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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

-雀ヶ森惠*短編集「地獄の季節」-

quasar

作者: 雀ヶ森 惠

キャラフレ2017翔愛祭「世界が終わる音」自主製作スクリプト作品の原作に当たります。

ムービーはここまで詳細、難解ではありません。原作自体はかなり前に書かれていす。

 黒い。

 これは空だ。雲もない、月も星もない。真っ暗な、空。

 かさかさと乾いた音を立てて、枯れて折れた植物の茎の繊維が体にまとわりついた。

 それはおれの皮膚にぴったりと貼り付いた。

 どうして? おれは服を着ていなかった。

 この寒空にすっぱだかだ。

 何故膚に貼り付くのだ。

 答えが解った、血だ。

 闇の中、すべてが青く見える。

――夜が青く見えるのは、暗いところでは青を示す光の波長が人間の目によく見えるからだった。

 その血はどす黒く、冷え切った裸身を暖かく流れ伝った。

 おれは血を流している、着衣もなく、これは尋常ではない。

 そして痛みに気が付いた。

 からだのあちこちが痛い、手も足も折れている、恐らくは頭骨も……だがしかしそれを凌駕してしてあまりある火のような痛みの根元を……この血はいったいどこからやってきたのだ? それが痛みの元だ。

 ゆっくりと腹に目をやると、めくれ上がった薄いいろの脂肪の層がトウモロコシのように整然とならんでいた。

 その粒がとてもはっきりと見えた。

 そして破れた乳白色の腹膜とやはり白っぽく表面に血管の走った、動物のそれのような臓物が腹からこぼれ落ち砂にまみれ、ところどころは破れていた。

 なにか鋭利な刃物で切り裂いたかのように、血しぶきがむきだしの乳房に向かって上がっていた。

 下は……あふれ出す血液によって既に黒く染まり、その瞬間にどう飛び散ったのかを今判断することは出来なかった。

 おれはこれから死ぬ。だがその前に解かねばならぬ問いがあった、もう時間がない。

 何故だ? 何故おれはこの雑草の覆い茂る草原にはみ出たはらわたを抱え瀕死で横たわっているのだ? 何故おれは女の体をしているのだ?


 黒い空の下、ススキが生い茂る草原で腹を割かれた全裸の女は次第に動かなくなった。



 目が覚めた。

 ここは暗くて狭い。

 というよりもそこは何一つ見えず、まったく指先を胴体に擦りつけるようにして動かせる以外は身動き一つとれやしなかった。

 そのような空間に折り畳まれるようにして、押し込められている。

 ひどく雰囲気のある曲が背中側から聞こえる。

 そしてゴーッという、ノイズ。

 体の下が暖かい。何かの匂い? ガソリンの灼けつく匂いだ。

 膚が直接不織布のシートのようなものに触れている。

 そのシートは湿っている。

 鉄錆の味がする。

 指先が濡れたシートに触れた。

 次に上の方を触ってみると金属で出来ておりアルミのような感触だ。

 なにか金属製の補強の細い棒が斜めに走っているようだ。

 そこまで考えてみておれは気が付いた。

 ここは車のトランクの内部に違いなかった。そしてこの痛みは何だ? シートを濡らす暖かなものはおれの血液ではないのか? そういえば先ほどから動かす指先に力が入らない、震えている。

 恐る恐るおれは手の届く範囲でシートをまさぐった。

 やわらかく、あたたかく湿ったものがある。

 それは弾力に富み、ゴムのような手触りだ。

……これで解った。

 おれは何者かに腹を切り裂かれ、走行する車のトランクに押し込められている。

 おれを始末する気だ! だが誰が? いったい何の目的で? 畜生! ハメられたんだ!


