朽葉色の追憶
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「くちばってカッコイイ名前だね!」
小学生の頃は、よくそう言われた。木霊みたいに聞こえていた〈カッコイイ!〉という声が心の声なのだろうということも、気付いていた。
漢字を知られるまでは、他にはない名前だし、響きがかっこいいとかそういった意味でかっこいいなんて言われた。俺自身気に入っていたから、そう言われて素直に嬉しかった。
中学生に上がって、朽ちるという漢字を習ってからは、憐れまれるような、馬鹿にされるような目を向けられるようになる。当たり前だ。朽ちるなんて、縁起の悪そうな漢字を名前に使われたのだから。それに、葉だ。朽ちる葉、朽ちた葉。秋頃になると道に転がって、人々に踏みつけられていく葉っぱ。
馬鹿にされる度に、俺は自分自身が、踏みつけられて朽ちて行く葉っぱなのだと思い込んでしまいそうだった。
*
冬が近付く中、俺はたまたま弓張駅で会った蘇芳と公園に向かって歩いていた。蘇芳に「そういえば、なんであんた朽葉って名前なの? その名前、嫌じゃない?」なんて問われなければ、こうして過去を思い返すこともなかったと思う。
だがこれは、俺にとって大切な記憶だ。元々両親のことは嫌いではなかったが、胸を張って大声で好きだと言えるようになった日の思い出だ。
自動販売機で買った温かい缶の紅茶を蘇芳に渡して、俺は缶コーヒーを手にしたまま公園のベンチに腰掛ける。蘇芳に語りながら、中学二年の秋のことを思い出していた。
『朽』という漢字を習い、その意味まで知ったのは、その頃のことだ。多分、国語の先生が俺に話を振らなければ、誰も俺の名前のことなんて深く考えなかっただろう。
その漢字を黒板に書いて、先生は名簿をちらと見た。呟くように出されたのは俺の名だ。
「甲斐崎くん……君、名前に朽ちるが使われてるのって珍しいね。何か深い意味でもあるの?」
俺は自分の名前の由来なんて知らなかったし、考えたこともなかった。興味本位でされたのであろう質問に、数秒の沈黙を返してから、「さぁ」とだけ声に出した。
とっとと授業を進めれば良いのに、そんなに気になるのか、勝手な推測をし始める。
「朽葉、か。茶色の名称でもあるけど、朽ちた葉っぱってやっぱり縁起が悪いように見えるよね……」
きっと、個人的な興味だ。生徒全員に聞こえるような声の大きさではなかったものの、教室内は静かだったから、先生の独り言は一番後ろの席に座っている奴にまで聞こえていたと思う。
それからようやく授業が進み、休み時間になった途端、クラスメイトはこそこそと俺のことを話し始めた。
心の声が聞こえるから信用出来るやつがいなかったせいで、友達と呼べる相手は昔からいなかったし、この時もそんな感じで孤立していたから、どうでも良かった。なんていうのは、強がりだ。どうでも良いわけがない。
両親が俺にくれた名前を馬鹿にされてるみたいで悔しかったし、腹立たしかった。まるで俺が親に愛されてないみたいな噂を流そうとする奴もいるせいで、錯覚しそうになる。
あいつらの言う通り、俺は愛されてないんじゃないか。俺は両親にとってどうでも良かったから、枯葉を連想させる名前を付けたんじゃないか。疑い出すと止まらない。考えたくもないことばかり考える。これ以上悪い考えをしないようにと、俺は、帰宅してすぐに母さんに聞くことにした。
「くー君おかえりー!」
母さんは俺を呼ぶ時、「くー」か「くー君」と呼ぶ。怒る時は普通に「朽葉」だ。中学生にもなってくー君なんて呼ばれるのは嫌だったが、無邪気そうな母さんが嫌いではないから、俺は何も言わない。
母さんは分かりやすく言うと楽観的だ。所謂ポジティブ思考。俺が心の声を聞こえると告白した時も、「え!? くー君すごい! かっこいい!」なんて、俺が能力で悩んでることなんて知らずに笑顔で言っていた。「なら、心の声が聞こえる分、優しい子でいてね」と珍しく大人びた顔で言われたけれど、汚い心の声ばかり聞いている俺が、そんな汚い心を持ってる人間に優しく出来るわけがない。
父さんは悲観的とまではいかないが、楽観的ではない。冷静で、口数が少ない。けれど俺が口に出さずとも、悩みに気付いてくれたのは父さんの方だ。
母さんが明るく俺を励ましてくれて、父さんが静かに難しい言葉で俺を冷静にさせてくれる。自慢の両親だと思っているし、多分、恵まれた家庭なんだと思う。
だから唐突に指摘されて浮き上がった不安要素を、早急に排除したかった。
「母さん」
「んー? あ、くーくんホットミルクとコーヒーどっちがいい?」
