第一章 霧の城の水底 ~A Blind Slave
「魔女アリューテ、貴女は何のために生きるのです」
「与えられた役目のために」
アリューテの俯く視界に映るのは、薄汚れて擦り減った灰色の階段だけでした。
両手に握る桶の持ち手は、段をひとつ上がるごとに、中に満たされた水が揺れて不安定に傾ぎます。ふと顔を上げると、階段はまだまだ幾度も折り返しながら高く伸びていました。アリューテはたまに、この長い長い階段が一体何段あるのか、上りながら数えてみようとするのですが、たいてい五百を過ぎた辺りで分からなくなってしまうのでした。
アリューテは水運びでした。ですから、水を城の最上階まで運ぶのが仕事でした。
さて、その日も階段を上っていたアリューテですが、その数える段数がちょうど三百を過ぎたころのことでした。
「アリューテさん」
誰かが声にした自分の名を聞くのは、アリューテの生活ではひどく珍しいことでした。アリューテはその段で足を止めて、振り返りました。アリューテと同じ水運びのようです。両手でしっかりと桶の持ち手を握り、えっちらおっちら上ってきます。
「あなた、アリューテさんで合っていますよね」
「ええ」
その水運びはアリューテの三段下まで来ると、そこで桶を下ろして両手を幾度か握ったり開いたりしました。
「よかった。間違えていたら恥をかくところでした」
「誰もそんなことを気にしませんよ」
アリューテは少し戸惑いながら返しました。
「それで、どういったご用件ですか?」
その水運びからの返事には、少し間が空きました。
「それが私、何を訊いたらいいのかもよく知らないんです」
「何ですか、それは」
「ええと、つまり、私……ごめんなさい、お邪魔するつもりではなくて……でも私、困っていて」
アリューテの反応が冷ややかに聞こえたのでしょうか、ひしと桶の持ち手を握ったまま、もごもごいうその水運びに、アリューテはふとたずねました。
「ひょっとして、あなた、新しく仕事に加わったのですか?」
「そうなんです。だから、何をしたらいいのかも、よく分からなくて」
アリューテは小首を傾げました。
「変ですね。仕事に移る前に教わるはずなのに」
「でも、聞いていません。それで、水運びではアリューテさんが一番昔からいるから、分からないことは質問に行けばいいって」
「それは、誰が?」
「他の水運びたちに聞きました」
アリューテはまだ小首を傾げたままでしたが、このまま立ち止まって考えていても、二人分の仕事が滞るばかりですから、仕方なしにうなずきました。
「ともかく、水を運びましょう――あなた、名前は?」
「ウルファといいます」
「ウルファ、私たちの仕事はそれで全部です。さあ、行きましょう」
アリューテがまた階段を上り始めると、ウルファが桶をできるだけ体から離すように、両腕を前に突き出した状態で、駆け足に横に並んできました。
「水を運ぶのが仕事だというのは知っています」
ウルファの言葉はさっきよりも早口で、抑揚が強くなっていました。
「私が訊きたかったのは、もっと実際的な話です。水を運んだ先でどうするのかとか、誰のいうことを聞けばいいのかとか」
アリューテはつくづく困惑しました。このウルファという水運びは、本当に何も知らされずに仕事に放り込まれたようです。
「まさか、賢者の方々を見たこともないのですか?」
「えっと……?」
「この呼び方を聞き慣れていないのかしら。さすがに、見たら分かるとは思うのだけれど。この城の一番上に行けば、どなたかいらっしゃるかもしれませんから、そのときにしましょう」
「今、教えて下さるのではいけないのですか」
「仕事中に喋ると、余計な体力を使いますよ。話すにしても、立ち止まっているときか、降りるときの方がいくらかましです」
そう言うと、ウルファはそれ以上何かをきこうとはしなくなりました。二人は黙って、階段を最上階へとのぼっていきます。
アリューテは、開け放たれた扉の陰から部屋の中を窺いました。天井の際に並ぶ硝子の窓からは、霧の膜にぼやけた外の光が差し込んで、広い部屋をふんわりと照らしています。壁際にはいつも通り、がっしりとした体つきの風送りたちが数名たむろして仕事をしていましたが、部屋の中央に佇む大きな人影に、アリューテはさっと顔をひっこめました。
「あなた、運がいいわ」
アリューテは抑えた声でウルファにささやきかけました。
「シャルカマーリア様がいらっしゃる。水運びがお会いできることは滅多にないのに」
「えっ、シャルカマーリア様……」
その名ぐらいは聞かされていると見えて、ウルファもびっくりしたように繰り返しました。
「それって、つまり……」
「そう、この霧の城で一番偉いお方です。くれぐれも無礼のないように――大丈夫、私と同じように振る舞っていればいいのです」
アリューテが――そして数歩後ろにウルファも――部屋の中へ進み出ると、シャルカマーリアはふと二人に気付いたとみえて、こちらに顔を向けました。
アリューテは桶の持ち手を握りしめたまま、これ幸いとばかりにシャルカマーリアの姿を見つめます。もともと賢者たちは、低位の働き手よりもずっと体が大きいのですが、シャルカマーリアはその中でも特別でした。背丈だけでいえば、アリューテの倍ほどもあるかもしれません。顔も端正に整って、その身にまとうゆったりとした布地の下では、背筋もすらりと伸びています。
何より、その翼です。アリューテたち水運びならば腕がついているはずの場所に、床に届かんばかりの、優美な、真っ白い翼が伸びているのです。その翼は、もたげられたり、下ろされたりするたびに、しゃら、しゃらと、微かに耳に心地よい音をさせるのでした。
アリューテは少しの間うっとりとその姿に見入っていましたが、よりにもよって城の主の前で、仕事の手を止めるわけにはいきません。深々と頭を下げてから、部屋を突っ切っていきます。足音で、ウルファもすぐ後ろについてきているのが分かりました。一方のシャルカマーリアは、しばらく二人を目で追っていましたが、興味を失ったのか、すぐ傍にいた書記に何事かを言いつけはじめました。
アリューテはとうとう、部屋の反対側の壁へとたどりつきました。風送りがその屈強な腕で、ぐる、ぐると手元の握り棒を回しながら、壁際に設けられたじょうごを一瞥して示します。アリューテはそこに、運んできた水を注ぎ入れました。じょうごに入った水は、壁に沿って両側に伸びる水路へと広がっていきます。水路はここそこで壁を貫いて、外壁へと繋がっていました。
アリューテは空になった桶を抱えて数歩下がり、ウルファが自分の後に、危なっかしい手つきで水を注ぐのを見届けました。きょろきょろと不安げに部屋を見回すウルファを伴って、また部屋を逆向きに突っ切り、頭を下げて退室します。シャルカマーリアは今度、二人を見もしませんでした。
「これで終わりです」
アリューテは先ほど上ってきたばかりの階段を下りながら、ウルファに優しく言いました。
「簡単だったでしょう。次は一人でもできますね」
「まあ、多分……それじゃあ、今運んだ水が、城の周りの霧になるんですね」
「ええ。それはちゃんと知っているのね」
「外壁側はどんな造りになっているんですか?」
「私も詳しいことは知りませんが、ともかく風車と組み合わさって、霧を広げているようです。風送りがハンドルを回していたでしょう」
「なるほど……」
アリューテは改めて、どうしてこの子は不十分なまま仕事に回されたのだろう、と考えました。もしかすると、他にも同じような新入りがいるのでしょうか。まさか、神殿がきちんと動いていないのでは――。
「あの、少し思ったんですけど」
ウルファの遠慮がちな声に、アリューテは我に返りました。
「さっき、シャルカマーリア様は、ずいぶん質のよさそうな服を着ていらっしゃいましたよね」
「この城で一番偉い方なのですから、一番の服をお召しになるに決まっています」
「それで、私が思うに、ああいった服を……いえ、あんなに立派なものとは言いません。せめて体に布をまとうだけでも、水に触る危険が少なくなるんじゃないでしょうか」
アリューテはぽかんとしました。ウルファはちょっとばつが悪そうに続けます。
「だって、水をただ桶にくんで、ずっと手に持ったままで運ぶなんて、いつ水がはね返ってもおかしくありません。危ないじゃないですか」
「服を着ることは許されていません」
アリューテは端的に答えました。
「許されていない、って、でも、どうして」
「どうでもいいことを考える暇があったら、早く仕事に戻りましょう。まだ桶一杯分の水しか運んでいないのですよ」
それだけ言って、また階段を下り始めたアリューテの耳を、ウルファの声が打ちます。
「待ってください、また同じことをしないといけないんですか!」
アリューテはまた呆気に取られて振り返りました。
「当たり前でしょう。水運びは大勢いるとはいえ、一人あたり桶一杯で、この城全体を包み込むほどの霧を維持できるはずがありません」
「じゃあ……」
ウルファの言葉には、何だか動揺が滲み出ているようです。
「それじゃあ、一体何杯分運べばいいんですか?」
「何杯というのではありません。動けなくなるまでです」
