第四章 境界線
気付くと体は宙に浮いていた。
「え?」
ミズチが事態を理解するより先に、その体は階段に叩きつけられる。そしてそのまま、地面まで転がり落ちた。
痛みに意識が遠のく。額が割れ、どろりとした血が流れ出していた。
「え? え? え?」
掌に落ちた血を見、ミズチは困惑を顔に浮かべる。そして、ゆっくりと階段を降りてくる琳を見上げた。
「……リン、さん?」
「ごめんね、本当に。でも君には死んでもらわなきゃ。そうしないと俺が壊れちゃうからね」
琳の声音は、変わらない。だが、目はもう笑っていない。その瞳の色は血のように紅かった。ミズチは身の危険を悟る。そして震える足を叱咤して立ち上がり、逃げ出した。
正気ではない。マジモノの呪念に、感染している。ミズチは泣きそうな顔で走った。
「ヒスイ……助けて、ヒスイ!」
叫ぶミズチに影がかかる。見上げると、壁を蹴って跳躍してきた琳が、頭上にいた。
「未練がましいぞ、この化け物が!」
ミズチの眼前に着地し、琳は刀を横薙ぎに振り抜く。ミズチの細腕が、二本とも切り落とされた。白い細腕が、枝のように吹っ飛んでいく。
「―――――!?」
最早、痛み故の声も出ない。が―――ミズチは、真っ黒に染まった自分の傷口を見、表情を変えた。
「あ……れ……?」
血が出ていない。さっきは出ていたような血が、一滴も。何も――――
「死ね」
琳が、膝を付いたミズチの前で刀を振り上げる。瞬間――――ばつん、とミズチの頭の音で、何かが切れる音がした。涙が滲んで揺れていた瞳が、ぐるりと引っ繰り返る。
「『海石榴野の生き残り』」
そう、低い声がした。そして、赤黒い紐のようなものがミズチから―――その両腕の傷口から噴き出した。
「っ!?」
辛うじて残っていた琳の理性が身を引かせる。ミズチはゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。乱れた長髪が顔の中心を横切り、その奥で光る双眸は嫌に毒々しく光っている。噴き出した触手が絡み合い、新たな腕のシルエットを形作る。
「『サムライの殺害―――命令を遂行する』」
その、幼く可愛らしい顔に浮かんでいるのは、ぞっとするような、狂気の笑みであった。
組合の二階、会議室に、新人サムライ十数人と慧が集まっていた。突然の招集に、サムライ達は不安げに話をしている。慧だけが、既に武装していた。
「はい静かにー。突然だけどね。今日、一人サムライが堕ちた」
手を叩き、唐突に慧がそう言った。会議室が静まり返る。
「まあ、当然だけどここにいない奴でね。新人なんだ。情報によると、感染してそのまま身内の仇討ちに向かったらしい。そして付け込まれたんだね、マジモノの、呪念に。だからそいつと繋がりがあるかも知れない皆はちょっとここにいて欲しい」
「……あの」
真夜が片手を挙げた。
「何? 真夜ちゃん」
「琳は何処ですか? 昨日、マジモノの退治依頼で、裏通りで会ったんですけど。それ以来見ていないくて」
「ここにはいない」
その言葉の意味を、真夜だけでなく、威斯含む新人サムライの多くは瞬時に理解した。
「……嘘、琳が……?」
「確かな筋からの情報だ。残念ながらその通りなんだよ」
そして慧は、先日、威斯に持って来させた資料を取り出す。
「あいつは、『海石榴野』っていう結構な元士族の家の長男だったらしくてね。もろもろ事情はあったようだけど、とにかくこの間、街外れで殺された五人家族があいつの家族だったみたいなんだよね。その、仇討ちかな」
「……でも、それなら、放っておけばいいんじゃないですか? 琳ならマジモノに負けはしないでしょう。感染者がマジモノになるなんて聞いた事ないですから、マジモノが死んでから琳を保護して、浄化すればいい」