 その瞬間、運転席のボタンから繋がっているワイヤがトランクの鍵の部分を開いた。

 外からの風が一気に流れ込んできた。

 腹を割かれた肉塊はごろごろと勢いよくトランク部分から転がり落ち、テールランプに赤く照らされた、高速道路の白線の瀝青(アスファルト)を、跳ねるようにして脇の一段低くなった草むらへ落ちた。



 そこはひどく冷えていた。

 不織布のシートが毛羽立っておりそこにおれは胎児のような格好でぴったりとはまるよう押し込められた。

 何故かひどく目が霞む。

 外は夜だ。

 トランクの外側を向くようにして、横向きに押し込められている。

 街灯に照らし出された男の輪郭だけで、顔は逆行で窺い知ることもできない。

 ともかくその男はおれを車のトランクへ押し込めた。

 そして一旦扉を閉めようとして、再び開きおれの顔を覗き込んだ。

 男の白目だけがやけに目立っている。年も背格好もわからない。

 やたらと生暖かい息がおれの膚を撫でた。

 おれは服を着ていなかった。

 今度は本当にトランクの扉が閉められた。

 すぐに運転席のドアが開く気配がして、エンジンがかかるのが判った。

 車は瀝青を滑り出した。

 カーブを過ぎるたびにタイヤが摩擦でぎちぎちと音を立てる。

 なんだかぼんやりしてきたが、理由はわからない。

 何だろう? 頭の芯が痺れてくるような……おれはその理由を懸命に探ろうと脳を動かそうとしたが思うようには働いてくれなかった。

 と、いうよりも記憶自体が錯綜していた。

 なぜなら裸で車のトランクに押し込められる理由はおろか、おれはおれ自身の名前すら思い出せなかったのだ! 運転席から打ち込みの曲が聞こえる、呑気なものだ。

 あの男は犯罪者だ。おれは誘拐されたに違いない。

 だが何故だ。

 だがそんな前のことは到底思い出せそうにない、憶えている限り最後の記憶は車のトランクを閉める男の目の白目がやたらてらてらと闇に光る様だけで、何も思い出せないのだ。

 やがてトランクの床に敷かれているシート状の不織布がじっとりと湿ってきていることにおれは気が付いた。雨か? いやそれならば表面の金属を打ち付ける雨音ですぐに判るはずだ。

 もっと人肌で、おれの腹あたりからじわりと広がっていくもの……血だ! 切られたのだ! 何故今更気が付いたのだろうか? それほどまでにおれは混乱し、気が動転していたのか。指が髪の毛に触れる。長い髪だ。

 まるで女のような。

 女だって? そうだ、この脂肪がちな体はなんだ。

 おれは男だ。

 その筈だ。

 待て、そもそもおれは一体誰だ?


