第一章 サムライ
灰色の雨に覆われるトウキョウアンダーシティ。その中を、一人の少女が走っていた。頭からはぼろ布を被り、長い黒髪から雨粒を滴らせている。細い手足を覆うのはやはり薄汚れた服であった。裸足の足は跳ねた泥で汚れ、古いアスファルトで傷だらけになっている。
しかし、身なりと相反してその顔は可憐で、清潔感すら漂っていた。顔の両脇に垂らした黒髪は白いリボンで飾られ、ぼろ布を握る手も、血管が青く見えるほどに白い。すらりと通った鼻筋と小さな桃色の唇、長い前髪の間から覗く双眸も大きい。身なりさえ整えれば、かなりの美少女となるだろう。
だがその双眸は、ぞっとするような、血の色をしていた。
少女は、中央通りから路地に入り、ネズミ達を避けながら裏通りに入った。薄汚れたガラス戸の奥には、行き場の無い浮浪者や闇商人がたむろをしている。営業している店の軒先には、怪しげな武具や呪術道具が並んでいた。崩れそうな木製の棚の下では、痩せた野良猫が小鳥を貪っている。商人達は少女が駆け抜けた後、その後方に視線を向けて大慌てで店じまいをする。
少女の後方には、巨大なトカゲのようなものがいた。緑色の鱗を光らせ、爪の長い前足で体を引き摺って進んでいる。後ろ脚は飾り物のように小さく、長い尾が左右に揺れていた。巨大な口を開くと、生え揃った牙が覗く。
「あっ!」
足をもつれさせて少女が転ぶ。トカゲの口が少女を掠めて空を喰らった。転ばなければその上半身は、トカゲの口の中だっただろう。少女は青い顔になり、身を起こそうと両手をつく。
「伏せろ!」
低く鋭い声が飛んだ。少女はそれにはっとして、ほぼ反射的に両手で頭を抱える。
少女を飛び越えて、黒い影がトカゲへと突進した。銀色の一線が、トカゲの鼻先を薙ぐ。トカゲは甲高い悲鳴をあげて仰け反った。
着地したのは、黒髪の偉丈夫だった。背は高く、肩幅も広い。大きなポケットが付いたズボンと黒いブーツ、腰には二本のベルトが巻き付いている。対して、上半身は黒いTシャツ一枚であった。首からは、小さな板がペンダントのように吊るされている。雨が流れ落ちる髪は短く、骨ばった顎には無精髭も見えた。手に握っているのは、日本刀だ。
男は右腰のホルスターから拳銃を抜いた。仰け反ったトカゲの頭が、男の眼前に戻ってくる。拳銃から撃ち出された弾丸が、その目玉に減り込んだ。
「っ!」
短く息を吐き、男は地面を蹴る。
トカゲは頭を左右に振った。それに合わせて尾が揺れ、周囲の建物を叩く。古いガラスは飴細工のように砕け散った。
鋭い剣の切っ先がトカゲの表皮を掠め、鱗が飛び散る。男はそうしてトカゲの懐に入り込み、身を屈めて喉を切り裂いた。間髪入れず、もう一閃。扇形に切り出された肉が、地面へ落下した。男は真っ直ぐに、喉の奥へと剣を突き立てる。
「……そこか」
剣を引き抜き、男は腰に手をやる。ベルトに挟み込んだ白い布を掴んで引き抜くと、それで覆った手を傷口に突っ込んだ。
甲高いトカゲの悲鳴が響き、首が激しく振られる。男は顔をしかめ、トカゲの首に剣を突き立てて体を固定した。
ぶちんっ、と肉が千切れる音と共に、男の腕が引き抜かれる。その手には、赤黒く染まった布と、その中に包まれた木の板が握られていた。
瞬間――――トカゲの動きが止まり、振っていた首は千切れて壁へとぶつかった。緑色の鱗も、赤黒さが混じった茶色へ変化する。飛んだ首や手足はぼろぼろと崩れ、隙間から強烈な腐臭が噴き出した。
頭に降ってきた残骸を払い落し、男は刀を横へと振る。赤黒く光る液体が刀から飛んだ。手に握ったままの布の端で刀を拭い、鞘に納める。
「無事か」
男は少女を振り返った。少女は地面にへたり込んだまま、土山へと堕したトカゲを呆然と見上げていた。男に声をかけられて、はっとして少女は顔を上げる。
男は少女の目を見、一瞬顔をしかめた。しかしすぐに無表情へと戻り、雨に濡れた髪を掻き上げる。鋭い黒瞳が、水滴の滴る前髪の間から覗いていた。