腕を組んで、威斯が言う。慧は苦笑した。
「ただ感染しただけじゃ、堕ちたとは言わないさ。……それに残念ながら、このマジモノにはとんでもない味方がついてくる可能性があるんだ。と言うのも、このマジモノ、あの『アサカミズチ』なんだよ」
一本指を立てて、慧はそう言った。会議室にざわめきが広がって行く。
「つまり、まあ、無いだろうけど。もしかしたらあの【ムラクモ】が敵になるかも知れな」
「邪魔するぞ」
慧の言葉を遮るように、会議室のドアが開かれた。立っていたのは、燈瑞とヤマブキだ。
「……あれ? 何でここにいるんだい」
「は? ダウンタウンの書庫であいつに関する資料を集めていたんだ、お前にも見せようかと思ってな……何だこの集まりは」
燈瑞は一冊のファイルを掲げる。慧は息を吐き、目を細めた。ざわめいていた新人達の視線が、燈瑞に集中した。
「何だその目は」
「いいや。でも今現在、君お気に入りのマジモノ、ミズチちゃんと琳君が絶賛交戦中なんだけど、良いのかなって」
「ああ、俺もシヲンから聞いた」
「ん? へえ、助けに行かないんだ」
「何故助ける理由がある。お前も言っていただろう、あいつはマジモノで、人殺しだ」
あまりにもあっさりと、燈瑞はそう言った。慧は片眉を上げる。
「ふーん? じゃあ、今何をすべきか分かるよね。サムライの、矜持に従って」
試すように慧は燈瑞を見上げた。
「サムライの矜持か……」
「そう。それに従ったら、何が『最善』か分かるよね」
「……そうだな」
「君がミズチちゃんを放置していたからこうなったんだよ……琳君が堕ちたんだ」
慧の拳が、燈瑞の胸元に当たる。ごくり、と誰かが唾を飲む音がした。壁かけ時計の秒針が、嫌にうるさい音を立てる。
「ねえ。……何をすべきか分かるよな」
「ミズチを殺せと?」
「うん」
にっこりと、慧は笑った。
「ミズチちゃんを殺して、琳君を助ける。それが『最善』だよ」
「……ミズチは、一応それなりに便利で貴重な資料なんだがな」
「だから? こっちはサムライ一人の命がかかってるんだよ」
「……分かった。ヤマブキ、行くぞ」
「……はあーい」
ヤマブキは先に立って会議室を出てった。燈瑞はちらりと慧の腰の飾りに視線を向ける。
「それを増やしたくなければ、来い」
「………………」
慧の笑みが凍る。燈瑞は視線を慧に向け、それから前へと滑らせて会議室を出て行く。見透かすような視線に唇を噛み、慧は腰の飾りを握った。
「……分かったよ。威斯君、ここはよろしくね。万が一依頼が来たら、対応お願い」
慧はそして、珍しく笑みを仕舞い込み、弓を取った。
胸元が熱い。琳は俯いて、じっとりと濡れているシャツを握った。
自分の血だ。傷口が大きすぎて、血が止まらない。
「……は、はハ、はハははっ……」
ゆっくりと口元を笑わせ、琳は地面に付いていた刀の先端を持ち上げる。
「化け物……!」
琳の眼前にいるのは、地面にへたり込んだミズチだ。
だが、俯いたミズチの両腕は途中から赤黒い紐へと変わり、背中からも大量の触手が生えている。既に、少女としての輪郭は失われていた。
「『殺す……サムライ、お前らさえいなければ』」
ミズチが立ち上がる。可憐とも言えるその顔は狂気の笑みに歪み、髪が蛇のようにうねる。
熱い、と琳は膝を付く。喉を熱い血が逆流し、琳は腹を折った。吐き出された血は地面に広がり、視界を赤く染めて行く。
胸の奥が、酷く疼く。琳はシャツを握っていた手を開き、その疼く場所に当てた。
固い、板の感触――――昨日退治した、マジモノの依代だ。
「…………そっか……」
ふっ、と、何処か諦めたような笑みを琳は浮かべる。
これに素手で触れれば、何が起こるかは分かっている。後戻りはできなくなるだろう。だがそれも、今更だろう。どうせこのまま戦えば、死ぬのだ。