アリューテはそう返してから、念のため付け加えました。
「ああ、でも、本当に動けなくなるまでやってはいけませんよ。その辺りに倒れてしまったら、誰かがわざわざ担いで休憩部屋まで運ばなくてはなりませんから」
アリューテは言い終えてから少し待ちましたが、ウルファはそれ以上、何も問おうとしませんでした。ですのでアリューテは、自分に与えられた本来の仕事を果たすべく、階下へと足を向けました。アリューテが最初の踊り場にたどりついた辺りで、ようやくとぼとぼと覇気のない足音が、上の方からついてきました。
目を覚ましたアリューテは、その場からゆっくりと身を起こしました。灰色の、薄く埃にざらついたような壁が足元に迫っています。この細長くて窮屈な休憩部屋は、四方も天井も床までも、似たような壁に塞がれているのでした。水運びたちは交代で、この部屋にぎゅう詰めに並べられた、無機質な裸の寝台の上で休むことになっていました。
アリューテは台から両足を下ろしながら、背中の点滴の管を無造作に外しました。起きたらすぐに仕事に戻る決まりです。
立ち上がって狭い通路を歩き出したアリューテは、ふと部屋の出口近くの寝台に、三人ほどの水運びが腰かけて、何やら喋っているのを目にとめました。うち一人がアリューテの視線に気付いてびくっと飛び上がり、もう一人を連れて慌てて部屋を出て行きます。残された最後の一人はのんびりとこちらを向きました。ウルファです。
「アリューテさん、おはようございます」
朗らかに挨拶してくるウルファに、アリューテは何から言えばいいやらと、軽く額を押さえます。
「ウルファ、あなたは知らなかったのかもしれませんが、点滴が済んで目が覚めたのなら、すぐに仕事に移らなくてはなりません。余計な時間を過ごさないようにしなくては」
「えっ、でも」
ウルファの声は怪訝そうです。
「休憩の間に誰かと話すのは、別に余計じゃありませんよね?」
「余計です。話している分、仕事をする時間が減るではありませんか」
ウルファは少しの間黙っていましたが、やがて、おずおずときいてきました。
「ここでは誰かと話すことも許されないんですか?」
「必要ならば、いくらでも話せばいいでしょう」
「つまり、必要でないことは、話してはいけないんですね?」
「当たり前です」
アリューテはそこまで説明しなければならないのかと、気が滅入る思いでした。いったい、神殿での教育が不十分だったとして、ここまで物事が分からないものでしょうか。
「でも、それだと、体は休まるかもしれませんが、心の休まる間がないじゃないですか」
ウルファの声はふざけているふうではなく、あくまで真面目なものでした。ですから余計、アリューテは困惑してしまいます。
「何を言っているんです? 心を休めるというのは何ですか?」
「え……で、ですから、気を休めるというか、ちょっと仕事のことを忘れて――」
アリューテは再び頭を抱えてみせました。
「また、とんでもないことを言いだしますね。いいですか、私たちは仕事をするために生きているのです。それを滞らせるような行動をしてはなりません。まして仕事のことをたとえ一時でも忘れるなど、言語道断です」
「……すみません。私の考えが足りていませんでした」
ウルファは沈んだ声でこたえてから、ふと顔を上げて、こう訴えました。
「さっきの二人には、ここでの決まりごとや建物のつくりについてたずねていたんです。二人は親切に教えてくれただけです。だから、あの二人を責めないでください」
アリューテは少しばかり驚いて、それからこっそりと恥じ入りました。ウルファはあるべき振る舞いをまだ知らないかもしれませんが、少なくとも心持ちでは、真面目に役目を果たすつもりでいるのです。
「あなたを責めるつもりはありません」
アリューテはとりなすように言いました。
「もとはといえば、神殿が役目を果たさないのが悪いのですから。とはいっても、早くにここでの生き方を知っておくに越したことはありません。私も協力しますから、一人前になれるよう、頑張りましょう」
ウルファはぽかんとしたような間の後、慌てた様子で返事をしました。
「はっ、はい。ありがとうございます」
「さて、そうと決まれば、仕事に向かいましょう」
アリューテは明るい声で言いました。
「何度も言っているように、ここでは与えられた仕事を果たすことが全てです。それさえ忘れなければ、ちゃんとやっていけますよ」
「はい」
アリューテはうなずいて、入り口近くに重ねてある桶を手に取ると、ウルファとともに休憩室を出ました。
この部屋は、城の中層あたりに位置しています。ここから上に行くにつれて、より位の高い人々がいることになっています。この階より下にも、まだまだたくさん部屋があるのですが、湿気がひどいので、普段から住むわけにいかないのです。上下に長く伸びた、巨大な塔のようなこの城は、ですから、半分より上しか使われていないことになります。
下層階、そして地下にまで下りるのは、アリューテたち水運びくらいのものでした。
アリューテとウルファは、廊下を歩いて階段のところまで行くと、どんどん下へと下りはじめました。点滴の後すぐは体が軽く、すいすいと動けます。一階まで下りるのもあっという間でした。
この階段は、城の最上階から最下階までを一直線に結んでいますが、地下に下りるにはここからまた別な階段を使わなくてはなりません。二人は階段から、じめじめとした廊下に進みました。廊下には点々と明かりが灯されていましたが、神代から使われている照明は、すでにいくつかが壊れてしまって、余計に空間は薄暗くなっているのでした。
さて、廊下をしばらく歩いていくと、床の半分から片方の壁にかけて、崩れたところがあります。ちょうど、大きな穴が空いているような具合です。穴の縁はぼろぼろで、不用意に触ればまた崩れていきそうです。当然、このような部分から下に下りることはできません。崩落した床部分を三分の一ほど覆うように、取り外された扉が寝かされていて、一旦そこに乗ってから、瓦礫を積み上げて整えた階段を、地下へと下りていくのです。
長年にわたって補強されてきたためでしょう、瓦礫の寄せ集めとはいえ、階段は丈夫なものでした。幅が狭いのには気をつけなくてはいけませんが、十段もないものですし、アリューテにとっては慣れた道です。
階段を下りた先の空間は、思いもかけず広大です。ほとんど真っ暗で、ただほんの微かな水の流れる音が、幾重にも反響しています。よく目を凝らすと、規則正しく亡霊のように四角い柱が佇んでいて、その根元辺りを水面が洗っているのが分かりました。この地下空間は、かなりの部分が水に沈んでいて、アリューテたちが今下りてきた階段の土台周辺が、ごく限られた陸地になっているのです。
アリューテは、乾いた泥に覆われた地面を歩いて水辺に近寄り、慎重に桶を沈めて、水をすくい上げました。ここで汲み上げた水を、最上階まで運ぶのです。ウルファもおっかなびっくりといった様子で、なんとか桶に水を入れました。
アリューテたちが水でいっぱいになった桶を持って、瓦礫の階段を上がっていくと、廊下からぎこちない足音が聞こえました。別の水運びでしょう。彼女は空の桶を持って、アリューテとウルファが階段をのぼりきるのを待ってから、入れ替わりに地下へと下りていきました。
アリューテがそれを特に気に留めず、さっさと廊下を歩き出そうとするのを、ウルファが呼び止めます。
「あの、アリューテさん……今の人は」
アリューテは振り返り、首を傾げました。
「水運びでしょう。どうかしましたか?」
「いえ、何だか、様子がおかしくありませんでしたか? なんだか、足を引きずっているみたいでしたし……」
ウルファがもごもご言っている間に、件の水運びは水を汲んでしまったのでしょう、また階段を上がってきました。不思議そうな目でアリューテたちを眺めた彼女は、そのまま何も言わずに通りすぎていきます。その腕は突っ張ったように固まり、両足もこわばっているようで、腰をひねる力で無理やり足を前へ出して、彼女は歩いているのでした。
「ああ。もう長くないのでしょう」
「長くない、って――」
「水にやられたのです。さあ、仕事に戻りましょう」
「ちょっ――ちょっと待ってください。じゃああの人は」
なおも食い下がるウルファに、アリューテはまた、首を傾げてみせました。
「説明が足りませんでしたか? 水の毒で、体が動かなくなっているのです」
「でも、その、あんなに動けなくなったら、もう仕事から離れた方がいいんじゃ……このままだと、どんどん悪くなるかも」
「ええ。ですから、近いうちに働けなくなって、神殿に還されることでしょう」
ウルファからの反応がないので、アリューテは、この子は水が危険なことも知らなかったのかしら、と考えました。
水は、人間の体を侵す毒でした。まとまった量の水が体にかかれば、それだけでそこは動かなくなってしまうのです。直接触らないよう十分気をつけていても、湿気の多い下層階や地下へと頻繁に下りるだけで、ゆっくりと体は蝕まれていきます。そのために水運びは皆、他の役職と比べて短命でした。仕事に移ってから千日を超えて生きていられる者はほとんどいません。
