小屋の前で
薄桜の肌の少年が、小屋の前に停止した青毛の馬にまたがって、その扉を見つめていた。
年は幼学ほどに見える、気のままに伸びた黒髪をうなじにまとめたその彼が耳をぴくりと動かしたのと同時に、男が扉を開けて小屋から出てきた。黒髪を同じように結わえた壮年の男で、つやのある革袋を背負っている。馬上の少年に帯剣していた湾刀を投げ、ひととびして鞍の後方に飛び乗った。
男のぞんざいなふるまいが、しかし音を伴わなかったことを奇妙に思ってか、それまで俯いて草を食んでいた馬が顔を上げ首を横に振った。真後ろに飛んできた男に少年は麻の手綱と湾刀を渡した。
「キリン」男が初めて発した音に、少年が、キリンが答えた。
「父さん、忘れものはありませんでしたか」
「街に下りたらセキリンと言うように」父と呼ばれた男は小さく続けた。「別れは済んだのか」
キリンは少し眉根を寄せて、離れたところで腕を組むすこし年長の少女に、その鈍色の瞳を向けた。
幼少の頃から生活の世話になった一族のひとり娘で、よく遊び気の知れた相手である。しかしながらそのためにしかつめらしい挨拶なんて気恥ずかしくて、出発するまさに今までこの話題に触れもしなかった。
大体、『別れ』なんて大げさじゃないか。彼女の爛々としたちょっと怖い金眼がまっすぐにこちらを捉えていることを視覚でも認識して、キリンは言い訳がましく心中に呟いた。
「仕事が一区切り落ち着くまでは身動きできないし、その目途はついておらん」
父が遠回しに催促してくるのを聞いて、少年がするりと体勢を変えて少女のほうを向いた、......が、下馬を躊躇って鞍に掌をつき、嫌がった馬がぶるぶるぶると首を振った。変わらず浴びせられる少女の視線に怖じ気づいたのである。
「行ってこい」父親の言葉が直裁になってきた。それでもキリンは動かない。
「......」父が直接の行動に出た。
鞍に腰掛けるキリンの背を平手でいきなり突き飛ばしたのである。
少年はその背丈ほどの高さから、地面と水平の体勢で落下していく。その手を乗馬していた姿勢そのまま、身体の後方に伸ばしていた。何かを掴まんとするように。
父は手綱を片手で持ち、ただ泰然としていた。手を差し出すそぶりもない。
金眼の少女は、目をぱちりと瞬かせた。しかし動揺の色はその眼になかった。
その場の誰一人として少年の身を案じていなかった―――キリン自身も含めて。
落下が始まった直後キリンは後ろ手に手綱を掴み腕を横に広げた。麻がピンと張った。張力と腕の力でキリンは後方への速度を得、馬のあばらを支点に半回転、馬体をくぐり、手足を曲げず上方向の推力を感じるやいなや手綱から手を離した。
キリンの体が宙に投げ出されて、一瞬前に自身が腰掛けていた鞍前方から遠ざかっていく。伸びた体が一本の矢のようであった。その一端、指先が馬の肩にふれる。
その一点を中心に円運動が始まった。くるりと回ったキリンは、長い旅を経た体を元の場所に落ち着かせた。
先の一幕、その最後に、馬から離れる方向の速度を反転させるためにキリンが用いた技術を少女は解さない。しかし一同には共通の理解があった。それが表情を変えなかった理由であった。
親子は護衛を職業とする傭兵だった。