第三章 出来損ないの呪
うねる赤紫色の触手を駆け上がり、燈瑞は肥大したマジモノとの距離を詰める。小さな家ほどもある肉体は斑で醜悪、見るだけで正気をこそぎ落とされるような気さえする。
憎悪と呪念――――人間の負の感情を栄養に膨れ上がった、狂気のカリカチュア。その奇妙に小さい頭を隻眼で睨み付け、燈瑞は刀を抜き放つ。
鈍く輝く刀身が、日光を反射した。
「っ!」
マジモノが体を捻った。大木の幹のような胴体に、触手が枝の如く生えている。根の代わりのように太い足が数本、地面を掴んでいた。体を捻ったその勢いで、燈瑞は空中に投げ出される。燈瑞は舌打ちし、視線を後方に滑らせて屋根に着地した。
「【ムラクモ】!」
通りの向かいから、ヤマブキが叫ぶ。
「案ずるな、畳み掛けるぞ」
「おうっ!」
ヤマブキは頭に乗せている頭蓋骨を掴んだ。そして大きな双眸で、じっとマジモノを睨み据える。
「何処だ、依代は何処にある?」
「首の下だ! あの、ちょっと肉が多いところ!」
ヤマブキが指差した先に視線を向け、燈瑞は立ち上がる。そして左手で右腰から銃を抜き、撃鉄を起こした。
隻眼で、うねる触手の隙間を探す。そして――――
銃声が轟き、瞬間、金属を擦りつけるような不快な音がする。マジモノの悲鳴だ。
「捉えた!」
燈瑞は屋根を蹴り、着地をして銃を仕舞う。片目を潰されたマジモノは、完全に燈瑞を敵と認識したらしい。その触手が巨大な棘のように鋭くなり、燈瑞を向いた。燈瑞は両手で刀の柄を握り、腰を落とす。
深く、息を吐く。そうして、自分の心臓の鼓動すらも感じられる程に、感覚を研ぎ澄ませる。マジモノもそれを感じ取ったのか、その動きが止まった。
一瞬がともすれば何十倍にも引き伸ばされた、僅かな睨み合い。
だが均衡は突然に崩された。
マジモノの触手の一つが、動く。燈瑞はそれを敏感に感じ取って一歩踏み込んだ。
次々と、燈瑞めがけて必殺の一撃が放たれる。触手の先端は地面に減り込み、道路の土を掘り返して土煙を上げた。砕かれた薄いアスファルトが飛び散る。燈瑞は全ての触手を間一髪で避けると、現れた懐に鋭い一線を放つ。
強烈な腐臭のする煙が、傷口から噴き出した。それにも眉ひとつ動かさずに、燈瑞は刀の方向を変え、下から上へと傷口を抉る。
「くっ……」
意識を横殴りにするような、マジモノの呪念が燈瑞を襲った。マジモノの核、依代が近い証拠だ。目には見えずとも、全身に呪念が絡みついてくるのが感じられる。
「おおおおおおおおっ!」
気合いの声と共に燈瑞は、振り返りざま、自分に向いていた触手を切り捨てる。肉圧で潰す気だったのだろう、先端を失った触手は容赦なく燈瑞に迫っていた。
太い触手と地面の、僅かな隙間から転がり出る。一瞬の後、燈瑞が居た空間は触手と肉体に押し潰されていた。
「……強烈だな、年代ものか」
燈瑞は刀を握り、地面を蹴った。
「ヤマブキ!」
「はいよっ!」
即座にヤマブキが屋根から飛び降り、燈瑞とマジモノの間に入る。そして燈瑞の方を向き、両手を組んで腹の前に準備した。
「とおおおおりゃあっ!」
燈瑞がその手に足をかけ、跳躍する。瞬間、ヤマブキが体を仰け反らせて燈瑞を放り投げた。高々とマジモノの上に舞い上がり、燈瑞は刀を逆手に持った。
「これで――――終いだ!」
前からの攻撃に対抗しようとしたマジモノの上から、着地と同時にその頭を貫く。マジモノがまた甲高い悲鳴を上げた。
