第七章 戦人、永訣の朝に
自室の窓枠に座って、慧はぼんやりとアンダーシティを見下ろしていた。服は浴衣のままで、手には、緑色の煙草の箱がある。燈瑞と同じ銘柄だ。遠くでは、まだ祭の余韻に浸っている数少ない住人達が、夜の闇が濃くなる前にと家路を急いでいた。
慧は煙草を咥えて火をつけ、煙をくゆらせる。
「うーん……やっぱりこれの良さだけは、分からないなあ」
慧は煙を吐き出し、不味そうに舌を出す。慣れない苦味に気分が悪くなった。窓から吹き込んできた風で煙が舞い戻り、目に沁みる。煙草の箱を弄りながら、慧は視線を更に遠く―――ダウンタウンへと向けた。夜の暗闇に、結界で隔離された空間は薄ぼんやりとした灯りを放っている。
「……ん?」
慧はふと部屋の中を振り返った。電気を点けていない部屋は薄暗く、人の気配はしない。
「……気のせいか」
慧はまた視線を外に向けた。そして、煙草を指に挟み、思考を巡らせる―――
「……僕が、しっかりしないとね」
そう呟いて、慧は振り返る。
眼前に、黒い棒が振り上げられていた。
朝日に目を細めながら、沙弥子は欠伸をした。食事を盆に乗せ、ミズチの部屋に向かう。
「ミズチちゃん?」
「はい」
「はい、ご飯。……大丈夫? 昨日、何かあったみたいだけど」
「大丈夫です。ちゃんと、朝になったら消えましたから」
にっこりと笑うミズチに、沙弥子は不安げな顔になる。食事の乗った盆を床に置き、ミズチに差し出す。ミズチは顔を上げ、沙弥子の後方に視線を向ける。
「ねえ、ミズチちゃん」
「はい?」
「実はね。明日、」
そう口を開いて、ミズチと視線が合わないことに沙弥子は気付く。
「ミズチちゃん?」
ミズチの視線は、沙弥子の肩の更に後ろへと向いている。驚いたように見開かれた双眸に、黒い影が映っていた。
沙弥子が振り返る。そこには、真っ黒な影が立っていた。ほぼ反射的に腰のポーチへと手を伸ばし、沙弥子は息を飲む。だが、それよりもその影が黒い棒を振り上げる方が早かった。
鈍い音がした。沙弥子は一瞬苦痛に顔を歪ませ、そのまま床に倒れ込む。その人影は沙弥子を棒で横に退けると、床に設置されていた陣の一か所、石が積まれていたところを蹴り飛ばす。ばちんっ、と電気が弾けるような音がして、結界が消失した。
「……やあミズチ。見つけるのに随分とかかってしまったよ。上手く隠れたものだ」
そう言ってミズチの前にしゃがんだのは、夏だというのに黒いマント着、フードで顔を隠した―――恐らくは―――男であった。手に握っていた棒は、漆黒の木刀である。
「おいで。今日から俺が主だ」
男が手を差し出す。ミズチは不安げに男を見上げ、首を横に振った。男は、フードの下に覗く唇を曲げ、ミズチの顔を掴む。
「いつまで式神のつもりかな。もうお前はミズチなんだよ」
「……?」
「記憶すら不確かなくせに。お前はもう要らないんだよ」
男の言葉に、ミズチはびくりと体を震わせる。男がフードを降ろすと、墨のように真っ黒な髪と、目元を隠す、白い動物の頭蓋骨の仮面が露わになった。猫のような頭蓋骨の目元の奥には、澄んだ緑色の瞳がある。
「目を醒ませミズチ。お前はサムライを殺そうと願われた呪いだ。その呪いの主を喰って生まれたマジモノだ。お前が還ってこないと、主を救えないんだよ」
「…………あ、」
真っ直ぐに、男の言葉が自分の奥底へと刺さっていく。そんな感覚がした。離れた男の、鴉のような姿が、いやに自分を引きつける。主だと、知っていた。そんな気がした。