顔を上げると、ミズチが眼前に立ち、自分を見下ろしていた。見上げたミズチの、闇の中で光る瞳が、心臓を鷲掴みにするような恐怖を呼び覚ます。
ならば、そんな恐怖など、忘れてしまえばいい。
「必ず、殺すんだ――――全てを捨ててでも」
琳は依代を強く握りしめた。瞬間――――
「あああああああアあああアアああああああああああああああアァあああああっ!」
依代に染みついている、強烈な呪念が流れ込んで来る。脳を掻き回されるような激痛に、琳が吼えた。ミズチが気圧されたように動きを止めて身構える。
「……は、ハはッ……」
足が、動く。もう眩暈もしない。握った刀が、軽い。今ならば何時間でも、何十時間でも、何日でも、戦っていられそうだ。
「……ごめんなぁ、真夜ちゃん」
最後にぽつりとそう呟いて、恐怖をその場に置きざりにした。
アクセルをふかし、燈瑞はバイクに跨った。その懐に座り、ヤマブキは両手で頭の頭蓋骨を握る。傍らにバイクを引っ張ってきて、慧もヘルメットをかぶった。
「燈瑞。僕が先に行く。ヤマブキ君をこっちに寄越して」
「断る」
「……琳君はまだ助かるかも知れないんだ」
「お前は人を斬れるのか」
燈瑞の隻眼が、慧を見据える。慧はぐっと唇を噛んだ。
「……堕ちた時点で、対象の人権は全面的に剥奪される。だからこれは人殺しじゃ」
「理屈で体は動かないぞ」
がん、と足でサイドスタンドを蹴り上げ、燈瑞はバイクを走らせる。慧は舌打ちをしてその後を追った。燈瑞の足の間に座り、ヤマブキは道の先を指差す。
「……そりゃ、理屈じゃ動けないけどさ」
慧はヘルメットの奥で目を細めた。
「あなたがまた人を斬る姿なんて、僕は見たくない」
腰の小太刀に触れ、慧は一気にスピードを上げた。
どぷん、と、意識が泥沼に沈んでゆくのを感じた。琳は、全身に絡みついてくるようなその感触に横たわり、脱力する。体の感覚は遠のき、浮遊感に包まれた。
――――力ガ欲シイカ。耳鳴りのように、そんな声が聞こえた。琳は目を開く。逆さまの世界は赤黒い色に濡れていて、はっきりしなかった。そしてその中に、黒い塊のような人影が浮かんでいる。
「……欲しいと言ったら?」
ヤロウ。そうあっさりと声は言い、琳に近付いた。そして、逆さまになっている琳の頬に、薄平べったいゴムのような手を伸ばした。
ゆっくりと、黒い塊の姿が変化する。そしてそれは、琳と少しも違わない姿になった。
「ヨウコソ狂気ノ世界ヘ」
そうそれが言って――――視界が明転する。
「――――カハッ!」
最初に吐き出されたのは、乾いた笑い声だった。
痺れていた全身の感覚が戻り、視界に掛かっていた靄が晴れる。胸元の傷が塞がり、苦痛に歪んでいた口元も、笑みの形へと変わる。息苦しさは爽快感へと変わり、強烈な快楽が頭を蕩かすように零れだした。置きざりにした恐怖の代わりに、狂喜が一気に膨れ上がる。
「はは、ハハハハハッ!」
それは、人の姿を借りたマジモノの産声であった。
ミズチが動く。が―――数多の触手が突き刺さった地面に、既に琳の姿は無かった。ミズチは戸惑ったように周囲を見回す。
琳は、その頭上にいた。
瞳孔は開き、袖の先に見える右手は赤紫に変化している。振り上げられる刀は、淡い紫の瘴気を纏っている。振り抜くと同時に、三日月型になった瘴気の刃が飛ぶ。
ミズチが飛びずさり、琳は着地して地面を蹴った。踏み固められた地面に、くっきりと琳の足跡が刻まれた。
琳の肩口を掠め、ミズチの、鋭く尖った触手が空を切った。琳は引っかかったシャツに舌打ちし、それを脱ぎ捨てる。
露わになった右腕は、肩口まで変色していた。細く引き締まっていた腕は肥大し、血管が浮いている。琳は軋む体を動かしてミズチとの距離を詰めた。
