*** 5日目 ***
作中にはリアリティー追求の為、一部実在の設定・名称に基づく表現を使用しておりますが、こちらの物語は作品全体を通してフィクションです。
翌日、彼女は誓いのおかげもあり、きちんと朝六時に起床した。
そして昨日は怠ってしまった本の選別を、時間の余裕をたっぷりと使って行う。
普段通り七時五十分に家を出て、十分ほどで着いた最寄駅の改札口。
そこから、ちょうど八時発の坂本方面行きを見送った彼女は、次の電車がくるまでの十分間を使い読書に耽った。
***
東間は、昨日のような失敗はしなかった。
目覚ましが役に立たないなら、いつもより早く起きられるように逆算すればいいことだ。
俺の睡眠時間はちょうど十時間が限界のようで、昨日の八時に就寝したおかげなのか、朝六時にはしっかりと目が覚めていた。
最寄り駅へは、徒歩五分。
面倒臭がりと運動嫌いが売りの俺にとって、此れほどにも好条件な立地に家があるのは、ひとえにこの場所を選んだ両親の功績といえよう。
彼女を見られる運行時刻は、八時十分の車両だ。
それに乗るためには家を八時五分までに出られたらいい訳だが、時間に余裕を持たせられない男ではいけない気がして、今日からはいつもより早めに駅へ向かおうと考えていた。
つまり俺に残された寛ぎタイムは、約二時間といったところ。
その間に普段は大食い競争並みに切り上げる朝食も、噛み締めるように食べた。
生命活動上の必須事項を終え、今度は制服に着替える。
持て余した時間を使い切るつもりで、普段は無造作に着るカッターシャツも皺を伸ばしながら丁重に扱ってやる。
続けてズボンやブレザーも丁寧に着てやったのだが、それでも時間は思ったより減っていなかった。
仕方ないので、余った時間を使って彼女のことを考えようかとも思ったけれど、それをするだけの情報量がないことに気付いて、ひとり空しくなり小さく溜め息を吐く。
俺は軽く落ち込んだ気持ちのまま、携帯の漫画アプリを開いた。
八時ちょうど。彼は家を出て、最寄り駅に向かった。
駅がある方向からは八時発の車両が動く、ガタンゴトン、という音が聞こえてくる。
これで少なくとも駅に着いて後五分ほど待てば、次の車両に乗れる手筈だ。
彼女が乗車時刻を外すという考えはなかった。
揺れる車両で唯一不動を貫く彼女は、きっと真面目な性格のはず。
だから、絶対に八時十分の坂本行きに乗るだろうと、東間は信じて疑わなかった。
が、それは経験上の推測でしかない。
まだ四日しか経っていないこともあり、今日も上手く事が運ぶなどと調子に乗れるほど、彼は自惚れてはいなかった。
それに、昨日のように一本ずれる可能性だってある。不安だけは抱いていたのだ。
八時十分発の車両が着く瞬間、彼は自分の幸運を神に祈る。
普段は神社を見かけても一瞥すらしない彼ではあるが、この時ばかりは神頼みせずにはいられない。
ーーそもそも自分を敬わない人間に、慈悲を向けてくれるだろうか。
という点も、今の彼にとっては気にも留めないほど些末だ。
なぜなら、彼にとっての神様は、四日前のあの日に顕現されてしまったから。
そして、その日から彼は毎日おなじ時間にすれ違いざまの姿を目にして、一日の運勢を委ねてしまっている。
今日こそは、その神様に見知ってもらうべく、いつも通り最後尾、反対車両側の開閉口を自分のものにした。
暫くガタゴトと動き、京阪電車石山方面行きは彼を望んだ瞬間へと運ぶ。
少しして、日繰 東間の乗った車両が、先頭からカタカタと鳴り始めた。
それと同調するように、彼の心臓は心拍数を上げていく。
ーーきた!
