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第一章 サムライ

 灰色の雨に覆われるトウキョウアンダーシティ。その中を、一人の少女が走っていた。頭からはぼろ布を被り、長い黒髪から雨粒を滴らせている。細い手足を覆うのはやはり薄汚れた服であった。裸足の足は跳ねた泥で汚れ、古いアスファルトで傷だらけになっている。

 しかし、身なりと相反してその顔は可憐で、清潔感すら漂っていた。顔の両脇に垂らした黒髪は白いリボンで飾られ、ぼろ布を握る手も、血管が青く見えるほどに白い。すらりと通った鼻筋と小さな桃色の唇、長い前髪の間から覗く双眸も大きい。身なりさえ整えれば、かなりの美少女となるだろう。

 だがその双眸は、ぞっとするような、血の色をしていた。

 少女は、中央通りから路地に入り、ネズミ達を避けながら裏通りに入った。薄汚れたガラス戸の奥には、行き場の無い浮浪者や闇商人がたむろをしている。営業している店の軒先には、怪しげな武具や呪術道具が並んでいた。崩れそうな木製の棚の下では、痩せた野良猫が小鳥を貪っている。商人達は少女が駆け抜けた後、その後方に視線を向けて大慌てで店じまいをする。

 少女の後方には、巨大なトカゲのようなものがいた。緑色の鱗を光らせ、爪の長い前足で体を引き摺って進んでいる。後ろ脚は飾り物のように小さく、長い尾が左右に揺れていた。巨大な口を開くと、生え揃った牙が覗く。

「あっ!」

 足をもつれさせて少女が転ぶ。トカゲの口が少女を掠めて空を喰らった。転ばなければその上半身は、トカゲの口の中だっただろう。少女は青い顔になり、身を起こそうと両手をつく。

「伏せろ!」

 低く鋭い声が飛んだ。少女はそれにはっとして、ほぼ反射的に両手で頭を抱える。

 少女を飛び越えて、黒い影がトカゲへと突進した。銀色の一線が、トカゲの鼻先を薙ぐ。トカゲは甲高い悲鳴をあげて仰け反った。

 着地したのは、黒髪の偉丈夫だった。背は高く、肩幅も広い。大きなポケットが付いたズボンと黒いブーツ、腰には二本のベルトが巻き付いている。対して、上半身は黒いTシャツ一枚であった。首からは、小さな板がペンダントのように吊るされている。雨が流れ落ちる髪は短く、骨ばった顎には無精髭も見えた。手に握っているのは、日本刀だ。

 男は右腰のホルスターから拳銃を抜いた。仰け反ったトカゲの頭が、男の眼前に戻ってくる。拳銃から撃ち出された弾丸が、その目玉に減り込んだ。

「っ!」

 短く息を吐き、男は地面を蹴る。

 トカゲは頭を左右に振った。それに合わせて尾が揺れ、周囲の建物を叩く。古いガラスは飴細工のように砕け散った。

 鋭い剣の切っ先がトカゲの表皮を掠め、鱗が飛び散る。男はそうしてトカゲの懐に入り込み、身を屈めて喉を切り裂いた。間髪入れず、もう一閃。扇形に切り出された肉が、地面へ落下した。男は真っ直ぐに、喉の奥へと剣を突き立てる。

「……そこか」

 剣を引き抜き、男は腰に手をやる。ベルトに挟み込んだ白い布を掴んで引き抜くと、それで覆った手を傷口に突っ込んだ。

 甲高いトカゲの悲鳴が響き、首が激しく振られる。男は顔をしかめ、トカゲの首に剣を突き立てて体を固定した。

 ぶちんっ、と肉が千切れる音と共に、男の腕が引き抜かれる。その手には、赤黒く染まった布と、その中に包まれた木の板が握られていた。

 瞬間――――トカゲの動きが止まり、振っていた首は千切れて壁へとぶつかった。緑色の鱗も、赤黒さが混じった茶色へ変化する。飛んだ首や手足はぼろぼろと崩れ、隙間から強烈な腐臭が噴き出した。