「殺ス……」
半ばうわ言のように呟き、琳は刀を振るう。既に技も何もあったものでは無い。力任せに刀を振り抜き、ミズチの攻撃を避けもせずに突っ込んだ。
胸元の傷が酷く疼く。先刻、あのまま――――人間のままミズチと戦っていれば、心臓を抉り出されていただろう。ミズチの触手によって抉られた肉はすぐに再生し、赤紫の皮膚がそれを覆った。
「が、はっ……」
だが、如何にマジモノの力を持とうが、芯は人間である。瞬間的に喉をせり上がる激痛に、琳は体を折って血を吐いた。だが、それに一瞥の興味もくれず、琳はすぐさまミズチに向かって駆け出す。首筋に血管が浮き、ぎりっ、と食いしばった歯が鳴った。
「……モウ一線」
琳は呟き、口元の笑みを深める。痛む頭を掴んでふらりと体を起こすと、顔を上げて荒い息を吐いた。足を踏み出すのを、腕を振り上げるのを止めようとする痛みが、邪魔だ。
――――もう戻れない。その事実も、もう怖くはない。ならば。
「人間ノ境界ヲ……超エ、テ」
痛覚が遮断され、琳は深く息を吐く。蔦が足に絡まってくるような幻覚を引き千切り、更に深く、深く、堕ちてゆく。
「ハッ……ハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
琳は天を仰いで哄笑した。そしてそのまま、ゆっくりと首をもたげてミズチを見る。
(―――あれ?)
ミズチに向かって駆け出す自分を、何処か他人のように感じた。現実から切り離された意識で、琳は呟く。
(俺、何の為にこいつを殺したいんだっけ……何か、そう、家族……家族? 家族が……どうした?)
世界が歪み、琳の意識も混濁する。何か大事な物を、決定的なものを、落としてしまった気がする。だがそれが何なのか、分からない。
「死ネ!」
そう叫んで琳は剣を振るった。ミズチの触手が切り落とされ、地面で跳ねる。血と油で切れ味の落ちた刀で、その触手を突き刺した。
(……ああ、そっか、嫌いなんだ、こいつが嫌いなんだ、だから、殺して――――そしたら俺は向こうに、そうだ、違う、家族を殺されたんだ俺じゃない俺は悪くない、これは人殺しじゃなくて仇討で正当なるだから正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しくないのは)
「……ハッ……」
(全部死ねばいいんだ)
琳は、触手を絡ませてきたミズチに頭突きをかまし、離れたミズチに向かって横薙ぎに刀を振る。額が割れて血が滲む。琳はミズチを蹴り倒し、流れ落ちて来た血を舐めた。
瞬間――――地を揺らすようなバイクのエンジン音が轟いた。ミズチが動きを止め、視線を琳の後方に向ける。だらりと触手が垂れて、口元の笑みが引っ込んだ。
「――――きゃあああああっ!?」
甲高い、ミズチの悲鳴が響く。琳は振り抜いた剣の峰に手を当て、その刃をミズチに向ける。ミズチは地面に俯せに倒れ、辛うじてその刃を避けた。背中に生えていた触手が地面に崩れ落ち、背中から剥がれて腐り始める。
「……嘘……何……ですか?」
ミズチは震える声で呟き、琳を見上げた。琳はミズチの前に仁王立ちすると、両手でゆっくりと刀を振り上げる。
一発の銃声が、その動きを止めた。
琳が弾かれたように振り返る。バイクを停止させ、燈瑞は短く息を吐いた。掲げた拳銃から、細い煙が立っている。
「………………」
琳は振り上げていた刀を下ろす。燈瑞はバイクから降り、刀を握って二人に近付いた。途中、燈瑞がミズチを指差し、ヤマブキは頷いてミズチに駆け寄る。
「……海石榴野」
燈瑞が静かに言って、琳の、紅く淀んだ目が燈瑞を見る。琳の顔から笑みが消えた。
「……何デすカ? 今更」
琳は鋭く言って、燈瑞に向き直る。刀の切っ先が地面を擦った。
