万有引力の法則2
教室を出て屋上に向かいながら、東雲の言葉に耳を傾ける。
『ああ、それは失礼。まあ続けますね。そういえばお互いの能力について話していなかったなと思いまして』
「そんなの戦闘時に分かっているよね。君の能力は視界内の他人を操る。行動を意のままにするというよりも、見えない糸で吊った操り人形で遊ぶ感じのもの」
階段を上がりきって、屋上の扉を開けた。さすが屋上と言うべきか、そこには誰もいない。授業をサボるために来ている生徒がいたら引き返そうと思ったが、そんな不真面目な生徒は僕だけのようだ。
『よく分かっているじゃないですか! 私、この能力を自分で〈マリオネット〉と名付けたのですがかっこいいと思いませんか!?』
ほっと胸を撫で下ろしていたら、東雲の声が鼓膜を破ろうとしてきた。曲の音量を最大まで上げてイヤホンを付けてしまった時くらい驚いたが、それは表に出さないでおく。
「あーはいはいかっこいいかっこいい」
『それで、紫苑くんの能力の方ですが、あれはどういう原理なのでしょう?』
「原理?」
原理、つまり事物・事象が依拠する根本法則。いや意味なんてどうでもいい。東雲が聞きたいのはどういうことなのかと沈思黙考する。沈黙から僕の心を読んだように、彼は言葉を続けてくれた。
『紫苑くんの能力は私の能力の対象に物を追加したもの、というわけでもないですよね』
「いや、似たようなものだよ。東雲の能力の見えない糸が上空から垂らされているとしたら、僕の能力の見えない糸は上空に限らず湧いて出る、みたいな。……説明って難しいね」
フェンスの向こうの青空に、指で想像図を描いてみたが、それは分かりやすい形にならない。悩むような息が電話の向こうで吐き出された。
『そうですねえ、もう少し私の考えをまとめてからもう一度かけなおします。もちろん零時前には。気長に待っていてください』
「あさ――……友達と一緒だったら出ないから、その時はまた今度ってことで」
『友達!?』
またもや、脳髄を揺さぶるような大声を上げられる。耳の奥の方が痛んで、僕は東雲に舌打ちを返した。
「うるさいんだけど」
『ああ、すみません。そりゃあ友達くらいいますよね、ははは。なんとなくですが紫苑くんは友達いないと思っていました。失礼』
「まあ、僕も彼女しか友達いないしね」
『ぶっ!』
飲んでいた飲み物を吐き出したみたいな汚い音が耳元で立てられ、僕は電話を耳から遠ざける。少しして耳の傍に寄せ直した。それからすぐに、嫌悪感を声だけで精一杯表してみせる。
「東雲、そういうの下品って言うんだよ、知ってる?」
『か、かの、彼女!?』
「うるさいな、何で君はそんなに全力で僕の鼓膜を破ろうとしているんだよ」
『いやあ、青春ですね。まあ確かに紫苑くん、綺麗ですしね。女性に言い寄られることも多いんでしょうねきっと。見た目が良いって羨ましい』
「次会ったとき首を百八十度回転させていい?」
東雲のこの態度、まさかとは思うが浅葱のことを彼女――三人称ではなく恋人としての彼女だと勘違いしているのではないだろうか。友達であってそういう関係ではないし、そもそも関わりすら薄い。
誤解を解いておくため、説明を付け加える。
「あのさ、浅葱はただの後輩であり友達だよ」
『年下が好みですか、やーいロリコン』
「お前喧嘩売ってるのか」
というかなんだロリコンって。そこまで浅葱は幼くない。
僕の苛立ちを感じ取ったのか、彼は笑いを堪えていた。人を怒らせて楽しむなんて本当に性格が悪い。目の前にいたなら腕を折ってやれるのに。そう思っていると、微笑を含んだ声で彼が言った。
『紫苑くんってあれですね、こういう話苦手でしょう。君をからかう時は恋愛関係の話をすればいいと学べました、ありがとうございます』
「そういう下らない話で僕の時間を奪わないでくれる? 次口にしたら電話切るよ」
『それで、その――浅葱さんという子は可愛いのですか?』
電話の向こうで口角を上げているのであろう彼の姿を思い浮かべ、舌を打つ。彼がその舌打ちを掻き消すくらいの声量で『どうなんです? 可愛いんですか? 私好みですか?』と何度も何度も繰り返してきて鬱陶しい。仕方なしに、箇条書きのように特徴を並べてみた。
「小動物みたい。天然、冗談が通じない、感情の起伏が激しい、結構考えていることが顔に出てる。こんなところかな」
『小動物って……ふ、ふふっ。あの、それ、君彼女に恋してませんか?』
「ふざけるのも大概にしてよ。そろそろ流石にうざったいんだけど」
