町を離れた
鞍の上に舞い戻り、屈んで立ったまま、少し上にある父さんの顔を見上げた。面倒を見てもらった人への感謝に二の足を踏んだぼくは道理がとおっていなかった、それは分かるんだけど、だからといって馬から突き落とすのはそれはもうかんしゃくだよ、という複雑な表情の視線を受けて父さんが口を開く。
「みずから飛び降りるやつはおらん」
............何の話?
「だがお前ならうまくやれる。行ってこい」
ああ、......馬から飛び降りる事とお別れする事を関係させて激励してくれたのかな。
だけどためらう理由がそれぞれ違うような気がする。やる意味がないのと、大げさなのがやりにくいのは、やっぱり違う。
「当たって砕けろ」
うまくいかないこと前提じゃないか、さっきと言ってることが違う。父さんは右手で口を隠して、その視線はぼくの上方をさまよっている。
なんだか、やりにくそうだな。
もしかしたら、ぼくの友だちとのつきあいに意見を挟むことに慣れていないからかもしれない。振り返ってみれば、そこに立っている彼女のことは口の端にのぼったことは無く、ぼくには他に仲の良い人はいなかった。
王国ヨカミの南端にこじんまりと横たわる山深き町メイアン、そのさらに郊外に隠れた小屋に住んでいれば、子どもたちの関係性にはじかれるのは仕方がなかった。それに、護衛の技術を身につけるために森のけもの達と競っていたから、その時間も無かった。唯一の例外が、待たされ続けて金眼を白けさせている彼女の一族だけだった。
父さんでも慣れてないことは完ぺきにはできない、とっぴなことをしてしまうんだから、ためらってないできちんとお別れを言いに行こう。そう、これ以上待たせるのはやめよう。
強引に結論とやる気を出して、ぼくはかがんだ姿勢からようやく下馬した。
「よし」父さんがこころもち優しい声音で声をかけてくれた。
「当たって砕けてきます」と伝えて、腰帯に差した二尺ほどのえんじの杖を整え、向き直り一歩を踏み出す。
ついに目を閉じた彼女の様子を見て足が止まりそうになったけど、意を決し、小走りに駆け出した。
「ルー」
やっとだ。名を呼ばれた少女、ルーシャは閉じ合わせた薄墨の睫毛を震わせて、重そうにまぶたを持ち上げて射るような金の視線を駆け寄ってきた少年に向けた。線の細いおとがいを彼に向けて、先の言葉を促す。キリンは両手を自分の背に回して落ち着かない様子である。
「たいへん、お待たせしました」「うん、ほんとうに」
無感情な声の響きにキリンが唇を痙攣しているように動かす。何か声に出ない言葉があったのだろう。
「高く昇った陽が暮れるまで待つのかと思ったし、わたしを無視して出発する気なのかとも思った」
「うん......」
「そんなことを思考するのが虚しく感じる程の時間があった」
「そうだね......ごめん......」
「いいよ。それで?」
二、三の攻撃で満足したルーシャがすぐに話を進めた。
生来頓着しない性格なのである。とはいえ今回の件については覚悟していたキリンは安堵して、辞去の言葉を、胸の前で指を組んだルーシャに伝える。
「いままでとってもお世話になりました。王都での護衛に堪えられるようになれたのはルーシャのおかげです。暇が貰えたら必ず戻ってきます」
頬を赤らめ、ところどころ言葉に詰まりながらも唱えられたキリンの心からの言葉。聞く方も面映ゆい心地で、微風に揺れてざわめく木々などに目線を逸らしている。なんとか締めくくった少年に向き直らないまま、ルーシャも話し始めた。
「また会えるよね」
「はい、落ち付き次第」
「それじゃ、これ以上喋ってもね」
「そうかもしれません」
少女が視線を戻した。「さようなら」
この時少年には、辺りの深緑に際立つ彼女の顔が、今にも壊れそうなほど、不安になるほどに美しく見えていた。その理由は分からなかった。
手を握り合って別れを告げて、キリンは青毛の馬と父のもとへ戻っていった。鞍に飛び乗りルーシャへ向き直ると手を小さく振った。
少女が同じように応えたちょうどその時に、大柄な男が藪をかき分けて彼らに近づいてきた。金の瞳をくるりと回しているその壮年の男にキリンが、おじさん、と呼びかけた。ルーシャの父である。
「やあ!間もなく出発というところじゃないか?間に合ってよかったよ、なあセキリン」
「そうだな。それじゃ、オーミチ」