しかしアリューテはふと、思い出しました。ウルファは昨日、水に触れると危ないから、服を着てはならないのか、という風なことを言っていたはずです。であれば、水が危険なこと自体は知っていたのでしょう。だとすると、今の水運びを目にして、一体何を疑問に思ったのでしょうか。
ウルファがずっと黙っているので、アリューテは小さく首を振って、言いました。
「仕事に戻りましょう。与えられた役目を果たさなくては」
あの日以来、ウルファはどこか上の空でした。仕事自体は、もうアリューテが側にいなくてもこなせるようになりましたが、その代わり、ふとしたときに立ち止まって、廊下から窓の外を眺めているような姿がたびたびありました。
その日も、水を最上階まで運び終えたウルファが、空の桶の持ち手を握ったまま、ぼうっと窓の外を見ていたので、アリューテはとうとう見咎めて、声をかけようとしました。
「ウルファ――」
「アリューテさん、この霧の向こうには、一体何があるんでしょう」
出し抜けに言われて、アリューテは言いさした言葉を飲み込みます。城の周囲はいつも分厚い霧に覆われて、もっとも霧が薄い最上階ですら、遠くを見通すことはできません。窓越しに見えるのは――そもそも下層階は窓がなかったり、封じられていたりすることも多いのですが――いつも、ただ一面の灰色だけです。ですがアリューテは、そのことを気にとめたこともありませんでした。
「どうして、そんなことを疑問に思うのです?」
アリューテの問いはごく素朴な意図のものでしたが、ウルファは責められたように思ったのか、小さく顎を引きました。それでもウルファの目は、アリューテから逸らされていませんでした。
「……ただ、興味があるのです。目の前に、よく分からないものがあると、気になりませんか」
「いいえ」
アリューテがそう答えると、ウルファはふいと顔をそむけ、桶の持ち手を握り直しました。
「すみません。何でもありません」
うつむいて歩き出そうとするウルファを、アリューテはとっさに呼び止めました。
「何でもないようには見えません。ウルファ、あなた、ここ最近ずっと、様子がおかしいではありませんか。一体どうしたのです」
「……もう一往復する余力はなさそうです。私、そろそろ休憩室に戻ります」
それだけ言って、ウルファはまた歩き出しました。アリューテはそれ以上問い詰めづらいので、仕方なく、ウルファの少し後ろをついて、階段を下りていきます。
二人が休憩室に戻ると、ベッドの上で水運びが体を捩っているのが目にとまりました。あの日、地下で見た水運びです。彼女は何とか起き上がろうとしているようですが、腕がわずかに曲がった格好のままぴくりとも動かず、脚のつけ根もほとんど回らなくなって、それすらできずにいるのでした。あれから数日、とうとう、働けない身になったのです。
アリューテは手近にいた、仕事に出ようとする水運びをつかまえて、たずねました。
「もう、伝令の方には伝えましたか?」
「さっき出て行った人が、ついでに報告に行くと言っていました」
「そうですか。ありがとう」
その水運びは控えめに会釈すると、入り口の桶を持って廊下に出て行きました。
彼女の言った通り、休憩室にはすぐに二人の風送りがやってきました。風送りの姿を目にした、寿命を迎えた水運びは、とうとう自分が神殿に還されることを悟ったのか、もがくのをやめました。風送りは、片方が横たわる水運びの脇を、もう片方が足を抱えて、休憩室から運び出していきます。
アリューテはそれを見送ってから、ウルファが点滴を始めるでもなく、うつむいてじっと立っているのに気付きました。
「ウルファ、どうかしましたか?」
「……私もそのうちに、ああして死ぬのでしょうか」
「そうですね。皆そうです」
アリューテがあっさりと答えたのに対し、ウルファは何か、思いつめたような声で、言いました。
「私は――アリューテさん、私は、この城の外に出たいんです」
アリューテは直後、その言葉の意味を理解できませんでした。ウルファはうつむいていた顔を上げ、まっすぐにアリューテを見つめています。
「私がここ何日か考えていたのは、それです。私は城の外に出て、霧の向こうの景色を見たい。閉ざされたこの城の、退屈な景色しか知らずに、死にたくありません」
アリューテは絶句しました。ウルファはなおも、目を揺らぎなくアリューテに据えて、挑発的に続けます。
「アリューテさんは、どうして不満を口にしないんですか? あんなふうに死ぬことが分かっていて、どうして、何でもないようにしていられるんですか」
「一体なんということを言いだすのですか」
アリューテは震える声で、それでもはっきりと非難しました。
「彼女は務めを全うしたのです。素晴らしい生き様です。仕事を全うし、命尽きるまでシャルカマーリア様のお役に立てるというのに、何の不満がありましょう」
「でも、おかしいでしょう」
ウルファはなおも食い下がりました。
「私たちはこうやって、色々なことを考えられる。本当に水を運ぶだけでいいなら、そもそも、そんなことはできなくていいはずです」
アリューテは一瞬言葉に詰まりましたが、すぐに返しました。
「私たちが考えられるのは、精々自分の役目についてだけです。ある程度の思考は、仕事の意義を理解するのに必要なことでしょう」
「じゃあこの仕事の意義は何ですか?」
ウルファは語気を荒げました。
「毎日毎日、水を汲んで、階段を上って、下りて――それが一体何の役に立っているか、アリューテさんは理解しているんですか?」
「私が理解しているのは、賢者の方々が私たちよりも遥かに偉大な存在だということだけです」
アリューテは静かに答えました。
「何であれ、シャルカマーリア様が必要だとお考えなら、必要なのでしょう」
ウルファは黙り込み、それから低い、鋭い声で、言いました。
「でも、私はそうは思いません」
今度はアリューテが黙る番になりました。アリューテの心を占めているのは、何よりもまず戸惑いでした。ウルファはゆっくりと、しかし淀むことなくとうとうと続けます。
「アリューテさんが、シャルカマーリア様を誰より尊敬していて、あの方に従うことを人生で一番大事に思ってるっていうのは、分かりました。でも、だったら、分かってください。私は城の外に出たい。それが今、私にとって一番大事なことなんです。アリューテさんがこの城で役目を果たしたいのと同じように、私は外の景色を見たい」
アリューテは、頭の芯の辺りを強く打たれたように感じました。それはアリューテが、人生で初めて体験した、自分と異なる価値観との遭遇でした。
ですがアリューテが衝撃を受けたのは、何よりも、ウルファの論理が自分にとって理解可能なものだったという点が原因でしょう。ウルファは、アリューテが人生の意味を自らの仕事に、そしてシャルカマーリアに見出しているのと同様な心持ちで、ただその対象だけが違うのだと、主張しているのです。アリューテにとって、そしておそらく他のほとんどの水運びにとって、自分の存在意義とシャルカマーリアへの畏敬は、同化しているといっていいほどに強く癒着しています。しかしアリューテは、ウルファの言葉を単なる戯言として受け取るのではなく、その論理の構造を理解してしまったがゆえに、その二つが分離しうるものだと気付いてしまったのです。
ウルファはまだ、奇妙に底光りするような、あの挑発的な目でアリューテを見つめていましたが、そのうちに、小さく首を振りました。
「こんなのは、ただの夢物語ですよ。そうでしょう? 今のところは、ですけど」
アリューテが言葉を返せずにいる間に、ウルファはさっさとベッドに横たわり、壁から伸びる点滴の管を引っ張ってきて、無造作に背中に突き刺しました。
あの日からさらに、二十日ほどが経ったでしょうか。――などと、アリューテが考えるのも、それまで一切の変化なく、ぐるぐると同じ時を繰り返していたはずの城が、ほんの少しずつ、ですが確実に、揺らいでいるのを感じたためでした。
水運びは常に、一定の人数が保たれています。あのとき神殿に還された水運びの代わりも、数日後には仕事に加わっていました。誰かが働けなくなることは、ですから、特にアリューテの気を引くことではありませんでした。もともと、水運び同士で会話することも滅多にないのです。顔を覚えているぐらいで、それも入れ替わってしまえば、前いた方の姿かたちが意識にのぼってくることはありません。全ての水運びは、少なくともアリューテたちにとっては、ただの水運びであって、神殿から与えられる名ですらも、ただ便宜的な、意味のないものでした。
それが今や、ウルファ、という名は、明確に彼女という個体を指し示す、特別なものになりつつありました。日を追うごとに、その異質さが浮かび上がっていくようでした。
ウルファは隙を見つけては、ためらいもなく水運びたちに声をかけ、楽しげに夢を語りました。たまたま休憩時間が合えば、アリューテもその熱っぽい語りを耳にすることがありました。ウルファはあれ以来、直接アリューテに城の外だのなんだのと言うことはありませんでしたが、時折話しかけてきて、だれそれという水運びはこういう子なのだと、嬉しそうに報告してくるのでした。アリューテの頭には、それらはただの情報でしかなく、一方でウルファの生き生きとした声が、奇妙に心を揺さぶってくるのでした。