『よく男性は可愛い女性を小動物に例えるのですよ。今度子猫ちゃん、と呼んでみたらいかがで――』
まだ東雲が何か言っていたけれど、僕は遠慮なく電話を切った。なんなのだろう、彼は。高校生をからかって遊んで何が楽しいんだ、大人気ない。彼のニヤニヤしている顔がありありと想像でき、不愉快で、危なく罪の無い携帯電話を地面に叩きつけるところだった。
「……恋、ねえ?」
フェンスに背中を凭せ掛け、涼しい風に瞼を軽く伏せた。グラウンドで体育の授業を受けている学生の声が、屋上まで聞こえてくる。騒音から意識を逸らすように思惟してみた。
僕が浅葱に恋をしている可能性はゼロだ。ありえない。僕は自分の行いを無意味なものにしたくないから、彼女を生かそうとしているだけなのだから。深い理由はない、自己満足だ。
手に握った携帯電話が震え出した。無視をしても振動が収まることはなく、電話がかかってきているようだった。また東雲からだろう。
僕は苛立ったまま通話ボタンを押して電話に出る。
「うるさいな、下らない話は聞き飽きたんだよ」
『へえ、随分と楽しそうだね』
「……」
電話を目の前に持ってきて、表示されている名前を確認した。紫土。東雲ではなかった。すぐさま平静を繕い淡々と返す。
「別に。間違い電話が多いだけ。今のもそうだと思ったんだ」
『っはは、誤魔化すのが苦手だねぇ相変わらず。俺は弟の友人をどうこうしようなんて考えちゃいないよ?』
「友人じゃない。……で、用件はなに。僕が学校にいることくらい分かってるよね」
『そうツンケンしなくてもいいじゃないか。紫苑、今日帰りが遅くなったりしないよな?』
ああ、声のトーンだけでよく分かる。職場で何かあったのか、機嫌の悪さが滲み出ていた。多分紫土は堪えているつもりだ。それでもその声を幾度となく聞いている僕には、嫌というほど分かってしまう。
彼はストレス発散に、彼の芸術作品の続きを描きたいと言っているのだろう。
「授業が終わったらすぐに帰る。だからそっちが先に帰ったとしても家のものを荒らさないでくれる?」
『善処はするよ。紫苑が先だったら道具用意しておいて』
「あのさ」
『何?』
「……なんでもない。切るよ」
紫土のどうぞという声に従い、僕は電話を切る。やはり、言うことが出来なかった。
全て内側に溜め込んで外面を繕い続けることって、何が楽しい? ――そんな問いはいつも喉元まで出かかるけれど、結局嚥下してしまう。それが彼の機嫌を損ねる言葉だということくらい分かっているから、口を噤むしかない。
僕は面倒事が嫌いだ。言えば確実に面倒になるであろうことは、あまり言いたくない。その『面倒』が僕にとって大きな問題にならないものだったなら、遠慮なく思ったことを口にする。しかし紫土に与えられる面倒事は確実に大きな問題だ。
浅葱を感情の起伏が激しいと言ったが、彼に比べれば全く激しくない。いつか僕は彼の機嫌を損ねて殺されるかもしれないな、なんて洒落にならないことを考えてから空を仰いだ。
それから腕時計に目をやって、一時間目が終わるまで屋上にいることにした。
◆
あの後東雲から何度かメールが来たけれど、相変わらずどうでもいい内容だったため返信をしなかった。
教室で三時間の睡眠をとって、鞄を手にした。昨日の帰り道で、浅葱とは屋上で待ち合わせることにしたから階段へ向かう。
「呉羽」
クラスメートに声をかけられるとは思っていなかったため、教室を出ようとした僕は自分が呼ばれていることに数秒気が付かなかった。
「……悪いけど、暇じゃない」
呟くように、けれど声をかけてきた彼に聞こえるように言ってやる。引き止める声に聞こえないふりをし、僕は教室から出て素早く扉を閉めた。
階段の方へ歩いていると、ちょうど階段を上ってきた浅葱と目が合った。僕が僅かに目を丸くしていたら、彼女が無邪気に手を振ってくる。朝のことはもう気にしていないようだった。
「紫苑先輩だぁ……っ!」
飼い主を見つけた犬みたいに僕の方へ走り出した浅葱に驚いて、一歩後退した。どうせ階段を上るのだからそこで待っていればいいのに、なんでこっち、に……。
「――っ?」
思考が、停止する。
浅葱は目の前で止まると思っていた。勢いが付きすぎていたのか、彼女は思い切り僕に抱きついていた。そのまま離れることはなく、本当に犬に乗り移られているのではないかと思うくらいくっついてくる。尻尾が生えていたら盛大に振っていたことだろう。
「先輩だ、先輩っ……えへへ」
「……なに、してるの」
「え?」