 黒いセダンは長い上り坂のカーブを過ぎ、高速道路の入り口で停車し、運転席の窓を開け男はチケットを受け取った。



 脇に腕を通されてずるずると運ばれている。

 大きな目地のタイル状の床だ。

 継ぎ目の度にふくらはぎが擦れた。

 おれは服を着ていなかった。

 証拠を残さないためだ。

 そうに違いない。

 裸の肩にかかる髪が鬱陶しく揺れた。

 髪だって? なぜそんなに長いのだろう。

 窓から真っ黒な空が見える。

 夜だ。

 室内に灯りはない。

 そんなに広くはない部屋を斜めに横切るようにしておれは運ばれた。

 何故なすがままにされているのか? しかし体は動かない。

 自分の意志では動かせない。

 外に出た。

 風が冷たい。

 そこは廃屋じみた建物でおれが引きずり出されたのはそこの外階段の踊り場のような部分だった。

 びっしりと蛾の死骸がたまった蛍光灯のカバーから、そいつらがぼんやりとした影をコンクリートの床に落としていた。

 不意におれは背負われた。

 ビニル製のレインコートの様な感触の大きな背中だ。

 おれを運ぶのは余程の大男だ。いや違う、おれが小さいのだ。

 何故? この長髪は何だ。大体男の背に触れている脂肪がちで小さく柔らかな体は何だ! これはおれの体ではない。

 男は一歩一歩慎重に階段を降りている。

 クソッ! 逃げるなら今のうちだ。

 階段で暴れればこの男もろとも落ちる。

 何か知らないが裸で運ばれているなどろくなシチュエーションではない。

 この先に待っているのはおれ自身の破滅のみという冷徹な現実以外に、最早選択肢は用意されてはいない。だが意のままにならない。

 そしてなんだ? この男のビニルの背中とおれの体の間を流れる生暖かいものは。

 痛みがある! それもはっきりとした痛みだ。やばい、何故もっとはやく気が付かなかったのだろう! そうこうしているうちに男は階段を下りきって地面に辿り着いた。

 そして今度は肩に担がれた。今はっきりと判ったことだが――いやその可能性はありとあらゆる方法で否定してしまいたいもだったが、おれは女になっていた。

 何故だ? そしてこの焼けつくような痛みも気にかかる。

 柔らかな腿に触れるゴムのような感触は何だ。

 これは腸ではないのか! おれは怖気が立った。殺されようとしている! だがおれの理性は猛烈にこの体が自分のものではないと告げている。

 おれを担いだ男は幾たびか角を曲がると薄暗い駐車場へと足を踏み入れた。そして一台の黒いセダンの前に来るとおれを乱暴に地面へとたたき落とした。

 砂利混じりの駐車場だ。

 体を引き起こすこともできない。

 裸の膚に石が容赦なく痕をつけ、枯れた葉が血塗れの膚にぴったりと貼り付いた。

 やっとのことで頭だけ持ち上げると、長い髪の隙間から男を見た。

 街灯で照らし出された男は透明なレインコートを着ていた。

 そこに夜目にも赤い血がべったりと着いていた。

 おれの血だ。

 畜生、このレインコートを始末して完全犯罪にする気だ! だが迂闊だ。おれを地面に降ろしたときにべったりと血が付着したはずだ。

 ざまあみろ。

 男はトランクを開くとまたおれを担いだ。

 そこにおれは胎児のようにぴったりと横向きに押し込められ、ご丁寧にはみ出た腸を男はそっとトランクの中に積めた。

 そこはひどく冷えていた。



※※※


 

  墨のような星一つない夜空の下、枯れたススキの草原のなかに、夜目には青く佇む、しろいドームがあった。

 それはボウルを逆さに置いたような、完全な半球体の建造物で半径が5米ほどあり、球体の表面に沿って曲がった銀色の扉が一枚ある他は窓も無かった。

 ドームの内部には巨大なパラボラアンテナが設えられており、実はリモコン操作で半球が開き、銀のパラボラが展開するように出来ている。

 奥の壁際には仰々しいオシロスコープや古い型のPC――だが机上の液晶ディスプレイには最新式のウィンドウズが映し出されていて、しかも今はスクリーンセイバーだ。

 それらは金属製のラックの上に乗せられており、小さなまるで廃品回収の日に拾ってきたような古びた机と、同じような中のスポンジが飛び出てしまった椅子があり、白髪の人物が腰掛けていた。それは遮光メガネをかけた男で真っ暗な室内にもかかわらず、机の上で小さな機械をいじっていた。


「――これは、永久機関だ。正しくは永久機関の動力部だ」

 

 男はふるえる指先でアクリルとアルミのような金属で出来たちいさな機械をまさぐった。


「仕掛け自体は簡単。動かすことも簡単」


 男はPCのマウスを、見えない中器用にいじってポインタを動かすとスクリーンセイバーの解けたディスプレイのなか沢山のアイコンが並んでおり、男はそこにぎりぎりまで目を近づけて『準星機関』とかかれたショートカットを開いた。


