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幾たびも食べる

作者: 雨野石野

Aは、何度目かのあの子が焼けあがるのを待っていた。

いくつかのハーブと調味料を混ぜ込み、一晩冷蔵庫で寝かせたあの子をオーブンで焼いている。

仕事で疲れて帰った日に、まさかこんな手の込んだ料理を作るとは。

オーブンの前に移動させたキッチンスツールに腰をかけ、一日の労いであるビールを一口。



季節は六月。ここのところ雨が降ったり止んだりで天気予報はまるで当てにならない。

Aは帰宅するとすぐにエアコンの電源を入れるが、一日中ジメジメした空気が留まった

マンションの一室は、フローリングまでも湿度でベタついている。窓を開けても風はまるでない。


あの子が死んでから、ちょうど一年が経つ。

親しい人は家族にとって、一年は途方もなく長かっただろう。

いつもそこにいたはずの学校の机、自宅のリビングのソファ、部屋のベッド、

大事なものを全て残して、あの子は突然いなくなってしまったのだから。

Aにとっても同じで、学校の教え子だったあの子が「もうこの世にはいない」ということを

心の底から認めるには、随分と時間がかかった。


「ブォーー」とオーブンが音を上げ、焼きあがりを知らせる音が鳴る。

まだかまだかと待ち構えていたAは急いでミトンを両手にはめ、天板を引き出した。

今すぐにでも食べたいところだったが、脂を落ち着かせる必要がある。

そのまま30分ほど待ち、ようやく食事の準備に取り掛かる。

今晩あの子が寝かされるのは、白くて平たい皿。

薄く切ったあの子の上にローズマリーをパラパラと鏤めると、Aはあの子の最初の葬式を思い出した。

そして、昔なら悲しい気持ちになっていたが、今の自分にはあの子に死に悲しみの感情はないことに気づいた。




Aがあの子と初めて会ったのは、あの子が人間だった頃。

教師として勤める学校に、あの子が入学してきたことから始まる。

とはいっても、あの子は入学して一か月も経たないうちに不登校になり、

数か月経ってやっと登校してきたかと思えば保健室通い。

そのまま保健室で授業を受けることになったため、Aがあの子を学校で見かけた回数はさほど多くはない。

目を合わせて会話をした回数はほぼゼロに近いといえるだろう。

あの子が人間だった頃、Aにとってあの子はただの生徒だった。


数えきれないほど多くの生徒たちと同じ、関わらない限りはその子の人格も分からない。

大学卒業後の進路に悩み、とりあえず教員免許を取ったAは

仕事には真面目であったが、決して教育熱心とは言えない。

自分に与えられた仕事は社会人としてしっかり全うするが、必要以上に生徒たちと密に関わるつもりはなかった。

だからあの子が死んだ時にも、Aは粛々と自分のすべきことをした。




Aがあの子に再会したのは、あの子の死から半年後のことだった。

半年も経てば、教室の机に置かれた花は姿を消す。

ロッカーからも、壁に貼られた写真からも、死んでしまった人の気配はなくなる。

あの子とそれほど親しくなかった生徒たちの記憶からも、あの子がいたという事実そのものが消えていく。


新年が明け、受け持っている生徒たちの進路面談が慌ただしい時期だった。

Aは普段は車通勤だったが、その日は何故か自転車で学校に向かっていた。

自宅から学校までは自転車で20分程の道のりだったが、道半ばに急な坂道があり、

そこを毎日自転車で上るなんてことは学生でもないかぎり避けたかった。それは多くの教師が思うことだろう。

兎に角、どういう事情だったかその日は自転車で学校に向かった。

思い返すと、Aにとっては「あれが運命だった」という。

坂を斜めに横切り、道の向こう側に駆けていくあの子をAは見た。

猛スピードでガードレールを潜り、こちらを振り返ったあの子もAをじっと見つめた。

一瞬の対面ではあったが、Aにとってはその猫があの子だと確信するに足る。

目があった時、去年の春のあの子の姿が頭の中で再生されたのだという。

すぐに自転車を止め、あの子を追おうか一秒ほど考えていたところ、あの子はクルッと踵を返し元来た坂道を下っていった。



「あの時気づいてあげられなくてごめんね」


あの出来事を、Aはしばらく後悔した。

「だけど、君が僕のことを知っていたなんで思ってもみなかったんだ」

それから何度もあの子は姿かたちを変えてAの前に現れた。