ミズチは立ち上がり、細い指先が男の服を掴む。男は再びフードを被り、きゅっ、と両腕で軽くミズチを抱き寄せた。
「……もうちょっとだ。もうちょっとで主が戻ってくる」
男が掠れた声で呟く。ミズチは目を瞑って、口元を男の襟元に沈めた。
デスクの引き出しを開け、ふとそこに入れてあった煙草が減っていることに気付く。慧か、と燈瑞は溜息を吐いた。
「ヤマブキ」
「ああーい?」
ソファに横になっていたヤマブキが、ぴょこんと身軽に床に飛び降りる。
「今日も依頼が入っている。行くぞ」
「はーい」
ヤマブキは頭蓋骨を掴んで燈瑞に駆け寄った。燈瑞は剣帯を腰に通す。
「……ん」
「ん?」
玄関へと向かって数歩進んだところで、燈瑞は足を止めた。腰の刀に手をかけ、視線だけを後方へと滑らせる。
「伏せろ」
言うなり、燈瑞は振り返りざま刀を抜き放った。ヤマブキは慌てて床に伏せる。ヤマブキの顔のすぐ横を、燈瑞のブーツが踏みしめた。
横薙ぎに振り抜かれた燈瑞の刀には、黒い布が巻き付いていた。布が翻る、ばたばたとした音がする。
「っ!?」
ヤマブキが顔を上げ、その相手を探した。寸前まで無かった気配が、途端に明瞭になる。気配を追って視線を上げると、相手は天井にいた―――逆さまになって。
「……やれやれ、流石に強いな。気配はすっかり消したつもりだったんだが」
「……何者だ」
天井からぶら下がっているのは、闇に溶けるような漆黒の衣装の男であった。顔は獣の頭骸骨の面で隠れている。燈瑞は刀を振って布を取り払い、男を睨み上げた。男は腕を組み、仮面の奥の視線をヤマブキへと向ける。
「名乗るほどの者じゃない。素材を探していただけだ」
「……素材?」
燈瑞が怪訝な顔をすると、男は仮面に手を当てて口元を笑わせ、ゆっくりと頷いた。
「貰って行こう。式神、百八体目」
「っ……ヤマブキ!」
燈瑞が叫び、ヤマブキは肩を竦めた。が―――
「や、」
燈瑞が払った黒布が、床から跳ねあがってヤマブキを捕える。ぼしゅっ、とヤマブキの姿が掻き消えた。それに燈瑞が気を取られた一瞬で、男は燈瑞の背後に降り立っていた。
「これできっと助けられる」
男が振り上げた木刀が、燈瑞の後頭部を打つ。鈍い衝撃に、燈瑞は顔をしかめ、そのまま床に倒れ込んだ。燈瑞が首から下げていた板が、からん、と床に転がる。
「ん? ほう……藤虎の……嗚呼、お前が生き残りだったか」
男がその、家紋が刻まれた板に手を伸ばした。が―――板に触れる寸前、その手首を燈瑞の腕が掴む。
「これに……触れるな……!」
怒りに顔を歪ませ、燈瑞は男を睨み上げた。男は口元を笑わせると、するりと燈瑞の手から抜け出す。そして、床にわだかまった布を拾い上げた。
「目的はこちらだ。ああそれと、ミズチを預かって貰って、感謝する」
男はそう言って、燈瑞の意識が泥沼へと沈む中、薄暗がりの中にその姿を消した。
遠くから、焦ったような足音が近付いてきているのが分かった。だがどうにも、体が重く、目が開かない。全身を包む柔らかい感触に、そのまま沈んでしまいそうだった。
「燈瑞!」
声と共に、右腕を掴まれた。その痛みに顔を顰め、ようやく燈瑞は重たい瞼を開く。霞んでいた視界は、数度の瞬きで徐々に明瞭になった。
「……高杉……?」
「……良かった。案外、平気みたいだね」
ベッドの横に、慧が立っていた。慧は頭に包帯を巻かれていて、淡い空色の、病院服を着ている。体を起こさずに視線だけを巡らせると、清潔な室内が見えた。ゆっくりと、全身の感覚が戻って来る。燈瑞は深く息を吐いた。