男は隻眼だった。右目は黒い眼帯で覆われ、その下端から、肉が抉れたような傷跡が見えている。そして左目の目尻にも、二本のひっかき傷のようなものがあった。
「無事かと聞いているんだ」
「えっ……あ、はい! えっと、無事です」
少女は慌てて返事をする。男は「そうか」とだけ言い、手に握っていた布に包まれた木片をポーチに入れる。
「何故マジモノに追われていたんだ」
「まじもの……?」
「……まさか、今時マジモノを知らないわけではないだろうな」
「え……あの、」
少女は視線を泳がせ、困ったように口元に手を当てた。
「……何か事情があるなら事務所で話を聞こう。ここでは風邪を引く」
男が差し出した手を握り、少女は立ち上がった。
二人は裏通りの最奥にある建物の前で足を止めた。小さな二階建てで、一階は倉庫なのか、シャッターが下りている。左隣の家との間には、二階に続く階段があった。その階段の横の壁に、小さなステッカーが貼ってある。
それは、円の中に桔梗の紋が描かれたエンブレムであった。雨で滑る金属製の階段を上り、二階に上る。男が鍵を開き、金属のドアが押し開けられた。
部屋は、簡素だがそれなりの広さの事務所のようであった。ドアから入って右側、通りに面した窓の前にはデスクと革張りの椅子があり、そのデスクの正面にはローテーブルと、それを挟んで向かい合わせになったソファがある。ドアと対角線上に位置する場所には、二つ、巨大な本棚が並んでいた。男はソファに近付き、そこに引っ掛けられていたタオルを取る。それを少女に渡すと「待っていろ」と言って奥へ向かった。少女は受け取ったタオルを頭に乗せ、部屋を更に見回す。
ドアから入って正面の部屋の隅には、簡易のキッチンがあった。小型の冷蔵庫と、食器棚も完備している。その隣には、奥へのドアが二つ。片方には『御手洗』と書かれたプレートがぶら下がっていた。男はもう片方のドアへ入り、タオルを数枚持って戻ってきた。
「座れ。今熱い茶を淹れる」
「はあ……」
「落ち着いたら事情を教えてもらう」
男がソファに数枚タオルを置き、少女はそこに座った。男は自分の頭にもタオルを乗せたまま、少女の前に湯飲みを置いた。湯気の立つ緑茶が注がれ、少女はそれを両手で包む。
男が奥に引っ込み、間も無く服を着替えて戻ってきた。まだ濡れている髪を拭きながら、男は少女の向かいに座る。
「……うちが、マジモノ? に襲われたんです」
時計の秒針が一周して、ようやくぽつりと呟くように少女が言った。
「あのマジモノか」
「あ……すみません、混乱していて、その……そうだと、思います」
少女は俯いた。男は無精髭がある頬を撫で、考えるような顔になる。
「保護を望むなら、できればサムライ組合の方に行って欲しいんだがな。これでも俺は忙しい」
「さむらい……?」
少女が首を傾げ、男は怪訝な顔をする。
「マジモノに加えて、サムライも知らないのか。記憶をやられているらしいな」
「あ……そうかも、しれません……」
少女は茶を口に運んで身を縮めた。
「簡単に言えば、マジモノは人を襲う化け物。サムライはその退治屋だ。俺は午後もその依頼が入っているから、サムライ達が集まっている場所に行って保護してもらえ」
「でも……その、」
「……なら、案内しようか。丁度、用もある」
男は立ち上がってデスクに近付いた。受話器を取って電話をかける男の背を見上げ、少女は湯飲みを握った。
「……ああ、突然すまん。高杉はいるか…………ああ、マジモノの被害者を保護した。今から大丈夫か。……そうか、では向かう」
男は電話を切り、少女を振り返った。そして、少女の傷だらけの足に気付き、口元に手を当てる。
「同居人の長靴と傘を貸してやる。組合に行くぞ」
「えっ……はい」
少女は立ち上がって傘を受け取った。男は、ソファに置いていた二本のベルト―――ガンベルトと剣帯―――を持ってきて腰に通す。それから、右目の眼帯に触れた。僅かに男の顔が曇った。が、男は首を軽く振り、傘を開く。少女は男を見上げ、その服の裾を引いた。