あの猫を取り逃がしてからAは「これからは決してあの子を逃がさない」と心に誓い、

再会した時には、いつも「ごめんね」と謝る。

そこには謝罪の気持ちがあるわけではなく、何度も再会しつづけるあの子との関係が

自分にとっては地続きであることを、あの子に伝えるための言葉だった。




Aはとにかく、あの子を見つけたらすぐに手に入れるようにした。

一度でも逃してしまうと、あの子はまた消えてしまうだろうと思ったからだ。

出会いはいつも突然で、初めのうちは苦しみの連続。

部屋に転がっていたネジを口に含んだ時には、死んだあの子の肌もこんなにひんやりとしていたのだろうかと

心臓が絞めつけられるほど悲しい気持ちになり、涙と一緒にそれを飲み込んだ。

あの子と死と、連続するあの子の存在を、切り離して考えるまでに時間が必要だったからだ、とAは思う。

今ではあの子との再会にある種のゲームのような楽しさを抱いていて、

スーパーで目があった胡瓜があの子だと気づくと、「僕が胡瓜苦手なの知ってて、わざとそんな形に生まれ変わったんだな?」と

一人ニヤニヤ笑みを浮かべながら買い物かごに入れる。

Aの考えでは、Aの事で、あの子が知らない事は何一つなかった。

口に入れることであの子はAの体を乗っ取り、視覚や聴覚、記憶までも共有していると信じている。




ベッドで一人、Aは妄想する。

僕たちが体を持たず、記憶を持たず、自分という存在も他人という存在も区別できなかった時代から、

あの子は何度も生まれ変わって僕の前に現れたとして、僕は今までそれに気づかなかったんだろう。

万に一つの奇跡でお互い人間同士に生まれたあの瞬間、パズルのピースがしっかり合わさり、僕の目にだけあの子が見えるように。

こんなに幸せなことはない。人間同士で愛し合うよりも原始的で、真実に近い。

そんな事を考えながら、Aは自分の少し大きくなった腹をさする。数時間前に胃袋に運んだあの子が微笑んでいることを認識した。


次のあの子はどこにいるのだろう。

前のあの子と別れてから、すぐにAは次のあの子を探した。

翌日に現れることもあれば、数週間かかることもあり、あの子の出没は気まぐれそのものだった。

あの子を口にして、それが自分の体の養分になっていると実感する時、Aはひどく安心したが、

そうでない時、泣き出したいぐらい不安な気持ちに苛まれる。まるで親とはぐれた子どものように。


最近は毎日のように雨が続き、家にいても学校にいても湿っぽい空気が漂っている。

夜中、何か嫌な気配を感じて体を起こすと、びっしょり汗をかいていた。

体に感じる違和感を頭で探る前に、足に小さな虫が止まっていた事に気づく。

プーン、という羽音の行先を追ってみるも見つからず、苛立ちながら横になる。

夜鳴きでもしそうな心で、ウトウトしながらAは思う。

もうずいぶんあの子を食べていないから、僕の体は腐臭がし始めているのかもしれない。

人間には分からない臭い。虫だけが分かって、僕を食べに来ているのかも・・・。





それから数日後、ようやくAはあの子を見つけた。

学校に行くあの長い坂道のすぐ手前、住宅地に続く十字路の右隅に。

そこには簡易的な横断歩道があり、角にはオレンジ色のポールが立っていて、ポールの下には花束が置かれてある。

もう何年も前から。誰が置いているのか、いつも種類が違う花束が置かれてあり数日おきに取り換えられているようだった。

おそらく、誰かがここで不幸な目に遭って、それを悲しむ誰かがここに花を置いているのだろう。

そのスミレの花束が、今日はあの子だった。

Aは急いで車を一時停止し、あの子を拾い上げた。

まだ青いスミレのあの子は元気そうに見えたが、Aの仕事が終わるまで今のままの姿でいられるかどうかAは不安に思った。

車の助手席に寝かせたままだったら、きっと夜にはぐったりしているだろう。



「花をもらったんですけど、どうしたら長持ちしますか?」


仕方なくあの子を職員室まで連れてきたAは、自分の近くの席に座る養護教諭にそう尋ねた。

本当はあの子を他人の目に晒したくなかったが、仕方がない。

「それはね」と、クルリと椅子ごとこちらを向き、養護教諭は言う。

「バケツの中に水を入れて、そこに茎を突っ込んで、水の中で茎を切るんですよ。

茎はなるだけ斜めに切るようにして。そしたら長持ちしますよ」

Aは「ありがとうございます」と礼を言い、朝礼に間に合うように急いで準備をした。

倉庫から拝借した間に合わせの花瓶にあの子を挿し、自分のデスクに飾る。

