第六章 背負いしものは
ダウンタウンの一角では、夜を煌々と照らす提灯と、甘い香りのする露店が並んでいた。祭囃子がビルに反射し、狭い空に鳴り響く。
「ねえーヤマブキ君? あれ美味しそうじゃない、林檎飴だって。買ってあげるよ?」
「……いい」
「そっかぁ。じゃあお面は? 君も、そんな物騒なもの頭に乗せてないでさ、あのヒーローのお面なんかどうだい?」
「これは俺の一部だし……ていうか、」
腰帯に括りつけられた風船を殴り、ヤマブキは慧を睨み上げた。ヤマブキは子供用の甚平姿で、慧は深い緑の浴衣姿だ。
「何でお前なんかと祭を回んなきゃいけねーんだよ!?」
「仕方ないじゃないか、お祭、楽しみにしてたんだろう?」
チョコバナナを齧りながら、慧は笑う。ヤマブキは言葉に詰まった。
「それにさーあ、燈瑞だって、お土産楽しみにしてるかもよ?」
慧はヤマブキの頭蓋骨を持ち上げ、その緑の双眸をにやにやして見詰める。ヤマブキはひったくるように頭蓋骨を取り返すと、唇を尖らせてそっぽを向いた。
「燈瑞、甘いもの好きだったよねぇー。綿菓子なんかもいいんじゃないかなぁ。クレープに水飴、さっき言った林檎飴だって美味しだろうし、向こうは杏子飴あったっけ? 焼きそばとかお好み焼きだって、普段は作らないだろう?」
「ううう……」
「だからほら、お子様はお子様らしく、お祭りを楽しみなさい」
ひょいっ、と慧はヤマブキを持ち上げた。
「うわわわっ?」
そのまま、軽いヤマブキを肩車し、慧は人込みの中を歩く。
「年に一度のお祭りだよ。今日だけは、子供らしくさ」
「……俺、多分お前より年上だよ? お前、何歳だっけ」
「二十八」
「やっぱり年上だ」
「……そっかぁ」
慧の笑みが微妙に引きつった。
事の始まりは一時間ほど前に遡る。
「三十八度……二分」
体温計に映った表示を見、燈瑞はソファに倒れ込んだ。
「風邪だねぇ、完璧」
ヤマブキからSOSコールを受けた慧が、苦笑してペットボトルをローテーブルに置く。
「まともなベッド、無かったっけ?」
「……無い」
燈瑞はブーツを脱ぎ、ソファに仰向けになって額に腕を乗せる。ヤマブキが毛布を持って来て、慧がそれを燈瑞にかける。
「まあ、ソファでも問題無いならいいけど。ちゃんと水分補給して、お粥でも良いから腹空っぽにしないで、大人しく寝てなよ?」
「……分かった」
「全く。ヤマブキ君がいなかったら死んでたんじゃないの?」
慧の携帯に、泣きそうなヤマブキからの電話が来たのは数十分前のことだ。慧は出先だったそうだが、すぐに食料と薬類を買って現れたのだ。
「……うう……」
「珍しいね、あなたが風邪なんて。何、らしくないことでもした?」
「ここ最近、ずっとな……」
「はい、冷えピタ」
慧は燈瑞の腕を顔から退けさせ、額に冷却シートを貼り付ける。燈瑞は大人しくソファに横になって貼られていた。
「さて、と。こんなもんかなぁ。お粥は作ってあるし。ま、あなたの体力なら一両日中には回復するでしょ」
「……そうだと良いがな……」
「はいはいオッサン気弱にならない。全く、今日はお祭だから人が多くて、色々買ってくるの大変だったんだよ?」
言いつつも、何処か楽しそうに慧は笑っている。
「……祭か……」
祭、と言う言葉に、氷枕を作っていたヤマブキが顔を上げ、少しばかり残念そうな顔になった。慧はそれに気付き、苦笑する。
「連れて行くつもりだったんだ?」
「ああ、まあ、毎年恒例だったしな……」
「……僕が連れてってあげようか」
「あ?」
「ダウンタウンだろう? 今日はもう仕事終わるしさ。急いでたから、プリンとかヨーグルトとか、燈瑞の分しか買って来てないし」
「……助かるが……」
「良いって良いって。たまには大人しく親切を受け取りなよ」
慧はそして、ヤマブキが作った氷枕を燈瑞に押し付け、ヤマブキの手を取る。
「それじゃ、行ってくるね。鍵は?」
