前門の短槍
夜の帳が落ちた。叢雲に遮られ月光はヒグレの裏路地に届かず、大通りから背を向けるようにうずくまる少年は周囲の石と木の建築に溶け込む。出血を止め、人目の付かないこの場所で休息を取っているが、宿での戦闘から一時間と経っていないにも関わらず、移動経路を追ってきたと思しき軍人が先刻、乗り捨てられた馬を見つける声をキリンの鋭い聴覚は捉えていた。至急移動しなければ。しかし血を失い過ぎた。もとは薄桜の肌が色を失っている。その足に、力が入らない。
やがて鈍い爆音が聞こえた。その音源は、猫がのどを鳴らすような音を生み続けながら、ゆっくりと近づいて来ているようだ。爆音がむやみに響き、夜の厚い空気の層へと広がる。キリンの蒼白の手が腰の杖を掴んでいる。戦闘を予感し、奥歯を噛んで立ち上がった。音が大きい、音源はすぐそこ。
音の正体が姿を現した時、それが何かキリンにはすぐに理解できなかった。強い光に視界を塗りつぶされ、虹彩が縮み光量を調整するまで目を覆っていた。
音源の主だろうか、まだ目の見えない少年に誰何する者がいた。
「君がキリンか」爆音に負けぬ力強く低い声、その声に聞き覚えがある。父の亡骸を検死していた忍軍黒服のうち一方、大男の声だ。
言葉を返さずに、順応した目でようやく直視して、キリンは驚いた。これも遺産なのか?
最初に連想したのは馬車である、車輪がついていたから。しかし馬車と比べれば圧倒的に小さい。大男が横に立ち押して歩けるほどの大きさで、そして荷台も幌もなく、何故か鞍のようなものが備え付けられている上に、車輪も前に二輪と後ろに一輪。黒い車体が夜に馴染み、前方に獣角のような金属体が付いている。そのさらに前、球の発光体が前面にあり、光源となってキリンを照らしつける。車体の脈動と同調して爆音が唸る。音源の正体はこれか。
「それは、なんですか」キリンの口から思わずこぼれた。忍軍と話すことはないと口を閉じていたのだが。返答を期待しての言葉ではなかったが意外にも、黒服の大男は自己紹介と共に説明を寄こした。
「まず自分の名はジン、君と戦ったメイシュ、その直属の部下だ。そしてこいつは」
ジンと名乗った男が手元で何やら操作すると、唸り続けていたそれが、さらに一際大きく吠えた。
「遺産……旧人類の遺した機器。軍では"三輪自動車"として登録されてるが、リバース・トライクとも呼ばれていた」そう言って、そのトライクから手を離して二、三歩だけ少年に近づいた。トライクは揺るがず、大気を振動させながら自立している。手の甲の出っ張り、中手指節関節が厚く覆われた籠手を着けた手でキリンを指さし語りかける。
「投降して傷を処置し、事情を我々に話せ。忍軍は倫理的待遇を約束する」
同僚の敵手を相手取れば自然湧き上がるだろう感情をジンの言葉は持たず、キリンは意表を突かれた。セキリンの死の罪過を相互に疑う関係である、忍軍とはまみえればすぐその時の戦いを避けられないと覚悟していた。しかし目前の男は自分を説き伏せようとしている。
「ぼくは……」ほだされた訳ではなかったが、会話を試みるほどには心が傾いた。「わたしじゃない。父を殺したのは、忍軍です」
「なんだと?いやそれはありえない……彼はきみの父親だったのか?」トライクが空気を振動させ続けている。お互いの声量が徐々に、大きくなっていく。
「父です。最後に話したときに『忍軍に会う』とわたしに言いました、そのあと宿に戻ると忍軍がいた」
「忍軍に……?」指を鼻口に当てて考えるそぶりで、つかの間、黙り込む。しかしすぐに眼差しを鋭くして声をさらに張り上げた。「しかし容疑者は一人、きみ以外にいない、言いたいことがあるなら投降した後だ、殺人を否定するなら大人しく捕まって捜査に協力するんだ」
「それは……」父を殺した忍軍に従うことは問題外、すぐに断った。「それはできません」
「それじゃあ一戦、交えるとしよう」
その言葉の直後キリンが身を捻じって、地に伏すほどに飛びかからんとする獣のように低く構えた。
びぃん!ジンの近くの壁に矢が音を立てて突き刺さった。衝撃によって微動している。
「もう一人は、来ていないのかなと思っていました」
大地に掴まるような姿勢で独り言とも思える言葉を漏らす。
「後ろにいますよね」
ジンが黒髪をかき上げ、キリンの後方を見遣り、頷く。その空間、その虚空から、弩を持つ白髪の女が突然現れた。ヴヴン、という音が、トライクの駆動音に紛れた。
「ばれるんだ、これで」語頭と語尾が掠れるようで淡い、女性にしては低い声。左手に持つ弩の弦に、もはや矢はつがえられていない。
「で、避けちゃうんだ」彼女が弩をベルトの背中側に納めて、ベルトに同じく下げられた鞘から軍刀を抜刀する。キリンは振り返らない。
「どうしよっか」
「挟み撃ちの形に移ろう」あるじに並ぶようにトライクが前進し、側面に備え付けられた長方形の箱がカチリと開いて、そこから柄の穴に紐が通された短槍をジンが取り出す。片手でくるりと一回転、短槍を振ってだらりと構えた。
「前門の短槍後門の軍刀、……前門の三輪自動車と後門の透明人間の方がいいかな」
「集中しろ、始めるぞ」