 頭に降ってきた残骸を払い落し、男は刀を横へと振る。赤黒く光る液体が刀から飛んだ。手に握ったままの布の端で刀を拭い、鞘に納める。

「無事か」

 男は少女を振り返った。少女は地面にへたり込んだまま、土山へと堕したトカゲを呆然と見上げていた。男に声をかけられて、はっとして少女は顔を上げる。

 男は少女の目を見、一瞬顔をしかめた。しかしすぐに無表情へと戻り、雨に濡れた髪を掻き上げる。鋭い黒瞳が、水滴の滴る前髪の間から覗いていた。

 男は隻眼だった。右目は黒い眼帯で覆われ、その下端から、肉が抉れたような傷跡が見えている。そして左目の目尻にも、二本のひっかき傷のようなものがあった。

「無事かと聞いているんだ」

「えっ……あ、はい! えっと、無事です」

 少女は慌てて返事をする。男は「そうか」とだけ言い、手に握っていた布に包まれた木片をポーチに入れる。

「何故マジモノに追われていたんだ」

「まじもの……?」

「……まさか、今時マジモノを知らないわけではないだろうな」

「え……あの、」

 少女は視線を泳がせ、困ったように口元に手を当てた。

「……何か事情があるなら事務所で話を聞こう。ここでは風邪を引く」

 男が差し出した手を握り、少女は立ち上がった。



 二人は裏通りの最奥にある建物の前で足を止めた。小さな二階建てで、一階は倉庫なのか、シャッターが下りている。左隣の家との間には、二階に続く階段があった。その階段の横の壁に、小さなステッカーが貼ってある。

 それは、円の中に桔梗の紋が描かれたエンブレムであった。雨で滑る金属製の階段を上り、二階に上る。男が鍵を開き、金属のドアが押し開けられた。

 部屋は、簡素だがそれなりの広さの事務所のようであった。ドアから入って右側、通りに面した窓の前にはデスクと革張りの椅子があり、そのデスクの正面にはローテーブルと、それを挟んで向かい合わせになったソファがある。ドアと対角線上に位置する場所には、二つ、巨大な本棚が並んでいた。男はソファに近付き、そこに引っ掛けられていたタオルを取る。それを少女に渡すと「待っていろ」と言って奥へ向かった。少女は受け取ったタオルを頭に乗せ、部屋を更に見回す。

 ドアから入って正面の部屋の隅には、簡易のキッチンがあった。小型の冷蔵庫と、食器棚も完備している。その隣には、奥へのドアが二つ。片方には『御手洗』と書かれたプレートがぶら下がっていた。男はもう片方のドアへ入り、タオルを数枚持って戻ってきた。

「座れ。今熱い茶を淹れる」

「はあ……」

「落ち着いたら事情を教えてもらう」

 男がソファに数枚タオルを置き、少女はそこに座った。男は自分の頭にもタオルを乗せたまま、少女の前に湯飲みを置いた。湯気の立つ緑茶が注がれ、少女はそれを両手で包む。

 男が奥に引っ込み、間も無く服を着替えて戻ってきた。まだ濡れている髪を拭きながら、男は少女の向かいに座る。

「……うちが、マジモノ? に襲われたんです」

 時計の秒針が一周して、ようやくぽつりと呟くように少女が言った。

「あのマジモノか」

「あ……すみません、混乱していて、その……そうだと、思います」

 少女は俯いた。男は無精髭がある頬を撫で、考えるような顔になる。

「保護を望むなら、できればサムライ組合の方に行って欲しいんだがな。これでも俺は忙しい」

「さむらい……?」

 少女が首を傾げ、男は怪訝な顔をする。

「マジモノに加えて、サムライも知らないのか。記憶をやられているらしいな」

「あ……そうかも、しれません……」

 少女は茶を口に運んで身を縮めた。

「簡単に言えば、マジモノは人を襲う化け物。サムライはその退治屋だ。俺は午後もその依頼が入っているから、サムライ達が集まっている場所に行って保護してもらえ」

「でも……その、」

「……なら、案内しようか。丁度、用もある」

 男は立ち上がってデスクに近付いた。受話器を取って電話をかける男の背を見上げ、少女は湯飲みを握った。

「……ああ、突然すまん。高杉はいるか…………ああ、マジモノの被害者を保護した。今から大丈夫か。……そうか、では向かう」

 男は電話を切り、少女を振り返った。そして、少女の傷だらけの足に気付き、口元に手を当てる。

「同居人の長靴と傘を貸してやる。組合に行くぞ」

「えっ……はい」

 少女は立ち上がって傘を受け取った。男は、ソファに置いていた二本のベルト―――ガンベルトと剣帯―――を持ってきて腰に通す。それから、右目の眼帯に触れた。僅かに男の顔が曇った。が、男は首を軽く振り、傘を開く。少女は男を見上げ、その服の裾を引いた。