依代が近い。燈瑞は刀を横薙ぎに振って肉を抉ると、そのまま素手で小さな頭を掴み、引き千切った。ぶちぶちと繊維が引き裂かれ、赤黒い体液が飛び散る。
「あった!」
肉塊の中に、小さな木の板が見える。燈瑞は刀を口に咥え、ポーチから白い布を取り出してそれを掴んだ。
「――――っ!」
心臓を握られていると感じ取ったのか、マジモノが激しく暴れる。燈瑞は刀を咥えたまま、振り落された。
「うわわっ」
ヤマブキが燈瑞の飛んだ屋根に向かう。燈瑞は屋根の上に仰向けに倒れていた。
「だ、大丈夫かよ!?」
「平気だ。気が抜けてしまったな」
燈瑞はそして、握っていた右手を開く。そこには確かに、布に包まれたマジモノの依代があった。
「少々厄介だったが、勝てたようだ」
「……やったっ!」
土くれとなって崩れゆくマジモノを見詰める燈瑞に、ヤマブキは後ろから抱き着いた。
塩が一杯に詰まった甕を胸元に抱え、ミズチは、燈瑞とヤマブキが待つ現場に向かっていた。買ったばかりの白いワンピースの裾が、砂埃で汚れている。
「……?」
擦れ違った青年を振り返り、ミズチは足を止めた。青年もミズチに気付いたのか、足を止め、ゆっくりと振り返る。
「……ああ、ミズチちゃん」
振り返ったのは、髪を下ろした琳だった。ポニーテールであった黒髪は肩甲骨ほどの長さで、垂れ下がっている。
「リン、さん?」
「ああ。何だい?」
「どうしたんですか?」
ミズチが指差したのは、中性的な琳の顔に痛々しく刻まれた、頬の引っ掻き傷だった。血が滲んでいて、嫌に生々しい。
「ああ、これ? ちょっと……馬鹿、やっちゃってさ」
琳は頬に触れた。その爪の先は削れている。
「大丈夫ですか?」
「触れるな」
鋭く言って、琳は手を伸ばしたミズチから離れる。不意の低い声に、ミズチはびくりとして手を引いた。
「ご、ごめんなさい……」
「……ううん、ごめんね。君は悪くない。……君は、悪くないんだ、きっと」
琳はそして、哀しげな笑みを見せて踵を返した。ミズチは不思議そうに首を傾げ――――
「『……サムライの家系。海石榴野家』」
無表情で―――何処か作り物のような表情で、ミズチは呟いた。そして、その口元が、ゆっくりと笑みの形に歪む。驚いたように琳が目を見開くと、
「『粛清完了』」
「……!」
琳は地面を蹴り、そのまま、ミズチの胸倉を掴む。
「貴様は!」
そう叫んだ瞬間、ミズチの表情が元に戻る。笑顔は消え、突然の琳の剣幕に、不安気に瞳が揺れていた。
「きゃあっ!? な、何ですか、リンさん!? 私、何かしましたか!?」
落とさないように塩の甕を両手で抱え、ミズチは琳を見上げる。琳はしばらくミズチを睨み付けていたが、ぎりっ、と歯を鳴らし、その手を開いた。
「……ミズチちゃん」
「は……はい?」
「君の家族が殺された家の、住所、言ってみて」
俯いたまま琳は言う。
「えっと……アンダーシティ東、司奈川三番地、玻璃団地の」
「十の三地区第三ブロック、四号」
ミズチの言葉に重ねるように言って、驚くミズチを、哀しげな笑みで見詰める。
「驚かせてごめんね、ミズチちゃん。大丈夫、君の家族の仇は、俺がとるよ、必ず」
琳はそして、それ以上の言葉を拒絶するようにミズチに背を向けた。
「……必ず」
視線を鋭くし、腰の刀を握る。
「必ずお前を殺す――――朝霞ミズチ」
そう呟いて、琳は足を速めた。
清めの塩で邪気を払い、燈瑞は汚れた刀を拭いて鞘に仕舞った。その隣で、ヤマブキもミズチが持っている甕から塩を一掴み取り、
「とりゃっ!」
「ぶわっ!」