きょとんとしたような顔で僕を見上げる。大きくて丸い目がチワワを連想させて微笑しかけたが、笑っている状況じゃない。彼女は公衆の面前で自分が何をしているのか理解しているのだろうか。
突き放そうとして、その前に何故か僕が突き飛ばされた。突然のことに転びかける。
「ご、ごごごめんなさい!! よ、四時間一人で寂しくて、階段上がったら紫苑先輩が! 一人で嫌なことばかり考えてたら、先輩がいたので! つい!!」
「ああ、そう」
無意識で人にタックルするなんて普通の人間の所業ではない。呆れとある種の感嘆の溜息を落として、僕は階段に向かった。
向けられる視線から早く逃れたい、という意思のせいか、浅葱のペースを気にせず早足になってしまう。
「先輩待ってくださいっ! 怒ってます、よね?」
「……怒ってないと言ったら嘘になるね。君はさ、人の目くらい気にしたら?」
「気にしてます……本当に、恥ずかしかったです」
ちらと彼女の顔を窺うと、大丈夫かと心配になるくらい真っ赤だった。見ているこっちまで恥ずかしくなるような顔から段差へと視線を動かす。
「まあ、元気になったならよかったよ」
ふと、今朝のことを思い出した。何かを言おうとしてやめていた時の彼女の顔は、電車に飛び込もうとしていた時の表情によく似ていた。
耐えられない辛いことを一人だけで抱え込んで、なにかに救いを求めるような、そんな顔。
僕に何かを言おうとしてやめたということは、僕はその助けになれないか、彼女が遠慮をしているか、そのどちらかだと思われる。
無理に聞き出すようなことでもないため、僕は何も聞かないことにした。
「先輩って、教室に一人で、辛くありませんか?」
問いを聞きながら屋上の扉を開いて、浅葱に先に行くよう促す。彼女の後に続き、扉を閉めた。
「別に気にしないかな。どうでもいい」
昨日と同じような位置に座り込んで、鞄を開いた。弁当を開けて食べ始める。隣に座った浅葱は弁当を開いたものの、食べ物に箸を伸ばそうとしなかった。
「先輩は、強いですね」
「……僕は弱いよ」
強くなんか無い。強かったら、一人で生きることを選んでいない。僕は弱いから一人だ。知られることが、異端とみなされることが嫌だから、逃げているだけだ。
もし浅葱が僕の能力のことを知って、僕を拒絶したなら、どうすれば良いのだろう。その思考が生んだ僅かな不安を、軽く目を閉じて見なかったことにした。
「……早く食べたら? 君は今日も僕を待たせるつもり?」
「あっ、ごめんなさい」
「それと、さ」
紙パックにストローを差し込んで一口飲む。口内に甘い味が広がって、落ち着くことが出来た。
「確かにそこでは一人かもしれないけど、君は世界で一人ってわけじゃないんだ」
それだけ言って、僕は振動した携帯電話のメールを確認する。東雲からだ。帰宅時でいいので、暇になったら電話をかけて下さい。それに対し、了解とだけ返す。
「……が終わったら」
僕の意識がメールに向いていたからか、彼女の言葉をしかと聞き取ることが出来なかった。そのため、顔を上げて聞き返す。
「え?」
「授業が終わったら先輩に会えるんだって思えば、頑張れる気がします」
すぐに彼女から目を逸らした。太陽を直視しているようで、目が痛んだ。それくらい綺麗な笑顔だったのだ。
口を僅かに開いて、僕は何も言わずにそこへストローを差し込む。何かを言おうと思ったが、開いた途端言葉が霧消していた。
浅葱は向日葵の花が似合いそうだと思い、彼女の顔を横目で見て向日葵を連想したものの、思ったよりもしっくりこない。彼女は夏と言うよりも、春なのかもしれない。今度は控えめな白い花を思い浮かべていたら、僕を真っ直ぐ見た綺麗な目と視線が絡む。
「先輩、今日お金持ってますか?」
「喝上げ?」
「違いますよ!?」
彼女から視線を外し、空になった弁当箱を鞄に仕舞うついでに財布を取り出した。普段からそれほど金を使わないので、余裕はありそうだった。何故いきなり金の話が飛び出したのか予想を立てつつ、小さく笑う。
「定期券が切れてて切符で来たものの交通費がないって話?」
「そんなドジじゃありません! 紫苑先輩と帰りになにか食べて行きたいな、と思ったんです!」
「へえ」
友達は下校時、店などに寄ることがある。そのことをすっかり忘れていた。財布を鞄に仕舞い直して、僕は頷く。
「いいよ、行こうか。場所は君に任せるから」
「はい! もう決まっているんです」
「それにしても、食事中に食べ物の話をするなんて君は大食いかなにか?」
「そういうこと言っちゃいます?」