じっくりあの子を眺めていると、嬉しいような恥ずかしいような気持ちがこみ上げて、Aは自分の口元が密かに緩むのを感じた。

だって、あの子が自分の仕事場にいるのだ。

まるで昔見た漫画か何かで、小さくなった彼女をポケットに入れて持ち歩くラブコメのような、誰にも気づかれない二人だけの遊びのよう。

Aの胃袋から口元まで、甘酸っぱいものがこみ上げてくる。


早く終われ、早く終われ・・・そう思って過ごす一日ほど、恐ろしく長く感じられる。

夜八時、Aは急いで車を走らせてあの子を家に連れ帰る。

あの子は少し草臥れているようで、首が少し下を向いていた。

僕はなんて馬鹿なんだろう、とAは自分の気の利かなさを恥じた。


「ごめんよ、君はあの学校には行きたくなかったよね。でもどうしようもなかったんだ、あんなところに君がいるから・・・」


「だけど、保健室の先生に会えたのは嬉しかったかな?・・・もうあんな事はしないと約束するよ」


水を張ったボウルに、あの子をゆっくり浸す。驚かさないように、そっと。

あの子のスベスベした皮膚は、今も昔も変わっておらず、ずっと触っていたいとAは思った。




入学初日、教室の中。

綺麗に磨かれた机に向かう新入生たちが、みんな揃ってAを見ている。

そっぽを向いていたのは、唯一あの子だけだった。

あの時の頬のかたちを、触るまでもなく分かる質感を、Aは今でも鮮明に覚えている。

まるで眼球が双眼鏡になったかのように、太陽光にあたる産毛が風にそよぐ。

ぶわっとカーテンが舞い、あの子と目が合う。



あの子青い花びらをタオルに寝かせると、その一片一片が泣いているようにAには感じられた。

顔を寄せ「もう少しだからね」と小さくつぶやき、あの子を一つずつ取り上げて、

卵白を少しだけ塗り、砂糖を敷いたバットの上に寝かせていく。

全て寝かせ終わったら起こさないようにそっと持ち上げ、キッチンの棚の上に置いた。

あの子の砂糖漬けは、三日間かけて完成した。

それまでの三日間、Aはそわそわして過ごした。

帰宅するやいなや鞄を投げ捨てキッチンに向かい、あの子を目の前にして息を整える。

驚かさないように、怖がらせないように。

今からあの子を食べるけど、僕は野蛮な狼なんかじゃない、そう自分に言い聞かせながら。

そっと蓋を開けると、あの十字路で出会った頃よりもキラキラしたあの子がいた。まるで宝石だ。

一つ取り出して唇の先で食むと、キュンとした甘さが広がる。

好きだ。あの子が好きだ。Aは自分の思いを噛み締めるように花びらを口いっぱいに頬張った。



Aにはあの子の予定が分からない。

あれから一週間経っても、Aがあの子に出会うことはなかった。

家中、学校中見て回り、スーパーにも毎日のように通ってみたが見つからない。

もしかしてと思い、工具店や本屋にも足を運んだが収穫はなし。

あの子は気まぐれだから、僕が想像もしないようなところでまた出会うんだろう。

その時まで大人しくしていよう。と呑気に構えようとしたが、Aの調子は日を追うごとに崩れていく。

一日一日過ごすたびに自分の体からあの子が抜けていくことが、恐怖以外の何物でもない。

あの子の生前の家に出向こうかとすら考えたが、あと一歩のところで歩みを止めることが出来た。

この前は止められたけど、次はどうか分からない。

夜中に飛び起きては、腹をさする。あの子の残り香を感じたかった。

腹に手をあてて思う。あの養護教諭は、あの子に水を与えれば長く生きられると言った。

生きる方法を知っているのなら、どうしてもっと早くあの子に教えてあげなかったんだ。あいつは。

教師失格だ。明日学校に行って直接教えてやろう。あの子がどれほど苦しんだか、この僕のあり様を。

そんな事を呪いのようにグルグル思って、気絶するように眠りにつく。





翌朝には冷静になり、また粛々と日々を送った。

学生たちが魚の群れのように進む坂道を、Aも同様に歩き出す。

「おはようございます」と声をかけてくる生徒には「おはよう」と答え、笑ってみせた。

新入生たちの中にあの子がいるような気がして、無意識のうちに目で追っている。

ハッと気づき、目を反らす。


こうしてAは長い時間をかけてあの子の死を理解した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。いい感じに気色悪さが出ていたと思います。
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