「あの、お名前は?」
「……お前は?」
見上げて来た少女を見返し、男は短く問う。少女ははっとして口に手を遣った。
「あ……すいません……私、えっと……ミズチ、と言います。朝霞ミズチです」
少女―――ミズチは頭を下げる。
「そうか。俺は……字は、【ムラクモ】。名は、燈瑞だ」
男、燈瑞はそして、ドアに鍵を掛けて歩き出す。ミズチはぺたぺたとその後を追った。
裏通りから中央通りに向かい、ダウンタウン方面―――東に向かう。雨はますます強くなり、舗装されていない地面から跳ねる泥が、燈瑞とミズチの足元を汚していった。
東三番通り、と、通りの端にある傾いた看板を見上げ、ミズチは傘を握る。燈瑞は、左手は常に腰の刀に触れさせ、足音も立てずに歩いていた。堂々としているが、周囲を威圧するような殺気は感じられない。
通りの中ほどに、目的の建物はあった。二階建てのコンクリート造り、一階にはガラス製の大きなドアがある。清潔なタイル張りのロビーがその奥に見えた。
「……う」
燈瑞は顔をしかめて足を止める。ロビーには、それなりの数の人影が集まっていた。服装こそバラバラだが、全員が、燈瑞と同じエンブレムが入った、小さなポーチが付いたベルトを装着している。サムライだろう。
集まっている人々の一人が、燈瑞に気付いた。ふわりとした茶髪が特徴的な、優男だ。膝丈まであるロングブーツに細いスラックス、白いシャツにロングベストを重ねて着ている。緩めた細長いタイを揺らし、優男は近付いて来た。しゃらり、と、腰にぶら下げてあるベルトの飾りが鳴る。
「やあ、燈瑞。待っていたよ。ほら、雨の中突っ立ってないで、入っておいでよ」
ガラス戸を押し開け、優男は片手を挙げる。
「……何だこの人数は」
「うん? ああ、ごめんごめん。今日はね、新人サムライ達の研修なんだ。僕今年教育係でさ」
渋々と言った様子で燈瑞はロビーに入る。ミズチもその後に続いた。
「ああ、その子が?」
優男の視線がミズチに向いた。ミズチはびくりとして燈瑞の服を掴む。
「マジモノに襲われているところを助けた。家がマジモノに襲われたらしい。恐らく感染者だ」
「成程ね。……僕は午後まるっと研修だけど、事務課に言えばいいんじゃないかな?」
優男は屈んでミズチに視線を合わせた。ミズチの紅の瞳に、その顔が浮かぶ。
燈瑞は、自分に向けられる視線に顔をしかめて受付のデスクに向かった。ミズチの目を見たサムライの一人が、露骨な嫌悪感を露わにする。ミズチは戸惑ったような顔になった。
「ああそうだ、高杉」
「うん?」
「どうやら記憶をやられているらしい。マジモノやサムライのことも知らなかった」
「ええー……」
優男はがりがりと頭を掻いた。燈瑞はミズチの手を掴んで服から外させると、ロビーの奥のデスクにポーチを乗せる。
「三体分の依代だ。処理申請を頼みたい」
「はい、今ケースを持ってきますね」
受付嬢が愛想のいい笑みを見せて奥へと引っ込んだ。
「さて、じゃあ君はちょっとそのソファで待っていてくれるかな。事情ならゆっくり聞くから。マジモノの影響で記憶が食われているなら、しばらくしたら落ち着くだろう」
「はあ……」
ミズチは指を差された革張りのソファに座る。優男はにっこりと再度ミズチに笑顔を見せると、集まっているサムライ達へと向き直った。
「……あの、【ムラクモ】さんですよね?」
サムライの一人が、恐る恐ると言った様子で燈瑞に声を掛けた。長い黒髪をポニーテールにした、女顔の青年だ。受付嬢が戻ってくるのを待っていた燈瑞は、青年を振り返って頷く。
「ああ、そうだが」
「俺、字は【カグツチ】、海石榴野琳と申します。あなたに憧れてサムライになりました。弟子にして貰えませんか?」
青年、琳はふわりと笑顔になった。が、燈瑞は苦い顔になる。
「すまないが、弟子は取らない主義だ」
「そう言わずに! だって、フリーでもやっていけるなんて凄いですよ!」
琳は燈瑞に詰め寄る。燈瑞はポーチから白い布を取り出し、デスクに置いた。丁度戻ってきた受付嬢が、ガラスケースを三つデスクに並べる。