「止メナカッタアナタガ悪イ」
「そうか」
「俺ニハ正当ナ権利ガアル」
「そうだろうな」
「ダカラ、止メナイデクダサイ」
「そうもいかない……まだお前に、正気が残っているのなら」
燈瑞は刀に手をかけた。
琳が、刀を振り上げる。天を突くが如く高く振り上げられた切っ先が、孤を描いて振り下ろされた。柄を握る右手は完全に変色し、太い蚯蚓腫れのようなものがいくつも浮かび上がっている。燈瑞は刀を抜き、その刃を正面から受け止めた。
「用がアるのハ、ソノ化け物なンデすよ!」
琳が吼えて、右肩が更に膨れ上がる。内側からの急激な隆起に耐えられず、皮膚が裂けた。だが噴き出す赤黒い血は瞬く間に止まり、冗談のように傷が消える。
ずっ、と燈瑞の足が後方に滑った。琳の片腕の力が、燈瑞の踏ん張りに勝っているのだ。琳の視線は燈瑞の肩越しに、ミズチへと向けられる。ミズチは蹲ったままで、自分の体を抱いて震えていた。ヤマブキが、その傍らに立ってじっとその姿を見下ろしている。
「邪魔ヲ……するなあぁあああアアああっ!」
叫びと共に、琳の右肩が大きく変形した。巻き付いていた縄がほどけるように、赤紫の腕は触手へと形を変える。燈瑞は舌打ちし、相手の力が緩んだ一瞬に、刃の向きを変えて刀を滑らせた。金属音を鳴らしながら、燈瑞の刀に沿って琳の刀が流される。そうして近付いた琳の胴体に、柄頭を減り込ませた。
「っ、」
琳は呻き声すらあげなかった。見開かれた目は充血し、振り乱した髪が血で頬に張り付いている。だが燈瑞はひるまず琳の左肩を掴み、自らの体を回転させて琳を地面に押し倒した。そのまま背中に膝を乗せ、左腕を捻り上げる。俯せに倒れた拍子に、琳の刀は右手から離れて転がっていた。やや遠くまで飛んだ刀を、そして背後の燈瑞を睨むその紅の眼前に、燈瑞は刃を突き立てる。
「……泣くくらいなら堕ちるな」
歯を食いしばって荒い息を吐く、鬼のような形相のまま、琳は頬を濡らしていた。
「戯言ヲ!」
だが、燈瑞の言葉に反発するように、琳は怒鳴る。目と鼻の先にある鋭い刃も、まるで見えていないかのようだった。燈瑞は再び銃を抜き、撃鉄を起こす。
「動くな」
その銃口を琳に向け、燈瑞は隻眼を細めた。
燈瑞に指定された場所で、慧は弓を構えていた。琳の右側、琳からは死角の、廃墟の上だ。燈瑞が琳を抑え込み、変色、変形した琳の右腕が慧の射線上に用意された。
「……本当に意地が悪い人だ」
的が小さいなど問題ではない。的が動くなど問題ではない。
弓を握り、真っ直ぐに伸ばした左腕が震える。狙っているのは琳の右腕、その根元だ。琳の姿は半分以上燈瑞の体で隠れている。
――――マジモノなら。慧は緩く唇を噛む。もし見えているのが琳ではなく、常日頃屠っているようなマジモノならば、何も気にせず射貫けるというのに。
「――僕だって……!」
歯を食いしばって弓を引き、慧は矢を放った。
ヤマブキが、ミズチの背に手を当てる。焼けるような音がし、ヤマブキは手を引いた。強烈な邪気に、式神の体が悲鳴を上げているのだ。
「……ミズチ、起きろ」
だがヤマブキは口元を引き締め、再度その体を揺すった。その掌は赤黒く変色している。
「……ヤマブキ……君……?」
ミズチが顔を上げた。その双眸は不安げに揺れており、恐る恐ると言った様子で周囲を見回していた。
琳を地面に押し付けたまま、燈瑞はミズチへと視線を向ける。ミズチは燈瑞と目が合うと、びくりとして身を縮めた。
「海石榴野。まだそこにいるのならば、お前の意志を聞きたい」
燈瑞が言って、琳の視線が燈瑞を向いた。燈瑞はゆっくりと、ミズチから琳へと視線を戻す。静かな漆黒の隻眼に、琳の口が僅かに緩む。二度瞬きをすると、琳は再び口を引き結んで俯いた。