「ヤマブキも持ってる」
「そっか、じゃ、行こうかヤマブキ君?」
「え? でも……」
戸惑った様子のヤマブキに、燈瑞は顔を上げ、手を振った。
「楽しんで来い、折角だ」
「……行ってきます」
納得しない様子ながらも、ヤマブキは慧に手を引かれて出て行った。
「大体俺は【ムラクモ】が行けって言ったから来ただけで、【ナムチ】と一緒に祭を回っても何も楽しくないしこんなことしてる間にも事務所であいつはぶっ倒れてるのに何で俺が一人で楽しめるんだって話で」
「本当に君は、燈瑞が大好きだねぇ」
小声の愚痴でも、慧にはしっかりと聞かれていたらしい。慧の声に、ぼっ、とヤマブキは顔を赤くする。
「は、はあ!? だだだ大好きってそんな訳ねぇだろ!」
「髪引っ張らないでよ痛いなぁ。でも、燈瑞と一緒に来たかった、て事だろう」
「うっ……それは……」
「ここに燈瑞はいないんだよ? 素直になりなよ」
慧の言葉に、ヤマブキは足をばたつかせるのをやめた。そして、雑踏を睨みながら、ぼそりと言う。
「……大好きに決まってんだろ。あの人は、俺を救ってくれたんだから」
「……へえ」
「な、何だよその反応!」
ぽかぽかとヤマブキは慧の頭を叩く。
「痛い痛い痛い痛い! 流石に、君の力でそれは痛いよ」
「ごっ……ごめん」
「でも気になるなぁ。君と燈瑞の出会い。どんな感じだったの? 燈瑞とはかれこれ、十年以上……十二年かな? それくらい付き合いがあるけれど、君いつのまにかいたからね」
「……出会いは、ダウンタウンの、式神市場だよ」
「へっ?」
「そこで、買われたんだ」
そしてヤマブキは、慧の頭に顎を乗せ、牛の頭蓋骨で顔を隠した。
ダウンタウンの商業地外れ、式神市場。稼ぎ場―――議員や芸能人のお抱え―――にあぶれた陰陽師達が、自作の式神を売る場所だ。術の知識も殆ど不要で、一般人程度の霊力があれば使えるということで、市場の式神は人気であった。
燈瑞がそこを訪れたのは、十年前、二十二歳の時だった。既に組合を抜け、フリーとしての活動を始めていた燈瑞は、大型のマジモノを相手に立ちまわる際の補助役を探していたらしい。
「へえ、君、そこで売られてたんだ?」
「いいや」
ヤマブキは当初、国会議員の護衛役として売られた、戦闘用式神であった。当時の名前は『白の三号』、能力が高く、子供ゆえに小回りが利くという理由で買われた。だが、人間に大人しく従うということが肌に合わず、すぐに返品された。その後も顔を気に入った金持ちの少女に買われたり、別の議員に転売されたりもして何年も彷徨ったが、結局は市場に戻って来た。
「俺って牛頭の式神だろ?」
「ああ、人間以外のパーツがある式神は珍しいんだっけ」
「そう。だから、返品されても処分されなかったんだけどさ……流石に十年も二十年もあちこち点々としてたら、もう合う主人はいないだろうって思われて、処分されるところだったんだ」
「処分……?」
「式神も、依代が命なのはマジモノと同じだ。そこに憑いている命の素、ナオビカミを抜いて、存在そのものを丸ごと消すってことだよ」
その処分が下される当日、式神市場に来たのが燈瑞だった。純粋に力が強い式神を探していた燈瑞は、どの式神にも満足せず、結局、裏で処分を待っていた自分が連れ出された。
「それで、燈瑞のお眼鏡にかなったってことか」
「多分」
誰かに必要とされることが、式神の存在意義だ。処分されるよりはと渋々買われたものの、長くはもたないだろうと諦めていた。しかし、今まで通り思うままに振る舞っても、燈瑞は怒らなかった。
「歴代のご主人は、俺に自分が望む姿を押し付けてきたんだよ。でも【ムラクモ】のところなら、俺は俺のままでいいし、俺を大切にしてくれる」
きゅっ、とヤマブキは、慧の髪を握ってそれに顔を埋めた。顔は耳まで上気している。
「……『ヤマブキ』って名前くれたのも、初めてだったから、嬉しかったんだ」