「断る。剣の弟子は一人で手一杯だし、新人は組合に属していた方がいいだろう」
「こちらが依代ですね?」
「ああ」
受付嬢は布を受け取り、包まれているものを取り出す。琳は「でも」と拳を握ったが、邪魔になると思ったのか口をつぐんだ。
布から取り出されたのは、薄汚れた、小さな木の板だった。太極図が中心に描かれ、血や泥で汚れている。
「タイプは全て十年以上前のものだ。状態から言って、呪われた対象者は既に死亡している」
「了解しました」
女は板を、手袋をはめた手で取り、ガラスケースに入れる。そして、ペンとシールを燈瑞に差し出した。
「では、サムライIDを」
「ああ」
燈瑞はシールに数字の羅列を書き込む。女はそのシールをガラスケースに張り付けた。
「はい。では受付いたしました」
「よろしく頼む」
燈瑞はそして、隣にいる琳に視線を戻す。琳は待っていたとばかりに口を開いた。
「……今の、マジモノの依代ですよね? 今、倒してきたんですか?」
「ああ……いい加減、何処かに行ってくれないか。弟子にはできない」
「でも……」
「はいはい、琳君、行くよー」
先の優男が現れ、琳の頭をポスポスと叩いた。琳が不満そうな顔になる。だが優男は気にした様子もなく、にこにこと笑って見せた。
「高杉さん……」
「研修が始まるよ。二階の会議室行って」
「……はーい」
琳は渋々と言った様子で、他のサムライ達に混じって階段へと向かう。優男はそれを見送り、それから燈瑞を見上げた。
「むすっとしちゃってさぁ。礼くらい言って欲しいなぁ、助けてあげたんだから」
「悪かったな」
「相変わらず、人と話すのが苦手なのかなぁ、あなたは」
優男は、愛嬌のある垂れ目を細めて笑う。くいくい、と、そのベストをミズチが引っ張った。
「んー?」
「あの……」
「ああ、ごめんごめん、放っておいちゃったね。落ち着いた?」
「あの、思い出したことが……おうちを襲ったマジモノ、その、助けて貰った時の奴じゃないんです……」
「へっ?」
「えっと、その……無我夢中で逃げ出して、よく、覚えていないですけど……」
「……参ったな。案内できる?」
「はい……」
「分かった。研修は他の人に任せて、僕が着いて行ってあげる。ちょっと辛いかも知れないけれど、家に行こう。僕は【ナムチ】って言うんだ。本名は、高杉慧だよ」
「……はい……ミズチ、です」
「それじゃあミズチちゃん、ちょっと着替えてくるから、待っていてくれるかい」
慧が言い、ミズチはおずおずと頷いた。
ロビーで待つこと十数分。奥から現れた慧は、簡易ではあるが武装をしていた。
「ごめんね待たせて。燈瑞みたいに、何時でも戦える準備なんかしてないからさ」
そう言いつつ、慧はやはり軽装であった。ベストを脱いで別の上衣を着、それを腰帯で縛っている程度が変化だろうか。腰帯はサムライのポーチが付いている剣帯だ。左腰には小太刀が、右腰から背中にかけては矢筒が吊るされていた。右手には黒い、固い手袋のようなものを付けている。
「弓……ですか?」
ミズチは、慧の背中にあるものを指差した。慧は「ああ」と笑う。
「僕はこっちの方が得手でね。不安かな?」
「……いいえ」
「不安だって顔に書いてあるよ、全く。大丈夫、燈瑞が一緒に来てくれるんだからね」
「……おい」
「あれ? 来てくれないの?」
「依頼がある。行けない」
あっさりと燈瑞は言った。ぎゅううっ、と、ミズチは燈瑞の服を握る。
「……行けない」
燈瑞は重ねて言った。ミズチは首を横に振るが、慧がその襟首を掴んで燈瑞から引き剥がした。
「先客がいるんじゃしょうがないね。行こっか、ミズチちゃん」
「……うう……分かりました」
渋々、と言った様子でミズチは慧に引っ張られてゆく。燈瑞は傘を開いて外に出ると、二人に背を向けた。
「待ち合わせ場所かい?」
「ああ」
燈瑞がひらひらと手を振り、慧もそれに手を振り返した。
「あの……」
「うん?」
慧を見上げ、ミズチは首を傾げた。