「あの、お名前は?」

「……お前は?」

 見上げて来た少女を見返し、男は短く問う。少女ははっとして口に手を遣った。

「あ……すいません……私、えっと……ミズチ、と言います。朝霞(あさか)ミズチです」

 少女―――ミズチは頭を下げる。

「そうか。俺は……(あざな)は、【ムラクモ】。名は、燈瑞(ひすい)だ」

 男、燈瑞はそして、ドアに鍵を掛けて歩き出す。ミズチはぺたぺたとその後を追った。



 裏通りから中央通りに向かい、ダウンタウン方面―――東に向かう。雨はますます強くなり、舗装されていない地面から跳ねる泥が、燈瑞とミズチの足元を汚していった。

 東三番通り、と、通りの端にある傾いた看板を見上げ、ミズチは傘を握る。燈瑞は、左手は常に腰の刀に触れさせ、足音も立てずに歩いていた。堂々としているが、周囲を威圧するような殺気は感じられない。

 通りの中ほどに、目的の建物はあった。二階建てのコンクリート造り、一階にはガラス製の大きなドアがある。清潔なタイル張りのロビーがその奥に見えた。

「……う」

 燈瑞は顔をしかめて足を止める。ロビーには、それなりの数の人影が集まっていた。服装こそバラバラだが、全員が、燈瑞と同じエンブレムが入った、小さなポーチが付いたベルトを装着している。サムライだろう。

 集まっている人々の一人が、燈瑞に気付いた。ふわりとした茶髪が特徴的な、優男だ。膝丈まであるロングブーツに細いスラックス、白いシャツにロングベストを重ねて着ている。緩めた細長いタイを揺らし、優男は近付いて来た。しゃらり、と、腰にぶら下げてあるベルトの飾りが鳴る。

「やあ、燈瑞。待っていたよ。ほら、雨の中突っ立ってないで、入っておいでよ」

 ガラス戸を押し開け、優男は片手を挙げる。

「……何だこの人数は」

「うん? ああ、ごめんごめん。今日はね、新人サムライ達の研修なんだ。僕今年教育係でさ」

 渋々と言った様子で燈瑞はロビーに入る。ミズチもその後に続いた。

「ああ、その子が?」

 優男の視線がミズチに向いた。ミズチはびくりとして燈瑞の服を掴む。

「マジモノに襲われているところを助けた。家がマジモノに襲われたらしい。恐らく感染者だ」

「成程ね。……僕は午後まるっと研修だけど、事務課に言えばいいんじゃないかな?」

 優男は屈んでミズチに視線を合わせた。ミズチの紅の瞳に、その顔が浮かぶ。

 燈瑞は、自分に向けられる視線に顔をしかめて受付のデスクに向かった。ミズチの目を見たサムライの一人が、露骨な嫌悪感を露わにする。ミズチは戸惑ったような顔になった。

「ああそうだ、高杉」

「うん?」

「どうやら記憶をやられているらしい。マジモノやサムライのことも知らなかった」

「ええー……」

 優男はがりがりと頭を掻いた。燈瑞はミズチの手を掴んで服から外させると、ロビーの奥のデスクにポーチを乗せる。

「三体分の依代だ。処理申請を頼みたい」

「はい、今ケースを持ってきますね」

 受付嬢が愛想のいい笑みを見せて奥へと引っ込んだ。

「さて、じゃあ君はちょっとそのソファで待っていてくれるかな。事情ならゆっくり聞くから。マジモノの影響で記憶が食われているなら、しばらくしたら落ち着くだろう」

「はあ……」

 ミズチは指を差された革張りのソファに座る。優男はにっこりと再度ミズチに笑顔を見せると、集まっているサムライ達へと向き直った。

「……あの、【ムラクモ】さんですよね?」

 サムライの一人が、恐る恐ると言った様子で燈瑞に声を掛けた。長い黒髪をポニーテールにした、女顔の青年だ。受付嬢が戻ってくるのを待っていた燈瑞は、青年を振り返って頷く。