「この永久機関は、電波で動く。それも普通の電波ではない――準星というものを知っているか? 今はそう言わないのだろうが、生憎私は古くさい人間だ」


 画面一杯になにかの座標を示す赤い単色のグラフのようなものと、文字通り電波の波形を示すような二つの図が表示された。


「準星とは星ではない。われわれがいる銀河のような天体は巨大で、中心部が明るく輝いているが、準星は数十億年の彼方にあり、我々のような銀河よりも遙かに小さい。

 にもかかわらず普通の星のように明るいのは特異点に向かって星や物質が落ち込んでいるからだ。そしてそこからは膨大なエネルギーが発散されている。

 この強力な電磁波はこのような電波望遠鏡――このアンテナは望遠鏡だ。

 レンズなど必要ない、数億光年離れた天体を観測するのは電磁波のデータだけで十分だからだ。

 この銀色の網が準星からから放たれる強力な電磁波を確実に捉えることが出来る。

 そして先人の観測に寄れば、準星は赤方偏移を起こしており、つまりこちらへやってくるスペクトル線が赤の方、長波側へずれているということだが、これは我々から見て後退していることになり、宇宙全体の膨張を示している事柄でもある。

 このような天体は60年代に入ってから数多く発見され、その数は千を越える、準恒星状電波源――quasi-stellar radio sources――と呼ばれ今はもっと短縮された名前で呼ばれているが、まあ私は古い呼び方の方が馴染むのだ。

 そのほうがより真実に近いことを表すことが少なくない。

 そしてこの永久機関だが、その準星からの放射の力で動く。

 正確には、準星からの放射が数十億年かけて地球に届く際の宇宙全体の歪みを受けて動くのだ。

 その歪み自体特異点へ落ち込む物質から放射されるエネルギーの持つ歪みとよく似ている。

 これが何をしめすのか……」


 男の紙のように血の気のない顔がディスプレイからの赤い光りにぼうっと浮かび上がっている。


「この永久機関は動力とするエネルギーの大きさに負けず、非常に強力な作用を及ぼす。この機械がもたらすものは無限の交替だ。見てみろ、この金属の羽根が右と左を行ったり来たり」


 男の言うとおり、小さなアクリルのケースの中で金色の羽根が右に左に絶え間なく揺れていた。


「――夢は一つの世界だ」


 男は不意に話を変えた。


「夢としての夢は一つの世界だ、しかもそれは複数のうちの一つである世界ではなく現実世界そのもの、夢見者自体が存在する世界だ。

 だが、夢は世界である限りはまだ夢として存在していない。

 そしてそれが夢とみなされるならば、もはや現実ではない。

 夢見られた存在が有していた現実があとになって無効になる」


 男は遮光メガネを外した。

 年寄りだとばかり思っていたが、男の顔には皺一つなかった。

 そして白く濁って盲いた目がこちらを見ていた。

 それは光の中では盲目だが闇の中では見えるのだ。


「この両者の転回点として目覚めが存在しており、目覚めによって夢は夢として現れる。

 そのことによって夢は矛盾したものになり、夢見られたことは目覚めの際に矛盾と二義性に巻き込まれるが、しかしながらこのときにこそ夢が何かを意味するということもわかり始める」