「ヤマブキ、かあ。あの人も良い名前あげたじゃないか」
「え、ど、どんな意味なんだよ!?」
ヤマブキが顔を上げて下を覗き込んだ。慧は笑いながら、続ける。
「『金貨、大判小判。転じて、価値あるもの』」
「……価値ある、もの……」
ヤマブキは繰り返し――――ふにゃっ、と顔を笑わせた。
「それにしても、良い話が聞けたなぁ。燈瑞は過去語りなんかしないから」
「むっ、【ムラクモ】には内緒だぞ! こんなこと、話したなんて!」
「はいはい。それじゃ、今度は僕の過去話でも聞いて貰おうかなあ」
「? 別に、良いけどよ……俺に?」
「ちょっと誰かに聞いて欲しかったんだ。絶対誰にも話さない、誰かに」
慧はそして、哀しげに目を細めた。
「聞き流して良いから、聞いてくれないかな。僕の、ちょっとした過去話」
そう言った慧の右腰で、浴衣になっても普段と同じように揺れている腰飾りが、僅かに光った。
サムライの養成校は、通常二十歳で卒業である。しかし、優秀な人材は飛び級で進級し、体力がある若いうちに戦場に放り込まれるのが常だ。
そして慧は、十六歳という若さでサムライになった。
「十六!? 若すぎだろ……入学して一年ってことか?」
「そうだね。今期の最年少が威斯君で、それでも十九歳だからなぁ」
周りは、二十や、院に行っていれば二十二という大人ばかり。だが自分の実力はその中でも頭一つ抜けていた。そんな自分達の教育係に付いたのが、燈瑞であった。
「燈瑞も飛び級だから、まだ二十歳でさあ。眼帯とかは今と変わらないけど、まあ、歳の割に妙に落ち着いてるなぁとは思ったんだよね」
「……ジジクセェのは昔からか……」
燈瑞は、【ムラクモ】という神器の名を持ちながら、組合の中では一匹狼のように扱われていた。人との付き合いも薄く、大型を討伐した際の打ち上げにもほとんど参加しない。刀の扱いは、サムライで使われる主要な流派の何処にも属さず、先輩のサムライとの面識も師弟関係も無かった。師の名を問うても誰もその名を知らず、他者に詳細を教えることを嫌った。
端的に言えば、浮いていた。
新人と同い年で、【ムラクモ】の名を持っているからと教育係を押し付けられた燈瑞だが、その指導はほぼ放任主義であった。結果として、指導より仕事で忙しい燈瑞は次第に軽んじられるようになった。
「あんな奴教育係じゃないって、一番馬鹿にしてたのが、僕だったなぁ」
「へえ……」
「でもある日、とんでもない事件が起こってさ」
新人研修も終わりの頃、新人の一人が堕ちた。原因は、倒したマジモノの依代を素手で触るという、ごく初歩的なミスだ。
しかも、マジモノから抉り出した依代ではなく、マジモノに埋まっていた依代に触れた。故に、そのサムライがマジモノに取り込まれる形となった。
そして、その事を知った同期の新人達は、こぞってそれを助けに向かい、悉く取り込まれた。
「何それ。超やばいじゃん」
「うん、やばかった」
「それをお前が止めたの?」
「いいや」
本来、こういうトラブルは教育係を呼んで処理してもらうのが常だ。しかし燈瑞に反発していた慧が音頭を取って、自分達で処理しようとした。その結果として、仲間の半数は死に、残り半数は取り込まれた。
自分だけが残り――――どうしようもなくなって、自分は逃げ出した。
「その時にやっと、自分が只の天狗だったんだって気付いたんだよね。僕一人の力じゃ、あんな化け物に対抗できなかったんだ。まだ」
「で?」
「それで、どうしようもなくなってからようやく、燈瑞に頭を下げて頼んだんだ。皆を助けてくれって」
一仕事終え、ロビーに居た燈瑞の前に膝を付き、額を床に躊躇わずに擦りつけた。仲間を巻き込んだこと、仲間がまだ助かるかもしれないこと、自分ではどうしようもないこと。それを、羞恥心すら忘れて吐露した。まだ仲間が堕ちたと言う情報は入っておらず、その言葉で組合が大騒ぎとなった。