「コーヒー。あのさ、俺、なんで朽葉って名前なんだ?」
テーブルを挟んで、二脚ずつ椅子が置かれている。俺は座った椅子の隣の空席に鞄を置いて、母さんが入れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
母さんは俺の正面に座り、蜂蜜の入ったホットミルクをスプーンで混ぜている。
「母さんと父さんが出会ったのが秋だから、かな」
「それだけ、なのかよ?」
「学校で何か言われた? 枯葉みたいとか、笑われた? だったらごめんね。けど、母さんはさ、枯葉って素敵なものだと思ってる」
ホットミルクを飲んでコップをテーブルに置くと、母さんは真剣な目をして、けれど微笑んでいた。甘い息を吐き出して、暖かな声音を紡いでいく。
「始めは、母さんも父さんも悩んだの。枯れ葉とか、朽ちることを連想させるから、本当にこの名前で良いのかなって」
母さんの優しい笑みを見ていられなくなって、視線を落とした。真っ黒なコーヒーに吸い込まれそうになっていく中で、母さんは続けた。
「けどね、枯葉にも、素敵な花言葉があるのよ。ロマンチック、恋の痛み、新春を待つ……そういった素敵な花言葉が、あるの」
乾いていく口を潤すように、コーヒーを飲む。静かになった空気に耐えられなくて、また飲んだ。
「朽葉、母さんはね。どんなに苦しいことがあっても、踏まれて粉々になっても、それを糧にして……挫けずに進んで行ける強い子になって欲しかったのよ。葉っぱが枯れる季節が何度来ても、春だって何度も訪れるの。木は何度葉を散らして、何度その葉を踏み躙られても、春になったら新しい葉を付ける」
「……」
「挫折を経験しても前に進める人って、強いのよ。粉々に崩れてしまうくらいの苦しさを知ってるのって、枯葉くらい。それでもまた新しい葉が付いて、また散って、それを何度だって繰り返す……」
名前に、特に深い意味は無い。そう、言われると思っていた。響きが良かったからとか、名付ける時に枯葉が目の前にあったからとか、そういった理由だと思っていた。
聞けば聞くほど、声も、言葉も、心も、俺への気持ちに満ちていて、手が震える。喉が痙攣する。泣きそうになる。笑いそうになる。
俺は、感情を必死に堪えるように、コーヒーを飲んで、飲み干した。
「ねぇ、素敵でしょう? 枯葉だって、綺麗な花に負けないくらい、素敵なのよ」
白い底が露わになったコップを、テーブルにそっと置いた。なんだかスッキリした。悪い意味で付けた訳では無いと信じてはいたが、実際、予想していたよりもしっかりとした理由があったことを知ることが出来て、嬉しくなった。
俺は顔を上げる。と、母さんがとても幸せそうに笑っていた。
「母さん、枯葉が大好きなの。けどそれ以上に、朽葉が大好き」
「なっ、んなことは聞いてねぇよ!?」
「聞かれてなくても答えるものよ。あっ、口に出さなくてもくー君なら分かってた?」
「知らねぇよそんなん!」
あははと笑う母さんに背を向けて、俺は部屋に行こうとした。けれど足を止めて、振り返る。何か、言わなければと思った。この嬉しい気持ちを伝えられる何かを、口にしたい。
「……俺さ。朽葉って名前、カッコ良くて好きだぜ」
「そう。良かった」
これ以上母さんの笑顔を見つめていたら恥ずかしさで顔が真っ赤になる。そうなればからかわれること間違いなしだ。そんな事態は防ぎたかったため、慌ててリビングを出た。
他人の勝手な解釈で注がれた暗い思いは、明るく前向きな思考の上に溜まって、真っ白な愛情すら霞ませてしまっていた。その白に黒が混ざる前に、全部飲み干してしまえて良かったと思う。
甲斐崎家は、きっとどんな些細なことも愛から成り立っている。
「……ふーん、素敵な由来ね」
名前の由来だけを簡潔に話して、俺は自分の名前を気に入っていることを大きな声で言っていた。「だから俺、朽葉って名前好きなんだよ」なんて台詞を、欲しい物を買って貰った子供みたいな、嬉しさ一杯の声で叫んだことを後悔している。
だからこそ沈黙が流れている間、両手で顔を覆って俯いていたのだが、蘇芳はくすりと笑った。
「これから、朽葉、って呼んでいい?」
「なんでだよ」
「素敵だと思ったからに決まってるでしょ。あんたのお母さんの考え方が」
「そうかよ。まぁ……好きにすりゃいいんじゃねぇの」
「そうするわね、朽葉」
込み上げてくるのは、嬉しさだ。大切な人に貰った大切な名前を、素敵だと思ってくれる人が今目の前にいる。そのことが嬉しくてたまらない。
遠くを見つめて、冷たい風で舞い上がった枯葉に微笑を零した。もうすぐ冬になる。そうして春が来る。
新しい春の中で、俺はどんな風に笑っているのだろう。