 男は膝の間に隠していた銃を取り出しこちらにむかって向けた。

 スミスアンドウェッソン社の44口径のリボルバーであちこち錆びていたが、奇妙なことにぼろぼろに腐った羽根の装飾が付けられていた。

 男は見えない目で照星を睨んだ。


「夢見られた出来事はたんなる表象を越えた現実である。

 覚醒状態での想像をも超えた現実であるからだ。

 しかしこの現実感と目覚めの際の消失は根本的な問題を含んでいる。

 なぜならばわれわれの現実がいったい何であるのかという問いの前に立たされるからだ」


 静かに引き金が引かれた。



※※※



 乾いた銃声で目が覚めるとわたしはお世辞にも清潔とは言い難いけばけばだらけの毛布にくるまれていた。なんだか頭の芯がぼうっとする。

 今日は何日? 足の踏み場もない六畳間に起きあがると洗濯物を干すのにも難儀な程狭いベランダに出て外の空気を吸った。

 刺すような冷気。もうそんな季節? ここは二階のようだ。

 目の前に古い三階建てのマンションがある、トタン屋根の外階段。

 当たり前のようにサッシの脇に置かれた双眼鏡で覗き込み倍率を調整する。

 わたしの操作は迷うことなくマンションの一室だけを捉えた。そこではカーテンが引かれることもなく、一人の女が着替えをしている。

……今気が付いたのだが、咄嗟に、居たたまれなくなり、わたしは奥の狭いユニットバスまでごちゃごちゃとした紙屑や雑誌類に足を取られながら走った。

 走るほどの距離はなかったにしても――鏡を覗き込むとそこには無精髭の生えた、体裁良かからぬ若い男の顔があった。

 一体どういうこと? 何故男になってしまったの? そしてわたしは忘れていた何かに気が付きもう一度ベランダの双眼鏡を手にした。

 そこには着替え終わった女が煙草を蒸かしている。

 それはわたしだった。つまりわたしは得体の知れない向かいのアパートの男に変わってしまい、自分自身を観察しているということだ。

 そうだ、このアパートは向かいにあるプレハブの学生向けアパートだった。

 その事実に気が付いてもわたしは向かいのマンションで紫煙をくゆらす女に目が離せなかった。

 くたびれた三十女、下着にだけやたらと金をかけて。


 見ていても埒があかないから外へ出た。

 というよりも女に我慢ならなかったのだ。

 今日は休日なのだろうか、曇天のうえ、ジャージのポケットにねじ込まれたスマホは電源が切られており、充電していないらしく日付も判らない。

 サンダル履きでふらふら歩いて、わたしもよく利用するコンビニエンスストアの入り口をくぐった。

 まだ朝だ。

 スマホ同様ポケットには数枚の千円札がねじ込まれていた。

 菓子パンと缶コーヒーを買う。

 とりあえず頭を整理しなくては……足が自然と向いたので雑誌コーナーで立ち読みすることにした。

 わたしも好きな男性向けのちょっと変わった雑誌だ。

 素人臭さが売りの男性向けグラビアに混じって『世界の死刑』なんて特集の混じった雑誌。

 表紙を手に取ると扇情的なアオリに混じって『実録! ストーカー男』というコピーがわたしの目を引いた。

 そこにはお馴染みストーカーがドキュメンタリーと銘打って紹介されていた。

 対象のゴミを盗む、盗聴器を仕掛ける、中傷のラクガキをする、向かいの建物から双眼鏡で二十四時間監視する……こめかみが痛む気がしてわたしはコンビニエンスストアを後にした。