普段、散々燈瑞を軽んじて小馬鹿にしていた自分の嘆願を、あっさりと燈瑞は受け入れて出動した。そして――――
「僕以外の同期が十三人。助かったのは五人。残りは死んだ。まだ命があった奴も、マジモノに浸食されていたから、燈瑞が殺した」
結果として、被害はそれが『最小限』であった。死んだサムライ達の体は半分以上がマジモノに浸食されており、生き延びたところで人間として生きられるかは定かではなかった。
だが、未来ある新人を放任した挙句の大惨事に、サムライの協会は黙っていられなかった。
「燈瑞の行動は法には何一つ違反していない。でも、協会はその惨事を防ぐことが仕事だろうと、厳しくあの人を糾弾した」
腰の遺髪入れを握り、慧は自嘲気味の笑みをこぼす。
「あの人が組合を辞めたのも、僕のせいだ」
「……ふーん」
「ああ、すっきりした。くだらない話聞いてくれてありがとうね」
「くだらなくない」
ヤマブキは慧の髪から顔を上げる。
「この話をくだらないって言ったら、仲間の死だってくだらないってことになるんだぞ?」
「……そうだね」
じゃらん、と慧の腰で遺髪入れが揺れた。ヤマブキはそれを指差す。
「……それ」
「ああ。死んだ八人の同期と、その後死んだ、情を掛けた相手――――琳君の、形見だよ」
握った遺髪入れが、掌に食い込んで来る。その痛みを刻みつけるように、慧は更に強くそれを握った。
「……何と言うか、さ」
「ん?」
「僕とヤマブキ君は、案外に、似た者同士なのかもね」
「はあっ!? お前と似た者同士なんて、ふざけるなよ!」
ひょいっ、とヤマブキは慧の肩から飛び降り、人ごみの中に駆け込んで行った。腰帯に結んだ風船が、ふわふわと揺れながら進んでゆく。その様子を見、くすりと慧は笑った。
「似てるよ。素直じゃ無い所も、全部」
そして慧は、ヤマブキを見失わないようにと人込みの中に駆け出した。
遠くに花火の音を聞きながら、燈瑞は俯せでソファに転がっていた。首筋に当てた氷枕は既に溶け、冷却シートも役目を終えて無残に床に剥がれ落ちている。
冷めた粥が半分程まで入った器と、空になったペットボトルがローテーブルに乗っていた。壁掛け時計の音以外は、部屋で物音をたてるものはない。
静かに鍵を回す音がし、慎重に、玄関のドアが押し開けられた。足音を殺して、ヤマブキと慧がその隙間から入って来る。
「寝てるかな?」
「寝てるっぽいな」
さささささっ、と、音を立てずにヤマブキは燈瑞に近付く。横向きになった燈瑞は眼帯を外しており、ソファから垂れ下がった右の手の先端にそれを引っ掛けていた。
普段隠している右目は、上から下まで、鋭い傷で潰されていた。
「……うん、寝てる」
ソファの後ろでヤマブキが言い、慧は悪戯っぽく笑った。
「……うう……」
燈瑞は呻いてソファのクッションを抱き、顔をそこに埋める。慧は足音を殺して燈瑞に近付いた。ヤマブキに向かって、慧は口の前に人差し指を立てて見せる。ヤマブキも、ソファの上端を掴んだままうんうんと頷いた。
慧がゆっくりと手を振り上げる。その顔には、悪戯っぽい、それでいて邪悪な笑みがあった。
慧が握っているのは、祭りの屋台で手に入れた、プラスチック製の日本刀の玩具であった。慧は容赦なくそれを振り下ろし――――
銃声が轟いた。
「…………泣いていい?」
「自業自得だ」
クッションの下から抜き放った拳銃で、燈瑞は慧の得物を撃ち抜いていた。勿論弾丸は慧にはぶつからず、背後の壁に減り込んでいる。慧が持っていた日本刀の玩具は、中央付近から無残にも千切れていた。
「何だよーもう。弱ってる今だったら、あなたを驚かせられるかなぁなんて思ったのに」
「得物が違えば死んでいるぞ。全く……」
燈瑞は体を起こした。眠たげなその視線が、慧からヤマブキへと滑る。
「……ヤマブキ」
「ぴゃっ」
ヤマブキがソファの後ろに隠れる。燈瑞は風船の紐を掴んでヤマブキを吊り上げた。
