*** 7日目 ***
作中にはリアリティー追求の為、一部実在の設定・名称に基づく表現を使用しておりますが、こちらの物語は作品全体を通してフィクションです。
次の日。叉々女は飽きもせず、彼がこちらに歩いてくる姿を見ていた。
結局また、私は彼を見ている。
今度こそ最後だと言い聞かせながらも、心のうちにはもう一方の思いが交錯していた。
私の目は、彼から離せないでいる。自分を殴りたい気持ちになった。
けれど彼の姿を目にして、恥ずかしいほどの後悔も無になる。
昨日と変わらず、午前八時十分に到着した電車に乗り込む彼の登校風景を眺めた。
車両に乗った彼は変わらず、最後尾のレール側に向かって外を見ている。
ーー彼は一体、外の何を見ているのだろう。
気になった私は、外光に照らされたその顔を覗き見て、強くハッとした。
「今日も今日なら今日こそはーー」
彼の目が、虚ろだったから。
けれど事態はそこで止まってはくれない。
この世を見ていない様子の彼から少し離れ、彼の頭頂部から足のつま先まで見ようとゆっくり視線を下ろしていくと、そのまま暫く私の時間が静止した。
***
俺は、次の日も飽きずに午前八時十分の電車に乗った。
そして俺の特等場所になりつつある最後尾の開閉口から眩しすぎる空を眺め、少し先に迫った緊張に身構える。
これでは、昨日の繰り返しだ。
まるで無限ループのようだと、自分を鼻で笑った。
でも今更、彼女を知らなかった頃には戻れないのだ。あの頃は、とうに過ぎ去ってしまったから……。
今日はもっと強く乞おう。
俺は、電車に乗る前に決めたことを反芻した。自分でも分かるほど、とても気分が晴れやかなのだ。
ーーゴトン、ゴトン。電車の近付く音が聞こえて、肺の苦しそうな音で鼓膜が震える。
この耳障りな音は何だと意識を向ければ、それは自分の内側から聞こえていた。
ーー来る……!
最後尾の窓枠に反対車両の顔が入ってきた瞬間、東間の意識は急激に集中力を上げた。
ーー揺れろ!
彼が一段と気を張るその一瞬のうちに、三つのことが起こった。
一つは、いつもより風が強く、横なぶりだったこと。
一つは、いつもより人が乗っていたこと。
最後の一つ。全体の重量が増えたことにより、スピードが弛みにくかったこと。
愉悦に満ちた東間の目に、反対車両が大きく揺れながら向こう側へと、その身を沈めていく様子が映る。
「あ…。あ…」
言葉にならない声をあげ、彼は一人だけ両の口角を限界まで引き上げていた。
周囲では車窓越しで突然起こった大惨事に、軽いパニック状態だ。
どこかに電話する人もいれば、口元を抑えて呆然としている人。それから、非日常に触れて瞳孔を開かせている人まで。
みなが瞬間に垣間見た事柄で思考を奪われる中、東間の浮かべた別種の表情に気付くものは誰一人いなかった。
ーーそう。人間の中では。
***
私は、唖然とした自分の思考を取り戻して直ぐ、もう一度確認の為に彼の綺麗な頭頂部から順に眺めた。
彼ーー日繰 東間のつむじ、髪質や長さ、その下に少し隠れる前頭部、更に下へ続く綺麗な二重と焦げ茶色の瞳。
それからスッと通った鼻筋に程よく膨らんだ唇、少し丸みのある顎も含め、まだ少し幼さが残っている。
それらを支える首筋も少し肉付きが良くて、それから……。
ーーさっきより、範囲が増えている。
さっきまでは膝下辺りしか透けていなかったけれど、今は既に腰の高さまでその範囲が及んでいた。
そう。彼はみんなの良く知る、幽霊と呼ばれるものだ。或いは、思念とも言うべきか。
そんな彼は生きていたときの記憶を辿るように、同じ行動を繰り返していた。
彼の感情に変化が見られたのは、つい6日前のこと。それまでは本当に死霊のような暗い顔をしていたが、その日を境に彼の表情は輝きを取り戻していく。