燈瑞めがけてその手を振り上げた。しかしタイミングを見誤ったのか、塩は燈瑞の顔面にぶちまけられる。燈瑞は目を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
「ご、ごめん……」
「……平気だ」
目を擦って立ち上がり、燈瑞はくしゃりとヤマブキの頭を撫でた。そしてヤマブキの胸元にも、清めの塩を掛けてやる。
「ヤマブキ、お前とミズチは先に事務所に帰っていろ。俺は依代を組合に置いてくる」
「分かった」
ヤマブキは大人しく頷き、ミズチの手を引いて事務所の方へと歩き出す。その姿は、弟が姉の手を引いているようにも見えた。
腐臭を放つマジモノの死体にも塩を振り、燈瑞は踵を返して組合の詰め所に向かおうと歩き出した。が――数歩歩いたところで足を止め、息を吐く。
「シヲンか?」
燈瑞の視線は、傍らの路地に向いていた。
「……敵いませんね、【ムラクモ】さんには」
鈴を転がすような声がした。
路地の暗がりから、一人の少女が現れた。髪は透き通るように白く、腰まで長い。貴族のような着物を着ているが、裾は汚れておらず、羽衣のような薄絹を纏っていた。その瞳は深い緑色だ。
シヲン、と呼ばれた少女は一礼をし、燈瑞に近付く。
「昨日、ダウンタウンでも見張っていただろう」
「ええ。やはり気付いておられましたか」
シヲンは口元を袖で隠して笑う。
「やはり、朝霞のミズチは危険ですから」
「……知っているのか?」
「いいえ。でも『朝霞』は知っています。嘗て天皇家に仕えていた、陰陽師の血統ですよ」
「……そうか」
「近代サムライの台頭で、衰退したそうです。主……【サクヤ】はもう少し調べてみると仰っておりましたが」
「いいや、充分だ。重要なのはそこじゃない」
「そうですか」
シヲンはくすりと笑い、一礼をすると、煙のように姿を消した。燈瑞は再び歩き出し、顎に手を当てる。ざらりとした無精髭の感触があった。
「……ん?」
道の先で、一人の青年が壁に寄りかかって空を仰いでいた。青年は燈瑞を見付けると、力無い笑みを零す。
「海石榴野か。どうした」
「……【ムラクモ】……いえ、燈瑞さん、質問です」
淀んだ瞳で燈瑞を見上げ、琳は壁から背を剥がした。
「もし、自分の家族がマジモノに殺されたらどうしますか」
「仇討をする」
間髪を入れずに燈瑞は答えた。琳は少しばかり驚いたように目を瞬かせる。
「……俺は、そのために生きている」
「……じゃあ、理解してくれますよね」
琳の拳が、燈瑞の胸元に当たる。琳はそのまま俯き、喘ぐように言った。
「家族を殺したあのマジモノを、殺すことを、理解してくれますよね?」
「……やはりお前の家だったか」
「理解してくれますよね?」
琳は硬く拳を握った。
「……俺には、お前を止める権利も、義理も無い」
燈瑞は言って、琳の肩を掴んで自分から引き剥がす。何処か傷付いたような顔の琳を正面から見詰め、燈瑞は隻眼を細めた。
「ミズチを守る義理も無い。あいつはマジモノで、人殺しだ。その事実は揺らがない」
「……じゃあどうして、」
琳はくしゃりと顔を歪めた。
「俺……あれを殺しても殺さなくても、きっと俺は狂います」
ぎゅうっ、と琳は燈瑞の服を握る。
「殺したら、あの純朴な女の子を殺したんだと思って気が狂う。殺さなかったら、縁を切ったにしても、家族は家族です、その死をないがしろにすることになる」
「……天秤に掛けろ」
燈瑞の武骨な手が、琳の細腕を掴んだ。そして、琳の体を無理矢理に引き剥がす。