燈瑞が視線を琳の後方へと向け、彼方で慧が矢を放つ。空気を切り裂いた矢は、琳の右肩を貫いて地面に縫い付けた。青白い閃光が矢から迸り、肉が焼ける音がする。
「っ……あアアアアアっ!」
琳が叫ぶ。逆立っていた髪が垂れ下がり、食いしばった歯の間から息が洩れた。右腕が暴れ出し、紫色の瘴気が噴き出す。
「……、海石榴野!」
燈瑞が叫ぶ。びくん、と琳の体が痙攣した。
右肩から背中へと伸びていたマジモノの皮膚が、ゆっくりと引いてゆく。骨を失ったように暴れていた右腕が脱力した。血が静かに地面へと流れ出し、紅の池が広がった。
「……ひ……すい、さん……?」
色を失った唇が、そう、震えながら呟いた。燈瑞は息を吐いて、掴んでいた琳の左腕を離す。背中から燈瑞が退き、琳は大きく咳き込んだ。
「……?」
俯せに倒れたまま、琳は視線を彷徨わせる。血色の大きな双眸は、数度の瞬きの後には人の色へと戻っていた。
「あ……あ、ああ、」
琳は頭を掴み、額を地面に押し付ける。ぎしぎしと、全身の骨が軋んでいた。だらんと弛緩した右腕は、醜悪なマジモノの姿そのものであった。それが自分の体に繋がっている。痛みがある。肩に刺さった矢が放つ清浄の光が、自分の苦痛になっている。
人間の憎しみと、怨みと、狂気――――あらゆる負の感情の結晶がマジモノだ。自分は今間違いなく、それになっている。
「燈瑞さん、俺……」
琳は引き摺るように体を起こし、燈瑞を見上げた。燈瑞は地面から刀を抜き、やはり冷徹に琳を見下ろしている。
「戻ってきたな、海石榴野」
「俺……どうしてっ……」
燈瑞を見上げたまま、琳は呻く。
様々な問いがそこにはあったのだろう。だが燈瑞は目を細め、刀の切っ先を琳に向けた。
「お前を止めることは俺にはできない。それは俺の生きる道を否定することになる。だが、止めなかった責任もある――――選べ」
燈瑞の剣の切っ先が、琳の右腕の肩口に向き、それからゆっくりと首へとスライドする。琳は唇を震わせた。
「その腕を切り落として生き延びるか、それとも、死ぬか」
重い薄墨色の曇天から、雨粒が落ち始めていた。
眼前に立つ燈瑞に、琳は泣きそうに顔を歪める。
燈瑞のことは、十年前、組合を離脱したサムライの特集記事で知った。字は【ムラクモ】、神々ではなく神器の名だ。神器の名を冠することが許されるのは日本に三人しかいない。多くの場合師弟で引き継がれるその名を、このサムライは初めから手にしていた。自分と同じ、刀という武器で。
どうして憧れないでいられようか。その背後に、あわよくば隣に立つ自分を夢想して、サムライを目指したというのに、自分は。
心臓の拍動が、嫌に大きく聞こえる。そしてその一回ごとに、全身から力が抜けていくのが分かった。視線を地面へと落とし、琳は浅い息を吐く。
「俺は斬る以外に能がない。その右腕を浄化するには、陰陽課の連中をここに呼ぶ必要があるだろう。……望み薄だがな」
燈瑞の言葉が、耳の奥でガンガンと木霊する。自分の呼吸音すらもうるさくなって、琳は唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
震える声で、そう絞り出す。
「何故謝る」
「俺は……俺はっ、」
「お前がミズチを許せなかったんだろう。ミズチがお前より強かったんだろう。経緯はどうあれ、マジモノから依代を手に入れて、堕ちることを選んだのはお前だ。……お前の仇討ちに横槍を入れたのは、俺達だ」
琳は俯いたまま、変形した右腕を握った。
「だから……お前に選べと言っている」
もう一度顔を上げると、憧れ続けたサムライが立っていた。
その刃が、今は自分に向いている。自分の右腕は――――否、自分は、その刃で斬り捨てられるべき化け物になり下がったのだ。