アリューテは、あの灰色の、単調な階段を上り下りしながら、あるいは桶を沈める暗い水面の揺らめきを眺めながら、考えることがありました。
アリューテは今、シャルカマーリアのために働き、尽くすことができて、幸せだと思っています。ですがそれは、ウルファの言によれば、人生で一番大切なものがそれだからです。ウルファはそうでないとするなら、彼女はアリューテが感じているような幸福を、人生に感じられないのではないでしょうか。
アリューテは、ウルファのことが、嫌いではありませんでした。彼女が仕事をないがしろにすることも、その理解できない感性も、どことなく腹の底をかきまわされるような、落ち着かないものではありましたが、それはそれとして、ウルファに幸せを感じて生きてほしいと考えていました。もちろん、ウルファが役目の素晴らしさに気付いて仕事に励んでくれたら、それが一番です。ですが、あんなに楽しそうに外のことを語るのなら、いっそ外に行った方が幸せになれるのではないかと、アリューテは思うことがありました。
さて、そのようなことを思いめぐらせながら、アリューテが階段を上がっていると、まだ半分にもならないだろうという辺りで、上から水運びがばたばたと駆け下りてきました。空の桶を持ってはいますが、水を汲みに下りてきたという雰囲気ではありません。
「どうしたのです」
アリューテがたずねると、その水運びは困り果てたような口調で言いました。
「階段が通れなくなったんです。そろそろ八百日になる人が、つまづいて、踊り場が一面水たまりになってしまいました」
「一面ですか」
「はい。それも、桶が全部ひっくり返ったので、その踊り場から下の段にも、どんどん水が流れて、広がっているんです」
「その水運びは、無事なのですか?」
「片手に水がかかったようですが、他は」
「そうですか。では、伝令に報告はいりませんね。いずれにしても、ある程度水が乾いてしまうまでは、どうしようもありませんが……」
たまにこういったことは起こるのですが、まるきり階段が通れなくなることは、滅多にありませんでした。いくら水運びがもともと危険な仕事だといっても、水に触るしかないと分かっているところを、無理に通ることはできません。
「下にもまだ、水運びはいますか?」
「何人か、階段ですれ違いましたから、いるでしょう。連絡に行くのですか」
「はい。しばらくあの辺りには近寄らない方がいいでしょう」
「様子は実際に見たのですか。乾くまでどのくらいかかりそうでしょうか」
水運びはちょっとためらうように、口ごもりました。
「……居住階よりも下ですから、じめじめしていますし、通れるような道ができるまでは、半日か、それよりもっとかかるかもしれません」
それだけ言うと、その水運びはまた、階段を駆け下りていきました。
アリューテは、桶を持ったまま、その場で少し考え込みました。普段は、一日に一人十杯以上、桶の水を運んでいます。水運びの往来ができないとなると、半日もすれば、霧が尽きてしまうのではないでしょうか。アリューテは、この城が霧で包まれているのが何のためか、全く知りませんでしたが、霧を作るために自分たちが働いている以上、それはよくないことだろうと考えました。
アリューテは、階段を少しだけ上ると、踊り場で足を止めて、途中の階に繋がる扉を慎重に開けました。水運びは普段、この階段以外を使うことはありませんが、この城は広く、いくつか別の階段もあります。うまく迂回すれば、仕事を滞らせずにすむかもしれません。扉の先は何の変哲もない、灰色の廊下です。指示を待った方がいいだろうか、という考えも頭をよぎりましたが、結局アリューテは、すぐ戻れるくらいの範囲でだけ、道を探してみることにしました。さっきの水運びが戻ってくる足音が聞こえたら、引き返せばいいのです。アリューテは扉を開けたままにして、廊下に一歩、二歩と、足を踏み入れました。
最初覗き込んだときには、廊下はこれといった特徴もないように思われました。ですがよく目を凝らすと、曲がった角の向こうから、何か白っぽいものが床を這って漂ってきています。それが、城の窓からいつも目にする霧だ、と気付いて、アリューテはぎょっとしました。城の内部に入らないよう、気をつけられているはずなのに、目に見えるほどはっきりした霧が、あの角の向こうから流れてくるのです。
アリューテの頭にまずよぎったのは、窓がどこか壊れたのかもしれない、ということでした。気付いたからには、様子を確かめ、早急に報告しなくてはならないだろう、とも思いました。ここはまだ中層部より下ですから、誰かが使うこともないのですが、あの角から階段までは、ほんの数十歩です。仕事に影響がないとも限りません。
アリューテは先ほどよりも、もっと緊張した足取りで、ゆっくりと廊下を進みました。曲がり角のところまでくると、空気よりも少し冷たい霧が、足元をくすぐります。角の向こうは、霧で満ち満ちている、というわけでもありませんでしたが、廊下全体がぼんやりと白く、もやに沈んでいました。やはりこの先に、穴か何かがあるのです。
アリューテがさらに廊下を進むと、原因はすぐに分かりました。廊下にはいくつか、縦に長細い窓が等間隔に並んでいて、それぞれ数枚の金属板で封じられているのですが、金属板同士の間は大きな隙間が空いていて、そこから霧がどんどんただよいこんでいます。
アリューテは、これを今すぐにでも伝令に伝えねばと、踵を返しました。
「あなた……」
突然聞こえた声に、アリューテはぎょっとして足を止めました。廊下を見回しても、アリューテの他には誰もいません。どこかくぐもった声は、数枚の金属板で封じられた、窓の方から聞こえたように思われました。
「人が来るなんて、珍しい。こんなところを通って、どうしたんです?」
アリューテはなおも固まったまま、耳をそばだてましたが、やはり声は窓の外、霧の中から聞こえます。体をじわじわと侵す霧の中に、一体誰がいるというのでしょう。
アリューテは窓に近寄ると、桶を足元に置き、左右にわたされている金属板に触れました。封じてあるとはいっても、その金属板は、片方を一本の釘で打ちつけ、もう片方を長めに頭を残した釘に乗せてあるだけだったので、軽く持ち上げると、一番下の隙間がくぐれるぐらいになりました。
アリューテは目の前に広がる真っ白な霧の壁に、ためらいがちに足を踏み入れました。
霧は濃く、石造りらしい足元がぼんやりと見えるほかは、四方はすっかり白色だけと思われましたが、背後を振り返ると、上の方に向かって、城の外壁がうっすらと影のように伸びて消えているのが分かります。そして視線を横に少し動かすと、何やら薄灰色の人影が、外壁に軽く背をもたせかけていました。
人影から、声がしました。
「僕が呼びかけておいてなんですけど、あなた、霧の中に出てきてよかったんですか?」
アリューテは、どこか投げやりに返しました。
「よくはないかもしれません。でも、私、水運びですから」
「なるほど。お互い大変ですね」
「あなたこそ、一体どうしてこんなところにいるんです」
「僕ですか? 僕は見張りなんです。だから、ここに立って、城の外を見張っているのが仕事なんですよ」
アリューテは思わず、外の世界と思われる方に目をやりました。一面白く霧にけぶって、何も見えません。
「一体、何を見張るというんです?」
「さあ。とにかく、見張るようにとの命令なんです」
アリューテはさらに数歩、霧の中へと進み出ました。ぼんやりとした人影は、近づくにつれて徐々に輪郭がはっきりしてきます。その、どことなく水運びたちにも似た顔が見えるほどになると、向こうもアリューテの姿を明瞭に認めたのでしょう、かわいらしく小首を傾げて挨拶してきました。
「初めまして、僕はルーヤ。それにしても、水運びさん、どうしてこんなところを通ったのか、まだ答えてもらっていませんよ」
「アリューテです」
簡潔に名乗ってから、アリューテは答えました。
「普段使っている階段が通れなくなったのです。別の道はないものかと探していたところに、廊下に霧が流れ込んでいるのを目にしたものですから」
「ああ……」
困ったような、そのくせどこかおかしがるような声で、ルーヤは相槌を打ちました。
「それなら、いつものことですから、気にすることはないんですよ。ここの窓はわざと、通りやすいようになっているんです。僕たちだって、交代で点滴を打たないと、持ちませんからね」
アリューテは気が抜けてしまって、小さく肩を落としました。身の危険も覚悟して霧の中に踏み込んだというのに、異常でもなんでもないというのです。
こうなると、ぐずぐずせずに階段まで戻った方がいいでしょう。アリューテはそう理解しつつも、これが異常でない、というのがおかしいのではないかと、頭の隅に何か引っかかるものがありました。そもそも、見張りなどという役職は、今まで見たことも聞いたこともありません。水運びが知る必要のないことだというのであれば、それまでですが――アリューテは最後に何気なく、ルーヤの姿を上から下から眺めました。そしてその両足首に、茶色く錆びついた足枷が繋がっているのに、気付きました。