「みなさん、私を感染者って言いますけど……それ、何ですか?」
「……ああ、そうだね。それじゃあ、マジモノの話からしようか。知らないんだろう?」
「あ、はい……」
「難しい話は省くけれど、マジモノは呪術で作り出されたお化けってことだよ。その核は木の板で、そこにマガツカミって、悪い神様が入っている。普通のお化けと違うのは、術者だったり、呪いを依頼した人だったり、誰かしらが取り込まれてしまっていること。人の血肉の味を知ったマジモノは、どんどん人を喰って強くなる。だからサムライがその核である木の板、マガツカミが入った依代を抉り出して、陰陽師が浄化するんだ。僕達がそのサムライ。さっきの眼帯の人もそうだよ」
「はあ……」
「それで、厄介なことにこのマジモノの呪念っていうのは、ウイルスみたいなものでね。マジモノに近付きすぎてしまったり、攻撃を受けたりすると人の体に入り込んで来るんだ。勿論少量なら問題無いけれど。君の目が紅かったり、記憶が混乱しているのは、そうしてマジモノと接触してしまったからじゃないかな。そういう被害者のことを、感染者って呼んでいるんだよ」
「これ……治りますか?」
「勿論。さ、分かれ道だ。案内してくれるかな?」
安心させるように笑って見せて、慧は視線を道へと戻した。
疼く。
燈瑞は依頼人の先に立って歩きながら、右目の眼帯に手をやった。
「あの……サムライさん? ここなのですが」
「あ? ああ」
依頼人―――中年の女―――に視線を戻し、燈瑞は意識を現実に戻す。
「……あれか」
ダウンタウンが見える、小高い丘に向かう途中の通り。左右には掘立小屋が並び、やせ細った野良犬がうろついている。
女が指差した小屋に近付き、燈瑞は刀に手を掛けた。耳を澄ましても、物音はしない。壁の隙間から漂ってくるのは、強烈な血臭だった。
女に、隠れているように指で示して、戸を開く。
それはまさに惨状であった。
床は血溜まりで、ブーツの爪先から波紋が広がって行く。壁に描かれた模様も同じく、血だろう。転がっている青白いものは肉片か。最早、何人の人間がここにいたのかも分からない程に、それは破壊されていた。
「――――五人」
だが、即座に燈瑞はその人数を把握する。それは経験則などではなく、部屋の中央に転がっている、生首の数だった。
体は力任せに破壊した跡があるのに、頭は違う。五人―――恐らくは家族だろう―――年齢の順に、眠っているかのように全員が瞼を閉じ、並べられていた。
そして全員の頭蓋骨が、開かれ、灰色の脳が露わになっていた。鼻をつく異臭と、その余りにも歪んだ光景に、燈瑞も流石に顔をしかめる。だが、即座に既にマジモノがこの家にいないと判断すると、戸を閉じてその惨状を女から隠した。
「マジモノの姿を見たか?」
「え? えっと……はい」
「どんな姿だった? ……何故、今ここにいないんだ」
「えっと、最初は紐の化け物みたいな感じだったんですが……最後の一人だけ、殺されなくて……」
「……最後の、一人?」
「はい。見た目、十五、六歳くらいの……綺麗な、女の子です」
「……それで?」
「えっと、」
女が困ったように顎に手を当てる。
「どうなったんでしょう……あれ? 思い出せない……です……」
「……?」
燈瑞は、首を傾げた女に訝しげな視線を向ける。と――――女の目が、ゆっくりと紅に染まっていった。それに気付き、燈瑞は腰の刀に手をかける。
「え、サムライさん?」
「……ただの感染者か」
「え、ええと……」
戸惑う女に、燈瑞は溜息を吐いて構えを解く。と、足音が後方から聞こえてきた。刀から手を離して振り返り、燈瑞は怪訝な顔になる。
「……あれ?」
そこに立っていたのは、慧とミズチであった。
「なぁんだ、同じマジモノだったんだね。その人が依頼人かあ」
慧は片手を挙げて燈瑞に近付く。
「ああ、まあ」
「それで、マジモノは?」
「……それがな……」
燈瑞は女を見遣り、それで察したように慧は頬を掻いた。そしてちらりと、不安そうな表情のミズチを見る。