「ああ、そうだが」

「俺、字は【カグツチ】、海石榴野琳(つばきのりん)と申します。あなたに憧れてサムライになりました。弟子にして貰えませんか?」

 青年、琳はふわりと笑顔になった。が、燈瑞は苦い顔になる。

「すまないが、弟子は取らない主義だ」

「そう言わずに! だって、フリーでもやっていけるなんて凄いですよ!」

 琳は燈瑞に詰め寄る。燈瑞はポーチから白い布を取り出し、デスクに置いた。丁度戻ってきた受付嬢が、ガラスケースを三つデスクに並べる。

「断る。剣の弟子は一人で手一杯だし、新人は組合に属していた方がいいだろう」

「こちらが依代ですね?」

「ああ」

 受付嬢は布を受け取り、包まれているものを取り出す。琳は「でも」と拳を握ったが、邪魔になると思ったのか口をつぐんだ。

 布から取り出されたのは、薄汚れた、小さな木の板だった。太極図が中心に描かれ、血や泥で汚れている。

「タイプは全て十年以上前のものだ。状態から言って、呪われた対象者は既に死亡している」

「了解しました」

 女は板を、手袋をはめた手で取り、ガラスケースに入れる。そして、ペンとシールを燈瑞に差し出した。

「では、サムライIDを」

「ああ」

 燈瑞はシールに数字の羅列を書き込む。女はそのシールをガラスケースに張り付けた。

「はい。では受付いたしました」

「よろしく頼む」

 燈瑞はそして、隣にいる琳に視線を戻す。琳は待っていたとばかりに口を開いた。

「……今の、マジモノの依代ですよね? 今、倒してきたんですか?」

「ああ……いい加減、何処かに行ってくれないか。弟子にはできない」

「でも……」

「はいはい、琳君、行くよー」

 先の優男が現れ、琳の頭をポスポスと叩いた。琳が不満そうな顔になる。だが優男は気にした様子もなく、にこにこと笑って見せた。

「高杉さん……」

「研修が始まるよ。二階の会議室行って」

「……はーい」

 琳は渋々と言った様子で、他のサムライ達に混じって階段へと向かう。優男はそれを見送り、それから燈瑞を見上げた。

「むすっとしちゃってさぁ。礼くらい言って欲しいなぁ、助けてあげたんだから」

「悪かったな」

「相変わらず、人と話すのが苦手なのかなぁ、あなたは」

 優男は、愛嬌のある垂れ目を細めて笑う。くいくい、と、そのベストをミズチが引っ張った。

「んー?」

「あの……」

「ああ、ごめんごめん、放っておいちゃったね。落ち着いた?」

「あの、思い出したことが……おうちを襲ったマジモノ、その、助けて貰った時の奴じゃないんです……」

「へっ?」

「えっと、その……無我夢中で逃げ出して、よく、覚えていないですけど……」

「……参ったな。案内できる?」

「はい……」

「分かった。研修は他の人に任せて、僕が着いて行ってあげる。ちょっと辛いかも知れないけれど、家に行こう。僕は【ナムチ】って言うんだ。本名は、高杉(たかすぎ)(あきら)だよ」

「……はい……ミズチ、です」

「それじゃあミズチちゃん、ちょっと着替えてくるから、待っていてくれるかい」

 慧が言い、ミズチはおずおずと頷いた。



 ロビーで待つこと十数分。奥から現れた慧は、簡易ではあるが武装をしていた。

「ごめんね待たせて。燈瑞みたいに、何時でも戦える準備なんかしてないからさ」

 そう言いつつ、慧はやはり軽装であった。ベストを脱いで別の上衣を着、それを腰帯で縛っている程度が変化だろうか。腰帯はサムライのポーチが付いている剣帯だ。左腰には小太刀が、右腰から背中にかけては矢筒が吊るされていた。右手には黒い、固い手袋のようなものを付けている。