「でも、気持ちは分かりますよ」
ルーヤはアリューテの視線に気づいていないのか、先ほどの言葉に続けて言いました。
「最近の城は、どこかおかしいですから。そうでしょう? 色々なことに神経をとがらせてしまうのも、仕方ないことです」
アリューテは、思わずきき返しました。
「おかしい? 何がです」
「そりゃ――いや、僕にも、はっきりした確信があるわけじゃないんです。けど、今までとは明らかに違う……そんな感じ、分かりませんか」
「いえ……?」
「じゃあ、水運びにはいないんですね。城の外に出ようなんていう妙な奴らは」
アリューテは、表にこそ出しませんでしたが、ひどく動揺しました。
「そんな人が、ほかにも?」
「えっ、やっぱりいるんですか?」
アリューテがウルファのことを説明しようか迷っている間に、ルーヤはまた熱心に話し始めます。
「風送りでもそんな話が出てるっていうんです。おかしいでしょう。確かに僕だって、仲間が死んでいくのを見て恐ろしくなった、そういう経験はありますよ。でも、城の外に出るなんていうのは、それとは全くわけが違うでしょう。城を離れてどうするっていうんです? ご主人様に与えられた使命を捨てて生きていたって仕方がないのに」
「そうですね」
アリューテは心からの同意を示してから、ためらいがちに付け加えました。
「でも、その人が本当に望んでいるのなら、邪魔することもないのではないかと思うんです」
「ええっ?」
ルーヤの声は、全く信じられないといった調子です。アリューテは、それ以上踏み込んで話すのはよくないように思って、今度こそ、足先を先ほど通ってきた窓の方に向けました。
「ごめんなさい、私、あまり長居はできないんです」
「あっ、そうですよね。こちらこそ、呼び止めてしまって」
アリューテは会釈をして、廊下へと戻りました。最後に、窓際から振り返ってみると、もう輪郭しか分からなくなったルーヤが、それでもどこか、遠くの景色を見ているように思われました。
アリューテが階段に戻り、廊下へ繋がる扉を閉めた直後、連絡の水運びが、下層階に下りていた水運びたちを連れて、上がってきました。その後は、交代で水が広がってしまった辺りを確認しに行き、水が乾いてきた頃合いを見計らって、皆で上層階へと戻りました。幸い、思ったよりも乾きが早く、階段の中央辺りを通れるようになるまで、半日もかかりませんでした。
ところで、アリューテの心配は杞憂だったようです。最上階にのぼってすぐ、水路の様子をこっそり透かし見たのですが、水は十分に満ちて、風送りも普段通り――いえ、むしろ普段よりも元気に、せっせとハンドルを回していました。
きっと、水路の水は、もともと余裕をもった量に決められているのでしょう。――アリューテはひとたびは、そう考えたのですが、やはり、と疑問が頭をもたげました。水は減っていたがなくなってはいなかった、というなら分かります。ですが、どうも、普段より水位が極端に低いという様子でもなかったのです。もしかすると、アリューテが知らないだけで、日々の運びすぎた水を蓄えておくような場所があるのでしょうか。そうでないなら、水が減っていないということは、霧が補充されていないということではないのでしょうか。
◇ ◇ ◇
城の最上層には、賢者たちが使う部屋が並んでいます。特に、上から三番目の階は、全ての部屋をシャルカマーリアが使っていました。ここより上には、城外に霧を広げるための施設しかありません。その中に大きな書斎があって、シャルカマーリアは、神殿か寝室にいるのでなければ、ほとんどの時間をここで過ごしているのでした。
窓ひとつない薄暗い部屋は、ぐるりと全面を棚に囲まれ、部屋の中央にも背の低い棚が整列し、その中に薄く大きさを揃えた石板や、古くは神代から伝わるという、今はもう動くことのない絡繰りなどが、乱雑に詰め込まれています。その部屋中に溢れる品々の隙間には、『蕾』から手に入れた木炭が横たえられていました。これらの木炭が湿気を吸うので、ここは霧の城で最もからりと乾いた、安全な空間なのです。
部屋の奥には広い机があります。棚と同様、様々な品に埋もれたその机の隅では、書記が何とか場所を確保して、紙片に文字を書きつけていました。その傍らの巨大な椅子に座っているのが、誰あろう、シャルカマーリアでした。
「……先の会合の通り、百七十二日に来られたし……これでよいだろう。署名を認めたら、伝令に持っていかせるように」
「畏まりました」
シャルカマーリアの口述を写し取っていた書記は、まだインクが乾いていないのでしょう、紙片を広げたまま両手で持って、席を立ちました。そこで視線を上げて、ようやく部屋の入口近くに立っている、トルァークシャの姿に気が付いたようです。書記は少し迷った様子でシャルカマーリアに視線を送りましたが、その翼が軽く持ち上げられ、追い払うような仕草をしたのを見ると、深々と頭を下げ、棚の隙間を抜けて、トルァークシャの横を通り過ぎていきました。
「ワシュエランカ様ですか?」
トルァークシャが訊ねると、シャルカマーリアは小さく首肯しました。
「もう紙がほとんど残っていない。また近々、蕾との戦に勝てればよいのだが」
「ホーマレイティエ様は上手くなさっているという話ではありませんか。今までと同じです。我々の強さは揺るがないでしょう」
「竜たちも怪しげな動きをしているという話だ。前線に戦力を集めているらしい。飛竜を見たという報告もある」
シャルカマーリアがそのような話をするのは珍しく、トルァークシャは困惑気味に相槌を打ちました。
「左様ですか。その、それが何か、気にかかることでも……?」
「いや」
シャルカマーリアは今度、ゆるりと首を振ります。
「私は自らの務めを果たすのみだ。――最近の城はどうだ。問題はないか」
トルァークシャはぎくっと両肩を跳ね上げ、おそるおそる口火を切りました。
「シャルカマーリア様、そのことなのですが、お伝えしておきたいことが……」
その目がついっと自分に向けられて、トルァークシャは両の翼をもじもじと揺らしながら、続けました。
「それが、最近どうも霧の出が悪く……」
「水運びの仕事が滞っているのか? 先日神殿に還した分は、足したはずだが」
「いえ、そういうわけでもなく……水は十分水路に満ちているのに、霧にならないのです。これは何といいますか、そう、全く奇妙なことでして」
「奇妙とは、何だ。それを調べるべきではないのか」
億劫そうな、それでいて身を押しつぶすような重さのある声に、トルァークシャはますます縮こまります。
「お、仰る通りなのですが、何分水路のことですし、城外に出て調査するというのも容易ではなく、かといって六以下の者に見させても、異常など分からないでしょうし……」
「だが、放置しておくわけにもいかないだろう。今はどうだ。霧が薄くなっているのか」
「明らかに薄くなっている、というほどでもないのですが、視程が少し伸びてきているようでして、中層東部の見張りが、神殿の姿を目視できたという報告がございました」
「いつからだ」
「それは、その……報告が最初に上がったのが昨日でして、それ以前は何とも」
「十日後まで保つと思うか」
「はあ、おそらくは」
シャルカマーリアは、片方の翼をぐわんと膝の上に持ち上げると、大儀そうにその上に顎を載せました。
「古い記録に、外気に漂う神代の灰が時をかけて降り積もり、水路の霧穴を塞いでしまったという事例がある。水路に目に見える異常がないならば、その線だろう。一度水を全て抜いて、水運びなり風送りなりに清掃させてみるといい」
トルァークシャはびっくりして、翼を揺らしました。
「みっ、水を抜くのですか。すると、霧が一時消えてしまいますが」
「だから、十日後だと言っただろう」
トルァークシャはここでようやく、部屋に入ったとき、シャルカマーリアが書記に書かせていたことを思いだしました。
「八日後の視察が終わってから、ということですか」
「三段の水路を順に止めるにしても、霧の薄さは致命的なものになるだろう。数日で終わる見込みがないなら、視察の後にすべきだ」
トルァークシャは曖昧に頷きながらも、何となく不安になって、遠慮がちに口を開きました。
「そ、その、視察の日程を遅らせていただいて、水路の整備を先に済ませるというのはいかがでしょう……?」
「問題ないといったのはおまえだろう。そもそも、仮に視察の日までに霧が薄くなったとして、あの楽天家が予定を変えると思うか?」
トルァークシャは反論に詰まって、深く頭を下げました。
「なるほど、ではそのようにいたします」
「ああ。おまえに任せる」
シャルカマーリアは、もう興味が失せてしまったようで、机の上に置かれた石板のひとつを、翼の先でぎこちなく手繰り寄せ始めました。棚の陰にひっそりと佇んでいた侍女が――トルァークシャはこの瞬間まで、その存在に気付いてすらいなかったのですが――慌てたように出てきて、石板の位置を調整し、またすっと陰に消えていきます。
