黒服の男
生姜の格別な風味を口腔に感じながら新鮮な記憶を頼って歩き、宿屋近くまで戻る。キリンが周囲の人々の様子や雰囲気に違和感を持ったのは、宿入口まで至った辺りだった。彼らの表情や会話を窺うキリンは、宿を仰ぎ見る人々が夕陽で顔色を一色に染めて興奮と混乱の中にあることに対して、次第に説明の付かない不安を感じ始めた。
宿に入れないと分かったのは受付を覗いたとき、黒ずくめの男が宿泊客を食堂で待つように伝えているのを目にしたときだ。
その男は黒スーツにその長身を包み正体不明の金属製道具を大腿の革ベルトに差していて、従業員や客とは纏う空気を異にして上階への階段に陣取り、何事かと騒ぐ人々を制止して二階へと通さない。
キリンは強盗でも出たのだろうかと考えた。こうなると父と荷物が心配で、自室の窓を見上げた。開いている。
人目は気にせず、腰から抜いた杖に上着を結び付けて直立させた杖の上端に手をついてから跳躍した。微動だにしない杖の上で軽やかに舞い片足を乗せた。宿入口上の棚に手をかけて体を引き上げ、上着を引いて杖を回収し、窓から部屋の様子を確認して目を見開いた。
まず目に入ったのは壁にもたれかかっているセキリンだった。目を閉じている。このときキリンは、強盗に襲われた父が気絶しているのだと思った。争いになって強盗を追い払ったが気を失ってしまい、一階の男は誰かの通報を受けた衛兵のような人間なのだろうと。
次に認識したのは、二人、父のそばに膝をついて言葉を交わしている黒スーツたち。服装からあの男の仲間だと感じた。
「誰に?」「証言は無い」キリンは二人の会話に耳をそばだてた。事情を探ってこの後どう行動すべきか見定めるつもりだった。
「時間は経ってないみたい」「物音を聞いた従業員が通報したらしい」黒服の一方は、セキリンの顎に手を当てて様子を確認している。もう一方はその後ろで腕を組んでいた。どちらも窓に背を向ける位置関係にありキリンには気づいていなかった。
おおまかな状況を把握したキリンは一階階段の男に被害者の息子だと事情を伝えて正面から部屋に入るのが理が通っているだろうと、棚から下りるために窓から身を離したその時だった。
腕組みをしている男のつぶやきが、キリンの耳に、這うように伝わってきた。
「即死だ」
キリンの顔が蒼白に染まり、身を翻して一息に窓から部屋に入って近づいた。二人が振り返る。言葉で止められたが、視界に入っていないように足を速めた。心臓が早鐘のように響いていた。
一人に右腕を掴まれる。左腕が神速で杖を抜き放ち、どさりと倒れた。もう一人が立ち上がってキリンとの間合いを測る。キリンはその背後の父親を見ている。
黒服が側頭への蹴りを繰り出した瞬間に少年の身体は宙にあった。伸びた右脚をかかとで蹴り下げてさらに跳躍、顔を間合いに捉える。杖が黒服の顎に当たってその身体が床に打ちつけられた。
セキリンに歩み寄る。胸の四つの傷から血が流れ出た跡があった。窓からは見えなかった血痕が、床に放射状の模様を作っていた。傷は小さく丸い。
父の体に耳を当てた。心臓は止まっていた。
上衣を掴んだ手が震え嗚咽が漏れる。うそだ、と呟いて立ち尽くした。
「今の音はなんだ」階段を封鎖していた男が物音を聞いて、扉を開けた。男の視界に映ったのは、倒れている二人の同僚、その真ん中に立っている少年と、その腰にぶら下がる柄の後部が輪の形の短剣と、そして床に飛び散った血痕だった。
男が大腿のベルトから武器を抜く。