「俺に……他人に後押しを求めるな。お前が今のままで守りたいものと、失っても構わないもの。仇討をした場合としなかった場合。失うものを天秤に掛けて、自分で決断しろ」
俺は、そうした。そう言って、燈瑞は琳から離れる。
「燈瑞さんは!」
歩き出した燈瑞の背に、琳が叫ぶ。
「――――何を犠牲にしたんですか。何を犠牲に、仇討の道を選んだんですか」
「……全てだ」
燈瑞は振り返らずに言った。
事務所の一階は倉庫になっている。燈瑞が階段を降りると、灰色の壁の油臭い倉庫にはヤマブキがいた。天井からぶら下がった裸電球が、僅かに揺れている。
「……やはりここか」
燈瑞が呟くと、ヤマブキが弾かれたように顔を上げた。
倉庫は一面がシャッターで、それ以外はコンクリートが剥き出しの灰色の壁であった。燈瑞が降りて来た階段の脇には据え付けの棚があり、工具などが並んでいる。倉庫の中央、シャッターの正面には古びた二輪車が一台あった。鉄色の流線型ボディに、銀字でメーカーが書かれている。シートの横やエンジンカバーには炎の刻印があった。
ヤマブキがいるのは、階段の反対側の壁―――巨大なコルクボードとホワイトボードがある側であった。様々な書類が貼られたコルクボードの前には子供用の中型ベッドがあり、ヤマブキはその上に座っていた。
「何だよ、何か用か?」
「労をねぎらいに来た。久々だったが、ご苦労だったな」
「……別に」
ふい、とヤマブキは顔を背ける。が、その頬は僅かに紅潮していた。
「ミズチは?」
「昼飯を作っている」
「……【ムラクモ】。ちょっと、甘えさせろ」
ヤマブキはぼすぼすとベッドを叩く。燈瑞は剣帯とガンベルトを外して棚に置き、ベッドに座った。
「……霊力、充電するから」
そしてヤマブキは、ぎゅっ、と座った燈瑞の脇腹に抱き着いた。牛の頭蓋骨が減り込み、燈瑞は小さく呻く。
「……今日も俺、役に立ったか?」
「ああ」
「明日も、役に立てるか?」
「ああ、絶対」
「……良かった」
安心したような笑みを零し、ヤマブキは燈瑞の膝に頭を乗せて体を丸める。間も無く、その小さな肩が寝息に合わせて上下し始めた。燈瑞は頭蓋骨の仮面を外し、その体をそっと撫でる。
「悪いことをしたな。俺にもう少し、術の才能があれば、メンテナンスに出さなくて済むんだが」
「……んんぅ」
ヤマブキはぐりぐりと燈瑞の腹に額を押し付けた。力をそれなりに使ったためだろう、雪のように白い髪は艶が無く、逆立っている。燈瑞がその髪を撫でると、ヤマブキはくすぐったげに身じろぎをした。
「……ん」
二階の事務所で電話が鳴っている。燈瑞は立ち上がり、
「………………」
服を離さないヤマブキを片手で抱え上げ、階段に向かった。
思い返せば決して楽しい思い出が多い訳ではないだろう。だが不思議と、懐古して目の裏に浮かぶ光景は全て、楽しげなものばかりだった。
古くからあるサムライの家系、その多くはアンダーシティの外れ、司奈川地区にひっそりと生き残っている。近代システムの導入で血縁によるサムライの選出は無くなり、士族層以外からもサムライが現れてから、その地位に胡坐をかいていた伝統的な家系の多くは没落した。
それは琳の海石榴野家も例外ではなく―――海石榴野家の存続を第一に考えた父は、力も弱く、マジモノなど見ただけで気を失う琳を切り捨てた。
「あなたは何時だって俺を『出来損ないの能無し』だって罵ったよね、父さん」
集合墓地の家族の墓前で、琳は地面に胡坐をかく。見上げる空は曇天で、灰色の重たげな雲が立ち込めていた。
