*** 8日目 ***
作中にはリアリティー追求の為、一部実在の設定・名称に基づく表現を使用しておりますが、こちらの物語は作品全体を通してフィクションです。
午前八時十分。京阪石山方面に乗った東間の顔付きは、昨日とは打って変わり人間らしさは無くなっていた。
けれど、彼のそんな姿に気付くものはいない。彼はそんなことなどお構いなしに、いつも通り最後尾から彼女が乗る車両の顔を待つ。
ゴトン、ゴトン。自分が乗る電車の重量が、手に取るように分かる。その音に意識を向けながら、スッと窓から見上げた空は眩しすぎた。
ゴトンゴトン、ゴトンゴトンーー。
刻々とその時間が近付く中、彼は反対車両が向かってくる様を見つめる。
彼にとって一番長い時間が始まろうとしていた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
ジャッーーと瞬間に顔のすぐ前を車両の先端が過ぎり、その風圧で触れそうほど迫った鼻先が窓を掠めそうになる。
彼の時間はゆっくりと過ぎ去り、そして、彼女の時間が一瞬で去った時。
東間の体は埃が立つように発色した。
それらは自我を持って動き寄り集まると、東間の意思に従うように向かいの車両へと漂い始める。
ーー今日こそ。
東間の心にあるのは、彼女の動揺した姿。
彼女の生きている証。彼女の全て。
自分のそばで起こっていることには気付かず、ただ彼女のことを考え、ただ縋っている。
しかし、それは昨日の時点で上手く行くはずだった物事だ。
彼が自覚していれば。彼を見守るものがいなければ。
***
午前六時。八千種 百栄は起床した。
それから歯磨きや着替えを済ませて、朝食を食べに一階へ降りて行く。
今日のご飯は白米に高菜のお味噌、それから鯖と牛蒡の和え物に漬け物という献立だった。
それらを食べ終えると再び自室に戻り、出発までの時間をたっぷり使って本棚の前で視線を滑らせている。
午前七時四十五分前。彼女はフッと軽い笑みを浮かべた。
同時に手にした本の背表紙には、題名らしき文字が並んでいる。
ーー『君の待つ部屋』……?
彼女の一挙一動をひとつも見逃さず見ていた叉々女は、その題名を頭の中で繰り返す。
当の彼女は満足そうな顔で本を鞄にしまうと、姿見でサッと乱れを確認してから部屋を出た。
ちょうど七時五十分。百栄は家を出て、駅に向かう。
ものの十分ほどで駅に着く。
午前八時出発の電車を見送ってから、次の一本を待つ間に持ってきた本を開いていた。
この十分は彼女にとって準備運動のようなものだ。
水泳などで水に入る前に体を慣らすのと同じ。この時間の中で、彼女は物語への入り口を探して開けていく。
この物語はもう、表紙をめくらずにほとんどの内容を話せる。これで何度目になるかなんて、十回を超えた辺りで数えるのはやめた。
これは……この『君の待つ部屋』という話は、先日の異世界ものとは違って、もっと心へ漣を立てるように静かに入り込んでくる。
これは、主人公の女の子が好きになった男の子と遊ぶところから始まる。
仲良くなるにつれて部屋の調度品が少なくなっていくことに違和感を覚えた女の子は、男の子の異変に気付き始めて……。
だけど、そのことを指摘して嫌われてしまったら……、そして二度と会えなくなってしまったら……と考え、彼の様子の変化には触れないことにした女の子。
だけど、会う度に相手の顔色は白が強くなり、女の子は必死の作り笑いを浮かべて「また明日」と未来の話をする。
けれど、彼は亡くなってしまう。
男の子がいなくなったその場所は、明らかに寒い空間に変わり果てていた。
だけど、女の子はその日からも通い続け、空になった場所に向かってお喋りを続ける。
男の子と過ごした日々を変えられない彼女は、「また明日」と言って赤くなった目元を隠しながら部屋を出て行くのだ。
まだ、彼と出会い頭に遊び始める描写までしか読んでいないのに、最後を想像して危うく涙を零しそうになってしまった。
だけど、と百栄は思う。
この女の子に想われ続ける男の子は、きっと幸せだろう。
自分が居なくなっても変わらず遊びに来てくれる存在は、きっと重くて深い。
男の子の立場にいるならば、自分を過去にして、彼女自身の人生を生きて欲しいとすら思うかも知れないが。
またしても思案に耽っていたところで、正面に停車し始める列車の残像が見える。
これからが本番だ。ここから中に乗って、更に先のページへと読み進めていくのだ。
そそくさと乗り込んで、断絶の瞬間を彼女は静かに待った。
電車は、ーー動き始める。
***
すれ違う時の音が、東間の聴覚を大きく刺激する。感覚が澄んでいる今の彼には、些細な音も大きい刺激になるのかも知れない。
それでも、彼は一点から目を離さなかった。彼女が見えるその瞬間、東間は反対車両の窓枠を超える勢いで前傾姿勢を取る。
鼻先が若干潰れた気がしたけれど、気にしていられない。
その瞬間は、やはり彼にとって唯一、遅く流れることを許せる時間だった。
ーーいた……。
互いの風圧で微かに揺れ合うなか、彼女は動かないどころか表情すら変えなかった。
ーーなぜ?
