがもう一度諭しなおそうとした矢先、横から低い声がかかりました。

「おい」

 声の主はオウヴァムでした。吹きすさぶ風も意に介さず、ぬっと竜の背に立っています。

「退屈なのは分かるが、あまりはしゃぐな。蕾社までは真っ直ぐ飛んでも半日はかかる。その調子だと体力がもたないぞ」

 その口調はひどく不愛想で、どこか白々しくもありました。そもそも、昨日アリューテを案内するときには一言たりとも発しなかったオウヴァムが、ただ親切のために話しかけにきたとは思えません。きっと何かが気に障って、黙らせにきたのでしょう。アリューテは、とげとげしく返しました。

「今のがはしゃいでいるように見えますか。ほかの水運びのほうが、ずっと浮ついているではありませんか」

 オウヴァムはゆっくりと瞬きをして、それから肩をすくめました。

「あいつらにもこれから言いに行く」

 アリューテは拍子抜けしたような呆れたような気分になって、ただふいと目をそらしました。空を覆う蓋のような灰色の雲が、頭上をどんどん後ろへ流れていました。


        ◇     ◇     ◇


 エドゥムハジアは、机についたまま、窓の外を眺めていました。

 少し前の飛竜で、社外へと向かう竜たちは全員ここから出発し、街はがらんとしていましたが、その大通りを無遠慮に、一糸乱れぬ隊列が進んできます。前線に出たことのないエドゥムハジアにとっては、生きている揺籠の兵士を見るのは初めてでした。よく見ると、隊列の後ろ中央辺りには、白い翼を持った人影もあります。エドゥムハジアは、揺籠社の軍隊が本社ビルの真下までやってきて、いくらかの部隊が建物に入り、残りがさらに大通りを進んでいく様子を、興味深く観察しました。

 しばらくすると、廊下から複数の足音が聞こえてきました。扉を次々に開けているのでしょう、ばたん、という音や人の声が時折混じります。

 とうとう書斎の扉が開けられて、ようやくエドゥムハジアは、窓から目線を室内へ戻しました。扉を開けた揺籠の兵士は三人組でしたが、エドゥムハジアがいることに面食らったように、揃って固まっています。

「ほっ、報告」

 先頭の一人の言葉に、一番後ろにいた一人が飛び上がって、ばたばたと廊下を走っていきます。

「君、その腕はどうなっているんだ? 随分と暴力的な見た目をしているが」

 エドゥムハジアが気軽な調子で訊ねると、兵士はびくっと、揺籠の人間には珍しい、ごつごつとした腕を背中に隠しました。

「どうした、見せてくれないのか」

「貴様っ、何故ここにいる」

 怖気づいた心を鼓舞するように、兵士は大声を張り上げます。エドゥムハジアはちょっと顔をそむけて、言いました。

「何故も何も、ここは私の書斎だが。君たちこそ何だ、不躾な。揺籠にはノックの習慣がないのかね」

「この街はほとんどもぬけの殻ではないか。何故貴様だけ残っているのかときいているのだっ」

「私だけではないぞ。建物の中でも、何人か抵抗していただろう?」

「だから――!」

 怒号がなおも響き渡ろうとしたそのとき、兵士二人の後ろに、ぬらりと大きな影が落ちました。エドゥムハジアは、瞼のある三つの目だけで瞬きをします。身をかがめて扉をくぐり、兵士を押しのけるように入ってきたのは、背の高い、両腕の代わりに翼を持った者でした。

「多眼の竜――エドゥムハジアだな」

「よくご存じで。ところで、そちらは?」

 短い間がありました。竜社では目にすることのない類の、しかし、一目見て整っていると分かる、白く透き通った顔でこちらを見下ろして、その者は、答えました。

「シャルカマーリア」

「おお!」

 エドゥムハジアははしゃぎ声を上げました。

「そうかそうか、お前が……まさか直接お目にかかれるとはな。これはいい冥土の土産になる。ところで、霧の城を任された賢者殿が、わざわざ敵陣までお越しとは、一体どういう風の吹き回しだね」

「城の者たちをどこへやった?」

「ははあ、なるほど? 責任を取らされずにいられるわけもないか」

 シャルカマーリアの滑らかに造形された顔は、その目のほかに、一か所たりとも動くことはありませんでしたが、その苛立ちは手に取るように分かりました。

「あれらを乗せた飛竜がここへ向かったのは分かっているのだ。どこへやった」

「残念だが、答える義理はないな」

「竜の拠点は、もはや大半が陥落している。他に頼るあてなどないはずだ。ならばなぜ、ほとんどの竜が出払っている?」

「答える義理はないと言っただろう?」

 シャルカマーリアの目はひどく冷ややかで、それでいて底知れぬ怒りが見えました。

「惜しいものだ。美しき多眼の竜と伝え聞く貴様を、是非連れ帰って調べてみたいと思ったものだが」

「おや、そうすればいいだろうに」

「それは私の務めから外れる。情報を得られぬなら、生かしておくことはできない」

 シャルカマーリアはそう答えるなり、身を翻し、部屋を出て行こうとしました。エドゥムハジアは、ふむ、と小首を傾げます。

「霧の城の主とやらにお目にかかったら、何と非道なことかと、罵声でも浴びせてやろうと思っていたのだが」

 シャルカマーリアが足を止めるのを見て、エドゥムハジアは指先で角飾りを弄びながら、笑みを含んだ声で言いました。

「どうやら私が文句を言う先は、お前ではないようだな」

 シャルカマーリアはエドゥムハジアを一瞥したものの、すぐに目線を戻し、立ち去りざまに兵士たちに命じました。

「一通り尋問して、何も吐かなければ殺せ」

「は」

 兵士が短く答えたのも聞いていないかのように、シャルカマーリアは書斎を出ていきました。その右翼だけは、最後まで硬直して、真下に下ろされたままでした。

 エドゥムハジアは愉快な気分でその姿を眺めていましたが、ふと書斎に残った兵士たちに目を向けて、提案します。

「私は何を訊かれても答えるつもりはない。お互い、無駄なことはやめにしないか?」

「尋問してから殺せとのご命令だ」

 兵士の淡々とした答えに、エドゥムハジアは肩をすくめました。

「そうかい。まあ、好きにしろ」

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