「気になって、電話してみたんだ。そしたらあなたが全然電話に出ないから……大事にならなくて良かった」
「……ここは?」
燈瑞は体を起こした。瞬間、後頭部に鋭い痛みが走る。
「病院だよ。アンダーシティ唯一のまともな病院。あなたが運ばれてきて、そろそろ半日ってところかな」
「……何故お前もいる」
「昨日の夜、家に帰ってから襲われてさぁ」
へらっとして慧は頭を掻いた。
「そしたら、翌朝……つまり今朝だね。サクちゃんも襲われて、ミズチちゃんが攫われたって聞いたから。もしかしたらと思ったんだ。ビンゴだったね」
「……襲撃者の顔は見たか」
「ううん。生きてる人間の気配はしなかったし、突然だったからなあ」
「……確かに、人間の気配はしなかった」
燈瑞は額に手を遣った。
「……そう言えば。『朝霞』についてのファイル、あなた、あの日……琳君の一件の日に、置いて行っただろう。読ませてもらったよ」
「あ? ああ」
「確かに、朝霞の家は立派な陰陽師だったみたいだね」
慧は椅子を引き寄せ、燈瑞のベッドの隣に座った。
「でも、マジモノを作ってはいなかったみたいだよ。資料に残るような陰陽師のお家は大体そうだろうけどさ。それで、僕独自のルートで調べてみたんだけど」
慧は懐から、数枚束ねた紙を取り出した。燈瑞はそれを受け取り、捲って首を傾げる。
「……トウキョウで登録されている式神の名簿一覧か。どんな人脈を使ったんだ」
「まあそこはちょっと言えない。それよりほら、ここにヤマブキ君がいる。十年前だ。ご主人はあなた」
「そうだな」
「で、『朝霞』の名前が冠された唯一の式神が―――この子」
慧が指差したのは、『朝霞ウズメ』という式神であった。形状は『少女』となっており、性格は『臆病』、役割は『結界守』と書かれている。主人の欄は空白であった。
そして、備考の欄に、『失踪』と、書きこまれていた。
「………………」
「ね。もしかして、僕の仮説が正しいかもね」
慧は燈瑞の顔を覗き込み、きゅっ、と笑みを深めた。
「ミズチちゃんは本当に、『堕ちた式神』かもよ?」
燈瑞は名簿に指を当て、備考欄をなぞっていく。そして、備考欄に『失踪』と書かれた式神の数を数えていった。登録年月日を遡るごとにそれは増え、二十年、三十年と名簿を遡った頃には、九十を超えていた。だが、四十年前になるとその数は突然減り、五年以上『失踪』が見られないことも増えた。息を一つ、燈瑞は慧の言葉にゆっくりと首を横に振る。
「……違う、逆なんだ」
「ん?」
燈瑞は、何かに気付いたような、愕然とした表情になっていた。そして名簿を慧に突っ返し、ベッドの横に置いてあった眼帯を掴む。
「高杉、警察の方にツテはあるか」
「ん? まあ、無いことはないけれど。平日だからなあ、二、三人掴まえられれば御の字だと思って欲しいな」
「構わない。調べて欲しいことができた」
「いいけど」
燈瑞はベッドから降り、眼帯の紐を結んだ。
「ミズチの正体が分かった……かも知れない」
燈瑞の言葉に、慧は目を丸くした。
寒い、とヤマブキは膝を抱えた。身を守る為に咄嗟に依代の中に引き籠ったものの、普段であれば快適な筈のその空間は、真冬のように冷え込んでいた。
「【ムラクモ】……」
ヤマブキは膝に顔を埋める。漆黒に塗りつぶされた視界では、状況も分からない。一度中に引き籠ってしまえば、現在主人である燈瑞以外は自分を召喚できない。否―――例え出来たとしても、燈瑞以外に呼ばれて外に出る気は無かった。
だが――――
「―――ぅわっ!?」
