序章 泡沫の憧憬
銀色の刃が、月明かりに光る。散った血飛沫が壁に毒々しい模様を描いた。
「逃げなさい」
静かな声が飛び、少年は息を飲む。まだ幼い顔の右半面は血に濡れていた。その左目は真っ直ぐに、窓の外へと向けられている。ガラスは無残に砕かれ、その先から、月光を背負った化け物が侵入してきていた。粗末な家の床を軋ませて、それは家の中へと入ってくる。
「逃げなさい」
もう一度、母親が念を押す。父は少年の前に立ち、刀を構えていた。母の肩越しに、少年は父の背を見上げる。
化け物は、紐をねじって束ね、無理矢理に人型に押し込めたような形をしていた。小さい顔には紅の目が二つ光っている。少年は歯の根が合わない状態で、首をふるふると横に振った。
「大丈夫。ね、ヒスイ、良い子だから」
母が耳元で繰り返し、少年の手に小さな木の板を握らせた。
「お父さんとお母さんは大丈夫だから。ダウンタウンに走りなさい。そして、陰陽師とサムライを呼んで来て。ね?」
母に念を押され、少年はこくこくと頷く。母親はにっこりと笑って見せた。
「行って……生きなさい!」
母親の手が、少年を突き飛ばした。少年は隣の部屋へと転がり込み、母親が間髪入れずに引き戸を閉める。直後、父親の横をすり抜けて化け物の腕が伸び、母親の腹部を貫いた。
少年は狭い部屋を抜け、勝手口から外へと飛び出した。風を切る音に背を押され、震える小さな足を必死に動かす。
古いアスファルトの地面を蹴って、東へ。沈みかけの月に背を向けて走ると、視界の先に光の壁が現れた。夜空の中に、見上げる程の白い半透明の壁が突き出している。
「……、」
口を開いて、しかし声が出ずに少年はふらつきながら倒れ込んだ。今更のように右目が痛み、どくどくと溢れ出す血が冷たいアスファルトに広がっていく。
手の中に握った木の板には、円の中に藤の花が描かれた家紋が刻まれていた。