「それでも俺は、あなたに認めて欲しかったんだよ」
頬に刻んだ自傷も、既に痛みは消えていた。琳は俯き、目を閉じる。そうして意識を自分の中に沈み込めた。
仇討ちをすると、決意は固まった。その為にもし【ムラクモ】が敵になるとしても―――それは無いと信じたいが―――その程度でこの決意は揺らがない。
怒りも、憎しみも無く――――自分を支配する感情は既に収まり、琳の心はぞっとするほどに澄んでいた。
ゆっくりと目を開く。灰色の墓を見つめ、琳は薄く微笑んだ。
「必ず奴を殺す。そしたらすぐに、そっちに行くからね」
そう低い声で呟いて、琳は立ち上がった。
「何をしているんだい」
「!」
突然背後からかかった声に、琳は振り返る。集合墓地の入り口に、慧が立っていた。
「……朝礼に来なかったから、随分と探したんだよ」
「高杉さん……」
「家族に何があったのかは知っているけれど、せめて顔くらい出しなさい」
琳はすっと無表情に戻り、「すみません」と言う。
「……言っておくけれど。マジモノの作成、使役は違法だよ。サムライの場合、協会から除名、免許が半永久的に剥奪される。分かっているよね」
「知っていますよ」
琳は呟くように返事をして、俯いたままその横をすり抜ける。擦れ違った琳の凍ったような表情に、慧は小さく息を吐いた。
『つまりさ、ミズチちゃんは人殺しな訳だよ』
電話口で、いつもの軽い口調で慧が言う。燈瑞は椅子に座り、デスクの上にヤマブキを乗せて溜息を吐いた。
「それくらい知っている。それを自覚していないから問題なんだろうが」
『んー、まあそうだね。でも重要なのはその人殺しって点じゃないかなぁ』
「どうしてだ? マジモノだから人殺しをするのは当然だろう」
『んー……。確かにそうかも知れないけど、あんな純朴そうな女の子が、人殺しだなんて受け入れれられない人間も多いよ? 人間が斬れる人間は、少ないんだから』
「………………」
『まあ何が言いたいかってね。早いところミズチちゃんの処分を決めないと、取り返しのつかないことになるかも知れない。あの子を引き取ったのはあなたの責任なんだから、何かあったら尻拭いくらいはしてよ』
「分かっている」
『……本当かな、全く』
がしゃりと電話が切られ、燈瑞は顔をしかめた。燈瑞はしばし電話を見詰め、それから深く溜息を吐いて椅子の背もたれに背を預ける。
『家族を殺したあのマジモノを、殺すことを、理解してくれますよね?』
先刻の琳の言葉が、頭の奥で渦巻く。
「……理解も何も、俺はあいつを止める権利など無い……」
そう呟いて、ふとそれが、酷く言い訳じみた言葉だと気付く。
「ヤマブキ」
「んにゃ? 何ごしゅ……じゃねぇ! 忘れろ、今の忘れろ!」
「いいから起きろ、出掛けるぞ」
赤面したヤマブキをデスクから床に降ろし、燈瑞は剣帯を取った。
「うええ? 何処に行くんだよ」
「ダウンタウンだ」
「またぁ?」
「文句があるなら置いて行くが」
「行かないっては言ってない」
ヤマブキはむっとして、燈瑞に駆け寄ってその服の裾を掴んだ。
威斯と真夜は共に、アンダーシティの裏通りを走っていた。マジモノ退治の依頼が入ったものの、ベテラン達は全て出払い、仕方なく、新人である自分達が出動することになったのだ。
「ったく、こんな時に限って琳がいねぇんだからよ! あいつ強えのに!」
威斯は剣帯に吊るした二本の刀を掴み、毒づく。真夜は薙刀を握り直し、威斯を睨んだ。