「あ、ああ……」
女が、青い顔でミズチを指差した。
「さ、サムライさん! その子、その子です! その子がマジモノです! その子が、あの四人を殺したんです!」
そして、切り裂くような声でそう叫んだ。
燈瑞が刀を抜き放つのと、慧が弓に矢を番えるのは同時だった。燈瑞の刀の切っ先が、ミズチの顎に触れる。慧は即座にミズチから距離を取り、依頼人の女の前に立った。
「……正直に話せ。人を殺したか?」
「え……? な、私は……そんな、」
不安気に言って、ミズチは燈瑞から離れる。突然のことに、女は体を硬直させていた。
「正直に話せ。家族は何人だ」
「ご、五人です。私と、お父さんとお母さんと、お兄ちゃんと、お姉ちゃんです……」
「マジモノの姿を見たか?」
「……いいえ」
「お前はマジモノか?」
「いいえ!」
必死に、ミズチは頭を振る。
「……燈瑞、こっちは? 依頼者の人は?」
「……ただの感染者だ」
「……そう」
慧の視線が柔らかくなり、女はほっとしたように息を吐いた。
燈瑞は刀を向けたまま、じっくりとミズチを観察する。どこからどう見てもその姿は人間の少女のそれだ。大きな紅の目以外は、全て。
「……お前……まさか」
「……?」
ぎゅう、とミズチは服を固く握った。
「ねえ燈瑞、四人、殺されたって言っていたけど。こっちの家?」
「ああ。……高杉、お前はその人を頼む。陰陽課で浄化してもらってくれ」
「んー、良いけどさ……」
「ミズチは俺が保護する」
あっさりと言って、燈瑞は刀を収めた。ミズチはきょとんとした顔になる。
「……あとで、電話よこしてな」
慧は言って、女へと向き直る。燈瑞はミズチの前に屈んだ。
「家族が殺されて、行き場所がないだろう。俺のところに来い」
ミズチは燈瑞の言葉にしばし、不思議そうに目を瞬かせ―――それから、泣きそうな笑顔を浮かべた。
薄暗い燈瑞の事務所の中、壁掛け時計の針の音だけが響く。シャワーを浴び、燈瑞のシャツだけを身に纏ったミズチは、ソファで体を丸めて寝息を立てていた。デスクの電話を取り、燈瑞はちらりと、無防備に眠るミズチに視線を向ける。
電話の相手―――慧は、二コール目で出た。
『やぁっと電話よこしたね。で? 何でミズチちゃんを連れて行ったんだよ? そういう趣味だっけ』
「気色の悪いことを言うな。利用させてもらうだけだ」
『……やっぱりね。あの子、マジモノだろう?』
あっさりと慧は言った。燈瑞は「ああ」と返す。
『まあ、マジモノは、式神と作り方は同じだからね……毒気を抜かれてああなってもおかしくないんじゃないかな?』
「……あれだけ殺しておいて、毒気が無いわけはないだろう」
『まあそうだよね……ああ、だから利用?』
「ああ」
燈瑞はデスクに寄りかかり、ポケットから煙草を取り出した。咥えたそれに火をつけて、ゆっくりと大きく息を吸う。
「マジモノ独特の能力もあるだろう。どうして被害者ぶるのかも気になる。適当に、役立ってもらう」
『……まあ、いいけどさ。そういう言い訳無しでも、お人好しは大概にね』
「五月蝿い」
がしゃりと燈瑞は電話を切り、紫煙を吐き出した。
「……同情じゃない」
じっ、と、眠り続けるミズチを見つめる。
あの家で殺されていたのは、五人。ミズチが殺されたといったのは、四人の家族。依頼人が殺されたと言ったのも、四人。
目撃者の記憶を改竄し、自分は人間を演じているのか、本当にそう思い込んでいるのかは定かではないが、少なくとも今、ミズチは自分を人間だと主張している。マジモノやサムライについての知識がないというのも、全くの嘘とは思えなかった。
マジモノに、家族を殺され、自身の記憶すらも曖昧になってしまった天涯孤独な少女が、ここにいる。
「……ああ、同情ではないさ」
言い聞かせるように呟く燈瑞の胸元では、ペンダント――――古びた家紋と家名が刻まれた木の板が、揺れていた。燈瑞は右手でそれを握り、唇を噛む。そして、煙草をぐしゃりと灰皿に押し付けた。