突然、引っ張られるようにしてヤマブキは現実空間に放り出された。べしゃ、と床に顔面から着地させられるが、ヤマブキは即座に身体を捻って体勢を整える。頭蓋骨の隙間から周囲を見回すと、灰色の壁と割れた窓ガラスが見えた。廃墟の中だろうか。
「だ……誰だ!」
自分の背後に立っていたのは、やはり、あの男であった。顔は相変わらず骸骨の面で隠されている。羽織っているのは足元まである漆黒のマントだ。長身痩躯、マントの内側も、ぴったりとした黒い服である。ざわっ、とヤマブキの髪が逆立った。
人間ではない。そう直感的に悟る。
「誰だ? それに答える必要はあるのか。お前の自我なんかすぐに消える」
男が、後方から何かをヤマブキに向かって放る。
「って、ミズチ!?」
ヤマブキは、放り投げられたミズチを正面から受け止めた。ミズチはぐったりとして、ヤマブキの上に倒れ込んでいる。細い体は震え、顔は青白くなっていた。
「……ヤマブキ……君……?」
ミズチが顔を上げた。男は舌打ちする。
「流石朝霞のジジイだ……式神も超一級か。この期に及んでまだ自我を取り戻すとは」
「あうっ!」
男はミズチの髪を引っ張った。ミズチは顔を顰め、ヤマブキから引き剥がされる。
「だが都合がいい。全力で反抗して見せろ。自分の中のマジモノを消そうと必死になってみせろ、式神」
「な、何なんですか? 何を言って……私は……きゃっ!」
男の平手がミズチの頬を打つ。
「いいから抗って見せろ、式神だろうが!」
「止めろよ! お前だって式神だろ、何やってんだ!」
ヤマブキが、男の腕に飛びついた。男は舌打ちをし、腕を振ってヤマブキを引き剥がす。
「はっ、式神が皆仲良しこよしできる奴だとか思ってるのか」
背中から床に倒れ、「きゅっ」とヤマブキは声を上げる。ぐるん、と一回転して立ち上がると、ヤマブキは拳を構えて男を睨み上げた。
「お前も獣の頭蓋持ちか……なら、今度こそ」
男がミズチの髪を離し、ミズチは床に倒れ込む。
「何だよ……何をするつもりだよ!」
「仕事をさせるだけだ。式神の仕事は、マジモノに対抗することだろう?」
男は頭蓋骨の面を持ち上げ、目を細めた。若い青年の、やや整った顔だ。雪のように白い肌に緑の目はヤマブキと同じだが、黒い髪は式神のそれではない。
「……ミズチを消してみせろ」
「……は?」
男はヤマブキの襟首を掴み、吊り上げてミズチに向き直った。蹲っていたミズチは、ゆっくりと顔を上げる。ぞっとするような無表情で、紅の目がぎらりと光っている。
「ちっ……朝霞のでも無理だったか」
その双眸が男とヤマブキを捉え、ミズチの口元がゆっくりと笑う。びくりとして、ヤマブキは頭の頭蓋骨を硬く握った。ミズチが、ゆらりとヤマブキに近付いてくる。
「そら、ミズチ。次の敵だ」
ミズチは男の言葉に頷いた。ヤマブキの前に座り、ミズチは手をヤマブキの頬に当てた。
「っ!」
振り払おうとしたヤマブキの手を、男が掴む。
「マジモノの一部になりたくなければ抗え」
「はっ? お前何言って」
「抗え!」
男がヤマブキの頭を掴み、ミズチは両手でその頬を包み込んだ。
じゅく、と、ヤマブキの頬に黒ずみが現れる。痛みはないが、虫が這い廻っているような不快感が生じる。
「――――っ!」
ヤマブキはミズチの手を払って後方に逃げ、頬を擦る。ミズチの指先が触れていた部分が、腐ったように崩れていた。ぼろぼろと頬が崩れ落ち、擦った手にも墨のように黒ずみが伝播する。男は舌打ちし、ヤマブキの襟首を掴んだ。
「逃げるな、抗って見せろ」
「お前……何だよ! マジモノを消して欲しいなら、サムライに頼めばいいだろ!?」