「弓……ですか?」

 ミズチは、慧の背中にあるものを指差した。慧は「ああ」と笑う。

「僕はこっちの方が得手でね。不安かな?」

「……いいえ」

「不安だって顔に書いてあるよ、全く。大丈夫、燈瑞が一緒に来てくれるんだからね」

「……おい」

「あれ? 来てくれないの?」

「依頼がある。行けない」

 あっさりと燈瑞は言った。ぎゅううっ、と、ミズチは燈瑞の服を握る。

「……行けない」

 燈瑞は重ねて言った。ミズチは首を横に振るが、慧がその襟首を掴んで燈瑞から引き剥がした。

「先客がいるんじゃしょうがないね。行こっか、ミズチちゃん」

「……うう……分かりました」

 渋々、と言った様子でミズチは慧に引っ張られてゆく。燈瑞は傘を開いて外に出ると、二人に背を向けた。

「待ち合わせ場所かい?」

「ああ」

 燈瑞がひらひらと手を振り、慧もそれに手を振り返した。

「あの……」

「うん?」

 慧を見上げ、ミズチは首を傾げた。

「みなさん、私を感染者って言いますけど……それ、何ですか?」

「……ああ、そうだね。それじゃあ、マジモノの話からしようか。知らないんだろう?」

「あ、はい……」

「難しい話は省くけれど、マジモノは呪術で作り出されたお化けってことだよ。その核は木の板で、そこにマガツカミって、悪い神様が入っている。普通のお化けと違うのは、術者だったり、呪いを依頼した人だったり、誰かしらが取り込まれてしまっていること。人の血肉の味を知ったマジモノは、どんどん人を喰って強くなる。だからサムライがその核である木の板、マガツカミが入った依代を抉り出して、陰陽師が浄化するんだ。僕達がそのサムライ。さっきの眼帯の人もそうだよ」

「はあ……」

「それで、厄介なことにこのマジモノの呪念っていうのは、ウイルスみたいなものでね。マジモノに近付きすぎてしまったり、攻撃を受けたりすると人の体に入り込んで来るんだ。勿論少量なら問題無いけれど。君の目が紅かったり、記憶が混乱しているのは、そうしてマジモノと接触してしまったからじゃないかな。そういう被害者のことを、感染者って呼んでいるんだよ」

「これ……治りますか?」

「勿論。さ、分かれ道だ。案内してくれるかな?」

 安心させるように笑って見せて、慧は視線を道へと戻した。



 疼く。

 燈瑞は依頼人の先に立って歩きながら、右目の眼帯に手をやった。

「あの……サムライさん? ここなのですが」

「あ? ああ」

 依頼人―――中年の女―――に視線を戻し、燈瑞は意識を現実に戻す。

「……あれか」

 ダウンタウンが見える、小高い丘に向かう途中の通り。左右には掘立小屋が並び、やせ細った野良犬がうろついている。

 女が指差した小屋に近付き、燈瑞は刀に手を掛けた。耳を澄ましても、物音はしない。壁の隙間から漂ってくるのは、強烈な血臭だった。

 女に、隠れているように指で示して、戸を開く。

 それはまさに惨状であった。

 床は血溜まりで、ブーツの爪先から波紋が広がって行く。壁に描かれた模様も同じく、血だろう。転がっている青白いものは肉片か。最早、何人の人間がここにいたのかも分からない程に、それは破壊されていた。

「――――五人」

 だが、即座に燈瑞はその人数を把握する。それは経験則などではなく、部屋の中央に転がっている、生首の数だった。

 体は力任せに破壊した跡があるのに、頭は違う。五人―――恐らくは家族だろう―――年齢の順に、眠っているかのように全員が瞼を閉じ、並べられていた。

 そして全員の頭蓋骨が、開かれ、灰色の脳が露わになっていた。鼻をつく異臭と、その余りにも歪んだ光景に、燈瑞も流石に顔をしかめる。だが、即座に既にマジモノがこの家にいないと判断すると、戸を閉じてその惨状を女から隠した。