シャルカマーリアは、城の運営について、とんと関心がありませんでした。シャルカマーリアはこの城における最高位の『十四』ですし、全てにおいて最終判断の権限を持っているのですが、実際には、おおよその方向性を指示するだけで、大半を秘書のトルァークシャが処理しています。その代わりにシャルカマーリアは、その時間のほとんどを、自らの研究のために費やしているのでした。
「そういえば――」
トルァークシャが何気なく声をかけると、石板の文字を読んでいたシャルカマーリアは、鬱陶しそうに顔を上げました。その所作に緊張しながらも、トルァークシャは極力明るい口調で続けます。
「今回の視察はやはり、件の水運びについてですか?」
シャルカマーリアの目が、力を抜いたように石板に伏せられました。
「既に二千夜が過ぎた。信じがたい成果だ」
その声は、先ほどまでよりもわずかに涼やかさが増していて、トルァークシャはほっとします。
「神々は我らを、水を貴ぶように造られた。だが我らにとって、水は身を蝕む毒なのだ……あれは、我らの悲願を叶える奇跡だ」
石板の上に落とされたシャルカマーリアの目は、しかし、文字を追ってはいませんでした。表情のないその瞳は、普段と何の違いもないように思われますが、言葉は不思議なほど流暢なのでした。
◇ ◇ ◇
「今日は、仕事はなしだ」
開口一番、目の前の伝令は、そう言い放ちました。目が覚めたばかりで、まだ休憩室のベッドから体を起こしただけのアリューテは、即座に頭が働かず、しばらくぽかんとしていました。
「仕事がないというのは……?」
「そのままだ。今日は水を運ばなくていい。こちらへ来い」
伝令に気を遣ってか、休憩室の隅の方に身を寄せている水運びたちの怪訝そうな視線を受けながら、アリューテはベッドから降り、伝令についていきました。
階段を何階分か上がった先、アリューテが連れていかれた部屋には、既に五名ほどの水運びが、所在なさそうに立っていました。そのうちの一人がウルファであることに、アリューテは少し安心します。ウルファの方もアリューテに気付いたようですが、何やら小さく首をかしげていました。ウルファも何も聞かされていないのでしょうか。
「ここで待て」
伝令はそれだけ言うと、さっさと部屋を出て行ってしまいました。
アリューテは扉が閉められてしまうと、ウルファの方に寄っていって、小声でききました。
「私たちは一体、どうして集められたのです?」
「さあ……私たちも知らないんです。ね?」
ウルファに話を振られた水運びが、こくりと頷きました。ウルファはここ最近、すっかり水運びたちに馴染んで――というより、仲良くなっているようです。アリューテには、それが仕事のためにいいこととは思われませんでしたが、結局指摘する気にもなれずにいたのでした。
アリューテはウルファから目をそらすように、部屋を見回しました。休憩部屋よりも窮屈なくらいの小さな部屋ですが、物はあまり多くありません。と、金属板でぴっちりと封じられた窓の下に置かれた、六つの桶が目にとまりました。近寄ってみると、どれも水で満たされています。ちょうど、アリューテたちが日々運んでいる水桶のような具合でしたが、作ったばかりのようにぴかぴかでした。
アリューテはますます、よく分からなくなりました。仕事をするなということでしたが、ではなぜ、水桶が人数分用意されているのでしょう。
かなり長いこと待たされた後、突然部屋の扉が開けられて、伝令が入ってきました。ウルファは水運びたちと、この状況についてあれこれ憶測を述べたてていましたが、それに気付いてすぐに会話を止めます。伝令は、感心しない、といった目でウルファたちを眺めた後、言いました。
「桶を持ってついてこい。――あまり私に寄るなよ」
アリューテたちは言われた通り、おのおの桶を両手に握ると、伝令の後ろを列になってついていきました。伝令はまたさらに一階上に上がり、廊下をずっと歩いていきます。
伝令がようやく足を止めたのは、小さいもののしっかりとした、どこかの裏口のような扉の前でした。伝令はそれを無造作に引き開けると、顎先でアリューテたちに入るよう指示しました。
一歩踏み入れた先は、ぽっかりと広がる、巨大な広間でした。
扉を入ったすぐ近くに、また別の伝令が待ち構えていました。アリューテたちに驚く暇も与えず、伝令は、ここに並べ、と小声で命じ、壁際を手振りで示します。
アリューテは指示通りに壁際に並んだあと、目立たないようにこっそりと、視線を左右へと動かしました。広間にはどうやら、霧の城に存在する限りの役職の者たちが、数人から十数人ずつ集められているようです。アリューテたち水運びも、風送りもいますし、書記も侍女も、伝令もいます。唯一見張りだけはいませんでした。
加えていくつか、見慣れない姿の集団もいます。背格好は何となく風送りに近いようですが、もっと横幅があったり、腕が奇妙に長かったり、様々です。アリューテが知らないだけで、この城には他にも働いている者たちがいるのでしょうか。何にせよ、これほど大勢が一度に集まったことは、アリューテの記憶のうちでは、これが初めてのことです。
それにしても、何よりすごいのは、賢者たちでした。神官たちも含めて、この城にいる全員が集められているのではないかというほどです。シャルカマーリアたち見慣れた賢者の他、ちらほらアリューテが目にしたことがない賢者もいるようでした。そのうちの何人かは、シャルカマーリアと同じぐらい、いえ、ひょっとするとそれ以上の、布がたっぷりとして、滑らかに輝く、素晴らしい衣服をまとっています。
神殿の偉い人かしら、とアリューテは考えました。ですがそれにしても、あれほど立派なものを着る権利が、彼らにあるとは思われませんでした。その姿が――ひょっとしたらアリューテの錯覚か何かだとしても――シャルカマーリアより偉そうに見えることが、何故だかアリューテには居心地が悪いのです。
どこかおさまりの良くないような気分で、そのまましばらく、アリューテはシャルカマーリアの姿を目で追い続けました。どうやらその見慣れぬ賢者たちは、彼に連れだって動いているようです。シャルカマーリアと他の賢者たちは、まず風送りの前で足を止めて、何事か言葉を交わしているようでした。その次は、ずらっと侍女が並んでいる辺りを歩き過ぎて、こちらへ近づいてきます。そのうちに、最初は遠くて聞き取れなかった賢者たちの会話が、アリューテの耳に届き始めました。
「……侍女たちの母はどうも具合が悪いようだね」
素晴らしい衣服をまとった賢者が、鷹揚にその翼をゆらめかせながら、気楽そうな調子で言っています。
「はい」
その声は驚くほど明瞭に、アリューテの頭の中へと通ってきました。他でもない、いつの日も聞き焦がれたシャルカマーリアの声です。ですが、はい、というのは――アリューテの手の内に、桶の中の水が揺らぐのが伝わってきます。
「最近は皆変性が進んでいるようです」
続く言葉に、アリューテは、何かがすうっと冷え込んでいくような、奇妙な気分になりました。あれではまるで、シャルカマーリアよりもあの賢者の方が偉いようではありませんか。一体あの賢者が何だというのでしょう? 少しばかり大仰な衣服で着飾っているだけではありませんか……。
「ですが現時点では、労働に支障が出るほどのものではありません。餌にさえ注意していれば、当面は心配ないでしょう」
「どうだかね」
シャルカマーリアの返事には、一瞬の間がありました。
「竜や蕾と比較すれば、十分な成果だと心得ておりますが」
「ああ、いや。君の能力を疑うわけではない。ここにいる誰も、それほど馬鹿ではないだろう」
その賢者はちょっと翼の先を持ち上げて、ゆるりと弧を描いてみせました。二人の後ろをついて歩く、別の賢者たちを示したようでした。
「それにあれは君ではなく、トルァークシャが係だったはずだ。それで、例の水運びは――」
「こちらに」
とうとうシャルカマーリアと賢者たちは、アリューテたちの近くまでやってきました。例の偉そうな賢者は、ゆっくりと水運びに視線を横切らせます。アリューテはその姿をどう捉えたらいいのか、まだ整理がついていませんでした。
そのとき不意に、シャルカマーリアが足を踏み出して、滑るように目の前に来たかと思うと、その翼の先を、過たずアリューテに据えました。突っ立っていたアリューテは突然のことに、思わず身じろぎをします。
「彼女です」
「おや、これは」
その賢者もシャルカマーリアの隣に来て、アリューテを眺めました。
「もう二千日という話だったが、随分と綺麗ななりじゃないか」
「母由来の変性を除けば、神代に限りなく近い姿であると考えております」
シャルカマーリアは恭しく答えました。
「彼女の記録を参考に、複数の水運びの寿命を延ばすことにも成功しました。数世代もあれば、水の克服も叶うでしょう」
「それはまた、随分と気の長い話だ。君の悲願が叶ったという話だったが、では、まだ成功したわけではなかったのか」
「いえ」
アリューテはその声の響きに、また小さく身を震わせました。シャルカマーリアは普段と何ら変わらぬ優美な佇まいでありながら、どこか苛立っているようでした。
「問題となっているのは安定した再現のみです。彼女は完全です」
「だが、あくまで普段の仕事をしていただけなのだろう? 水の影響を全く受けないなどとどうして言える?」