その輝きが或る感情のそれだということ。
それを向けている相手が例の少女だということに気付いたのは、私の行動範囲が広くなってから2日目となる今日のこと。
ーーーー私はもともと、この地域に棲む地縛霊みたいなものだった。だから、本来なら特定の場所からは決して動くことが出来ない。
彼の変化の先に何があったのか気になったけれど、自分は地縛霊の身。遠くまで離れられない事情に、何とも形容しがたい感情が胸中に広がったのを覚えている。
しかし、それが余程強く周囲に影響したのか、昨日、私の体は自由になった。
それまで体にあった気怠さが軽くなったことでそれを自覚し、制限がいつ来るか分からない不安定は無視して、絶好の機会とばかりに生きた人と同じ行動を繰り返す彼の後を追った昨日。
彼の不可解な言動は結局謎のままだけれど、彼が電車に乗って何処に行くのか、行った先で何をしているのかは突き止められた。
彼は学校に、人と関わりに行くのだ。死ぬ前と変わらぬ生活を、彼は今でも続けている。
それが分かった時点で自由への制限が来てしまったのか、気が付くと元の場所で呆然と立っていた。
ここまでが、昨日の出来事だーーーー。
7日目の今日。午前八時十分発の電車は、通常通り彼を学校のそばまで連れて行く。
今日は昨日より体が軽い。おかげで彼の言動をつぶさに感じ取ることが出来た。
彼は電車の中で、緊張した様子を崩さない。
一体何を考えているのか分からないが、昨日の登下校時に聞いた言葉から異常さを察するのは簡単だ。
瞬間、カタカタと揺れ出した車両に何事かと警戒して周囲を見れば、ただ反対車両から風圧を受けているのだと知りホッと胸を撫で下ろす。
昨日の彼の様子から、何か取り返しのつかないことを仕出かしそうで、終始彼とは別の意味で神経の緊張が解けないのだ。
2つの車両がすれ違う寸前、綺麗な三日月型に口角を上げて一点を見つめる彼の顔が視界に入る。
その視線の先には、ひとりの女の子がいた。もちろん、向こうは生きている。
年は彼と同じくらい。彼や、彼の周囲と似た格好をしているから、多分に学生なのだろう。
確かに、彼が惹かれるの頷けた。彼女はとても美しい子。けれど、それは偏に魂の輝きとも言える。
彼は、この世の人ではないが故に、彼女に惹かれたのだろう。
そして、彼女をこちらに引き込もうとしているように、私には見えた。
本来なら、私たちのようなものは生きた人を怨みに任せて引き摺り込もうとするだろうけれど、生きていたときの記憶が強い私は、特定の土地に縛られていた経験が功を奏し、他よりはまともな理論で働くことで出来るらしい。
そして生きていた頃の意識を保っている彼は、幽体である自分の力を意識せずに使おうとしている。
生きた人に接触できない事実を捻じ曲げようして、自分を貶めるような事をして欲しくなかった私は、彼の邪魔をすることに決めた。
***
思考が、現在に戻ってくる。
東から伸びた彼女の影が彼の透け始めた体に重なる瞬間、彼の周りで空気が変わる。
生きた人間では気付けないほど微弱な、けれど同じ幽体に属するものには強烈すぎる確かなものだ。
彼は自分の体から発した電磁波を、すれ違った反対側の電車に向け放っていく。
その時あちら側の車両が大きく揺れ、地面を一直線に目指した車両が横転し、例の女の子の姿が後方へと垂直に遠ざかっていく様がーーーー。
ーーだめッ!
私は咄嗟に内言で声を荒げた。まさか、そんなことで阻止できるとは想像すらしていなかったけれど……。
試しに読んでくださった方も、ブクマしてくださってる方も、ツイートから飛んできてくださった方も、読了ありがとうございます。