「仕方ないでしょ。いないものはいないんだから」
「……琳、ここんところ様子おかしいよな。あいつが二日もサボるなんて」
「……考えても仕方ない。今は集中しなきゃ」
「そうだな」
威斯は足を止め、刀を抜く。裏通りと西の大通りとの境目、十字路に目標はいた。十字路の中心、二階建ての周囲の建物よりやや小さい程度のマジモノだ。
「足引っ張んなよ」
「あんたこそ」
そして二人は、同時に地面を蹴った。が――――
目標―――マジモノは、二人が近付くと同時に地面に崩れ落ちた。
「!?」
踵を地面に減り込ませ、威斯は足を止める。罠か、と二本の刀を握って腰を落とすが、間もなく強烈な腐臭―――マジモノの死の証だ―――が流れて来た。
「……死んでる……?」
呆然として真夜は呟いた。灰色の煙の向こう、ぼんやりとした人影が見える。
「……篠原君と、真夜ちゃん?」
人影がそう言って、首を傾げた。
「琳!」
威斯の顔が歓喜に緩む。人影―――琳は二人に駆け寄って来た。その左手には、汚れた刀が握られている。
「何だよ、倒しちまったのか。まあいいや、流石だな!」
威斯はバンバンと琳の背中を叩く。「痛いって」と琳は苦笑した。真夜は一度は安堵の息を吐いたが、心配そうな顔になって琳を見上げる。
「ねえ琳……頬、どうしたの? その傷」
「え? ああ……ちょっと、馬鹿やっちゃって」
琳はそして、誤魔化すように笑った。「ドジだな」と威斯は笑っている。が、真夜は真剣な眼差しで琳を見詰めた。
「大丈夫、もう痛くないよ」
「それ刀傷でも擦り傷でも無いでしょう? 何やったの? 昨日も一昨日も、朝の集会に来ないでさ……高杉さん、心配してたよ?」
「何でもないってば。昨日高杉さんには会ったし」
琳は、右手で握っていたものを懐に入れる。
「……ねえ、二人とも」
「?」
「俺、これからちょっとやることがあるんだ。だから、高杉さんに伝言してくれないかな。あと燈瑞さんにも。伝言っていうか、届け物なんだけど」
「……琳?」
琳はそして、やはり、何処までも澄んだ、爽やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫、大したことじゃない」
慧は自宅―――組合近くの寮の窓枠に座っていた。今日は久方振りの休日だ。
三階の窓からの景色は中々に良い。立てた膝に指を当てて適当なリズムを刻みながら、曇天に、灰色に陰って行くアンダーシティを見渡す。ここしばらく青空を拝んでいないな、と慧は苦笑した。
「ああ、嫌だなぁ」
何処か嘘っぽく呟き、慧は目を細めた。
「彼は人を斬れるサムライだったか……どうしようもないな、本当に」
慧は頭を窓枠に押し付ける。そして目を閉じ、右手で腰の飾り―――細い紐に、楕円形のプレートが数個吊るされたそれに触れた。
「……増やしたくないなぁ、これ以上……」
そして慧は窓枠から降り、壁に立てかけてある武器に近付いた。
ノックの音に、ミズチは料理の手を止めて顔を上げた。手を軽く洗ってエプロンで拭き、玄関に向かう。
「はい」
「やあ、ミズチちゃん」
笑顔で立っていたのは、琳だった。
「こんにちはリンさん。……すいません、昨日からヒスイは出かけています。今日は昼まで戻らないと、連絡が」
「ああ、それは好都合」
琳は言って、刀に手を掛けた。きょとんとした表情でミズチは琳を見上げる。
仮面のような色の無い笑顔で、琳はミズチを見詰め――――刀を握っていない片手で、ミズチの胸倉を掴んだ。
「お前を殺しに来た」