「それじゃあ主が死ぬじゃないか」
男の言葉に、ヤマブキは目を見開いた。
「……まさか、ミズチはお前の」
「無駄口を叩いてないで抗え。式神だろう。お前の命の源、そのナオビカミはマガツカミと打ち消し合う存在だろう」
ヤマブキの言葉を遮り、男は顔をしかめた。
「……お前」
ヤマブキは呻くように呟き、欠けた頬を擦る。純白だった髪はくすみ、逆立っていた。
「分かったな? 逃がすわけにはいかないんだよ」
男が、狭い部屋の出入り口に立った。ヤマブキは親指を咥え、犬歯でその先端を噛み切った。取り出した親指からは、人のように紅い血がにじみ出している。
「ミズチぃいいいいいいいっ!」
己を奮い立たせるために叫ぶ。ミズチは緩慢に立ち上がると、長い髪を垂らして首を傾ける。張り付いたような笑顔は変わっていなかった。
血を飛ばし、ありったけの霊力を注ぎ込む。足から力が抜けて、薄汚れた床に膝を付いた。
「~っ!」
ミズチはたたらを踏んで離れ、歯を食いしばる。ヤマブキは全身から霊力を放出し、入り込んでいたマジモノの呪念を弾き出した。
「とぉおおおおりゃああああっ!」
ヤマブキはそのまま、体勢を低くしてミズチの腹部にタックルをかました。ミズチが背中から倒れ、ヤマブキは霊力を放出したままその上にのしかかる。
「ひっ……」
ミズチの目が見開き、細い指が床を引っ掻く。剥き出しになった鋭い牙ががちがちと鳴っていた。背筋を悪寒が這い上がり、ヤマブキは飛び上がってミズチから離れる。
ミズチは立ち上がり、顔の前に垂れ下がってきた髪を掻き上げる。
「――――来た」
ぽつり、と後方で男が呟いた。ミズチが手を上げ、思い切り振り下ろす。瞬間、ミズチを中心に、床に波紋が広がった。ヤマブキはほぼ反射的に飛び上がり、天井に吊るしてあった蛍光灯にぶら下がる。数度の波紋に合わせ、床が次第に黒く染まった。
「……ァアアアッ!」
ミズチが叫び、ごぼごぼと床が泡立つ。まるで底なし沼のように、狭い部屋の床を漆黒が埋め尽くしていた。
赤黒い触手が、その床から飛び出す。それはヤマブキを絡めとり、一気に天井から引きずり降ろす。不味い、と拳を握るが、一気に霊力を放出した反動か、巻き付いた触手を緩めることも出来なかった。
床に引きずり込まれ、ヤマブキは反射的に両手で顔を庇う。ねっとりと全身に絡みついてくるような闇だ。ぐいぐいと、その底なしの闇に引きずり込まれて行く。
「っ、」
ヤマブキは口元を押さえ、ぎゅっと目を瞑った。
ミズチが立ち上がり、床に広がっていた波紋がミズチへ向かって収束する。泡立っていた床は元通り灰色となり、ヤマブキの姿は何処にも無かった。
「ミズチ、飲んだか」
「……ハイ」
すっとミズチは立ち上がり、胸元で手を握る。
「……ちっ、変化がないな……」
男が舌打ちし、ミズチは首を捻る。
「……もう百八だというのに、どれだけお前は強いんだ、ミズチ」
「………………」
すっ、とミズチは目を細めた。男は慌てたように両手を出し、ミズチを宥める。
「まあまあそう殺気立つな。俺はお前の味方だ。そうだろう?」
「……式神ハ敵」
「ああ、式神は、敵だ。でも俺はお前の主人で、お前の味方」
「……、」
「分かるな?」
ぐっ、と男はミズチの肩を掴んだ。
「…………ハイ」
掠れた声でミズチが返事をする。男はほっと息を吐いた。
「やれやれ。それじゃあ次の獲物を探しに行こう。……牛頭のには期待していたんだがな」
男が踵を返す。ミズチもその後に続いて一歩を踏み出した。