 帰路、すれ違いざまに、あからさまな嫌悪を示して女が通り過ぎていった。

 なんだか臭う? 家に帰ろうとしたがもうあそこはわたしの家ではなかった。

 今はあの怠惰な女がゆるりと過ごす城だ。

 結局学生向けアパートに戻ってきてしまった、そういえば出かけるときに鍵をかけて出なかったが、勿論荒らされてはいない。

 仕方なしに着られそうな新しい洗濯物を整頓できていない洗濯物の山から選び出し、カビだらけの風呂に入った。

 生まれて初めて髭を剃った。

 そしてなんとか自由に歩き回ったり出来る場所が確保できるまで部屋を整頓するともう日が高くなっているようだった。

 昼食に朝の残りの菓子パンを食べながらわたしは双眼鏡を覗き込んだ。

 相変わらず開きっぱなしのカーテン、椅子に腰掛け女は下着姿でペディキュアを塗っている。

 毒々しい黒。

 背徳の黒。

 サバトの黒。

 密儀の黒。

 小麦一枡は一デナリ、大麦三枡も一デナリ、油と葡萄酒を損ねてはならない、秤を手にした乗り手の馬の黒。

 そして黒化(ニグレド)の黒……べたべたしたクリームサンドパンはさながらイエローケーキのようだ。

 それを水道水でやっとのこと嚥下する。

 向かい側の女はまた煙草を吸っている。

 サッシを開けた。

 部屋は煙で白く霞んでいる。

 染みついた煙草の臭い。


 それにしてもわからないのはこの男がなぜわたしを観察していたのかということだ。

 わかってはいても自らの醜態を眺めているのはやりきれないので、わたしは男の素性を探る。

 部屋を整頓していて判ったことだが彼はかなりの好事家であるということだ。

 スライド式の本棚にびっしりと本が詰まっている、ハードカバーの単行本に図鑑、雑誌の増刊特集。

 漫画は一冊もない。

 男は学生なのだろうか? 教科書然としたものもいくつか見受けられる。

『ドイツロマン主義における芸術批評の概念』? いったい何を勉強していた、あるいはしているのかしら。


天上のものたちの

ひとりをもたらすならば。だが、そのための

ふさわしい手をもたらすのは われら自身なのだ。


 ? 得体がしれないわ。

 置きっぱなしの財布に免許証や学生証の類がないか捜してみたけれどそれも徒労に終わった。

 見つかったのは車の鍵だけ。

 表札は? 残念、出ていない。

 なんだかバカらしくなってわたしはその作業を中断した。

 そして未洗浄の食器が散乱したシンクの台所にある、あまりかわいくない、ウサギの絵柄が内側の底部に描かれたマグカップに、湿気たインスタントコーヒーを入れて湯を注いだ。

 なんとか器を置けるくらいに片付けた折り畳み式テーブルに向かって座り、コーヒーを啜ると少しは考える力というものが湧いてきた。


 そもそも、目が覚めたらわたしはこの男だった。

 では目覚める以前は何だったの? わたしは本当に『彼』が双眼鏡で覗く部屋の女だったの? ああ確信が持てなくなってきたわ。

 こうやって女口調で思考しているのもおかしくなってきた。

 だとしたらあの部屋で怠惰に過ごしている女は一体誰なの。

……その方が整合性が取れている。

 わたしは目覚める以前からずっとこの男だったけれど記憶が錯綜しており、自らがストーキングしている向かいのマンションの女であると錯覚に陥っている。

 でもあの銃声、あれは何? 確かにわたしは銃声を聞いた。

 映画で使われているような仰々しいサウンドエフェクトではなくて乾いた『パン』ていう音。あれがリアルな、ほんものの銃声に違いないわ。

 あれはなにか目覚めの契機だったに違いない。

 でも誰が? それが鍵な気がする。それさえわかれば全てが解けるような……

 薄く入れたコーヒーが徐々に減ってゆき、底の絵柄が再び現れる頃にわたしはひとつの考えに行き着いていた。

 もしわたしが以前は向かいのマンションの女で今は、反対側のアパートの学生らしき男であるならば、女であった以前はいったい誰だったのか? もしかしたらやっぱりこの男だったのかもしれないし、あるいは他の誰かだったのかもしれない。

 するとこの二人の男女を往復しているという可能性と、あるいは全く別の人間を絶えず渡り歩き演じ続けているという二つの仮説が成り立つ。

 だが男がわたし――と思われる女性を観察していたという事実から前者である可能性が高いと思われる。

 では、わたしとは一体何なの? どちらにしろ本来の自分というものは存在しないの? 二人にしろ、たとえ大勢にしろ虚しくほかの人間をやり続けてきた。

 だからこそあの下着姿の三十女に吐き気こそすれ愛着もない。


 わたしはアパートを出て二三角をを曲がった駐車場に来ている。

 この近くで駐車場はここだけだからだ。

 湿った枯葉がところどころ色の変わった砂利に貼り付いている。

 男の車を捜すためだ。鍵に付いている釦でドアが開くタイプだったので、しらみつぶしにいろんな車のドア付近で釦を押してみることにした。

 ここに車がなかったらどうしよう。あるいは二輪車の鍵だったら? だがわたしの不安はすぐに消えた。薄汚れた黒いセダンのロックが解けたからだ。

 冷たいシートに座ってみる。すでにわたしの(はら)は決まっていた。

 今度は近所のスーパーマーケットの生活用品売場に来ている。

 もう夕暮れだ。暗くなるのも早い。

 そんな季節になったものね。

 とりあえず一通り売場を見て要り用なものを買うことにした。

 ビニルの透明レインコートと文化包丁だ。

 それをジャージのポケットの中の金で支払って、外へ出た。



 そしてあのアパートの階段をゆっくりと昇るのだ。わたしは今やただ一人の人間、わたし自身でありたいと思っている。


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