「……楽しかったか?」
「う……まあな」
「燈瑞……僕には銃弾でヤマブキ君にはそれって、扱いに差がありすぎなんじゃないかい?」
「どうせお前の提案だろう」
「まあね」
しれっと言って、慧は向かいのソファに座った。
「風邪がうつるぞ」
「僕は健康だから大丈夫。これしか食べないで、もたないだろう?」
「………………」
「じゃ、ヤマブキ君は氷枕作り直して」
「はあーい」
ヤマブキが冷蔵庫に駆け寄り、慧も粥を鍋に戻して火を入れ直す。
「……大分楽になったし、もう大丈夫だが」
「熱測って」
「………………」
燈瑞は体温計を取り、額に手の甲を当てた。まだ確かに熱い。数分後、電子音と共に表示されたのは、三十七度八分であった。
「ほら、まだちょっとしか下がってない。食べられるだけ食べて。それと、お祭りで色々買ってきたから、気が向いたら食べてよ」
「……悪いな、本当に」
「別にー?」
粥やたこ焼きなどをローテーブルに並べ、膝に肘を乗せて頬杖を付き、にやにやと慧は燈瑞を見遣った。
「……迷惑だったら、帰るけどさ」
「別に、迷惑とは思っていないが。ありがたい」
「……そっか」
慧は、いつも浮かべている笑みに、僅かに安心したような色を見せた。それを見、燈瑞はふと、粥を口に運んでいたスプーンを下ろす。
「高杉」
「何?」
「お前はいい嫁になりそうだな」
「………………」
きょとんとして慧は目を瞬かせる。だが、緩んでいた顔が徐々に苦々しく歪んだ。
「気の利いたこと言うかと思ったら。誰がお嫁になんか。僕は可愛いお嫁さんを貰うんだから」
「球磨田か」
「はえっ!? あの……いや、その……そういうからかいを言う暇があったら自分の身を心配したらどうですかねっ?」
「俺はもうしばらくは、息子だけで手一杯だ」
燈瑞が言って、後方でヤマブキが、氷のボウルを引っ繰り返す。大慌てでそれを片付ける様子に、慧は気が抜けたように笑った。
「……敵わないなあ」
慧は目を細めて、仏頂面に戻った燈瑞を見つめる。
「僕も早く、あなたみたいに強くなりたい」
「……俺を目標にするのはやめておけ。お前にはお前のスタイルがある」
「いいじゃないか、憧れるくらいは」
慧は肩を竦め、それからふっと顔を曇らせた。
「……僕は、あの日から少しだって成長できていない。前に進みたいとは思っているのに」
慧は自嘲気味の笑みを零した。
「背負ったものが足枷になって、少しも前に進めやしない」
「……俺も同じだ」
燈瑞は手を伸ばし、わしゃわしゃと慧の茶髪を掻き回す。一瞬慧は体を硬直させたが、俯いたまま唇を噛んで頬を紅潮させた。
「それが足枷でなくなる瞬間が来ることを、祈ろう」
燈瑞は慧の頭から手を離す。乱れた髪に手をやって、慧は顔を上げた。
「……僕が女だったら、惚れてただろうなぁ。お嫁に貰ってくれた?」
「気色の悪い」
「冗談だよ。きっと女だったら、出会うこともなかった」
慧は立ち上がった。燈瑞は顔をしかめ、額に手を遣って息を吐く。
「ごめん、やっぱり帰るよ。ゆっくり休んで」
「あ? ああ……どうもな」
慧はひらひらと手を振り、事務所を出た。階段を降りながら、ふと足を止め、空を仰ぐ。
「……惚れてたに決まってんだろ、ずっと、昔から」
友情ではなく、ましてや男女の情愛でもない。自分の感情をどう分類すればいいのかが分からない。だが、燈瑞がいなければ今の自分がいないというのも事実であり、惹かれているのも事実だ。
「あんなカッコいい人、そうそういないって……」
畏敬の念とでも言うべきだろうか。だが、燈瑞相手に敬う態度を取ると燈瑞に苦い顔をされる。ならば、唯一無二の親友として、自分を頼って欲しい。人とほとんど慣れ合わない燈瑞が傍らにいることを許す人間が、自分だけであって欲しい。そんな―――醜い、独占欲。
「こんなんだから、女の子にフラれちゃうんだろうなぁ」
胸元を握り、慧は苦笑した。