だが――――踏み出した二歩目は、がくりと膝から崩れ落ちた。そのまま、ミズチは床に倒れ込む。驚いて男が振り返るのと同時に、ミズチの背から、赤黒く染まった腕が生えた。
「っ!?」
小さく、丸みを帯びた手だ。肉を裂き、骨を砕く音と共に、ミズチの背に生えたそれは傷口を広げていく。
「……ぅおらああああっ!」
両手で傷を押し広げながら現れたのは、ヤマブキであった。頭まで赤黒い液体に濡れ、澄んだ緑だった目は灰色にくすんでいる。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
荒い息を吐き出すヤマブキが、男を鋭く振り返る。男は驚いたような顔のまま、ヤマブキを見つめて目を瞬かせていた。
「……主だろ」
ヤマブキが、男を見上げて言う。男はびくりと体を震わせた。
「ほら図星だ。……そうかよ、てめぇの主の為に必死だってか」
「……ああ。式神なら分かるだろ? 俺だって主が大切なんだ」
「分かるけど、協力はできねえよ」
ヤマブキは赤黒い液体を吐き捨て、ごしごしと顔を擦った。
「……道を開けろ。俺は俺の主人のところに帰る」
「できないな。俺は俺の主人を取り戻したいんだ」
男が、頭蓋骨の仮面を目元に降ろす。ヤマブキは牛の頭蓋骨を掴み、ふっ、と短く息を吐いた。
「ねえ、ヤマブキ君が攫われたっていうのに、こんなに悠長に本を広げていていいのかい」
燈瑞の事務所で、慧は床に胡坐をかいて頬杖を付いた。膝の上には分厚い本が乗せられている。視線の先で、燈瑞はソファに座って本を開いていた。
「あいつはそう簡単に死なん。情報を揃えて勝機を上げるのが先だ」
「あー……何だっけ? マジモノと式神の相関関係だっけ」
「ああ。式神の中のナオビカミで、マガツカミを打ち消すことは可能か」
燈瑞は本を捲り、ぱらぱらとページに目を通してゆく。慧は溜息を吐き、本棚に向き直った。
「ああ、そういう理論か。……先生には悪いけど、僕は理論が苦手だなあ。学校で習った理論なんて、現場じゃ何の役にも立たないじゃないか」
「理論は役には立たん。だが知識は、役に立つ」
燈瑞がぴしゃりと言い、慧は口をつぐむ。
「……ねえ。気になるんだけど、ミズチちゃんの『正体』って何だい? あの子はマジモノだろう?」
「ああ。『ミズチ』はマジモノの名前だろう。だがあの人格は、恐らく式神のものなんだ」
「……んー?」
「つまり」
どん、と燈瑞は本の一ページを開いて慧につき出す。
「ミズチの背後にもう一人いるんだ。それが俺達を襲撃した。式神の失踪記録を見るに……意図的に、あの何者かが式神を集めている。今回狙われたのはヤマブキだが、以前があのミズチの人格……確か、『朝霞ウズメ』だったか。それなんだ」
「なるほど……彼女は、マジモノに飲み込まれた式神の人格ってこと?」
「まあそうだな」
「じゃあ目的は何なのさ。散々人を殺しておいて、まだ何かやりたいことがあるのかい」
「想像に過ぎないが……」
黒装束の男は、両手でミズチの頬を包む。震えるその手は、人形のように無表情なミズチの頬を、優しく、愛おし気に撫でた。
「主、主……そこにいるんだろう? 主、まだ、呪いに喰われた奥底で、俺を待ってくれているんだろう?」
男は縋るように、何度もそう呟く。
「すまない、主。餌を逃がしてしまった。ミズチが消えてくれないんだ。こいつはまたサムライを殺したんだ。それでまた強くなってしまったんだ。主、主、主……」
きょとん、とミズチは瞬きをした。男はミズチを抱き寄せ、震える息を吐く。