彼が向く側の扉はガタガタと揺れ、その存在感を強固なものにしている。
東間はふと、揺れると思った。
女の子の乗る反対方面では、この中間地点から少し先に緩いカーブが三秒ほど続くことを知っている。
自分がつい数十秒前に通ったから。
車掌はそのカーブに備えて、少しスピードを緩める。
そして中に乗る人たちは慣性の法則に従って、少しの辛抱を要されるのだ。それも経験済みだから知っていた。
つまり、今まで見た人の中で、その揺れに動じなかった彼女を見つけた瞬間から、彼は彼女以外を認識しなくなることが決まっていたのかも知れない。
そしてすれ違う。彼女も人だという事実が、期待を膨らませる。
ーーしかし、彼女は動じなかった。
「おかしい」
一昨日より揺れは強かったはずーー。
***
「おい、おまえ日に日に顔が酷くなってるぞ」
「その言い方だと、まるで俺の顔が神々の黄昏を迎えてるように聞こえるから、やめてくれ」
学校からの最寄り駅を降りた近くで遭遇したと同級生に声を掛けられ、咄嗟にそう答える。
きっと俺に声をかけてくれるものは、こいつ一人なのだろう。他の声質が聞こえたことは一度もないから。
けれど今は、唯一その話しかけてくれる同級生までも、鬱陶しく感じられた。
そいつの言った通り、俺は酷い顔をしているのだろう。彼女に見てもらえなかったから。
彼女の視界の中に、少しでも入れる。
そんな、何の確証もない期待にどうして身を委ねたのか、本当に自分が分からない。
俺の戸惑う顔を見た同級生は、ただ苦笑いをしてそのまま先を歩いて行った。
周りから身近な気配がなくなったことで、彼女のことを集中的に思い出す。
午前八時十分。自分とは逆の坂本方面。
彼女は最後尾に乗る。昨日までと何も変わらない。
彼女は反対車両の方を向く。それも昨日までと何も変わらない。
彼女は本を読む。それも昨日までと同じ。
彼女は周囲を切り離す。それも同じ。
風圧に大差ないことも人の混雑具合も、何一つ変化はなかったのに……。
それなら昨日、何があって彼女はーー。
過去に飛んだ思考の中で、美しい顔を顰めた彼女の立ち姿だけが鮮明だった。
「おい、顔真っ青だぞ」
「え? ああ…、少し保健室行ってくる」
教室に着いて直ぐに掛けられた言葉で、昨日より早く保健室の世話になることが決まった。
昨日と変わらず保険医は不在だが、それよりも自分を落ち着かせる為に素早くベッドに行きカーテンを閉める。
体から謎の緊張が抜けていく感覚を心地良く感じながら、だんだん落ち着いてきた頭でこれまで起こったことに自問自答していった。
俺がなぜ、あそこまで彼女に惹かれるのか。
ーー簡単だ。彼女は、あまりにも美しいから。
俺がなぜ、あの半円状の内側に入れると思ったのか。
ーーそれも簡単だ。彼女は、そこに実在する確かな人間だからだ。
俺がなぜ、彼女の反応を見られると思ったのか。
ーーそれは、昨日までと同じ行動をしたからだ。
(確かに、彼女が人間らしい反応を見せたのは、昨日が初めてだが……)
そうだ。そこから改めなければならない。
彼女が変わらず周囲の光景を遮断しているなら、変わらず自分に気付かないことも肯ける。
だって、それまでと同じ行動をしているのだから。
けれど、そのまま彼女に知られずに過ごすなんてこと、今更我慢出来そうにない。
なら、俺は行動に移るしかないのだろう。
「そうか…」
揺れたらいいんだ。俺は唐突にそれを思い付いた。
とどのつまり、彼女が人らしい反応を見せたことで、俺は希望を持ってしまったのではなかったか。
あのとき彼女が何の人間らしさも見せなければ、きっと俺の中で彼女の存在はそれこそ神に近いものとして、一生叶うことのない想いにも一区切りついたはず。
いや今は、そんな過ぎたことはどうでもいい。
いま大事なのは、どうやって彼女にまた人間らしい反応をさせるかだ。
最近分かった事だが、俺には少しだけ変な力がある。
これで上手く行くのかは不明だけれど……。
ーーいや、きっと上手くいく。
相変わらず呼びに来る気配がないおかげで、俺はそのまま放課後までゆっくりと自分の時間を持つことが出来た。
単に漫画アプリを開いたり、ただ寝転んだりしてベッドを占領していただけだが。
暫くして、いつの間にか戻ってきていた保険医が、カーテンの閉まったベッドに向かって話しかけてきた。
調子を聞かれたが、大丈夫だとだけ答える。
返事はなかった。
そうして皆が帰り始める時間帯まで暇を持て余し、校庭が生徒たちの声でザワザワとしてきたところで保健室を出て、そのまま帰路につく。
学生鞄は持ってきていた。
出来るだけ彼女のことは考えないようにする。今だけは。
明日のことを思うだけで、俺は歓喜に絶叫しそうだった。
家についたところで家主に挨拶もせず、自室に籠る。そして目を閉じ、明日が今日になるまで待った。
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読者の方、お疲れ様です。
作者も、お疲れ様です←え