「マジモノの姿を見たか?」

「え? えっと……はい」

「どんな姿だった? ……何故、今ここにいないんだ」

「えっと、最初は紐の化け物みたいな感じだったんですが……最後の一人だけ、殺されなくて……」

「……最後の、一人?」

「はい。見た目、十五、六歳くらいの……綺麗な、女の子です」

「……それで?」

「えっと、」

 女が困ったように顎に手を当てる。

「どうなったんでしょう……あれ? 思い出せない……です……」

「……?」

 燈瑞は、首を傾げた女に訝しげな視線を向ける。と――――女の目が、ゆっくりと紅に染まっていった。それに気付き、燈瑞は腰の刀に手をかける。

「え、サムライさん?」

「……ただの感染者か」

「え、ええと……」

 戸惑う女に、燈瑞は溜息を吐いて構えを解く。と、足音が後方から聞こえてきた。刀から手を離して振り返り、燈瑞は怪訝な顔になる。

「……あれ?」

 そこに立っていたのは、慧とミズチであった。

「なぁんだ、同じマジモノだったんだね。その人が依頼人かあ」

 慧は片手を挙げて燈瑞に近付く。

「ああ、まあ」

「それで、マジモノは?」

「……それがな……」

 燈瑞は女を見遣り、それで察したように慧は頬を掻いた。そしてちらりと、不安そうな表情のミズチを見る。

「あ、ああ……」

 女が、青い顔でミズチを指差した。

「さ、サムライさん! その子、その子です! その子がマジモノです! その子が、あの四人を殺したんです!」

 そして、切り裂くような声でそう叫んだ。



 燈瑞が刀を抜き放つのと、慧が弓に矢を番えるのは同時だった。燈瑞の刀の切っ先が、ミズチの顎に触れる。慧は即座にミズチから距離を取り、依頼人の女の前に立った。

「……正直に話せ。人を殺したか?」

「え……? な、私は……そんな、」

 不安気に言って、ミズチは燈瑞から離れる。突然のことに、女は体を硬直させていた。

「正直に話せ。家族は何人だ」

「ご、五人です。私と、お父さんとお母さんと、お兄ちゃんと、お姉ちゃんです……」

「マジモノの姿を見たか?」

「……いいえ」

「お前はマジモノか?」

「いいえ!」

 必死に、ミズチは頭を振る。

「……燈瑞、こっちは? 依頼者の人は?」

「……ただの感染者だ」

「……そう」

 慧の視線が柔らかくなり、女はほっとしたように息を吐いた。

 燈瑞は刀を向けたまま、じっくりとミズチを観察する。どこからどう見てもその姿は人間の少女のそれだ。大きな紅の目以外は、全て。

「……お前……まさか」

「……?」

 ぎゅう、とミズチは服を固く握った。

「ねえ燈瑞、四人、殺されたって言っていたけど。こっちの家?」

「ああ。……高杉、お前はその人を頼む。陰陽課で浄化してもらってくれ」

「んー、良いけどさ……」

「ミズチは俺が保護する」

 あっさりと言って、燈瑞は刀を収めた。ミズチはきょとんとした顔になる。

「……あとで、電話よこしてな」

 慧は言って、女へと向き直る。燈瑞はミズチの前に屈んだ。

「家族が殺されて、行き場所がないだろう。俺のところに来い」

 ミズチは燈瑞の言葉にしばし、不思議そうに目を瞬かせ―――それから、泣きそうな笑顔を浮かべた。



 薄暗い燈瑞の事務所の中、壁掛け時計の針の音だけが響く。シャワーを浴び、燈瑞のシャツだけを身に纏ったミズチは、ソファで体を丸めて寝息を立てていた。デスクの電話を取り、燈瑞はちらりと、無防備に眠るミズチに視線を向ける。

 電話の相手―――慧は、二コール目で出た。

『やぁっと電話よこしたね。で? 何でミズチちゃんを連れて行ったんだよ? そういう趣味だっけ』

「気色の悪いことを言うな。利用させてもらうだけだ」

『……やっぱりね。あの子、マジモノだろう?』

 あっさりと慧は言った。燈瑞は「ああ」と返す。

『まあ、マジモノは、式神と作り方は同じだからね……毒気を抜かれてああなってもおかしくないんじゃないかな?』

「……あれだけ殺しておいて、毒気が無いわけはないだろう」

『まあそうだよね……ああ、だから利用?』

「ああ」

 燈瑞はデスクに寄りかかり、ポケットから煙草を取り出した。咥えたそれに火をつけて、ゆっくりと大きく息を吸う。

「マジモノ独特の能力もあるだろう。どうして被害者ぶるのかも気になる。適当に、役立ってもらう」

『……まあ、いいけどさ。そういう言い訳無しでも、お人好しは大概にね』

「五月蝿い」

 がしゃりと燈瑞は電話を切り、紫煙を吐き出した。

「……同情じゃない」

 じっ、と、眠り続けるミズチを見つめる。

 あの家で殺されていたのは、五人。ミズチが殺されたといったのは、四人の家族。依頼人が殺されたと言ったのも、四人。

 目撃者の記憶を改竄し、自分は人間を演じているのか、本当にそう思い込んでいるのかは定かではないが、少なくとも今、ミズチは自分を人間だと主張している。マジモノやサムライについての知識がないというのも、全くの嘘とは思えなかった。

 マジモノに、家族を殺され、自身の記憶すらも曖昧になってしまった天涯孤独な少女が、ここにいる。

「……ああ、同情ではないさ」

 言い聞かせるように呟く燈瑞の胸元では、ペンダント――――古びた家紋と家名が刻まれた木の板が、揺れていた。燈瑞は右手でそれを握り、唇を噛む。そして、煙草をぐしゃりと灰皿に押し付けた。

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