シャルカマーリアはおもむろに、アリューテの方を向きました。
「アリューテ」
「――はい」
アリューテは不意を突かれて、それでも何とか返事をしました。
「その水に手を浸してみせよ」
「は――?」
アリューテは言いさした応答を、呆気に取られて途切れさせてしまいました。水に手を浸す? そんな危険なことを突然命じるなんて、一体どういったわけでしょう。隣に立つウルファもすっかり動揺してしまったようで、賢者たちの前だというのに、せわしなくこちらに視線を寄越してきます。しかし先程喋っていた賢者も、その他後ろの方にいる賢者も、ウルファを咎めることもなく、皆アリューテに目を向けていました。
「アリューテ」
促すようなシャルカマーリアの呼びかけに、アリューテは浅い声を出しました。
「承知しました」
ウルファが、信じられない、といった様子で身をのけぞらせました。
ですが、シャルカマーリアが望むのであれば、ためらう理由はありません。
アリューテは両手で握っていた桶の持ち手を、片手に持ち替えました。桶はずっしりと重く、腕がたわみ、中の水もぐるぐると円を描くように揺れ動きます。その波が収まるよりも先に、アリューテは水面へと、空いた片手を差し入れました。ウルファが隣で、とうとう堪えきれなくなったように呻くのが聞こえます。
水は少しひんやりしているようでした。手にはただ、ゆらゆらと水の動きが伝わってきます。
アリューテは、手を水から引き上げました。軽く握り、開きます。駄目になっているはずのアリューテの手は、水に浸す前と同じように、思うがままに自在に動きました。
「なんと、これは」
件の賢者が驚嘆の声を上げて、落ち着かない様子で翼を揺らしました。
「いや、だが、水を被ってすぐの間は、動けるものも珍しくない。しばらく様子を見なくては」
シャルカマーリアがアリューテに命じます。
「そのまま手を動かしているように」
「はい」
それきり賢者たちは黙り込み、聞こえるのは、アリューテの濡れた手が握ったり開いたりする、あるかないかの微かな音だけになりました。
痛いほどの沈黙がしばらく続いて、それでもなお手の動きが止まらないのを認めたシャルカマーリアが、とうとう口を開きます。
「もうよい。オーシュ、布を」
その声を聞くなり、部屋の隅の方にいた侍女が飛んできました。彼女は恐る恐るといった足取りでアリューテに寄ってくると、数歩分離れた場所にそっと布切れを置いていきます。これで手を拭けということでしょう。アリューテはその侍女が距離を取ってから、桶を床に置いて、布を拾いに行きました。
「いやはや……」
例の賢者がかぶりを振りました。
「なるほど、君が興奮するわけだ。このようなことが、まさか現実に叶うとは」
「ご理解いただけたようで何よりです」
シャルカマーリアが深々と頭を下げました。アリューテは手についた水滴を丁寧に拭い取りながら、たった今自分の身の上に起こった不可解なことよりも、その姿への違和感の方が、ずっと気に障るのでした。
一方例の賢者は、まだ小さく翼を揺らし、時折足を踏みかえて、そわそわとしています。彼はその状態のまま、何気ない調子で訊きました。
「他の水運びも寿命が延びたという話だったが、このような芸当ができる者は他にいないのか?」
「先ほども申し上げましたが、アリューテと同じような身体を確実に再現するには、まだ時間が必要かと」
「しかし彼女に関する記録は残っているのだろう? 一度できたことが再びできない道理はない。ここにいる水運びは皆、彼女の後に生まれたということだったが」
「それは――はい。中でも、労働で成績のいい者を集めております。ただ、アリューテの際と同じ条件を用い始めたのは、彼女が仕事を始めて千日を過ぎて以降で――」
「つまり、彼女以外はそう長く働いていないと、そういうことだ。だとすれば、潜在的に彼女と同程度の耐性を持っている可能性もあるのではないか?」
「確かに、通常の作業で起こる以上の水への暴露は行っておりませんし、この中から千日を超えて働ける者が出てくる可能性もありますが……」
シャルカマーリアはそこで言葉を切り、ふとその顔をアリューテの横のウルファに向けました。
「折角の機会です。やらせてみせましょうか」
ウルファが固まりました。アリューテもびっくりして、言葉もなくシャルカマーリアを見上げます。
「あの、しっ、失礼ですが」
ウルファがひっくり返ったような声を上げました。
「私はアリューテさんのような特別な水運びではありません! そんなことをしたら、手が使えなくなってしまいます」
シャルカマーリアは小首を傾げました。
「それを実際に試すのだ。何の問題がある?」
「ですから、つまり――手が使えなくなれば、仕事でお役に立てなくなります」
ウルファは必死でそれらしい理由をひねり出したようですが、シャルカマーリアは落ち着き払って言いました。
「構わない。やってみよ」
アリューテは、何も言い返せずに固まっているウルファをかばうように、一歩進み出ました。
「畏れながら、シャルカマーリア様。どうかお見逃し下さい」
シャルカマーリアは毅然と立つアリューテを見下ろして、不思議そうに返しました。
「見逃すとは、何だ」
「ウルファは労働でもってシャルカマーリア様に奉仕することを望んでおります。どうか彼女の望みをお認め下さいませんか」
「アリューテさん」
ウルファのまごついた声が後ろから聞こえます。しかし、シャルカマーリアも、当のアリューテも、それに気を向けることはありませんでした。
「私の命に従うことが、そなたたちの望みだろう。水を運ぶことは私の命の一つに過ぎない」
「私たちのほとんどはそうです。ですが彼女は、ウルファは違うのです」
「ほう?」
シャルカマーリアの声色は、怒っているふうでもなく、純粋に興味があるらしく聞こえました。
「それが良いことか悪いことか、私には判断がつきません。ですが、ウルファは普通と少し違っていて――きっと賢いのだと思います。ですから――」
「シャルカマーリア、一体何だというのだ?」
例の賢者が堪えきれなくなったように口を開いて、アリューテを遮りました。
「君の流儀だとでもいうのか? 意味があるというなら否定はしないが、残念ながら私も暇ではない。せめて問答の結論を早めに出してくれないか」
「申し訳ありません」
シャルカマーリアはすぐに賢者に頭を垂れ、アリューテに淡々と告げました。
「個人的な興味はあるが、それは私の務めから外れたものだ。その者について聞くのは、体の造りを確かめてからでもいいだろう」
「そんな……どうかお考え直し下さい。ひとたび体が動かなくなれば、もう手遅れなのです」
「おまえと同じ体でない者は、いずれ不要になる。早いか遅いかの違いだ。むしろこの方が、世代交代が早くてよいかもしれぬ」
「シャルカマーリア様、どうか……」
少しの沈黙の後、シャルカマーリアは大儀そうに返しました。
「そうまで言うならウルファはやめてもよい。セリィだったか、代わりに試してみよ」
ウルファのさらに隣にいた水運びに、白羽の矢が立ちました。アリューテは思わずほっと安堵しましたが、今度はウルファの方が飛び上がって、激しく抗議します。
「セリィは関係ないじゃありませんか!」
「無理におまえでなくてもよいのだ。水運びの性能をお見せしたいだけなのだから」
ウルファはしばらく言葉に詰まっていましたが、その後、絞り出すように言いました。
「分かりました。私がやります」
「ウルファ」
アリューテは思わず声を上げましたが、ウルファは先ほどアリューテがしたのと同じように、両手で持っていた桶を片手に持ち替え、手を入れやすい高さに持ち上げました。しかし水面に迫った彼女の手は、なかなか踏ん切りがつかないように、その場で止まってしまいました。
「どうした。やるのではなかったのか」
シャルカマーリアの言葉に、ウルファの指先がとうとう沈められようとしたその瞬間、アリューテは叫びながら腕を伸ばしていました。
「だめ、ウルファ!」
アリューテは両手でウルファの持つ桶を引ったくりました。ですが、片手と両手とでは思った以上に力の差があったようで、弾かれたようにウルファの手から飛び出した拍子、桶は大きく斜めに傾き、と同時に、中の水がアリューテに降りかかってきました。アリューテはびしょ濡れになりながら、桶を抱え込む勢いのままに尻もちをつきます。
「ウルファ――」
アリューテはすぐさま上を見上げ、ウルファにはどうやらほとんど水がかからなかったらしいと気付いて、胸をなでおろしました。
しかし肝心のウルファは、あらぬ方向を見たまま固まっているようです。その視線の先を辿ったアリューテは、そこにシャルカマーリアがいて、身をかばうように片翼を掲げているのを目にしました。そして、白く輝くその羽根からは、ぽたぽたと水が滴っているのでした。
アリューテは途端に、頭が真っ白になってしまいました。
「あ……ああ、シャルカマーリア様」
シャルカマーリアは静かにアリューテを見下ろしていましたが、重たげに翼を下ろし、後ろを振り向きました。
「ワシュエランカ様、ご無事ですか」