小さな窓から、空にはじける花火を見上げる。結界の中に座り、ミズチはぼんやりと、光が空にはじけては散るのを見詰めていた。
「……ヒスイも、見てるかなぁ」
呟くと、寂寥の念が強くなる。それを抑え込もうとして、ミズチは唇を噛んだ。
「……フジトラ、ヒスイ……」
噛み締めるように、その名を呟く。瞬間――――
ざわっ、と、ミズチの髪が逆立った。肌の色が赤黒くなり、口がゆっくりと、三日月のような笑みの形に歪む。
「『海石榴野の次……藤虎、の、生き残り』」
逆立った髪が結界に触れ、電撃が走る。両手の指ががりがりと床を削った。結界の電撃はますます強まり、窓の札が一枚燃え上がる。
「ミズチちゃん!?」
慌てたような声と、荒々しい足音がする。まもなくドアが開かれ、沙弥子が現れた。手には、白い紙の人形を握っている。
「……サヤコさん?」
ドアが開いた刹那、すっとミズチの姿が可憐な少女のそれに戻る。
「……ああ、えっと……大丈夫?」
「何がですか?」
きょとんとしてミズチは聞く。沙弥子は答えられず、「何でもない」と言ってドアを閉じた。
「……大丈夫かしら……」
燈瑞が、直にミズチを引き取ることになっている。勿論沙弥子としても肩の荷が下りる気持ちだが―――ミズチはどうなのか。あの結界の中ですらマジモノの面が出ているというのに、結界から出てしまったら。
早く、あのリボンのように、ミズチを抑え込めるものを作らなければ。沙弥子は決意に表情を改め、書斎に向かった。
誰かが自分の頭を撫でていた。
『主、今度こそ……嗚呼、まだミズチのままなのか。ならばお前は今からミズチだ』
その誰かが、そう自分の耳元で囁く。違うと否定する悲鳴がするが、それも、何処かへと消えていく。
『次の素材を探してくるから、それまで自由にするといい』
背中を押されて、自分は夜の街に駆け出した。
自分の身体は、紐をねじって無理矢理人型にしたような、そんな奇怪なものだった。だがその事に微塵の疑問も感じず、自分は只走る。何かに引っ張られるように向かった先は、元士族の家が集中するアンダーシティ、司奈川地区だ。
そうして辿り着いた家。扉を取り払って、そこに居た少年を手始めに殴った。殴った、と言っても自分の手は刃だ、少年は吹っ飛んで床に倒れ、震える。二人の大人―――両親だろうか―――が応戦してくる。少年は右目から血を流しながら、床にへたり込んでいる。
母親越しに、その少年を見た。あどけない顔の半分は血に汚れ、自分を見上げている隻眼は恐怖に震えている。
『大丈夫。ね、ヒスイ、良い子だから……お父さんとお母さんは大丈夫だから。ダウンタウンに走りなさい。そして、陰陽師とサムライを呼んで来て。ね?』
少年が、青白い顔で何度も頷いた。
『行って……生きなさい!』
母親の切り裂くような声に、少年が逃げ出す。背を向いた母親の腹部を貫き、子供を追う。だが、がくりと体が引き留められて自分は転んだ。振り返れば、片腕を失った父親が、刀で自分の足を床に縫い付けている。
『藤虎の名を……途切れさせるわけには、いかないんだっ……!』
そう叫んだ口に、腕を突っ込んだ。
目が醒めた瞬間に、夢の意味を理解する。
「……嘘……」
ミズチは、固い床に横になったまま、顔を両手で覆った。だが、その白い指先に、毒々しい紅の液体がべっとりと染みついた幻覚が見える。歯を鳴らして肩を震わせ、ミズチは何度も首を横に振った。
起きてもしっかりと手の先に張り付いている、抉った肉と、折った骨の感触。口から頸椎を貫き、そのまま引きちぎった生首。殺した三人家族の両親と、逃げた少年の名前。そして何より、その全ての残虐な行為の中で感じた、狂おしいほどの愉悦。
「……私、は……」
紅いミズチの目が揺れ、華奢な自分の手を見詰める。震える唇はそれ以上、言葉を紡げなかった。
「――――嫌ぁああっ!」
ミズチは頭を抱え、結界の中でうずくまった。