それでも、自分の道を選べと言うのなら。
琳は強張っていた口元を僅かに緩め、左手で髪を掻き上げた。乱れていた髪を手早く整え、頬の泥と血を拭う。最後に、口元を笑わせて、顔を上げた。
「殺してください」
輝くような笑顔のまま、涙を一筋流して、琳はそう言った。
燈瑞がゆっくりと刀を引く。琳は右腕を引き摺りながら、地面の上に正座した。燈瑞はその傍らに立ち、ポーチに手を突っ込む。
琳は首から髪を退けて、俯く。取り出した水筒から、燈瑞は刀に水をかけた。
ヤマブキが、呆然としていたミズチの前に立って目隠しとなる。彼方から、慧が走ってきていた。土臭い雨が地面を叩き、その色を変えていく。
琳は目を閉じた。雨ではない水音が途切れ、自然と口元が引き締まる。
「遺言は」
静かな言葉に、黙って首を横に振る。
「……お前は立派な『人間』だよ」
最後にそう呟かれた言葉に、嗚呼、と琳は笑った。
刃が振り下ろされる音がする。
――――自分は、憧れたようなサムライにはなれなかった。だがそれでも、人間としての最期を、認められたのならば。
愚かしい自分の最期を、少しだけ、誇れるだろうか。
燈瑞は刀を引き、詰めていた息を吐いた。
「―――――馬鹿が」
呻くような呟きは、雨音の中に消えていく。
部屋に入ってきた慧に、真夜が真っ先に駆け寄った。他のサムライ達も、それに気付いて振り返る。慧は雨に濡れた髪を掻き揚げ、武器を壁に立てかけた。
「高杉さん! 琳は……」
「ごめんね。……手遅れだった」
慧はそして、白い紙で束ねられた一房の黒髪―――琳の遺髪を真夜に差し出した。
「……嘘……」
真夜はそれを受け取り、顔色を失う。他のサムライ達がざわめく中、威斯が噛み付くように慧に詰め寄った。
「殺したんですか。あなたと【ムラクモ】がいて、駄目だったっつーんですか!」
慧は悲しげな笑みを浮かべたまま、頷いた。
「肉体の変質が、既に始まっていた。……葬儀はお浄めが終わり次第になる。力不足を、許して欲しい――――僕を責めて良い。だから、琳君のことは、責めないで欲しい」
慧はそして、呆然としている一同に頭を下げた。それから顔を上げ、真剣な表情で言う。
「でも。残念ながらこれが、サムライの世界だ。彼の死を、忘れないように」
そして慧は踵を返し、部屋から出て行った。扉を閉めると間もなく、押し殺した嗚咽が聞こえてくる。
「……慣れないね、どうも」
慧は呟き、表情を殺して階段に向かった。ロビーには、燈瑞の姿がある。
「……やあ燈瑞」
「ああ……」
「……ちょっと、いいかな」
慧はそして、笑みを引っ込め、つかつかと燈瑞に近付いた。
「……、」
燈瑞は黙って慧を見詰める。慧は徐々に速度を速め、
「っ!」
燈瑞の顔面に向かって、思い切り拳を振り抜いた。燈瑞はそれをまともに受け、その体が壁に激突する。そのままずるずると床に座り込み、燈瑞は俯いた。
「助けられただろう?」
燈瑞の前に立ち、慧は言う。殴られた頬を拭ったまま燈瑞は答えない。慧はぎりっと歯を鳴らし、燈瑞の胸倉を掴んだ。
「まだ救えただろうが! 何で殺した! 生きられたのに!」
慧の怒鳴り声がロビーに響く。受付の女達が驚いたような顔をしていた。
「腕が無くなろうが何だろうが、生きられただろう……! 人の姿をしていたんだ……答えろよ、何でだよ……」
「……生かすことが、救いになるとは限らない」
ぽつりと燈瑞は言った。慧は、悲しんでいるような、怒っているような顔で、僅かに目を見開く。
「殺してやる慈悲もある」
「………………」
慧は手を開き、燈瑞を離す。そして、腰の飾りに触れた。
「……増やしたくなかったのに」
鎖に通された楕円状の飾り――――遺髪入れだ。
「……畜生……!」
血が出る程強く唇を噛み、慧は苦々しく呻いた。