「……逃げられてしまった。折角の牛頭の式神に逃げられた……ごめんなさい……」
狭い廃墟の部屋に、既にヤマブキの姿はない。代わりに、裸足の足跡が外へと向かい、男が纏っていた黒装束は引き裂かれていた。
「絶対に、マジモノから人間に戻してみせるから……主、俺をまた主の式神にしてくれ……絶対に、ミズチから助け出してみせるから……!」
「恐らく、敵はミズチを人間に戻そうとしているんだろう」
煙草に火を点け、燈瑞は本を閉じる。
「マジモノを、人間に?」
「ああ」
「……無茶な。どうやって」
「式神を喰わせるんだ。式神の力で相殺して、マジモノを消そうとしているんだろう」
「……まるで子供の発想だ」
「だが筋は通る……式神の失踪事件の状況もそうだ。前触れもなく、優秀な式神ほど多く消えている。ヤマブキは優秀な式神だ。だから狙われた」
慧のツテで警察から送られてきた資料を机に置き、燈瑞は苦々しい顔になる。そして長々と、煙を吐き出した。慧は眉宇をひそめ、腕を組む。
「最新の実験でも成功していないって、サクちゃん言ってたよ」
「成功する云々ではないんだろう。……誰だって、法を犯し、他者の都合を無視して、全てを犠牲にしてでも、果たしたい願いはある」
燈瑞は胸元の家紋を握った。
「……まあ、敵が動き出すならそろそろだろうね。ヤマブキ君も心配だ。ミズチちゃんがどうなるにせよ、今彼女は間違いなくマジモノだ。……万が一には備えないとね」
「そうだな」
「僕は組合に戻るよ。ある程度装備も整えたいし、新人達には大きい一件だから避難させないと。ミズチちゃんのマジモノの姿を見たのは、僕とあなただけだ。うかつに挑んで死んでほしくはない」
慧は腰の飾りを握り、自嘲気味に笑う。
「……もし新人達が対処できる強さなら、あの琳君が勝てないわけがないからね」
慧は「それじゃあ」と手を振って事務所を出た。見上げた空は曇天で、重苦しい薄墨色をしていた。
「……また雨になりそうだなあ」
慧は、包帯を巻いた額を撫でる。それから表情をすっと引き締めると、組合の詰め所へと向かって走り出した。
闇の中で、意識が切り裂かれるように感じた。
ミズチは――――かつて『ウズメ』の名を持っていた式神は、底知れない闇の中で、その意識だけを抱えて漂っていた。
もう外の世界は見えない。だが、その代わりと言うように、忘れていた記憶は次々と戻ってきていた。
(私はずっと利用されていたんだ)
式神として、この意識は生まれた。だが、結界守としての式神の役割も、かつての主人の名前も、そして自分の本当の名前すらも、全て自分は忘れていた。マジモノを打ち消し、自分こそが生き残るのだと必死になっていたというのに。自分はその人格だけを残されて、マジモノを覆い隠す器に成り下がっていたのだ。
(ごめんなさい……ごめんなさい、ヒスイ……ヤマブキ君……アキラさん……サヤコさん……リンさん……私は、私は……!)
ミズチの力の源となるものは、人の負の心、呪念だ。それがあまりに強く、如何に抗おうとも霊力が失われるばかりだ。その根源がただ一人の人間だとは信じがたいほどに、深く、強い闇が、辛うじて残る意識を飲み込んでいく。
(……誰か、)
声にならない叫びは、やはり闇へと飲み込まれて消えていった。
「――――なあミズチ」
数多の式神の悲鳴を内側に包みながら、人形のようなマジモノは只、ガラス玉のように主人を見上げる。
「今日死ぬなら、最後に何人殺したい?」
主人の指が指差したものをミズチは、取り込んだ式神の記憶で知っていた。
未熟なサムライも多い、組合の詰め所だ。