セキリンと名で呼びかけられたキリンの父は、同じく名で呼び返して掌中の手綱を確かめた。
「待て、俺が何のために仕事を放って駆け付けたと思ってる!いやお前の出発を見送ろうってわけじゃなくキリンくんの新たな門出を祝おうってことだ、誤解するなよ、お前のためではこれっぽっちもない、ははは、寂しくなるなあ、もう一度だけメイアンの春祭りに連れてってやりたいと......」
よく喋る男だった。
セキリンが鼻を小さく鳴らして、息子ののつむじ辺りを、こつ、と指で叩いた。
「そうか。なら祝ってくれ」
オーミチが馬の首に手を乗せて、キリンの目を覗き込んだ。金の虹彩に黒の瞳孔が映える瞳は親子に共有の特徴で、キリンは、オーミチの動的なそれもルーシャの静かなそれも好きだった。
「君は王都に行き、さまざまな門がそこで待っている」
オーミチが静かに語りだしたのでキリンは驚いた。こんな調子の声、初めて聞いたな。
「くぐる度、前に進む、門とはそういうものだね?」
キリンは頷いた。ルーシャも近づいてくるのが聞こえる。
「つらくてもくじけてはいけないよ。どうしても通れないときは他の道を行きなさい」
少女が視界の端に現れた。オーミチが祝詞を締める。
「けもの道でもあい路でも、その先に門があるならば」
父と馬に乗って、ルーシャの瞳を見て、オーミチの言葉を聞いて。キリンは思い出していた。
ルーシャの金眼を観察したくて彼女にせがんでいたら少女の逆鱗に触れてしまって、こてんぱんにやられた傷を、オーミチに女性の扱い方を教えられながら処置してもらって、ルーシャと仲直りしたあと、帰路の馬上で父さんが昔しくじった話をしてくれたことを思い出していた。
メイアンの春祭りの大詰めに赤い花火が打ち上がるのを見に行ったときに、オーミチが花火の色について難しい話をしていてよくわからなくて、咲いた赤に染められたルーシャの頬と瞳が目に焼き付いて、その情景を父さんに何度も説明したことを思い出していた。
ぼくはこの思い出をおいていくのだろうか。
別れを終えて、出発を待ちかねた馬が調子よく歩き出す。数十歩を進んだころ、それまで俯いていたキリンが、父の体越しに振り向いた。オーミチが手を振っていた。ルーシャは体の前で手を組んでいた。その距離からも、二人の金眼がキリンにはよく見えた。
少年の瞳から静かに涙が落ちた。
声もなかったが、馬の歩みが緩やかになった。
彼が泣いていることにオーミチも気づいて、声を掛けようと大きく息を吸った。
「また会えるから!」
キリンは涙を溢れさせながら声の主を見つめた。
ルーシャは咄嗟に大声を出したために咳をしている。オーミチが背をさすろうとするのを感情のままに振り払い、声を枯らして叫んだ。
「忘れないで!」
小高い丘に遮られ金のきらめきは見えなくなった。セキリンの手綱を握った右手は息子の胸の前に回されている。
目から流れる涙は未だ枯れず、しかしキリンは前を向いた。王都へ向かうための峻険なサイガイ山脈に通る道、進むべき方向を見ていた。その口角は上に向いている。
「忘れ物はないか?」セキリンが静かに言った。
キリンは頷いた。手を胸に置く。父の腕に触れた。
大切なものは、みんな持っている。
親子を見送ったルーシャは泣いていた。彼らが丘に消えた方を未だ眺める父にか細く尋ねた。
「父さま」
「何だい」オーミチの声が、森の奥に消える。しばらくして少女が続けた。
「ひとつだけ、それだけ、聞きたいことがあります」
オーミチは何も言わないまま、体の前に手を組んだ。目を伏せたその表情から感情は窺えず、唇は一文字に結ばれていた。
「お前は今まで、よくやっていた。なれば許そう」その声音は優しかったが、どこか硬質だった。
喉を鳴らして喘ぎながらルーシャが言った。
「また会えるでしょうか」
「七代目のことだね」
オーミチはキリンを称号で呼称していた。唇を噛み、暗く俯いたルーシャが、はい、と涙声で肯定すると、一族の長たる彼は変わらぬ声調で返し、娘は嗚咽を漏らした。
「彼が生き延びれば会える。必ず」
山道を行く馬上でセキリンが左肩を回した。
右腕の中で眠るキリンの、その泣き腫らした目元を見て柔らかく笑い、姿勢を変えて右腕を自由にして左上腕をひねった。かちりと絡繰が回り、左の腕が、肩から完全に取り外される。その腕を鐙に引掛けて離すと、がしゃりと義腕が揺れた。
この日麒麟は、隻腕の父と十二年暮らした町を離れた。