「いや、ああ……私は何ともないが、しかし、君……」
シャルカマーリアは、後ずさりしている賢者のごにょごにょとした言葉を待たず、またアリューテの方を向きました。
「アリューテ。説明を聞こう」
「わ、私は、そんなつもりでは」
「では、どういうつもりだったと?」
「私は、ただ――手が、滑って」
「ほう」
シャルカマーリアの声からは、いかなる感情も読み取れませんでした。アリューテはまだ手元もおぼつかない中、床に擦り付けるほどに頭を下げました。
「申しわけございません……申し訳ございません」
「私が聞きたいのは謝罪ではない。おまえが何故――」
そのときでした。
どこか遠くで、どおんと大きな音がして、床が微かに揺れました。
「ああ」
ウルファが感嘆の、しかし妙に冷静な声を上げました。その間にも、同じ音がいくつも続いています。どおん、どおん、ど、ど、ど――だんだん大きくなっているようだとアリューテが気付いたとき、ウルファが呟きました。
「ったく、遅いんだよ」
耳をつんざく轟音と共に、部屋の壁が吹き飛びました。砂煙に視界が曇る中、何か大きな、黒いものの群れが、壁の穴から次々入ってくるのが微かに見えます。
「おい、こっちだ! とりあえず、何か布、あるだろ、できるだけでかいやつ!」
アリューテは何が何だか分からないながらも、その声に呆然と呼びかけました。
「ウルファ……? ウルファ、どうしたの?」
「ちょっと待て」
声と同時に頭から大きな布が被せられ、その上からもみくちゃにされました。
「待て、って……一体何が」
「いいから。――こいつを頼む。ああいや、ちょっと水を被っちまって……いや、大丈夫なんだ。後で説明する。そう、そいつら全員だ! 有翼を相手にするな、とっととずらかるぞ!」
アリューテは、布にくるまれて前が見えないまま、突然誰かに抱え上げられて、悲鳴を上げました。何とかもがいて片手を引っ張り出し、顔を覆っていた布をどけた直後、目の前に広がる光景に、アリューテは言葉を失いました。
どうやら破られたのは城の外壁側で、アリューテを抱えている誰かは、その穴の縁の辺りに立っているようでした。ですからアリューテは、城の外の景色を目にしたことになるのですが、未だかつて途切れたことのないはずの霧がすっかり引いて、眼前には遥か遠く、びっしりと地上を覆う無数の建物と、蓋をするような灰色の重たい空とが、どこまでも広がっているのでした。
初めて目にする城外の姿に、一瞬我を忘れたアリューテの視界を、何か大きな黒い影が、いくつも並んで横切りました。その大きな黒い影――首としっぽがひょろりと細長い体から、骨ばった薄っぺらい翼が左右に伸びている、得体の知れない生き物は、ぐるりと眼下で旋回し、城の外壁沿いにこちらへすうっと飛んできます。
その生き物の一体が、アリューテのすぐ下にやってくる、と思った刹那でした。アリューテを抱えている誰かが、突然穴から飛び降りたのです。
また悲鳴を上げたアリューテの体に衝撃が走って、気が付いたらアリューテは、不規則に傾くその生き物の背中にいました。景色がものすごい速さで傾いては流れていきます。ふと視線を下に下ろしたアリューテは、眼下に見える建物の屋上から、遥か高い場所にいることに気付いて、たまらなく恐ろしくなってしまいました。
「ああ、ああ……」
言葉にならない声を繰り返すアリューテは、そのうちに布に包まれた格好のまま、その生き物の背中に下ろされました。アリューテはすぐさま、生き物の背中に両手をついて張り付くと、恐る恐る、自分を捕まえていた人を見上げました。ぐるぐると傾ぐ空を背景に立っているのは、黒い、細長い、今アリューテが乗っている生き物が小さくなったような、辛うじて二本足で立っているといった風情の人でした。その人が――人と呼んでよいのか怪しいと、アリューテは思ったのですが――こちらに向けている、やはり黒くのっぺりとした顔には、大小のいびつな目が三つ、不規則に並んでいます。
「早く体を拭ききってくれないか、落ち着かない」
その人は低い、かすれたような声で言いました。アリューテはそれでようやく、自分が先ほど水を被ったのを思い出しましたが、このようにぐわんぐわんと傾く心もとない足場では、背中に縋りつく両手を離して別のことをする気には到底なりませんでした。
「あの、あの」
色々なことを訊ねなければと思うのですが、まだアリューテは混乱していて、何からきけばいいのかも決めきれません。アリューテがおろおろしている間に、その人は顔を別の方に向けてしまいました。つられてその人の向いている方を見やったアリューテは、そそり立つ城の外壁がぐんぐんと迫ってくるのを目にして、三度、悲鳴を上げました。
水運びや風送りを――おそらくは先ほどのアリューテと同じように――抱えた黒い影が、次々と生き物の背中に飛び降りてきます。
「よっ、と」
最後にアリューテの側に飛び降りてきたのは、他でもないウルファでした。
「すぐに離脱だ、拠点まで一気に戻る!」
アリューテたちを乗せた黒い生き物は、ぐるんと方向を変え、急激に速度を上げました。ウルファが片手を突き上げて、大声で叫んでいます。
「はっはあ! ざまぁみろ、バカ鳥どもめ! いい気味だ!」
思わず振り返ったアリューテは、初めて城の全貌を認め、そしてそれがどんどんと遠ざかっていくのを見て、しばらくの間、何も言えずにいました。薄い霧に所々隠された城は、地面にまっすぐ突き立った、四角い柱のようでした。その上空にはまだ、いくつかの黒い影が、円を描いて飛んでいました。
ほどなくして、城の姿は地平線に刺さった棒のように小さくなり、かすんで消えてしまいました。アリューテは、一度深々とうなだれてから、すっくと立っているウルファのそばに、這うように寄って行きました。
「ウルファ、ああ、ウルファ……一体なんてことなの……?」
ウルファは無造作に振り向くと、自信と余裕に満ち溢れた声で言いました。
「いやあ、あんた、大したもんだな。随分と弱気な奴だと思ってたら、やりやがった」
何と返せばいいやら分からないアリューテを、ウルファは気にすることもなく続けます。
「こっちのメンツじゃ、そもそも有翼どもを倒すことなんざ期待できなかったのに、味方になりそうもなかった奴隷が十四に水をぶっかけるとは、予想外の幸運だ」
アリューテはとうとう、震える声でききました。
「あなたは、誰なの?」
ウルファはきょとんとしたようにアリューテの目を見返して、それからばつが悪そうに首元を押さえました。
「ああ、そうか。その辺の説明をしてなかったな」
そう呟いた直後、ウルファは突然身をすくませ、自分の肩を両腕で抱いてから、わっとばかりにアリューテに飛びついてきました。
「ああ、アリューテさん、アリューテさん! やっと、やっと動けた……!」
「ウルファ?」
アリューテはもみくちゃにされながら、なおのこと混乱していました。
「どういうこと? 何が起きているの?」
ウルファは泣きそうな声で訴えました。
「操られていたんです。私、ずっと、操られていたんです。何とか皆さんに危険を伝えなくてはと思っていたのに、体がいうことをきかなくて、てんで勝手に動いていたんです。ああ、自分で自分の体を動かせるなんて、いつぶりかしら」
アリューテは戸惑いながらもたずねました。
「さっきのウルファは、ウルファでなかったということ?」
「さっきだけじゃありません。ずっと、最初にアリューテさんに話しかけたときからずっとです」
絶句するアリューテの背後から、低くかすれた、しかし先ほど聞いたのとは少し違う声がしました。
「あんたには悪いことをした。けど、これ以外の手はなかったんだ。分かってくれ」
振り返ると、アリューテを抱えてきたのと同じような、真っ黒な人がそこに立っています。ひょろりとした、そのくせ妙にごつごつと硬そうな体は、アリューテたちと同じぐらい小柄でした。顔には大きな目が一つだけついていて、頭の両側から小さな角が生えています。
「俺はダウフィエ。『黒き竜の飛翔』社の対外戦略部特殊作戦課所属、今回の救出作戦のリーダーの一人ってことになってる」
「黒き、竜……対外……何ですって?」
アリューテが聞き返すと、その人――ダウフィエは面倒そうに答えました。
「あんたらのあの生活環境じゃ、その辺の知識がなくても当然だ。他所の企業のそこそこ偉いやつだと思ってくれ」
ダウフィエはどうやら、これでかみ砕いた説明をしたつもりらしいのです。アリューテはなおもききました。
「ですから、そのくにというのは何なんです」
「はあ?……いや、そうだよな。くそっ、今でも信じられねえ。揺籠の人権意識はどうなってんだ」
「わけの分からない独り言はよして、早く説明してくれませんか」
アリューテが重ねて問うと、ようやくダウフィエは答えてくれました。
「企業ってのは人間の集まりだ。お前らがさっきまでいた霧の城も、『灰空に翳す揺籠』って企業が持ってる研究施設で、お前らは知らなかったんだろうが、城の外にも別の部署の奴らが山ほどいる。そいつらがお互い色々な仕事を分担して、集団を維持してるんだ。で、この世界には他にも似たような企業が三つあって、そのうちの一つが俺の所属する『竜社』ってわけ」