彼はまた息巻いて、今度はドアに張り付く。だけど、ドアが開くわけもなく、東間はそこで固まったまま放心状態に陥った。
なぜだ……。
なぜ、どうして……。
どうして……。
そんなはず……。
彼女の人間らしさは見られなかった。この間見たものは幻覚だったのだろうか。
自分の願望がそう見させてしまったのか。いや、そんなはずはない。
彼女も人間だ。絶対に……。
ほとんど無気力な動作で、だけど習慣通り学校に近い駅に着くと東間は降りた。
密集から抜け出ても放心したまま、彼は周囲と同じように学校へと向かっていくが、誰一人その姿を目にするものはいない。
周囲の声がざわついて、彼の神経をチクチクと刺す。
ーーうるさい……。
東間は、拳をグッと握り込んだ。
登校して教室に入っていけば、誰かが自分の席に座っている。同級生が席を借りているだけだと思った東間は、そこに声を掛けた。
「おい、そこ俺の席だぞ」
同年代のような軽さで言った声に、答えるものはいない。
「なんだよ、今度は無視かよ」
昨日の登校時にも無視された覚えがあり、今回もそうだろうと思った。どうせ同級生間の遊び程度なのだろう、と。
談笑に紛れて聞こえてない可能性もあるので、今度はもっと大きな声で言おうと身を乗り出したところで、後ろから聞いたことのある声が聞こえた。
「よお! みんな、おはよう!」
いつも俺に話し掛けていた同級生は変わらず大きな声で挨拶すると、それに併せてクラス中が挨拶を返している。
良かった。そう東間は思った。
彼なら俺の味方をしてくれる。これまで無造作に扱ったことを謝ろう。そして、無視されたことは許してやろう。
そんな仄かに優しい心境になった東間の表情は、同級生の次の言葉で固まった。
「よお、もう調子良さそうだな」
「ああ、そうなんだよ。なんか雰囲気悪かったらしいな、おれ」
「すっげぇ悪かったよ(笑)最近のお前、何か変だったもんな」
そう言って、周りの顔を見ながら同意を求めている。
「そうだよ。何か取り憑かれてるみたいな?」
「そうそう。凄く恐い顔してたしな」
「全く記憶がないけどな(笑)」
「うらめしや〜(笑)」
彼らは、その席に集まって軽口を叩き合っている。東間は、そこから逃げ出した。
走って、落ち着く場所に行く。
最近良く使っていた保健室。軽く乱れた息を整えながら自分の生命活動を感じつつ、真っ白なドアを開けた。
そこには昨日と同様に、備品管理に集中する保険医がいる。彼は、自分を認めて欲しくて話し掛けた。
「なあ、先生……?」
だけど、返事はない。
……いや、集中していて聞こえていないだけだ。
今度はそばに行って、話しかけることにする。だけど、それは出来なかった。
真後ろまで近付いた時、急に保険医が振り返って思わず目を瞑る。
だけどーー、その衝撃はいつまで経っても来なかった。
後ろを振り返れば、明らかに避けたとは思えない不自然な角度で位置している。
「なんで……?」
自分に起こったことが信じられないとばかりに、彼は白い部屋にあるものを手当たり次第に触る。
だけど、そのどれもが物質としての機能を発揮してくれない。
ーーまるで、幽霊になったみたいだ。
ふと、そう思った。
「まさか。そんな訳ない」
ーー今までも俺は生きていた。会話だって……。
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